夕礼拝

私は意志する

「私は意志する」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:レビ記 第13章45-46節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第5章12-16節
・ 讃美歌:229、527

ある町で  
 「イエスがある町におられたとき」とルカは語り始めます。イエスは一つの町に留まっていたのではなく、いくつもの町で宣教されました。4・42~43節では、カファルナウムという町の人々がイエスに自分たちのところにいて欲しい、離れないで欲しいと求めたのに対して、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」と言われ、イエスはカファルナウムを去ったと語られていました。イエスがある町にいたのも、神の国の福音を告げ知らせるためであったに違いありません。そのためにイエスが訪れていた「ある町」で起こった出来事が本日の聖書箇所です。この出来事はマルコによる福音書でも語られていて、おそらくルカは、福音書の中で最初に書かれたとされるマルコを下敷にしていると思われます。しかしルカはマルコを下敷にしつつもマルコとは異なった視点でこの出来事を語っているのです。このことを心に留めつつ、本日私たちに語られているみ言葉に目を向けていきたいのです。

ツァラアト  
 イエスが訪れたある町に、「全身重い皮膚病にかかった人がいた」と語られています。「重い皮膚病」は、旧約聖書のもとの言葉で「ツァラアト」という言葉を訳したものであり、それが新約聖書に引き継がれました。しかし「ツァラアト」はその語源も意味も明らかではありません。聖書の付録「用語解説」の「重い皮膚病」の項目にも書かれてありますが、「ツァラアト」は祭儀における「汚れ」に関わる言葉で、人についても物についても用いられます。レビ記13~14章に「ツァラアト」についてまとめて記されていて、人について用いられる場合、何らかの皮膚の病気を示していますが、それがどんな病気であったかは明らかではありません。新しく出た聖書協会共同訳では「規定の病」と訳されていますが、どんな病気であったか分からないことに変わりはないと言えるでしょう。つまり「ツァラアト」が人に用いられる場合、私たちが知っている病名を当てはめることはできないということです。皆さんの中には、なぜ「重い皮膚病」について、ここまで説明する必要があるのかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし「ツァラアト」とそれを引き継いだ新約聖書のもとの言葉の翻訳において、誤った理解がなされてきたという歴史があるのです。そのために誤解が生じ、傷つき苦しんだ方々がいらっしゃるということを私たちは忘れてはなりません。  
 さらにこのことは、聖書を読むときに大切なことを私たちに示しています。それは、聖書は文脈の中で読まれなければならないということです。一つの単語や文章、あるいはもっと大きなまとまりであっても、それが置かれている文脈から切り離してしまえば、私たちは聖書が本当に告げようとしていることを見失ってしまうからです。

清さと汚れと共同体  
 旧約聖書で「ツァラアト」はどのような文脈で語られているのでしょうか。イスラエルの生活においては、「清さ」と「汚れ」という考えがありました。レビ記11~15章では、イスラエルの人たちが、生活のあらゆる場面で守らなければならない清さと汚れの規則がまとめられています。11章では、食べてよい生き物と食べてはいけない生き物が定められていますが、食べてはいけない理由として、それらの生き物は汚れているからだと記されています。そして11・45節で「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と主は命じているのです。つまり主なる神さまは聖なるお方であるから、神さまとの交わりの中にいるためには汚れてはならない、と言われているのです。この文脈の中で、13~14章では「ツァラアト」について細かく定められています。そして人が「ツァラアト」であるとき、その人は汚れているとされたのです。13・1~44節までは、どのような場合に汚れているか、あるいは清いかについて記されていて、14・1~32節では、「ツァラアト」が治った人が行う清めの儀式について述べられています。ですから「ツァラアト」は治ることもあり、汚れているとされた人が清くなることもあるのです。どのようにして治るのかについてはなにも述べられていませんが、「ツァラアト」になると治らない、あるいは汚れているとされたら清くなれないということではないのです。13・45~46節には「ツァラアト」である人が行わなくてはならないことが記されています。それが本日共にお読みした旧約聖書の箇所です。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならい。」ここで述べられている姿から、「ツァラアト」である人の苦悩や悲しみを窺い知ることができます。なにより「その人は独りで宿営の外に住まねばならない」とあるように、「ツァラアト」である人は、イスラエルの民の共同体の外にいなければならないので、とても孤独であったに違いありません。またそれは同時に、神さまとの交わりの外にいるということでもあるのです。イスラエルでは「汚れ」をこのように考えていました。宿営の中にいる人は、外にいる人と接触しないし交わりを持ちません。共同体の内と外で断絶があるのです。宿営の外にいる人は、もし「ツァラアト」が治り清いとされたなら、宿営の中へ、共同体の内へ戻ることができることを待ち望みつつ、独り苦しみの中を過ごしていたのです。

あなたが望むならば  
 レビ記の定めによって「汚れている」とされた人が、イエスが訪れた町にいました。この人はイエスを見るとひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願います。この人がどれだけの間、共同体の外で独り過ごしていたのかは分かりませんが、共同体の内へ戻れることを望みつつ、しかしその望みがかなわないために、嘆きの日々を過ごしていたのではないでしょうか。そのような日々の中で、イエスという人が病を癒しているといううわさを耳にしたのだと思います。4・37節に「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」とあるからです。ですからこの人は、主イエスが癒しのみ業を行えることに疑いを持っていたわけではありません。「わたしを清くすることがおできになります」という言葉には、この人の主イエスのみ業への信頼が表れています。けれどもこの人が分からなかったのは、主イエスは自分を癒すことを望むだろうか、ということです。「主よ、御心ならば」とは、「主よ、あなたが望むならば」という意味です。主イエスは自分を癒すことを望まないのではないか、という疑いや不安や迷いがあったのです。たとえ主イエスに癒す力があったとしても、自分に関わってくださるはずがないと考えていたのです。なぜならこの人が生きていた社会の常識からすれば、自分と関わる人などいるはずがなかったからです。ですからここで問われているのは、彼を癒すことができるかという能力ではありません。あるいは彼と関わることができるかということでもありません。そうではなく彼を癒そうとする意志が、彼と関わろうとする意志があるかということなのです。  
 私たちは、聖書に親しんでいればいるほど、イエスさまならこの人に関わってくださり、この人を癒してくださるのは当たり前だとどこかで思っているかもしれません。しかしこの人にとっては決して当たり前ではありませんでした。彼は汚れているとされ、イスラエルの共同体の外にいました。共同体の中にいる人たちは彼と関わろうとしません。彼と関われば、その人も汚れているとされ共同体から出ていかなくてはならないし、神さまとの交わりの外に置かれてしまうからです。私たちが考える以上に、共同体の内と外、清さと汚れの間にある隔たりは大きなものであり、到底超えられるものではなかったのです。  
 このような隔たりのために、主イエスは自分を癒すことを望むはずがないのではないか、という不安、恐れ、迷いの中にあって、しかしそれでもこの人は自分の願いを主イエスに向かって注ぎ出したのです。この姿は、私たちの祈りの姿勢を問うものでもあります。私たちは自分の願いを神さまに向かって注ぎ出しているでしょうか。自分の願いばかり祈っていては、整った祈りとはとても言えないので、自分の願いはほどほどにして、隣人のこと社会のこと世界のことを執り成し祈ろうと思うことはないでしょうか。もちろん執り成しの祈りが大切なことは言うまでもありません。私たちは、執り成し祈り合う群れだからです。けれども自分の願いはほどほどにという思いの裏側には、自分の願いを神さまに注ぎ出すことの難しさ、包み隠さず打ち明けることの難しさがあるのではないでしょうか。つまり神さまに願わなくなってしまっているのです。嘆きや苦しみの中にあったとしても、自分が置かれている現実を考えるならば、この嘆きや苦しみを取り除いてください、と神さまに願っても無駄だと諦めてしまっているのです。汚れているとされたこの人の現実はとても厳しいものでした。自分が置かれている現実が変わることなどありえない、と思わざるを得なかったでしょう。それでも彼は主イエスを見て、ひれ伏し、願ったのです。私たちも神さまの御前でひれ伏し願って良いのです。その祈りが、現実の厳しさのために疑いや不安や迷いの入り混じったものであったとしても、神さまに自分の願いを注ぎ出して良いのです。私たちは「主よ、あなたが望まれるなら、私の願いを実現することがおできになります」と祈ることができるのです。

手を差し伸べてその人に触れ  
 「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったその人に、主イエスは手を差し伸べて触れられました。同じ場面でマルコは「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」と語ります。しかしルカはイエスの心の動きを語りません。手を差し伸べて触れたことだけに注目しているのです。苦しみと嘆きのどん底にある人に必要なのは、そこから自分を引き上げてくれる「手」ではないでしょうか。自分の力では這い上がることができないからです。共同体の外にいる人が自分から共同体の中へ戻ることはできないし、神さまとの交わりを失っている人がその交わりを自分で回復することもできません。差し伸べられる手が必要なのです。共同体の内と外、清さと汚れの間にある到底超えることのできない隔たりを、手を差し伸べることによって主イエスは超えられます。そして差し伸べた手で触れてくださるのです。人に触れるというのは様々な場面で色々な意味を持ちますが、自分の方を見てもらいたいときに触れる、あるいは相手への親しさ、愛を表すときに触れるということがあります。そのためには、手の届く距離に相手がいて、その人がそこにいることを認めていなくてはなりません。たとえ近くにいても、その人を無視していないものとしているなら、その人に触れることはないのです。共同体の外にいるというのは、そこから物理的に離れていることを必ずしも意味しません。すぐ近くにいても、いないものとされるならば、その人は共同体の外にいるのです。そしていないものとされるならば、その人は生きているのではなく死んでいる者とされているのです。この人は町の外にいたのではありません。イエスがいる町にいました。それにもかかわらず彼は共同体の外にいて、いないものとされ、死んでいる者とされていたのです。触れるというのは、近くにいる相手に直接、具体的に関わろうとすることです。共同体の外にいて、誰も関わろうとしない人に、いないもの、死んでいる者とされている人に、イエスは手を差し伸べ触れてくださり交わりを持たれるのです。

私は意志する  
 そして主イエスは「よろしい。清くなれ」と言われます。「よろしい」という訳は、清くなることを許しているように受け取れます。口語訳は「そうしてあげよう」と訳していましたが、これも訳として十分とはいえません。ここで主イエスは「よろしい」でも「そうしてあげよう」でもなく「私は望む」と言われているのです。彼は「主よ、あなたが望むならば、わたしを清くすることがおできになります」と願いました。その願いに答えて主イエスは「私は望む。清くなれ」と言われたのです。ここに清さと汚れを乗り越えようとする主イエスの意志があります。共同体の外にいる人と関わろうとする主イエスの意志があるのです。そして主イエスがそのように言われると、「たちまち重い皮膚病は去った」と語られています。主イエスの意志によって、「ツァラアト」は癒やされ、汚れていた人は清くされ、共同体の外から内へと入れられたのです。  
 14節で、イエスは癒やされた人に二つのことを命じています。第一に「だれにも話してはいけない」と命じ、第二に「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と命じています。マルコでは、癒やされた人が第一の命令を守らず「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」ので、「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた」と語られています。つまりマルコは、イエスによって癒やされたことを語ってはならない、という命令に彼が従わなかったことと、その結果としてイエスが町の外に追いやられたことに注目しているのです。それに対してルカは、第一の命令に対する癒やされた人の応答についてまったく語っていません。15節に、「大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」とありますが、それは癒やされた人がイエスの命令に従わなかったからではなく、イエスのうわさがますます広まったためです。その一方で、ルカにとって第二の命令は、この物語の文脈を考えると大切な意味を持っています。「祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物」をするとは、レビ記14章に記されている定めに従うことです。このことをルカが語るのは、イエスが律法を軽んじていなかったことを伝えるためだけでなく、なによりもこのことによって、癒やされた人の共同体への復帰が人々に認められたからです。ここでもルカは共同体の外にいた人がその内へ入れられることを見つめています。主イエスが手を差し伸べ、彼に触れて、彼と関わってくださり、清くなることを望んでくださり、彼は神さまとの交わりの中へ入れられました。しかし彼とほかの人たちとの交わりはどうでしょうか。彼の生きていた社会において、共同体の人たちとの交わりを回復させ社会に復帰するためには、レビ記の定めに従い自分の「清さ」を人々に示す必要がありました。だから主イエスは「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と命じられたのです。  
 イスラエルの社会において、これらの規則は共同体を維持していくための役割を担っていたと考えられます。しかし私たちの社会はイスラエルの社会とは大きく異なり、これらが役割を持つことはないでしょう。さらに言えば、このような時代や社会や文化の違い以上に、根本的に私たちがこれらの規則を必要としないのは、主イエス・キリストが共同体の内と外、清さと汚れの間にある隔てを打ち壊してくださったからにほかなりません。ルカによる福音書の続きと言われる使徒言行録は、キリストの十字架の死と復活の後に、聖霊が降り、力を与えられた弟子たちの伝道を語っていますが、そこでルカは、レビ記の定めている清さと汚れという考えがもはや必要でないことを記しています。使徒言行録10章で、ペトロがヤッファという町で見た幻の中で、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥を屠って食べなさいという声に対して、彼は「主よ、とんでもないことです清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えています。ペトロはなおレビ記が定める清さと汚れから自由になっていなかったのです。しかし再び声が聞こえてきます。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」ここでは、もはやユダヤ教における意味で「清さ」が語られていないのです。幻を通してこのことを示されたペトロは、異邦人のコルネリウスに対して「あなたがたもご存知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」と言っています。食べて良い生き物と食べてはいけない生き物は、「ツァラアト」と同じく、汚れとの関わりでレビ記において定められていました。また、異邦人とはイスラエルの人たちの共同体の外にいた人たちであり、彼らも汚れていると見なされていたのです。  
 主イエスが「重い皮膚病」にかかった人に手を差し伸べ触れてくださり癒してくださったこの出来事は、主イエスがメシアであることのしるしにほかなりません。7・18節以下で、洗礼者ヨハネに遣わされた弟子たちがイエスに「来たるべき方は、あなたでしょうか」と尋ねたとき、イエスは「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と答えています。「重い皮膚病」を患っている人が清くなること、つまり「ツァラアト」とされた人が清くなることは、イエスが来たるべきメシア、救い主であることのしるしなのです。しかしそれはあくまで「しるし」であり、救いは主イエスの十字架と復活において実現します。ルカが福音書と使徒言行録を書いたのは、主イエスの十字架と復活から数十年後です。ですから私たちと同じように、ルカもレビ記の定めがもはや必要ないことを知っていました。しかしイエスの十字架より前のこの出来事において、ルカは癒やされた人にレビ記の定めに従うことを命じます。このことによって共同体の外にいた人と内にいる人との交わりが回復するからです。それは、キリストの十字架の救いによって実現する、人と神さまとの交わりの回復と、人と人との交わりの回復の先取りにほかなりません。

神との交わりの中へ  
 神さまは、共同体の外にいた人たちが共同体の内へと入れられることを望まれます。神さまとの交わりの外に生きていた人たちが神さまとの交わりの中で生きることを望まれるのです。主イエスは、父なる神のみ心をご自身の望みとして、意志としてみ業をなされました。この奇跡において、救いこそが見つめられているのです。病そのものが死をもたらすだけでなく、神さまとの交わりの外で生きるのは死んでいることと同じです。神さまは、すべての人が神さまとの交わりの中で生きることを望まれます。交わりの外にいる人たちに、主イエスの手が差し伸べられているのです。かつて私たちは神さまとの交わりの外にいました。神さまとの交わりに生きなくてもなんとかなる、自分の力で自分の人生は切り開いていけると思っていたのです。でも、それは死んでいたのと同じです。どれほど充実した人生を送っているように見えたとしても、神さまなしに生きるとき、私たちは孤独、不安、苦しみ、嘆きの底にいるのです。そのような私たち一人ひとりに神さまは関わってくださり、独り子主イエス・キリストを遣わしてくださいました。キリストの十字架の救いによって、私たちは神さまとの交わりの中へ入れられ、死んでいたのに新しい命を与えられ、終わりの日の復活と永遠の命の約束を与えられているのです。すべての人に手を差し伸べて触れてくださる主イエスご自身が、神さまとの交わりに生きた方でした。16節に「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」とあります。大勢の群衆が教えを聞くために、癒やされるために集まってきていたにもかかわらず、イエスはそこから退かれ、一人で神さまに祈ったのです。主イエスはなによりも神さまとの交わりに生きることを優先されたのです。  
 「私は望む、清くなりなさい。」この言葉は、主イエスの意志であり私たちへの愛を告げています。今も、主イエスは御手を差し伸べてくださっています。一人でも多くの人を神の民の共同体へ、教会へと招くためです。ですから私たちも人々を教会へ招くために用いられていきたいのです。すべての人が主イエスの手をつかみ、教会へと加えられ、神との交わりの中に生きることこそ、神さまのみ心にほかならないからです。

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