主日礼拝

真理は自由にする

「真理は自由にする」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第100編1-5節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第8章31-38節
・ 讃美歌:18、278、402、74

新年を喜び祝う
 主の2020年を迎えました。この新しい年の最初の主の日に、こうして礼拝に集い、み言葉を聞いて歩み出すことができることを感謝したいと思います。新年になると私たちは、「明けましておめでとうございます」と挨拶をします。新年になったことで何がおめでたいのか、よく分からないままに、何となく心機一転して歩み始められるような気分で、あるいはそれを願って、「おめでとうございます」と言い合っていることが多いでしょう。しかし、礼拝に集っている私たちは、心から「おめでとうございます」と言うことができます。それは、先ほど読まれた旧約聖書の箇所、詩編第100編の信仰を与えられているからです。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」。この詩は私たちを、喜びの叫びをあげ、喜び祝って歌うことへと招いています。何を喜び祝うのか。そのことは3節に示されています。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」。主こそ神であることを知っている私たちは、喜び祝うことができるのです。主なる神は私たちを造り、命を与え、人生を導いて下さっています。私たちは主なる神のもの、その民、主なる神に養われる羊の群れとされているのです。主なる神は、私たちを造り、生かして下さっているだけでなく、良い羊飼いとして、私たちに必要な糧を与えて養い、敵から守り、進むべき道を示し導いて下さっています。この主のもとで私たちは、共に養われている羊としての交わりを与えられ、一つの群れとされています。主なる神を知っており、信じている者は、主の恵み、慈しみ、愛のもとで新しい年を始めることができるのです。そのことを感謝して今日私たちは心から、「明けましておめでとうございます」とお互いに言うことができるのです。

礼拝を守りつつ
 そしてこの愛のもとで私たちは、4節以下に歌われているように、感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入ることができます。それが私たちの毎週の礼拝です。そこで私たちは、感謝をささげ、御名をたたえます。主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶことを、み言葉によって毎週示され、そのことを喜び祝いつつ生きることができるのです。それは新年においてのみではありません。私たちは毎週の主の日ごとに、「主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」ということを新たに確認しながら歩むのです。つらいこと、悲しいこと、苦しいことがあっても、み言葉によって主なる神さまの恵みを示され、そこに立ち帰りつつ生きることができるのです。新年早々に、一人の姉妹が天に召された知らせを受けました。長年共に礼拝を守ってきた姉妹との地上における別れは悲しいものですが、しかし私たちは、恵み深い主が、姉妹を主のもの、その民、主に養われる羊として下さって、その人生を導いてきて下さったことを、そして終わりの日の復活と永遠の命の約束を与えて下さっていることをみ言葉によって示されています。私たちは毎週の礼拝において主のみ前に進み出て、この恵みのみ言葉を聞いているのです。それゆえに喜びの叫びをあげ、喜び歌いつつ人生を歩み、そして死を迎えることができるのです。

わたしの言葉にとどまるならば
 ですから年頭に当って私たちが願うことは、今年も、この主なる神さまの下に留まり、そのみ言葉から離れることなく歩み続けたい、ということです。主なる神はそのために、独り子主イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さいました。私たちは先日のクリスマスにそのことを喜び祝いました。主イエスこそ、神の恵みのみ言葉が人となって私たちの内に宿って下さった方です。この主イエスのもとに留まり、主イエスにおいて示された神のみ言葉に留まることによって、私たちは恵み深い主のもの、その民、主に養われる羊として歩むことができるのです。
 ヨハネによる福音書の本日の箇所は、そのことを語っています。8章31節に「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である』」とあります。主イエスのみ言葉に留まるならば、私たちは本当に主イエスの弟子であることができる、主イエスに従う弟子として、良い羊飼いである主イエスに養われる羊の群れとして生きることができるのです。
 このみ言葉は、「御自分を信じたユダヤ人たちに」対して語られたとあります。それはその前の30節に、「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」とあるのを受けてのことです。主イエスの語られたことを聞いて多くの人々が信じたのです。その人々に主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とおっしゃったのです。それは、主イエスの言葉を聞いて一旦はそれを信じても、そこに留まることがなく、本当の弟子にならない人もいることを示しています。そういうことがこの福音書の6章66節にも既に語られていました。そこには、弟子たち、つまり主イエスに従って来た人々の中から多くの人が離れ去り、もはや共に歩まなくなった、ということが語られていました。一旦は弟子になっても、主イエスのもとを去って行った人々がいたのです。その時にも申しましたが、ここには、ヨハネ福音書が書かれた、紀元1世紀末の教会の状況が反映されています。主イエスを救い主と信じる教会の信仰とユダヤ教の教えの違いが明確になり、教会への迫害が始まっている中で、一旦は主イエスを信じて教会に加わった人々が、信仰を捨てて離れ去っていく、ということが起っていたのです。本日の箇所もそういう現実を見つめながら、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」という主イエスのお言葉を語っているのです。本当の弟子、本当に主イエスに従い、その救いにあずかる者とは、主イエスの言葉に留まり、そこから離れ去ることのない者なのです。

主イエスの本当の弟子になるとは
 私たちも今年、主イエスのみ言葉にしっかり留まる者となり、主イエスの本当の弟子となりたいと願います。主イエスの本当の弟子になる、それは、主イエスのように献身的に人のために尽す人になる、ということではありません。主イエスの弟子とは、主イエスのみ言葉に留まる者、み言葉を常に聞き続ける者です。私たちはしばしば、み言葉を聞くのではなくて、自分で、主イエスのみ心はこれだと決めてしまいます。実は自分の思いでしかないことをしているのに、自分は主イエスに従っているのだと思い込んでしまうのです。しかし主イエスに従うとは、主イエスのみ言葉を常に聞きつつ生きることです。自分の思いではなくて、主イエスのみ言葉を聞いて、それによって自分の思いを変えられていく、それこそが主イエスに従うこと、主イエスの弟子となることです。み言葉に留まってそれを聞き続け、み言葉によって変えられていく中で、私たちも、主イエスのように人のために自分の命をささげる歩みへと導かれるのです。しかしそれは結果として与えられることで、自分の意志や力で主イエスのようになろうとすることによって本当の弟子になることはできないのです。主イエスの弟子となるために先ず第一にしなければならないことは、み言葉を聞くことなのです。

真理はあなたたちを自由にする
 主イエスの言葉に留まり、本当の弟子となると、私たちはどうなるのでしょうか。32節にこうあります。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。主イエスのみ言葉に留まるなら、私たちは真理を知ることができるのです。そしてその真理が私たちを自由にするのです。主イエスの弟子となることによって、私たちは自由になることができるのです。しかしこれを聞いたとたんにユダヤ人たちは反発しました。33節です。「すると、彼らは言った。『わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか』」。アブラハムは、神の選びと召しに応えて神の民イスラエルの最初の先祖となった人です。つまり「わたしたちはアブラハムの子孫です」というのは、私たちは選ばれた神の民だ、ということであり、その私たちは誰かの奴隷になったことなどない、と彼らは反発したのです。「真理はあなたたちを自由にする」という主イエスの言葉は、今あなたたちは自由ではない、奴隷となっている、ということをも意味しているのだということを彼らは敏感に感じ取ったのです。自分たちは神の民であって、今まで誰かの奴隷になったことなどない、という熱烈な自負、民族としての誇りをユダヤ人たちは持っています。しかし彼らが奴隷になったことはないというのは事実ではありません。イスラエルは過去、バビロニアによって国を滅ぼされ、多くの者が捕囚となったことがありました。今も、一応ヘロデ王家の下にユダヤ王国となっていますが、事実上はローマ帝国に支配されており、ローマ帝国ユダヤ総督の顔色を伺わなければならない状況なのです。自分たちは独自の伝統を連綿と保っている誇るべき国なのだと言いつつ、実際には超大国の傘下でその顔色を伺っている、というのは現代のどこかの国にも当てはまります。現実においては奴隷状態にありながら、「我々は自由だ、奴隷になどなっていない」と言っているということはいくらでもあるのです。

罪の奴隷
 しかし主イエスがここで、あなたがたは奴隷状態にある、と言っておられるのはそのような政治的な意味ではありません。34節で主イエスは「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とおっしゃいました。主イエスは、あなたがたは罪の奴隷となっている、と言われたのです。罪を犯している者は罪の奴隷となっている、このことは、政治的な奴隷状態よりもずっと見えにくいことです。私たちは、自分が罪を犯していることを知っています。あれこれの罪が自分にはある、ということは誰でも認めるのです。しかし自分が罪の奴隷になっているとは思っていません。自分は自由に生きている、その自由によって、時としてちょっと悪いこともしてしまう、言うべきでないことを言ってしまったり、するべきでないことをしてしまうことがある、そういう落ち度はあるが、罪の奴隷になっているわけではない、と思っているのです。しかし主イエスは、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とおっしゃいます。このみ言葉を、「そんなことないよ」と聞き流すことなくそこにしっかり留まって、よく分からないなと思いつつもそれを聞き続けることが、主イエスの本当の弟子として歩むことなのです。

罪の支配から抜け出す道がある
 自分は罪の奴隷なのかそうでないのかということは、どうしたら罪から抜け出すことができるのか、ということを考えることによって見えてきます。私たちが罪の奴隷ではなくて自由な者であるならば、その自由によって罪と戦い、それを克服することができるはずだし、そうすることが求められているということです。それができずに、どうしても罪に陥ってしまう現実があるとしたら、自分が罪の奴隷となっていることを認めざるを得ないのではないでしょうか。しかし主イエスが「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とおっしゃったのは、お前たちは罪から抜け出すことができないだろう、と私たちを責めるためではありません。主イエスは私たちに、罪の支配から抜け出す道があるのだ、ということを示そうとしておられるのです。それが、「真理はあなたたちを自由にする」というお言葉です。あなたたちは、自分では罪の支配から抜け出すことができない、罪の奴隷とされてしまっている、しかし真理は、あなたたちを罪の支配から解放し、自由を与えるのだ。あなたたちは、自分の力によってではなくて、真理によって解放されることによってこそ、罪の奴隷状態から抜け出すことができるのだ、と主イエスは言っておられるのです。この解放、自由にあずかるには、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」というみ言葉に留まることが、つまり自分が罪の奴隷となっていることを認めることが必要なのです。

奴隷と子
 真理が私たちを罪の支配から解放する、その真理とは何でしょうか。そのことが35節以下に語られています。35節には「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」とあります。この35節を「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」という34節と続けて読んでしまうと、罪の奴隷はいつまでも罪の家にいるわけにはいかない、ということになってしまって、何を言っているのか分からなくなります。35節は罪の奴隷のことを言っているのではなくて、奴隷と子との違い、という新しい話をしているのです。
 「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかない」。奴隷は主人の必要によって家にいることを許されているに過ぎません。必要がなくなれば、売り払われてお金に換えられるか、自由にしてやる、という美名の下にお払い箱になるのです。しかし「子はいつまでもいる」。子は、主人や家族に必要とされているからその家にいることができるのではありません。必要かどうか、役に立つかどうかではなくて、家族の一員としてそこにいるのです。それは言い換えれば愛されているということです。役に立つかどうかという価値によってではなくて、その存在そのものが愛されている、だからいつまでも家にいることができる、それが子です。そこに奴隷との根本的な違いがあります。子は奴隷とは違って自由な者です。その自由は、愛されている、ということと一つなのです。奴隷と違って子は、自分がどれだけ役に立つか、貢献できるか、価値があるか、ということと一切関係なく、自分は愛されてここにいる、ということを知っているのです。そこにこそ本当の自由があります。自分が愛されていることを知ることなく、欲望のままに好き勝手なことをしているのは、自由ではなくてただの我儘であり、それは罪の奴隷状態の一つの現れでしかないのです。

神の独り子―本当に自由な者
 主イエス・キリストは神の独り子です。ご自分が父なる神に本当に愛されていることを知っておられます。つまり主イエスこそ、本当に自由な方なのです。主イエスは、父なる神に愛されている者としての自由によって、人間となってこの世に来て下さいました。それは、罪に支配され、罪の奴隷となってしまっている私たち人間を罪の支配から解放し、自由を与えるためです。父なる神の、私たちに対する憐れみのみ心、私たちを救おうとして下さっている恵みのみ心を、主イエスはその自由によって受け止め、その救いを私たちに与えて下さるために人間となってこの世を歩んで下さっています。それだけでなく、私たちの罪を全てご自分の身に背負って、十字架の苦しみと死を引き受けようとしておられるのです。主イエスが十字架の死へと向かって歩んでおられることは、37節に、アブラハムの子孫だと誇っているユダヤ人たちがご自分を殺そうとしている、と言っておられることにも示されています。父なる神に愛されていることを知っている独り子主イエスは、その自由によってご自分から十字架の苦しみと死への道を歩み、それによって私たちを罪の奴隷状態から解放して、私たちをも、神に愛され、自由に生きる者としようとしておられるのです。このことを語っているのが36節の「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」というみ言葉なのです。

神の子、神に愛されている者とされる
 神の独り子であり、本当に自由な方である主イエスこそ、私たちを本当に自由にして下さる方です。ただ一人罪に支配されていない自由な方である主イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって下さることによって、私たちの罪を全て帳消しにして下さり、罪の支配から解放して、私たちをも神の子、神に愛されている者として下さるのです。独り子なる神主イエスによるこの救いにあずかることによって私たちは、自分がどれだけ役に立つか、どれだけ価値があるかによってではなく、神に愛されて生きている者とされるのです。独り子主イエスをこの世に遣わして下さった父なる神が、私たちに、私はあなたを愛している、あなたがどういう者であり、何が出来るか、どれだけ貢献できるかによってではなく、あなたの存在そのものを愛している、そしてあなたに、私のもとに留まり、私と共に生きて欲しいと願っている、と語りかけて下さっているのです。このみ言葉を聞くことによって、そしてこのみ言葉のもとに留まることによって、私たちは、本当に自由な者となることができるのです。自分の力では罪の支配に打ち勝つことのできない私たちが、そこから解放されて、神の愛によって与えられた命を喜んで感謝しつつ生きる者へと、神と人とを愛することができる者へと、変えられていくのです。

み言葉に留まり、真理によって自由にされつつ
 「真理はあなたたちを自由にする」と32節には語られていました。36節には「子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」とありました。私たちを自由にする真理とは、神の独り子主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストによって神が与えて下さっている救いの真理です。その真理を一言で言い表しているのが、この福音書の3章16節の言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」です。これが真理です。この真理が、私たちを本当に自由な者とするのです。この真理を知るために、私たちは主イエスのみ言葉に留まらなければなりません。み言葉を聞くことによってこそ、父なる神がその独り子を与えて下さったほどに私たちを愛して下さっていることを知ることができます。また、独り子主イエスが、神の子としての自由によって、私たちのために人間となり、十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった、その恵みを知ることができます。私たちがこのみ言葉に留まり、父なる神と独り子主イエスの愛を体をもって味わい知るために、本日も聖餐にあずかります。聖餐において私たちは、主イエスが肉を裂き、血を流して死んで下さることによって与えて下さった救いの恵みを味わいつつ、キリストによる救いの真理を告げるみ言葉のもとに留まって歩むのです。そこには、神が無条件で愛して下さっていることを知っている者のみが生きることのできるまことの自由があります。その自由によって私たちも、主イエスがして下さったように、私たち自身を神さまにお献げし、神を愛し、隣人を愛して生きる者へと変えられていきます。私たちも本当に主イエスの弟子とされていくのです。そのことを祈り求めながら、主の2020年を歩んでいきましょう。

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