夕礼拝

狭い戸口から入る

説教題「狭い戸口から入る」 副牧師 川嶋章弘

詩編 第107編1-3節
ルカによる福音書 第13章22-30節

狭い戸口から入るように努めなさい

 本日の説教題を「狭い戸口から入る」としました。24節の「狭い戸口から入るように努めなさい」から「ように努めなさい」を省いたものを説教題としたのです。教会の外、正面に向かって右側に掲示板があり、そこに次の日曜日の礼拝の説教題を掲示していますが、あまり長い説教題になると字が小さくなるので読みにくくなってしまいます。だから長くならないようにと思って省きました。しかし説教に備える中で、「ように努めなさい」を省かないほうが良かったと思うようになりました。なぜなら主イエスはここで「狭い戸口から入りなさい」と言われているのではなく、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われているからです。この「努めなさい」という主イエスのお言葉の意味をしっかり受け止めることが大切なのです。
 ところで新約聖書には「狭い戸口から入るように努めなさい」とよく似たみ言葉があります。マタイによる福音書7章13節の「狭い門から入りなさい」です。こちらの方がよく知られているみ言葉かもしれません。一見したところ、「狭い戸口から入るように努めなさい」と「狭い門から入りなさい」は、同じことを言っているように思えます。しかしマタイ福音書7章13-14節をよく読んでみるとそうではないことに気づかされます。このように言われています。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。マタイ福音書では、狭い門と広い門があって、狭い門から入りなさい、と言われています。見つけやすい広い門から入る人が多いけれど、その広い門は滅びに通じている。そうではなく見つけにくい狭い門から入りなさい。その狭い門こそが命に通じている、と言われているのです。しかし本日の箇所では、狭い戸口と広い戸口があって、狭い戸口から入りなさい、と言われているのではありません。狭い戸口しかないのです。その狭い戸口から入るように「努めなさい」、と言われているのです。

救われる者は少ないのか

 主イエスが「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われたのは、主イエスに「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(23節)と尋ねた人がいたからです。この人がどんな人であったかは何も書かれていませんが、おそらく群衆の一人であったのだと思います。23節の終わりに「イエスは一同に言われた」とあるように、主イエスこの人にだけでなく、そこに集まっていた人たち皆に向かって話されました。「救われる者は少ないのでしょうか」という問いは、尋ねた人だけの問いではなかったからです。当時のユダヤの民衆の中では、「救われる者は多いのか少ないのか」という問いが、しばしば問われていたのです。
 この問いは、今を生きる私たちの問いでもあると思います。私たちもしばしば「救われる者は多いのか少ないのか」を問うてしまうのです。そのように問うとき、私たちはどのような答えを期待しているのでしょうか。「救われる者は多い」という答えが返ってくれば、それなら自分も救われるかもしれない、と思います。自分は弱さや欠けがたくさんあるけれど、救われる者が多いのならきっと自分も救われる、と思えるのです。しかし逆に「救われる者は少ない」という答えが返ってくれば、それなら自分は救われないに違いないと思います。自分のような弱さや欠けのある者が、救われる者の中に入れるわけがないと思うのです。ですから「救われる者は多いのか少ないのか」と問うとき、私たちが期待している答えは、「救われる者は多い」という答えなのです。期待しているだけではありません。聖書の神様は愛の神様なのだから、寛大で優しい神様なのだから、救われる者は多くてしかるべきだとすら思っている。寛大で優しい愛の神様なら信じても良いけれど、そうでない厳しい裁きの神様なら信じるのをやめようと思うのです。しかしそのように思うとしたら、私たちは自分の救いを真剣に受け止めようとしていないのです。救われるのは多いのか少ないのか、多いなら信じよう、少ないなら信じるのをやめよう、と頭の中で考えているだけで、自分の救いに真剣に関わろうとしていないのです。自分にとって都合の良い神様、都合の良い救いを求めているだけなのです。
 その一方で、主イエスに尋ねた人がユダヤ人であることを考えると、この人は、自分が選ばれたイスラエルの民、選ばれた神の民であるという思いを持っていたはずです。そうであれば自分が救われることを心配していたのではなく、自分のほかに救われる者がどれぐらいいるのかに興味があっただけかもしれないとも思うのです。好奇心から主イエスに、「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたのです。同じようなことは私たちにも起こります。私たちも自分が救われることに胡座をかいてしまっていることがあるからです。自分は救われるけれど、ほかに救われる人はどれぐらいいるのだろうか。多いのだろうか少ないのだろうかなどと考えてしまうのです。しかしそのようなことを頭の中で考えているとしたら、やはり私たちは自分の救いを真剣に受け止めようとしていない、自分の救いに真剣に関わろうとしていないのです。
 救われる者が多いのを期待して、多ければ神様を信じ、そうでないなら神様を信じないことも、自分が救われることに胡座をかいて、自分のほかに救われる人は多いのか少ないのかを考えることも、どちらも自分の救いに真剣に関わっていないという点で、同じなのです。「救われる者は少ないのでしょうか」という問いは、救いに対する興味や好奇心はあるけれど、それを真剣に受け止めようとしない、あるいは自分の都合の良いようにしか受け止めようとしない私たちの姿を示しているのです。

努めなさい、闘いなさい

 そのような私たちに、主イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われます。主イエスは、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いにはまったく答えていません。この問いを無視されたのです。無視されることによって、救われる者は多いだろうか少ないだろうかと問うこと自体が間違っていることを示されたのです。最初に、「努めなさい」という主イエスのお言葉の意味を受け止めるのが大切だ、とお話ししました。この「努めなさい」という言葉は、もともとは賞を得るために競争することを意味する言葉で、「闘いなさい」とか「一所懸命になりなさい」とも訳せます。救われる者は多いのか少ないのかを考えるのではなく、救いについて頭の中であれこれ考えるのではなく、自分の救いに真剣に関わって、自分が救いに入れられるために闘いなさい、一所懸命になりなさい、と主イエスは言われているのです。マタイ福音書では、救いに至るのは広い門ではなく狭い門であり、救いを求めるとは、見つけにくい狭い門を見いだしていくことでした。しかしここでは、救いに入れられるとは、狭い戸口から入ろうと努めること、闘うこと、懸命になることなのです。
 24節の後半で「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多い」と言われています。入ろうとしても入れない人が多いのは、戸口が狭いからだけではありません。むしろその狭い戸口から入るために闘おうとしない人が多いからではないでしょうか。救いという狭い戸口は見つけている。しかし救いを真剣に受け止め、救いと真剣に関わり、その狭い戸口から入るために闘おうとしない、懸命にならないのです。救われたいとは思っているかもしれない、あるいは救われているとは思っているかもしれない。その意味で、狭い戸口から入ろうとしている。しかし思っているだけ、頭の中だけで考えているだけで、狭い戸口から入るために、救いに入れられるために闘おうとはしていないのです。「入ろうとしても入れない人が多い」とは、狭い戸口から入ろうとは思っていても、入るために闘おうとしないので入れない人が多い、ということなのです。

どのような闘いなのか

 この狭い戸口から入るための闘いとは、どのような闘いなのでしょうか。自分が狭い戸口から入るために、その戸口に集まっているほかの人たちを蹴散らすような闘いなのでしょうか。そうではありません。そのような闘いなら、私たちは慣れていると言えるかもしれません。私たちは、蹴落とそうとまでは思わなくても、日々、ほかの人たちと競ったり、闘ったりしているからです。ほかの人よりも高い点を取って合格するための闘いに、ほかの人よりも高い評価を得るための闘いに、私たちは日々出陣しているのです。しかし主イエスが闘いなさいと言われている相手は、ほかの人ではなく自分自身です。自分の救いに真剣に関わろうとしない自分自身と闘うのです。自分にとって都合の良い神様を求めてしまいそうになる自分自身と闘い、自分の救いに胡座をかいてしまいそうになる自分自身と闘うことが求められているのです。別の言い方をすれば、私たちが悔い改めて、神様に立ち帰ることが求められているのです。寛大で優しいなら、自分の願いを何でも聞いてくれるなら神様を信じる。そのようなまことに自己中心的な生き方から、悔い改めて神様の方を向き、神様に立ち帰ることが求められている。救われることに胡座をかいてしまい、その救いにお応えしようともしない自分本位の生き方から、悔い改めて神様の方を向き、神様に立ち帰ることが求められている。悔い改めて神様に立ち帰って生きることこそ、自分の救いに真剣に関わることであり、狭い戸口に入るために努め、闘い、懸命になることなのです。

戸が閉められた後で

 しかし私たちが神様に立ち帰るために与えられている時間には限りがあります。この戸口は、いつまでも開いているわけではありません。神様がお定めになっているときに閉まってしまうのです。このことが25-27節で見つめられています。「家の主人」、つまり主イエスが、主なる神様が戸を閉めてしまった後に、それに気づいた人たちが慌てて外から戸を叩いて、「イエス様、開けてください、神様、開けてください」と言っても、「お前たちがどこの者か知らない」という答えが返ってくるのです。「いや、そんなことはありません。知らないはずがありません。だってイエス様と一緒に食事をして、食べたり飲んだりしたではないですか、イエス様の教えを広場で聞いていたではないですか」と言っても、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言われてしまうのです。このことは、主イエスと一緒に食事をし、主イエスの教えを聞いていても、悪いことをして罪を犯したら、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言われてしまう、ということではありません。そうではなく、主イエスと一緒に食事をしたのに、主イエスの話を聞いていたのに、悔い改めて神様に立ち帰ろうとしなかった。一緒に食事をしただけで、話を聞いただけで、自分の救いと真剣に関わろうとしなかった。狭い戸口から入るために闘おうとしなかった。だから「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言われてしまう、ということなのです。

戸が閉まるまでの間の時

 この戸口が閉められるのは世の終わりですが、私たちの地上の生涯における死は、その先取りと言えます。私たちは、死んだ後に悔い改めて神様に立ち帰ることができるかどうかについてはなにも知りません。これまでルカ福音書が私たちに告げてきたことは、地上の生涯において、悔い改めて神様に立ち帰りなさい、ということでした。主イエスは「どうして今の時を見分けることを知らないのか」(12章56節)と言われましたが、「今の時」とは、悔い改めて神様に立ち帰る時にほかなりません。戸口が閉まるまでの間の時なのです。私たちは、今、悔い改めて神様に立ち帰るよう招かれています。主イエスは、そして主なる神様は、私たちがその招きに応えるのを待っていてくださいます。自分に都合の良い神様を求める自己中心的な生き方を捨てて、救われることに胡座をかいてしまう自分本位な生き方を捨てて、神様に立ち帰るのを忍耐して待っていてくださるのです。13章9節にあったように、主イエスは「来年は実がなるかもしれない」と願って、期待して、私たちが招きに応えて、狭い戸口から入るために闘うようになるのを待ってくださっています。しかし「来年は実がなるかもしれない」と言われた後に、「もしそれでもだめなら、切り倒してください」とも言われているのです。私たちが神様の招きに応えるのに与えられている時間は、限られています。そのことを弁えず、主イエスの願いや期待を無視して、神様の招きに答えようともせず、狭い戸口から入るために闘おうともしないなら、私たちは戸が閉められた後で、「お前たちがどこの者か知らない」と言われてしまうのです。

神の国の外に投げ出される理由

 28節では「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」と言われています。自分はユダヤ人で、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫だから、神の民だから救われる、と胡座をかいているのであれば、神の国の外に投げ出され、そこで泣きわめいて歯ぎしりすることになるのです。アブラハムやイサクやヤコブは、罪を犯さなかったから、あるいは立派な信仰に生きたから神の国に入れられたのではありません。神様を信じられず、疑い、神様に背くこともありました。しかし山あり谷ありの信仰の歩みの中で、彼らは神様の招きに応えようとし続けたのです。狭い戸口から入るために闘い続けたのです。神の国の外に投げ出されるとしたら、それは罪を犯したからでも、立派な信仰生活を送れなかったからでもありません。自分の救いに真剣に関わろうとせず、狭い戸口から入るために闘おうとせず、神様の招きに応えようとしなかったからなのです。

神が戸口を狭くしたのではない

 主イエスは私たちに狭い戸口から入るために努めるよう、救いに入れられるために努めるよう求めておられます。しかし勘違いしてはならないのは、私たちが努力することによって、闘うことによって、懸命になることによって、私たちは救われるわけではない、ということです。救いが「狭い戸口」に喩えられているのは、神様が戸口を狭くして、救われるための条件を厳しくしているからではありません。29節に「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」と言われています。このみ言葉は共にお読みした旧約聖書詩編107編3節の引用です。2節後半からお読みします。「主は苦しめる者の手から彼らを贖い 国々の中から集めてくださった 東から西から、北から南から」。捕囚によって世界に散らされたイスラエルの人たちを、主なる神は贖ってくださり、救い出してくださり、「東から西から、北から南から」集めてくださる、と言われています。しかしそれは、捕囚とされ散らされた民が、なにか条件をクリアしたからではありません。努力して、頑張って、善い行いを積み重ねることによって条件をクリアしたから、神様は散らされた民を「東から西から、北から南から」集めてくださるのではないのです。そうではなくただ神様の一方的な憐れみと恵みによって救ってくださり、集めてくださるのです。本日の箇所の29節で「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で祝宴の席に着く」と言われているのは、ユダヤ人ではなく、異邦人のことを見つめていると思います。しかしユダヤ人であれ異邦人であれ、神様の一方的な恵みによって救われ、集められることに変わりありません。神様は救われるための条件を厳しくするどころか、なにも条件を設けていないのです。ですから神様が救いという戸口を狭くしたのではない。神様は、東から西から、南から北から、世界の至るところから、人々を救いへと招いておられます。一人でも多くの人が、すべての人が、神様の一方的な恵みによる救いを受け入れ、救いに入れられて生きること。それが神様のみ心です。神様の願いです。そうであるならば、救いという戸口が狭いのは、神様のみ心によるはずがありません。神様のみ心ではなく、人間の罪こそが、救いという戸口を狭くしているのです。自分に都合の良い神様を求め、あるいは救われていることに胡座をかき、自己中心的で自分本位に生きている私たちの罪が、救いという戸口を狭くしているのです。
 そもそもかつてこの戸口は、私たち人間の罪によって閉じられていました。かつてこの戸口から入ることはできませんでした。しかし主イエス・キリストが十字架で苦しみを受け、死んでくださったことによって、この戸口が開かれたのです。それにもかかわらず、救われてなお私たちは、自己中心的に自分本位に生きてしまいます。神様から離れ、神様なしに自分の力で生きようとしてしまいます。その私たちの罪のために、救いという戸口は狭いのです。だからこそ私たちは、狭い戸口から入るために、繰り返し悔い改め、神様に立ち帰らなくてはならないのです。救われる者は多いか少ないかを問うことに意味はありません。そんなことを問うよりも、私たちは自分の救いを真剣に受け止め、自分の救いに真剣に関わり、繰り返し悔い改めて、神様に立ち帰って生きるのです。

主イエスの真剣さ、主イエスの闘いに応えて

 冒頭の22節に「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とあります。「エルサレムへ向かって進んでおられた」とは、十字架の死に向かって進んでおられたということです。主イエスは十字架の死に向かって歩まれる中で、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われたのです。主イエスは十字架の死に向かって行く、真剣な歩みの中で、闘いの歩みの中で、私たちが自分の救いに真剣に関わり、狭い戸口から入るために闘うことを求められたのです。私たちは、主イエスがご自分の命を犠牲にするほどに私たちの救いに真剣に関わってくださったことを知らされています。主イエスが私たちの救いのために十字架上で苦しみ、闘ってくださったことを知らされています。だから私たちはこの主イエスの真剣さに、この主イエスの闘いに少しでもお応えして、自分の救いを真剣に受け止め、自分の救いに真剣に関わっていくのです。主イエスが十字架の死によって救いという戸口を開いてくださったからこそ、私たちは、今、狭い戸口から入るために闘い、悔い改めて、神に立ち帰って生きていくのです。神様は、私たちがそのように生きることを期待していてくださり、願っていてくださるのです。

関連記事

TOP