夕礼拝

そんな人は知らない

「そんな人は知らない」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 創世記 第4章8ー9節
・ 新約聖書; マルコによる福音書  第14章66ー72節
・ 讃美歌 ; 4、459

 
遠く離れて従うペトロ
主イエスの弟子であるペトロが主イエスのことを「そんな人は知らない」と否んだ箇所が朗読されました。このペトロの否認は、先週お読みした主イエスの裁判と並行して起こった出来事です。主イエスはご自身を殺そうと企む人々に逮捕されてすぐに、大祭司の屋敷に連れて行かれ、裁判をお受けになったのです。そこで、主イエスが死刑に当たることが確定されたのです。この裁判において、大祭司は、人々に主イエスについての不利な証言を求めましたが、得られませんでした。そこで、主イエス本人に「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ねたのです。その問いに対して主イエス、はっきりと「そうです」とお答えになったのです。ご自身を神の子と語ったことが神に対する冒涜であるとされ、死刑が決定されたのです。この裁判と時を同じくして、裁判が行われていた大祭司の屋敷の中庭で、弟子のペトロが主イエスを否んだのです。ここには、死刑にされることを恐れず、自ら神の子であることをはっきりと言い表す主イエスと、主イエスの弟子でありながら、自分が主イエスの仲間であることを知られるのを恐れ、そのことを否定するペトロが対称的に描かれているのです。 主イエスが逮捕された時、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。しかし、ペトロは他の弟子とは違いました。主イエスの下を完全に逃げ去ってしまったのではありません。14章の54節には次のように記されていました。「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた」。主イエスの後をこっそりとついて行ったのです。もちろん、大祭司の屋敷で行われている裁判の席にまで従って行って主イエスを弁護する証言など出来るはずもありません。ペトロは、今までそうしていたように、主イエスのすぐ後に従うのではなく、距離を置いて様子を見ようとしているのです。そして、主イエスの裁判の最中、裁判が行われている屋敷の中庭で、下役たちに混じって、何食わぬ顔をして、たき火に当たっていたのです。主イエスとは何も関係の無いようなそぶりで、他人を装いつつ、主イエスに近づけるぎりぎりの所に自らの身を置いたのです。時は夜でした。暗闇の中でなら、それ程目立たないと感じたのでしょう。自分自身のことを隠し通すことが出来ると思ったのです。中庭で、下役や女中たちが、たき火を囲んで暖を取っている。その中に紛れ込むのです。

他人の振りをしてたき火にあたる。
ここには、まるで、主イエスと自分が何の関係もないように振る舞い、偶然そこにいる通りすがりの者になりすまして、下役や女中たちの中に紛れ込む弟子の姿があります。これは、この裁判のほんの数時間前のペトロの姿とは全く異なっています。その時のことは、14章の27節以下に記されていました。主イエスは、ご自身が捕らえられる直前に、弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と予告なさったのです。その時ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったのです。それに対して、主イエスは、「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」とおっしゃいます。しかし、ペトロは、「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い張ったのです。ここには、自分こそ他の弟子たちの先頭に立って、主イエスに従って行くのだと言うペトロの意気込みが感じられます。力強く主イエスに従う決意を表したのです。しかし、主イエスが捕らわれた今、その態度は一転します。こっそりと人々に紛れて身を隠し、主イエスの様子を探るようにして主イエスの後について行くのです。何とだらしがないと思うかもしれません。しかし、このペトロの姿の中に、私たち自身が主イエスに従う時の姿勢を見出すことが出来ると思います。一方で、主イエスに力強く従う決意を表し、意気込んで主イエスのすぐ後に従うようにして歩き出すことがあります。しかし、もう一方で、自分が置かれている世の長谷場で、自らがキリスト者であること、公言することをひかえて、人々の中に紛れつつ、主イエスを遠くから眺めるというような姿勢で歩むということがあるのではないかと思います。このペトロの姿には、私たち人間の、主イエスに従う姿勢が表されているのです。そして、そのように歩むペトロは、この後、自ら力強く語った主張にもかかわらず、主イエスの予告通りに、そんな人は知らないと、主イエスを三度否むことになります。

ペトロの否認
ペトロは、座ってたき火にあたっています。この言葉は、光とも訳せる言葉です。闇の中で自分自身を隠せると思い込み、怪しまれないように人々に紛れるようにして何食わぬ顔でたき火に当たっていたペトロですが、ペトロの思い通りにはなりませんでした。自らを隠しつつ平静を装って、たき火の下にやって来たのですが、その光によって、ペトロは、人々に自らが主イエスの弟子であることを悟られてしまうのです。ペトロの下に「大祭司に仕える女中の一人」が来て、ペトロをじっと見つめて「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言ったのです。唐突に自らのことを指摘されたペトロは慌て出します。ペトロは打ち消して「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言ったのです。隠していたことに気づかれ、急に不安に襲われたのです。しどろもどろに答えた彼は、とっさにその場を離れ出口の方へ出て行くのです。慌てふためきながら、その場を離れたことが、この女中の疑う思いを更に強めます。女中は、さらに追求して、「この人は、あの人たちの仲間です」と言いだしたのです。あまりに慌てていたため、ペトロはガリラヤなまりを丸出しにしつつ否定していたのでしょう。その一部始終を聞いていた、居合わせた人々が「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と語ったのです。ガリラヤは、主イエスが活動されて来た地域です。おそらく、ガリラヤから主イエスと一緒に付いてきたに違いないと判断されたのです。もちろん、ガリラヤの者であるということが直接に、主イエスの弟子であることの理由にはなりません。しかし、不安に襲われて、その場から逃れようとしているペトロにとって出身地を指摘されたことは、まるで否定しようの無い決定的な証拠を突きつけられたように感じられたのです。ペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めたのです。そもそも女中は軽い気持ちで指摘したのだと思います。その時に、素直に私も主イエスと一緒にいたと答えれば、それですんだのかもしれません。しかし、自らを隠しつつ主イエスに従う歩みは、結局、主イエスを激しく否む言葉を語るという結果を生んでしまったのです。主イエスの後を人影に自らを潜めつつ、隠れるようにしてついて行く姿勢は、結局の所、主イエスを否むことに通じて行くのです。

そんな人は知らない
ペトロは呪いの言葉を口にしながら「そんな人は知らない」とまで語りました。これは、相手と自分との関係を絶つ言葉です。そして、関係を絶つということは、その人を見捨て、殺すことに等しいのです。本日お読みした旧約聖書には、アダムとエバから生まれた最初の兄弟カインとアベルの物語が記されています。兄のカインは、自分の捧げ物が神様に目を留められなかったことに怒り、弟アベルを殺害してしまうのです。ここには、最も近くにいるはずの兄弟をさえ愛することが出来ない人間の罪の姿が記されています。弟を殺した兄カインに対して、主なる神様は、9節にあるように、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」とおっしいます。それに対して、カインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えるのです。ここで、カインは、自分が殺してしまった弟のことを聞かれて「知りません」と答えます。隣人を殺し、愛の関係が絶たれてしまった人間の姿が「知りません」という言葉によって表されているのです。「知る」ということは、本当に愛するということを意味しています。そして、「知りません」という否定の言葉は、愛の関係が切断されている時に語られる言葉なのです。カインは事実、この言葉を語った時、実際に弟アベルを殺してしまっているのです。 この時、ペトロは、主イエスの殺害を企んでいた訳ではありません。しかし、主イエスについて「そんな人は知らない」と語ることによって、主イエスとの愛の関係を自ら絶ってしまっているのです。それは、カインがアベルを殺したのと同じように、心の中で主イエスを殺していることと変わらないのです。この時、屋敷の中では主イエスを殺そうと企む人々が、口々に主イエスを陥れるための偽証をしていました。主イエスを否むペトロは、この人々とどれほど違いがあるのでしょうか。人々のように積極的にではないにしても、確かに、主イエスを否むという消極的な形で、主イエスを死に引き渡しているのです。遠く離れて、主イエスに従っていたペトロの信仰の結末が、ここで明らかになります。

呪いの言葉さえ口にしながら
ペトロが、呪いの言葉さえ口にしながら誓ったと記されています。つまり、ここでペトロは、知っているのに、思わず「知りません」と語ってしまったという程度のことではないのです。誓うという言葉は、神様に対してなされるものです。もしその言葉が破られるのであれば、神に罰せられても良いということです。つまり、ここでペトロは、神様を持ち出して、神の子である主イエスを知らないと語ったのです。自分自身を守るために、神の名によって神の子を呪うことまでしてしまう。ここに人間の罪の深さが表れていると言って良いでしょう。ペトロが主イエスに対して呪いの言葉を語ったということから、主イエスの十字架の死が浮かび上がってきます。律法によって木にかけられた者は呪われていると言われているのです。十字架の死とは呪われた者が受けるべき死です。もちろん、十字架の死が呪いだという時に意味されているのは、それが神から見捨てられるということです。しかし、主イエスは、自分の愛する弟子からの呪いの言葉をも身に受けられたのです。主イエスの十字架は、主イエスが、ご自身が愛を注いだ人々からも、又、主なる神様からも徹底的に見捨てられて呪われた者となったということなのです。 しかし、ペトロはどうして、このような激しい否認をしたのでしょうか。ペトロ自身の中には、確かに、主イエスに最後まで従おうという意気込みはあったのです。「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い張ったペトロの言葉は嘘ではないのです。ペトロは彼なりに、最後までついて行こうとしていたのです。ここで言い張ったと言われていることに注目したいと思います。彼は自らの信仰の確かさを自分で主張しようとしていたのです。信仰生活を自らの足で立って歩もうとしていたと言っても良いでしょう。そのように自らの力で必死になってついて行こうとする信仰が、結局、主イエスを否むことにつながったのではないでしょうか。そのような信仰は、結局、根本的な所で自分のことしか考えておらず、本当に自分を捧げることが出来ていないからです。そこでなされる勇ましく見える信仰の確かさの表明は、自己主張でしかないのです。そのことが、主イエスの裁判の場面で、自らを守るために主イエスを呪うということに現れるのです。

主イエスの言葉を思い出す
しかし、大切なことは、このような自分の力で立ち、自分本位の信仰に生きつつ、主イエスと距離を置いて歩むペトロのことを、主イエスは裁いておられないということです。主イエスは、こうなることを既にご存知で、予告しておられたのです。ペトロが三度目に主イエスを否認した時に、二度目に鶏が鳴きました。主イエスの予告通りになったのです。その鳴き声を聞いた時、ペトロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われていたことを思い出して、「いきなり泣き出した」のです。この言葉は激しく泣く時に使われる言葉です。「どっと泣き崩れた」と訳す聖書もあります。さらに、ここでは未完了が使われています。ですから泣き崩れたまま泣き続けたのです。ペトロは、もはや、立っていること出来なかったのです。何故、ペトロは泣き崩れたのでしょうか。主イエスに従うことが出来なかった自分の弱さに愕然としたのでしょうか。主イエスを激しく否んでしまったことを後悔しているのでしょうか。もちろん、そのようなこともあったでしょう。しかし、ここで注意したいことは、ペトロが、主イエスが言われた言葉を思い出して泣いたということです。ペトロは、主イエスを否定してしまった自分自身の姿を省みて泣き崩れたのではないのです。自分自身が主イエスを否んでしまうことを、既に、主イエスが予告されていた。主イエスに向かって「そんな人は知らない」と言ってしまう、弱い自分を、主イエスが知っていて下さる。呪いの言葉を口にしながら、関係を絶ってしまう者を尚、愛していて下さることを示されたのです。主イエスの愛によって自らが覆われていることを知らされて、その畏れの中で泣き崩れたのです。 主イエスは、事実、ペトロが、中庭でご自身を否んだ時、そのすぐ上の部屋で、はっきりとご自身が神の子であることを告げて、十字架への道を歩まれるのです。事実、主イエスは、この中庭で、ペトロが強く否む間にも、そのようなペトロのために、ご自身の無実を主張することもなく、十字架に付けられる決定をお受けになっておられたのです。「そんな人は知らない」と語りつつ、主イエスとの関係を否定するペトロのために、十字架へと赴かれるのです。

十字架の主に委ねつつ
ここで泣き崩れたペトロは、ずっと泣いていたのではありません。この後、主イエスが十字架で死に復活され、再び、出会って下さった時、主の働きのために立ち上がったのです。ヨハネによる福音書には、復活の主がペトロに向かって三度「わたしを愛しているか」と尋ねられ、ペトロは三度「はい主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えます。そのようなペトロに対して「わたしの羊の世話をしなさい」とおっしゃったのです。ペトロは復活の主との出会いの中で、力強く、主イエスを証しし始めたのです。ここには、ペトロの中で起こった変化を見ることが出来ます。かつて「知らないなどとは決して申しません」と力を込めて言い張っていた時、ペトロは自分の足で立とうとしていました。しかし、その歩みは、主イエスを否むことにつながりました。主イエスを否んだ後、主イエスの言葉を思い出し、自分の足で立っているのではないことを知らされたのです。主イエスが自分のことを知っていて下さるという現実の前で、主イエスを否定してしまうような弱い自分のことが、主イエスに知られており、その上で、その罪が贖われていることを示されたのです。その恵の中で、泣き崩れていたペトロは、神様の御業のために立ち上がらされたのです。十字架の主が、すべてを支えになっていて下さることに信頼して、聖霊の力に委ねつつ歩んだのです。そのような歩みは結果として、死をも恐れずに大胆にキリストの愛を証しして行くものとなったのです。 ペトロのように、自分の足で立ち、自分の力で主イエスに従って行こうとする時、そこで表面的には「知らないなどとは決して申しません」と勇ましい言葉を口にします。しかし実際には、自分の業を誇り、本当に自らを捧げるということがなされていないために、自分の身を守るために、「そんな人は知らない」と語ってしまうのです。しかし、そのような者が主イエスによって知られ、贖われていることの恵の中で、真に、主の働きをなすものとされるのです。 もしかしたら、いつもペトロのように、自分の足で立とうとしているのかもしれません。しかし、そのような、私たちのために、主イエスの十字架があるのです。自分の信仰を主張して生きようとする者のために、十字架の主が苦しまれたのです。そのことを私たちに指し示すために、聖餐の食卓が備えられています。この食卓に与る時、自分の足で立とうとしている私たちの背後で、主が肉を裂かれ、血を流されたことを示されるのです。その愛が、私たちを包んでいることを示されて、主の御業に歩む者とされたいと思います。

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