主日礼拝

私もあなたを罪に定めない

「私もあなたを罪に定めない」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章1-5節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第7章53-8章11節
・ 讃美歌:230、122、441

括弧に入れられている話  
 本日はヨハネによる福音書第7章53節から第8章11節をご一緒に読みます。この箇所全体に括弧が付けられています。この括弧は、ヨハネ福音書の古い写本の多くにこの部分がないことを意味しています。つまりもともとのヨハネ福音書にこの話はなかったと考えられるのです。しかしこの話がかなり古くから伝えられていたことは確かで、これがルカによる福音書の21章の終りに置かれている写本もあります。つまり元々はルカ福音書にあった話なのかもしれないのです。しかし紀元5世紀頃からは、この話はヨハネ福音書のこの箇所に置かれて伝えられてきました。元々ここにはなかったとしても、主イエスのお姿を印象的に伝えている話として大切に読まれてきたのです。

姦通の罪  
 主イエスがエルサレムの神殿の境内で人々に教えを語っておられるところに、律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた女を連れてやって来ました。「姦通」って何とレトロな言葉でしょうか。今の若い人は聞いたこともないかもしれません。教会学校の礼拝では毎週「十戒」を唱えています。その第七の戒めは「あなたは、姦淫してはならない」です。神さまがお与えになったこの戒めを破ることが姦通の罪です。それは、結婚ないし婚約している人が、自分のパートナーではない他の異性と性的関係を持つこと、平たく言えば浮気をすることと浮気の相手となることです。それは神さまが禁じておられる重大な罪なのです。それが重大な罪であるという意識は、今日の社会において殆ど失われているかもしれません。しかし先日も行われた教会における結婚式では、新郎新婦がお互いに「固く節操を守る」ことを誓約します。そういう誓約を教会は結婚する二人に求めるのです。それは、神さまの前でそのように約束して共に歩んでいくことによってこそ、神さまに祝福された本当に良い夫婦、家庭を築いていくことができるからです。姦淫は、その約束を破り、自分が向かい合って共に生きるべきパートナーと向かい合うことをやめてしまう不誠実な行為です。それゆえに聖書の時代にはそれは、神を冒とくすることや人を殺すことと並んで、石で打ち殺されなければならない罪とされていたのです。

主イエスを陥れるため  
 その姦淫の現場で捕えられた一人の女が連れて来られました。その現場には当然相手の男がいたはずです。その男も同罪なのですが、彼は女を見捨てて一人で逃げてしまったようです。女だけが主イエスのもとに連行されて来たのです。律法学者やファリサイ派の人々は主イエスに「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と尋ねました。それは「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」と6節にあります。彼らがこの女をわざわざここに引っ張って来たのは、主イエスを陥れるためでした。もし主イエスがこの女を赦せと言ったら、イエスは律法に反することを教えたとユダヤ人の最高法院に訴えることができます。もし逆にイエスがこの女を石で打ち殺せと言ったら、ユダヤを支配しているローマ帝国の総督に、総督の許可なしに人を死刑にせよと言った、とイエスを訴える口実ができるのです。だからどのように答えてもイエスを窮地に陥れることができる、そういう場面を造り出すために彼らはこの女を利用しているのです。

かがみ込む主イエス  
 彼らの言葉を聞くと主イエスは、「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた」とあります。こういう主イエスのお姿が語られているのはこの箇所だけです。指で地面に、いったい何を書いたのでしょうか。そのことを人々はいろいろと想像してきました。この後身を起こしてお語りになる言葉を、言わば判決を告げる前にそれを書き記すように書き止めておられたのだとか、この女を利用して自分を訴えようとしている彼らの罪を書き記しておられたのだとか、その他にもいろいろな想像をしている人がいます。しかし何を書いておられたのかは問題ではありません。彼らの言葉を聞いてかがみ込んだ主イエスのお姿は、この女をさらしものにしてご自分を陥れようとしている人々の有様を、主イエスが深く嘆いておられ、このような悪意に満ちた問いには答えたくないと思っておられることを表していると言えるでしょう。ここには、人間の深い罪を一身に背負って、その重荷におしつぶされそうになって屈み込んでおられる主イエスのお姿があるのです。

罪を犯したことのない者が、まず  
 彼らがなおしつこく問い続けるので、主イエスは身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とおっしゃいました。それだけ言うと再び身をかがめて地面に書き続けられたのです。この一言は、人間の罪の重荷を背負っておられる主イエスが、その深い嘆き悲しみ苦しみの中からしぼり出すようにお語りなった言葉です。その言葉は、騒ぎ立てている人々の心を深くえぐり、沈黙をもたらしました。律法学者やファリサイ派の人々は、罪人であるこの女を石で打ち殺すことこそが神に従う正しい信仰の行為だと信じており、そういう正義感に酔いしれています。自分は正しいことをしていると思っている時にこそ、人はいくらでも残酷になれるし、そこに喜びを感じるのです。さらにそれによって、律法を尊重せず神を冒?しているイエスを葬り去ることができるとあって、ますますいきり立っているのです。また周りを取り囲んでいる群衆たちも、姦通の現場で捕えられた女を興味本位の卑猥な目で見つめながら、彼女を石で打ち殺すことで日頃のうっぷんを晴らそうとしています。あるいは、イエスがこの絶体絶命の状況の中で何を語るのだろうかと、これも興味本位の傍観者的態度で眺めていた人もいたでしょう。そのように様々な思いを持ちつつ、彼らに共通しているのは、明らかに罪ある人間を糾弾するという誰も文句をつけようのない正しい行いによって残酷な喜びを満たそうとしている、ということです。しかしその全ての人々が、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という主イエスの一言によって、はっとさせられたのです。自分自身を顧みることを迫られたのです。これを聞いて、「私が真っ先にこの女に石を投げる」と言った者は一人もいませんでした。罪を犯したことのない者こそ真っ先に石を投げるのに相応しい。その通りだ。でもそれは自分ではない。自分も罪を犯したことがある。だから自分は真っ先には投げられない。誰かの後で、二番目か三番目か、あるいは十番目ぐらいには自分も投げることができる、そのように誰もが思ったのです。その沈黙の中で、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」。「年長者から始まって」とあることに深い含蓄があります。年長者ほど、自分にも罪がある、自分はこの女に石を投げることのできる者ではない、ということにより早く気づいたということです。つまり自分自身の歩みを冷静に振り返って、自分が犯してきた罪の数々に気づくことができたのは年長者だった、ということです。私ももう年長者の部類ですが、ここには私よりもさらに年長の方が多くおられます。皆さんはどうでしょうか。年長者であるほど、自分の罪の深さにより深く気づいているはずだ、と聖書は語っているのです。もしそうなっていないとしたら、私たちは「いたずらに馬齢を重ねてきた」ということになるのです。

人生の主との出会い  
 このようにして、その場には誰もいなくなってしまいました。主イエスとこの女だけが残ったのです。主イエスは身を起こして彼女に、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」とおっしゃいました。彼女は「主よ、だれも」と答えました。主イエスと彼女のこのやりとりにおいて、とても深い、大事なことが起っています。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という主イエスのお言葉によって、その場にいは誰もいなくなってしまった。彼女に石を投げることができる者は一人もいなかったのです。彼女は助かった。石で打ち殺されなくてすんだ。しかしこのことによって彼女は今や、自分の罪を本当に裁くことができる方、自分を罪に定めることができるただ一人の方の前に立ったのです。彼女はこの時まで、自分が罪を犯したとは思っていなかったでしょう。勿論、姦淫が罪とされていることは知っている、しかし彼女は、自分の気持ちに正直に生きていたのです。結婚とか夫婦とか、そういうこの世の秩序とは関係なく、自分はあの人を愛している、その愛に正直に生きているだけだ。だから彼女は深いところで、自分のしていることが罪だとは思っていない。むしろ彼女の中には、自分を人々の前に引き出してさらし物にして断罪している律法学者やファリサイ派の人々への怒りと憎しみが募っていたでしょう。ご立派な宗教家か何か知らないが、私のことを汚らわしいものを見るように蔑んでいるあんたがただって、一皮剥けば私と同じだろう。欲望をおし隠しているか、正直にそれに従って生きているかだけの違いじゃないか。そのように彼らに敵対する憎しみの思いで満たされていたのです。しかしその人々が皆立ち去って主イエスと二人きりになった今、彼女の思いは全く変えられました。この人は、私をさらし者にして責め立てていたあの人たちとは全然違う、と彼女は感じたのです。しかしそれは、この人は自分を罪人呼ばわりせず、「あなたは今のままでいいんだ」と認めてくれたということではありません。主イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とおっしゃったのです。つまり主イエスは、姦淫なんて別に罪じゃない、この人は自分の気持ちに正直に生きているのだからそれを責めるのは間違いだ、などとは言っていない。彼女は神のみ心に背き、人をも裏切っている。彼女が犯した姦淫は石で打ち殺されるべき重大な罪だとおっしゃったのです。しかしそれと同時に、彼女を石で打ち殺す資格のある者は人間の中には一人もいない、ということも、主イエスのお言葉によって示されました。この主イエスの前に立った時に彼女は、この方は、自分を本当に罪に定め、裁くことのできるただ一人のまことの「主」なのだ、ということに気づかされたのです。「主よ、だれも」という言葉はそのことを表しています。彼女はこれまで、自分の人生の主人は自分だと思っていたのです。自分の体は自分のものだから、自分の欲望に正直に生きて何が悪い、むしろ自分を罪人扱いして裁こうとしているこの連中こそ偽善者だ、と思っていたのです。しかし今彼女は、自分の人生のまことの主と出会ったのです。まことの主と出会ったことによって、自分が主であると言い張って、自分の欲望に従って生きてきたことが大きな罪だったことに初めて気づかされたのです。彼女を責め立てていた人々と同じように彼女自身も、主イエスとの出会いによって、自分自身の罪を見つめさせられたのです。

主イエスによる赦し  
 その主イエスは彼女に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃいました。罪を犯している彼女を裁き、石を投げることのできるただ一人のまことの主であられるイエス・キリストが、「私もあなたを罪に定めない」と言って下さったのです。このお言葉も、先程の「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というお言葉と同じように、人間の罪の重荷を一身に背負っておられる主イエスが、その深い嘆き悲しみ苦しみの中からお語りなった言葉です。主イエスは、この女性をさらしものにすることで自分を陥れようとしている律法学者やファリサイ派の人々の悪意、神に従う正しいことをしているように装いつつ、実は弱い者をいじめることに喜びを覚え、愛ではなく憎しみに生きている彼らの罪の重荷に深く苦しみ悲しみつつ、その中からあのお言葉を語られました。同じように主イエスは、この女性が、命を与え、人生を導いて下さっている主なる神を見失って、自分の命も体も自分のものだと言い張り、欲望と愛を取り違えている罪と、また自分の罪を断罪する人々に対して彼女が抱いている激しい敵意や憎しみのすべてを背負って、その重荷に苦しみつつ、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と語られたのです。つまり、主イエスがお語りになった彼女に対する罪の赦しの宣言の背後には、十字架の苦しみと死があるのです。「あなたの主である私があなたの罪を全て背負って十字架にかかって死ぬ。それゆえに私もあなたを罪に定めない」。それが主イエスのお言葉の意味なのです。だから、繰り返しになりますが、主イエスは姦淫など大した罪ではない、とおっしゃったのではありません。姦淫は、人間を男と女としてお造りになり、夫婦が向かい合って共に生きることを祝福して下さった神のみ心に背き、人間どうしの信頼関係を破壊する重大な罪なのです。死をもって償わなければならない罪なのです。その償いを、神の独り子である主イエス・キリストが十字架にかかって苦しみと死とを受けることによって彼女に代ってして下さろうとしているのです。主イエスの十字架の死による罪の赦しによってこそ、彼女は新しく生きることができます。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」というお言葉によって主イエスは、主イエスの十字架による罪の赦しにあずかって生きる新しい人生へと彼女を派遣して下さったのです。

自分の罪を振り返ること  
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という主イエスのお言葉を、私たちは誤解しないようにしなければなりません。主イエスは、「自分自身が罪を犯したことのある者は人を裁く資格がない」とおっしゃったのではありません。もしそうであれば、人間は誰も人の罪を裁くべきではない、裁判などなされるべきでない、ということになります。社会における司法制度を否定することになるのです。しかし主イエスは、先ほども申しましたように、姦淫の罪を犯したこの女に石を投げなさい、とおっしゃったのです。つまり彼女の罪に対する裁きはなされなければならないのです。人間の集まりであるこの社会の秩序が維持されるためには、罪を犯した者が裁かれるという制度は必要です。そうでなければ無秩序な、弱肉強食の社会となるわけで、司法制度があるから弱い者が守られる、ということも言えるのです。主イエスはそのように人が人を裁くことを認めつつ、そこに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず」という言葉を付け加えられました。そのことによって主イエスは、あなたがたが人の罪を裁く時には、常に自分自身を振り返り、自分にも罪があるのだということを見つめなさい、と言っておられるのです。私たちは、自分は正しいと思い、正義感に駆られて罪ある人を断罪しがちです。そこで自分を振り返ることができなくなると、ひたすら人を残酷に攻撃してしまうことが起るのです。主イエスのお言葉はそんな私たちの目を覚まさせ、自分を振り返る冷静さを与えようとしているのです。自分にも罪があることを常に振り返りつつ人の罪に対処していくことができる冷静さこそ、年長者における人間としての成熟の印であることがここに教えられているのです。

主イエスの言葉の迫力  
 また私たちはこの出来事を、どのように答えても窮地に陥ってしまうピンチを、主イエスがその機知によってうまく乗り切った、というふうに捉えてしまってはなりません。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という主イエスのお言葉が人々の心に深く突き刺さり、沈黙をもたらし、そして年長者から一人また一人とそこを去っていったのは、その見事な論理に誰も反論できなかったからではありません。例えば私たちがこの場にいたとして、主イエスと同じことを言ったところでこれと同じことは起らないでしょう。この出来事が起ったのは、主イエスのお言葉に力があったからです。主イエスのお言葉には人々を沈黙させる迫力があったのです。それは、声が大きかったということでもなければ、威圧的に語ったということでもありません。主イエスのお言葉は、人々の様々な罪の重荷に苦しみ喘ぎつつ、それらを全て背負って十字架の死へと向かって歩んでいる神の独り子の言葉だったからこそ、力があり、迫力があったのです。この出来事は、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを与えて下さった神の独り子イエス・キリストによって行われた一つの奇跡、しるしなのです。

主イエスがこの世に来られたのは  
 元々なかったこの話がヨハネによる福音書のこの箇所に置かれるようになったのは、この後の15節の言葉との繋がりによることではないかと思われます。15節に「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」という主イエスのお言葉が語られています。律法学者やファリサイ派の人々はこの女性を、そして主イエスをも、「肉に従って裁」いているのです。つまり人間の正義感や、神の律法についての表面的な知識をふりかざして、神の本当のみ心を知ろうとすることなく、裁きを行っているのです。しかし神の独り子であられる主イエスは、父である神の本当のみ心を知っておられ、そのみ心を行うためにこの世に来られたのです。父なる神のみ心とは、この福音書の3章16節に語られていたことです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、これこそが父なる神のみ心です。この父なる神のみ心が、深い罪に陥っているこの女性に、そして同じような罪の中を生きている私たち一人ひとりにも実現するために、主イエスはこの世に来て下さり、十字架の死への道を歩んで下さったのです。  
 本日からアドベントに入ります。主イエス・キリストが私たちのまことの主としてこの世に来て下さったことを記念し、喜び祝うクリスマスに備えていく時です。この時私たちは、主イエス・キリストを私たちの人生のまことの主としてお迎えする備えをしていきたいのです。まことの主であられるイエス・キリストは、ただ一人私たちを罪に定め、裁くことができる方です。この方をお迎えすることによって私たちは、自分が罪ある者であることをはっきりと示されるのです。そして同時に、このまことの主ご自身が、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことをも示されるのです。この主イエスを信じて、まことの主としてお迎えする時、主イエスは私たちにも、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と語りかけて下さいます。罪を赦されて生きる新しい人生へと、私たちも、主イエスによって派遣されていくのです。

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