夕礼拝

罪人を招く

「罪人を招く」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:エゼキエル書 第18章30-32節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第5章27-32節
・ 讃美歌:241、442

徴税人レビ  
 主イエスは、レビという名前の徴税人が収税所に座っているのを見ておられました。徴税人とは、関税の徴収を行った人たちのことです。ローマ帝国の領土に住む人たちは多くの税を支払わなければなりませんでした。徴税の仕事は、たいていその地方における裕福で権力のある人に任せられたようで、そのほとんどはその土地に土着している人であったようです。彼らはローマ帝国、つまり異邦人の権力に仕え、かなりの収入を手にしていたこともあり、軽蔑されていました。それは、税率をごまかして余分にお金を徴収していたからだけでなく、異邦人と接触することは、祭儀的に汚れていると考えられていたからです。そのため徴税人と交わりを持つ人も汚れていると見なされたのです。また自分の民族と対立する外国人のために働く裏切り者とも見なされていました。そのためファリサイ派だけでなく、一般の民衆も彼らを軽蔑していたようです。

変わることのない日常  
 レビは徴税の仕事場に座っていました。そのレビに主イエスの眼差しが注がれます。レビだけをじっと見つめる視線は、主イエスが彼を選んでくださり、招いてくださったことを告げています。レビは、この日もいつもと変わらない日常を過ごしていたはずです。いつも通り税率をごまかして得たお金を懐に入れていましたし、周りの人たちの冷ややかな視線も日常の一部となっていました。私たちは、彼が罪に対する良心の呵責に苛まれていたとか、金持ちであったけれどなお満たされない思いを抱いていた、というような想像を働かせることもできるかもしれません。しかしむしろ彼は変わることのない日常を過ごしていたのではないでしょうか。もちろん彼が喜びや怒りや悲しみや楽しみといった感情を持っていなかったということではありません。ただそのような喜怒哀楽も日常の一コマに過ぎなかったのです。  
 このレビの日常は、私たちの日常でもあります。私たちは良心の呵責に苛まれることがあるでしょうし、自分が置かれている現実に不満を感じることもあるでしょう。あるいは自分が直面している不条理に憤りを覚えることもあるでしょう。それでも多くの場合、このような私たちの感情は、変わることのない日常に溶け込んでいってしまうのです。そうすることによって、私たちは自分自身を守っているともいえます。レビが、周りの人たちの視線をいちいち気にしていたら、自分を保つことは難しかったはずです。私たちの現実においても、もっともっと心を痛めなくてはならない出来事がありますし、もっともっと喜んでよい出来事があります。しかしそのような出来事と距離を取ることで、私たちは心を乱されないで日常を過ごそうとしているのです。

主イエスに従う  
 しかし主イエスの眼差しは、レビの、そして私たちの変わることのない日常に変化をもたらします。主イエスはレビを見て「わたしに従いなさい」と言われました。レビをご自身に従う者として、弟子として招かれたのです。この招きに応えて、レビは何もかも捨てて立ち上がり主イエスに従いました。レビは主イエスに招かれるために備えをしていたわけではありません。むしろ昨日と変わらない今日を過ごしていただけです。そこには新しさはなかったかもしれませんが、だからといって自分から新しさを求めていたわけでもありません。昨日と変わらない今日を過ごすことは、案外居心地の良いことだからです。ですからレビは、主イエスによって招かれるにふさわしい備えをなにかしていたわけではないし、彼の中で変化の兆しがなにか起こっていたわけでもありません。そうではなくただ主イエスの眼差しとお言葉が一方的にレビに注がれたのであり、彼はその招きに応えて主イエスに従う者とされたのです。そのとき彼は「立ち上がり」ます。彼にとって、収税所で座っていることは、変わることのない日常の象徴だったのではないでしょうか。彼は「立ち上がる」ことによって、その変わることのない日常の外へと出て行くのです。「何もかも捨てて立ち上がる」とは、これまでの生活と、主イエスに従って生きるこれからの生活がまったく異なったものであることを示しています。主イエスに招かれるとは、まさにこのようなことなのです。  
 しかしレビの思い切った行動、あるいは大きな変化が語られるとき、私たちはレビの姿を自分の姿として受けとめることが難しくなります。自分とレビの間に距離を感じるのです。レビのように大胆に「何もかも捨てて」主イエスに従うことなどできない、と思わずにはいられないからです。私たちも主イエスに従うことを願っています。しかし自分の現実を見つめるならば、いぜんとして私たちは変わることのない日常を生きているように思えるのです。捨て切れないものをいくつも抱え、「立ち上がる」どころか「うずくまっている」自分に気づかされ、主に従うことができていない自分を突きつけられ、主に従うことが嬉しいことでも幸せなことでも心強いことでもなく、きれいごとに思えてしまうのです。けれども「何もかも捨てる」とは、自分が持っているものをゴミ箱に捨てるように無用なものとしてしまうことなのでしょうか。それまで培ってきた経験や、身につけた知識や技術、蓄えた富、育んできた人間関係などを意味のないものとして否定することなのでしょうか。そうであるとしたら、主イエスに従ったレビがこの後行ったことは、「何もかも捨てる」ことと矛盾しています。彼は、自分の家で盛大な宴会を催しました。盛大な宴会ですから、豪華な食事が出たのかもしれませんし、ふんだんにぶどう酒が振る舞われたかもしれません。そしてそこには、徴税人やほかの人々が大勢いて一緒に食卓の席に着いていたのです。盛大な宴会を催すにはお金が必要ですし、仕事仲間や友人知人を招くには、築いてきた人間関係のネットワークが必要です。ですからレビは、自分が蓄えてきた富や育んできた人間関係を無用なものとして捨て去ったのではなく、むしろそれらを用いたのです。大切なことは、誰のためになんのために用いたのか、ということなのです。レビが自分の家で盛大な宴会を催したのは「イエスのため」です。「イエスのために」用いることこそが大切なのです。何もかも捨てて主イエスに従うとは、自分が持っているものを自分自身のために用いるのではなくて、主イエスのために用いることです。これまでの生活と、主イエスに従う生活が決定的に異なるのは、持っているものを捨てたかどうかではなく、主イエスのために用いるかどうかなのです。それは、自分の持っているものを無用なものとする、あるいは意味のないものとして否定するよりもずっと難しいことではないでしょうか。主イエスのために用いているかどうかは、劇的に目に見えるようになるわけではありません。ですから、それまでと変わることのない日常が続いているように見えるのです。しかし与えられているものを主イエスのために用いて歩んでいこうとするとき、何もかも捨てて主イエスに従う生活が確かに始まっているのです。変わることのない日常の外へ確かに踏み出しているのです。私たちはこのことを信じて良いのです。このことを信じるとき、私たちは主イエスに従うことの喜び幸せ心強さに気づかされるのです。

食卓の交わり  
 主イエスのためにレビが催した宴会は、教会における食卓の交わりを指し示しているといえます。この福音書を書いたルカは、主イエスの地上の歩みの中で起こった出来事を、自分が連なっている教会に語られていることとして書き記したのです。このことは、ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちがイエスの弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難していることから分かります。彼らは、主イエスが徴税人や罪人と一緒に食事をしていることを非難したのではなく、「なぜ、あなたたちは」と、「あなたたち」、つまり弟子たちを非難しているのです。ここに、ルカの教会が、同じ非難をユダヤ人から受けていたことを見て取れるのです。ルカの教会の食卓の交わりには、徴税人や罪人と見なされていた人たちも招かれていました。ファリサイ派の人は、徴税人と関わることによって自分が汚れると考えていたので、レビが催した宴会に参加しなかったはずです。同じようにユダヤ人は、この食卓の交わりには加わらず、交わりの外から「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と、ルカの教会を非難したのです。もしかするとユダヤ人からだけでなく、ユダヤ人でキリスト者になったユダヤ人キリスト者からの非難もあったかもしれません。彼らは、ルカの教会が異邦人のキリスト者と一緒に食事をしていることを批判したのです。教会が誕生し、その歩みを始めた時代において、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が一緒に食事をするかしないかは大きな問題でした。ガラテヤの信徒への手紙で、パウロが面と向かってペトロを非難したのは、彼がユダヤ人キリスト者を恐れて、異邦人と一緒に食事をすることをやめてしまったからです。ですからルカの教会が、異邦人キリスト者と共に歩んでいくとき、主イエスの弟子たちに向けられたファリサイ派の非難は、自分たちに向けられた非難として受けとめられたのです。  
 私たちの教会は、ルカの教会のように「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難されることはありません。もちろん現代において税を集める方たちと、イエスの時代における徴税人がまったく異なる社会的立場にあることは言うまでもありません。しかしこのような時代や社会の違いは根本的には重要ではないのです。ここで本当に問われているのは、ユダヤ人の社会で食卓の交わりの外にいた徴税人や罪人がその交わりに招かれたように、私たちの教会においても、交わりの外にいる方たちが招かれているだろうか、ということです。私たちがこの問いを自分たちに向けられたものとして受けとめていないとしたら、それは私たちがすでにこのような批判を克服しているからでしょうか。それとも私たちは今も絶えずこのように問いかけられていることを意識しなくなっているからでしょうか。ルカの教会で、この問いは教会の外から投げかけられただけでなく、教会の中からも起こったのではないでしょうか。私たちは、外からのファリサイ派の声を聞くことはないかもしれません。しかし内なるファリサイ派の声を聞くことはあるのです。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」というファリサイ派の声が、自分自身の内なる声となっていることがあるのです。そうであるならば私たちはこの問いを自分たちに向けられたものとして受けとめ、意識し続ける必要があります。そのことによって、教会は交わりの外にいる方々を招くことを意識し続けることができるからです。ほかならぬ主イエスのために、教会は交わりの外にいる方々を招き続けるのです。

ファリサイ派になっていないか?  
 私たちはなかなか自分の内なるファリサイ派に気づくことができません。しばしば私たちはファリサイ派をイエスの生涯における悪役として捉え、主イエスを十字架につけた悪い人たちだと思っているからです。それに対して自分たちクリスチャンは主イエスに従う善玉だと思いがちです。私たちとファリサイ派は正反対で、私たちは善玉で彼らは悪玉なのでしょうか。ファリサイ派の人たちは、当時、最も模範的な信仰者でした。汚れた人たちとは関わらない、信仰深い、神の掟に生きる人々であったのです。自分たちは「正しい」信仰者だと思っていたし、周りにいる多くの人たちもそのように見ていました。私たちもどこかで自分は「良い」信仰者、「正しい」信仰者であると思っているのではないでしょうか。あの人と比べれば自分のほうが信仰深いと考えたり、あの人の振る舞いは信仰者として正しくないと決めつけたりするのです。しかしそのようなとき、私たちは、自分の内なるファリサイ派に気づく必要があります。自分の信仰や信仰生活をほかの人と比べてしまうとき、私たちとファリサイ派になんら違いはありません。そしてこのようなファリサイ派のあり方が主イエスとの対立を引き起こしていき、その先に主イエスの十字架があるのです。ファリサイ派が主イエスを十字架につけた悪い人たちで、私たちは主イエスに従う善玉なのではなく、ファリサイ派の姿を通して、私たち自身の内なるファリサイ派が示され、ほかならぬ私たちこそ主イエスを十字架につけたのだと知らされるのです。  
 「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて」と語られています。ファリサイ派の非難は「つぶやき」であり、それは彼らの不平不満を表しています。この「つぶやく」という言葉は、イスラエルの民の荒れ野の放浪の物語においても用いられている言葉です。奴隷であったエジプトから導き出されたイスラエルの民は荒れ野を放浪しました。その中で彼らは何度もつぶやき、不平を言いました。お腹が減ったと不平を言い、喉が渇いたと不平を言いました。エジプトにいたほうがましだった、と言う者すらいました。荒れ野の旅は厳しいものであったに違いありません。空腹や喉の渇きが耐え難くて不平を言うのは仕方がないことのようにも思えます。しかし彼らのつぶやきの根底にあるのは、エジプトから救い出してくださった神さまを信頼していない、ということです。自分たちのために救いのみ業を行ってくださった神さまを信頼できず、荒れ野の旅の困難に直面して神さまに不平を言うのです。ここには神さまを信頼することができない彼らの不信仰があります。同じようにファリサイ派の呟きも、神さまに信頼していない彼らの姿を明らかにするのです。彼らが信頼していたのは自分の「正しさ」であり、この呟きは彼らの不信仰を示しているのです。

罪人を招く  
 ファリサイ派は弟子たちを非難しました。しかしその批判に答えたのは弟子たちではなく主イエスです。弟子たちはどう答えたら良いか分からなかったから、代わりに主イエスがお答えになった、ということなのかもしれません。しかし大切なことは、弟子たちが分からなかったかどうかより、ファリサイ派からの非難に対して主イエスが語る言葉を持っておられたということです。同じ非難を受けていたルカの教会は、自分たちの言葉に頼らず、この主イエスのお言葉に頼り、それによって非難に応じたのではないでしょうか。徴税人や罪人や異邦人に開かれたルカの教会の食卓の交わりは、主イエスのお言葉によって支えられていたのです。同じように私たちも内なるファリサイ派の声に対して、ほかならぬ主イエスのお言葉に頼り、応じていくことができるのです。私たちは内なるファリサイ派の声に従うのではなく、主イエスのお言葉とそのご意志にこそ従うのです。  
 主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と答えられました。ここで主イエスは「わたしが徴税人や罪人と一緒に食事をするのは」と言われたのではありません。「わたしが来たのは」と言われたのです。主イエスのお答えは、ファリサイ派の問いかけへの直接の答えとはなっていません。むしろ主イエスが罪人や徴税人と食卓を共にしていることの根本にある、主イエスがこの地上へ来られた目的が語られているのです。その目的こそ「罪人を招いて悔い改めさせる」ことにほかなりません。  
 主イエスのお答えはとても分かりやすいように思えます。しかし医者を必要としない「健康な人」、あるいは「正しい人」とは誰なのでしょうか。レビや、レビが催した宴会に参加した人たちが医者を必要とする病人であり、罪人であって、ファリサイ派の人たちは健康な人であり、正しい人なのでしょうか。レビは主イエスの招きにお応えして、主イエスのために宴会を催し、多くの徴税人や罪人を招きました。徴税人であり、罪人であったレビに主イエスが目を注いでくださり招いてくださったからこそ、今度は彼が徴税人や罪人を招く者となったのです。この招きに応え食卓を共にすることをほかならぬ主イエスが喜ばれます。主イエスに従ったレビを用いて、この食卓の中心におられる主イエスこそが人々を招かれたのです。主イエスの招きは、ファリサイ派にも呼びかけられていたに違いありません。レビは主イエスに従う新しい生活を生き始めました。そのことを共に祝うために、主イエスは同じ食卓へとファリサイ派の人たちを招かれたのです。しかしファリサイ派の人たちはこの招きを拒みました。主イエスの言葉は、「健康な人」と「病気の人」のどちらかだ、あるいは「正しい人」と「罪人」のどちらかだ、という二者択一について語っているのではありません。そうではなく、あなたは自分を健康だと思っているのか、正しい人だと思っているのか、という問いをファリサイ派の人たちに、そこにいるすべての人たちに、そして私たちに突きつけているのです。ここで問われているのは、肉体的、精神的な健康よりも、神さまとの関係が健やかであるか、ということです。正しい人とは、神さまと健やかな関わりに生きている人にほかなりません。ファリサイ派のあの呟きは、神さまとの関係の破れを明らかにし、彼らが深く病んでいることを示しています。彼らも癒やされなければなりません。自分の信仰は健康で正しいと思い込んでいるからこそ、ファリサイ派の人たちは主の招きを拒んだのです。自分の病に、罪に気づいていないからこそ彼らの病はより深刻なのです。主イエスと共に食卓を囲んだ多くの徴税人やほかの人たちだけでなく、ファリサイ派も神さまとの関係が破れている罪人です。私たちは、神さまとの交わりの破れにあって、変わることのない日常を過ごしていたレビの姿と、その破れを抱え、自分は「正しい」信仰者だと思い込んでいたファリサイ派の姿を見つめてきました。どちらの姿の中にも私たちは自分自身の姿を見いだすのです。私たちはレビのように主イエスの招きに応えて主イエスに従って生き始めているでしょうか。それともファリサイ派のように主イエスの招きを拒んでいるでしょうか。

主に立ち帰って生きる  
 主イエスが罪人を招き食卓を共にするのは、ただにぎやかな食事をして楽しむためではなく、彼らを悔い改めへと導くためです。主イエスが来られたのは「罪人を招く」ためだけでなく、「罪人を招いて悔い改めさせるため」だからです。本日共に読まれた旧約聖書箇所エゼキエル書第18章30~32節に、「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」とあります。主イエスは罪人を招かれ共に食卓を囲まれます。けれども主イエスが罪人を招かれるのは、罪人のままで良いということでも、ありのままで良いということでもありません。そうではなく主イエスに招かれた者が、悔い改めに導かれ、神さまに立ち帰って生きるためです。「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と言われる神さまが、私たちが主に立ち帰って生きるために、罪のない独り子を、死ぬべき私たちの代わりに十字架に架けたのです。この十字架の死と復活によってキリストがお建てになった教会は、主に立ち帰って生きる者たちの集まりです。この共同体で主に立ち帰って生きる人が日々生まれていくのです。変わることのない日常を過ごしていた者が、悔い改めて主に立ち帰り、主に従うことによって新しく生き始めるのです。私たちはすでに主に立ち帰って生きる、新しい命を生き始めています。この交わりの中へ、一人でも多くの方が加わることを神さまは喜ばれるのです。そのために教会は、交わりの外にいる方々を招き続けます。「わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と、この世へと告げ知らせていくのです。

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