主日礼拝

真理と偽り

「真理と偽り」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第63章15-17節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第8章39-47節
・ 讃美歌:54、288、481

わたしたちの父はアブラハム
 礼拝においてヨハネによる福音書を連続して読み、そこからみ言葉に聞いています。本日は第8章39節以下を読むわけですが、その冒頭の39節に「彼らが答えて、『わたしたちの父はアブラハムです』と言うと」とあります。「彼ら」というのはユダヤ人たちです。ユダヤ人たちの中には、主イエスの言葉を聞いて信じた人たちも多くいましたが、彼らは主イエスのもとに、その言葉のもとに留まることがなく、結局は離れて行き、むしろ主イエスを殺そうとするようになっていることが、先週読んだ31-38節に語られていました。そのユダヤ人たちは33節で「わたしたちはアブラハムの子孫です」と言っていました。アブラハムは神の民イスラエルの最初の先祖であり、アブラハムの子孫である自分たちこそ神に選ばれた民、神の民である、とユダヤ人たちは誇っていたのです。39節で彼らが「わたしたちの父はアブラハムです」と言っているのも、そういう思いからです。

主イエスの父、ユダヤ人の父
 この「父」という言葉が本日の箇所においては重要です。ユダヤ人たちは「わたしたちの父はアブラハムだ」と言っている、しかし主イエスに敵対し、殺そうとしている彼らは、本当にアブラハムを父として生きているのか、彼らの本当の父は誰なのか、ということが問われているのです。「父」という言葉が出てきたのは、先週の箇所の最後の38節です。先週の説教ではこの38節には触れませんでした。「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」とありました。これはそのまま読めば、主イエスは父のもとで見たことを話しており、ユダヤ人たちはその父から聞いたことを行っている、ということになりますが、以前の口語訳聖書では38節はこうなっていました。「わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている」。つまり新共同訳では、父のもとで「見たことを話している」主イエスと、同じ父から「聞いたことを行っている」ユダヤ人たちの対比がなされていると読めるのに対して、口語訳では、主イエスの父とユダヤ人たちの父は別であり、主イエスはご自分の父である神のもとで見たことを語っておられるのに対して、ユダヤ人たちは彼らの父から聞いたことを行っている、と読めるのです。この違いは元になっている写本の違いなのですが、口語訳の読み方の方が、38節に語られていることの意味がよく分かります。つまり主イエスは、私が自分の父である神のもとで見たことを語っているのにその言葉を受け入れようとしないあなたたちは、私の父とは別の父の子となっている、だから私を殺そうとしているのだ、とおっしゃったのです。

誰を父とし、誰の子として生きているのか
 ユダヤ人たちはこの38節の主イエスの言葉に対して、「わたしたちの父はアブラハムです」と言ったのです。それは、「あなたの父がどこの馬の骨なのかは知らないが、私たちの父はアブラハムであって、私たちは神の民なのだ」ということです。それに対して主イエスは「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている」とおっしゃいました。アブラハムは、私の父である神の言葉を聞いて従ったことによってイスラエルの先祖となった。あなたたちはそのアブラハムとは全く違うことをしており、神から聞いた真理を語っているこの私を殺そうとしている。つまりあなたたちはアブラハムの子として歩んでいない、別の父の子として生きている、と主イエスは言われたのです。
 ユダヤ人たちも負けずにこう反論しています。41節の後半です。「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはひとりの父がいます。それは神です」。「わたしたちは姦淫によって生まれたのではない」というのは、我々は父親がはっきりしないような者ではない、ということです。これは主イエスに対するあてこすりです。主イエスは、母マリアが聖霊によって身ごもって生まれた方でした。つまりマリアの夫ヨセフは、血のつながりにおいては主イエスの父ではなかったのです。そのことから、イエスはマリアが誰かと姦淫したことによって生まれたのだ、という悪意ある中傷が流されていました。ですからユダヤ人たちは、「我々はあんたのように姦淫によって生まれた父親がはっきりしない者とは違う。我々の父はアブラハムであり、それは究極的には神が我々の父であるということだ。我々は神の子、神に選ばれた神の民なのだ」と言っているのです。そのような彼らの自負の根拠となっているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第63章の16節です。そこには「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です」とあります。主なる神こそが自分たちの父であり、自分たちは神の子なのだ、という思いをユダヤ人たちは強く抱いていたのです。
 このようにここには、主イエスとユダヤ人たちの間での、父は誰か、誰の子として生きているのか、ということを巡っての対立が語られています。その対立は要するに、主イエスが神の子なのか、それとも主イエスの言葉を受け入れず殺そうとしているユダヤ人たちの方が神の子なのか、ということです。それは、この福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃にユダヤ人たちが直面していた問題でした。主イエスを、神から遣わされた独り子なる神、救い主と信じて、主イエスに従い、教会に加わって生きることが、神のみ心に従う正しいあり方なのか、それとも、アブラハムの子孫としてのユダヤ人の共同体の中に留まることによってこそ神の子、神の民として生きることができるのか、そういう問いの前に彼らは立たされていたのです。

本当に神の子として生きるとは
 ここに語られている主イエスのお言葉は、そのような問いの前でどちらにつこうかと逡巡しているユダヤ人たちに対する語りかけです。主イエスは42節でこう語りかけておられます。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである」。主イエスは、彼らユダヤ人の父が神であり、彼らが神の子であることを否定してはおられません。確かに、あのイザヤ書が語っているように、神はあなたたちの父であり、あなたたちは神の子、神の民だ、だから、本当に神の子として、神の民として生きなさい、と言っておられるのです。本当に神の子として生きる、それは神のみ心に従って生きることです。主イエスは、その神のみ心に従って、神のもとから来て今ここにいるのです。主イエスは、自分勝手に、つまり神のみ心と関係なく来たのではなくて、父である神ご自身が主イエスをお遣わしになったのです。それは独り子なる神である主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちに罪の赦しを、救いを与えて下さるためでした。その神の救いのみ心を信じて、神が遣わして下さった独り子、救い主イエス・キリストを愛すること、それこそが、本当に神の子として生きることです。あなたがたが本当に神の子として、神のみ心に従って生きるなら、神の独り子である私とあなたがたは兄弟として愛し合うことができるはずだ。私はあなたがたを父なる神の下での兄弟として愛するために来たのだ。それこそが我々の共通の父である神のみ心だ。そのみ心を信じて、私に敵対するのではなくて、私を受け入れなさい。それによってこそ、あなたがたも神の愛の下で、本当に神の子として生きることができるのだ。このように主イエスは彼らに語りかけておられるのです。

み言葉によって真理を知る
 43節には「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ」とあります。ユダヤ人たちは、主イエスの語りかけを受け入れず、敵対し、主イエスを殺そうとしています。主イエスが愛をもって語りかけていることが彼らには分からないのです。そのことを嘆きつつ主イエスは、なぜ彼らが主イエスの言っていることが分からないのかを示しておられます。それは彼らが、主イエスの言葉を聞くことができないからです。彼らは主イエスの言葉を、耳では聞いていますが、心で聞くことができないために、主イエスが語っておられる神の愛のみ心による救いの真理を知ることができないのです。そのことは、先週の箇所の31、32節に語られていたことの裏返しです。そこで主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃいました。主イエスの言葉に留まり、それを本当に聞くなら、つまり主イエスの本当の弟子となるなら、主イエス・キリストによる救いの真理が本当に分かるようになるのです。その真理が本当に分かると、それは単なる知識に終わらず、私たちを自由にします。主イエスの十字架の死による罪の赦しの真理は、私たちを罪の支配から解放し、神と人とを愛して生きることができる自由を与えるのです。つまり主イエス・キリストによる救いの真理は私たちを新しく生かすのです。その真理は、主イエスの言葉に留まり、それを本当に聞くことによってこそ示されます。しかし彼らは主イエスの言葉を本当に聞くことができなないので、語りかけられている真理が分からず、自由になることも、救われて新しくなることもできないのです。

悪魔の子
 彼らが主イエスの言葉を聞くことができなくなっているのは何故か。そのことが44節に語られています。主イエスは「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」とおっしゃいました。あなたたちは私の父である神とは別の父の子となっている、その別の父とは悪魔です。彼らユダヤ人は悪魔を父とする悪魔の子となってしまっているのです。この言葉はよく注意して読まなければなりません。過去にこの言葉は、「ユダヤ人の父は悪魔であり、ユダヤ人は悪魔の子である」というふうに読まれて、キリスト教会によるユダヤ人迫害の、そしてあのナチスによるホロコーストの根拠として利用されたのです。しかし主イエスはそのような人種差別を語っておられるのではありません。ユダヤ人は元々神の子であり神に選ばれた民です。だから本来主イエスを兄弟として愛し、その言葉を聞いて救いの真理を知ることができるはずの人々なのです。神の子であるはずの彼らが今、悪魔に支配されてしまっており、そのために主イエスの言葉を聞くことができなくなっているのです。悪魔に支配されると、その人は悪魔の子となってしまいます。そして悪魔の子は父である悪魔の欲望を満たしたいと思うようになるのです。子は父の思い、願いを満たそうとするのです。私たちはそうでないことが多いですが、これは神の独り子である主イエスが父である神の愛による救いのみ心を実現しようとしておられることを見つめての言葉です。神の子主イエスが父である神のみ心を満たそうとしておられるように、悪魔の子は、父である悪魔の思い、欲望を満たそうとするのです。悪魔の欲望とは何か。「悪魔は最初から人殺しであって」とあります。人を殺すことこそ悪魔の欲望なのです。悪魔の本質は、人を生かすのでなく殺そうとすることです。いわゆる殺人のみでなく、様々な意味で人を生かさず、喜んで生き生きと生きることを妨げ、押し潰そうするのが悪魔です。その悪魔に支配され、悪魔の子となる時に私たちも、人を生かすことができず、人が生きることを妨げ、殺してしまう者となります。ですから悪魔の子というのは、ユダヤ人がどうこうではなくて、私たち自身のことです。私たち自身がすぐに悪魔の子となってしまうのだし、この世は悪魔に支配された悪魔の子だらけだと言わなければならないのです。

悪魔は真理と関わりなく生きている
 44節の後半には、その悪魔は「真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」とあります。悪魔が人を生かすことなく殺すのは、真理をよりどころとしておらず、悪魔の内には真理がないからです。真理ではなく偽りを語ることこそ悪魔の本性なのです。この真理とは、先程の、神の愛のみ心による救いの真理、人を本当に自由にする真理です。主イエスが、父である神の愛のみ心を行うために人間となってこの世に来て下さり、その十字架の死と復活によって実現して下さった救いこそがその真理です。つまり先週も申しましたように、この福音書の3章16節の言葉「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これこそが真理なのです。悪魔はこの神の愛と、主イエスによる救いの真理をよりどころとしていません。悪魔の内にはこの真理はない、この真理と全く関わりなく生きているのが悪魔であり、悪魔の子なのです。この神の愛による救いの真理と関わりなく生きるならば、私たちは悪魔の子となり、私たちの歩みは、悪魔の欲望を満たそうとする歩み、つまり人を生かすのでなく、人が生き生きと生きることを妨げ、人を殺してしまう歩みとなるのです。主イエスによる救いの真理、神が独り子の命を与えて下さるほどの愛によって私たちに永遠の命を与え、私たちを本当に生かして下さるという3章16節に語られているあの真理と関わりなく生きるなら、私たちは悪魔の子となり、人を生かすのではなく殺すものとなるのです。
 ですからここに、悪魔は偽りを言うとか、悪魔は偽り者であり偽りの父であると語られているのは、悪魔の言うことはいつも嘘ばかりだとか、嘘つきは悪魔の子だ、ということではありません。この偽りとは、あの主イエスによる救いの真理に反することです。悪魔の本質が偽りであるというのは、主イエスによる神の救いの真理と関わりなく生きているということです。私たちも、主イエスによる救いの真理から離れてしまうなら、偽りに陥り、悪魔の子となるのです。真理は私たちを自由にしますが、偽りは私たちを生かすことも、自由にすることもなく、人を殺す者とし、罪の奴隷とするのです。 神の子として生きることと悪魔の子として生きること
 このようにこの箇所には、神という父の下で神の子として生きることと、悪魔という父の下で悪魔の子として生きることとが対照的に語られています。それは真理を知り、真理によって自由にされて生きることと、偽りに陥り、自分も生きることができず、人をも生かすことのできない歩みに陥ることとの対比でもあります。真理に生きるか、真理を否定して偽りに生きるか、ということが問われているのです。その分れ道はどこにあるのか。それは、主イエス・キリストこそ神の独り子、独り子なる神であると信じるか否かです。主イエスを独り子なる神と信じて、そのみ言葉のもとに留まり、それをしっかり聞くならば私たちは、独り子を与えて下さるほどに世を愛して下さった神の愛による救いの真理を知ることができます。そしてその真理は私たちを自由にします。私たちも主イエスと共に神の子とされ、父である神の愛を受けて生きる者とされるのです。しかし主イエスを神の独り子、救い主と信じないなら、この救いの真理を知ることができず、罪の奴隷であり続ける、神の子ではなくて悪魔の子として、人を生かすのではなく傷つけ殺す者として歩み続けることになるのです。
 つまりこのみ言葉によって私たちは、神の独り子主イエスを信じて神の子とされ、神の愛を受けて生きていくのか、それとも悪魔の子として、悪魔の欲望を満たしつつ、つまり人を殺す者として生きていくのか、ということを問われています。紀元1世紀末のユダヤ人たちに問われていたことの本質はそこにあり、それは今私たちにも問われているのです。この問いにおいて、どっちつかずの第三の道はありません。神の子として生きるか、悪魔の子として生きるかは二つに一つなのです。

真理と偽り
 しかしこのシビアな問いは、神さまからの大いなる招きでもあります。なぜなら、神の子として生きることと悪魔の子として生きることは、同じ重さを持つ対等なこととして見つめられてはいないからです。そのことは、悪魔は「偽り」を言っており、「偽りの父」であると言われていることに現れています。悪魔の本質は偽りなのです。偽りとは、真理があってこそ成り立つものです。真理に反すること、真理に逆らい否定することが偽りなのです。それに対して真理は、それ自体で存在します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の愛の真理、主イエス・キリストによる救いの真理は、それ自体で成り立ち、私たちを自由にし、救う力を持っているのです。悪魔は、この神の愛による救いの真理を否定する存在です。主イエス・キリストによって神が与えて下さっている救い、その自由に私たちが生きることを妨げる力です。そういう悪魔の力がこの世界にははびこっているし、私たちもその力に捕えられて、人を殺す者となってしまうことがしばしばあります。しかしその悪魔の力は、神の愛のみ業を、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを、妨げようとする力でしかありません。つまりそれは積極的な力や働きでは全くないのです。別の言い方をすれば、私たちの前には、神の子として生きる道と悪魔の子として生きる道という二つの道があるのではないのです。悪魔の子として生きる道などはありません。あるのは、主イエス・キリストによって開かれた、神の愛によって神の子として生きる道だけです。私たちがその道を歩むことを妨げる力が悪魔なのであって、その力に捕えられてしまうと、私たちも悪魔の子となってしまいます。でもそれは「偽り」の姿でしかありません。私たちは、独り子なる神主イエスが十字架の死と復活によって与えて下さった救いによって、神の子とされ、罪を赦され、罪の支配から解放されて、神と隣人を愛して生きる自由を与えられているのです。それが真理です。その真理に生きるために、私たちは主イエス・キリストのもとに留まり、そのみ言葉を聞き続けるのです。それによって、主イエスによる救いの真理を、常に新たに分からせていただきながら歩むのです。そうすれば、偽りに捕えられ、悪魔の子となってしまうことはありません。私たちは、独り子を与えて下さるほどの神の愛によって罪を赦され、主イエスに従って、父である神の愛の下で神の子として生きることができる、それが真理なのです。

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