主日礼拝

わたしの時、あなたがたの時

「わたしの時、あなたがたの時」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:レビ記 第23章39-43節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第7章1-13節
・ 讃美歌:16、196、386、79

第6章で示されたこと
 主日礼拝においてヨハネによる福音書を読み進めていまして、本日から第7章に入ります。これまで読んできた第6章は、その冒頭のところに語られていた、主イエスが男だけで五千人の人々を、五つのパンと二匹の魚で満腹にした、という奇跡をめぐっての話でした。主イエスが、パンを与えて命を養って下さる方だということから始まって、実は主イエスこそが天から降って来た生きたパンであり、主イエスといいうパンを食べる者には永遠の命が与えられる、ということが語られてきたのです。それは主イエスが父なる神から遣わされた独り子なる神である、ということを意味しています。永遠の命を与えることができるのは神だけなのです。この、主イエスが神であるということに、ユダヤ人たちは反発し、つまずきました。そして主イエスに従っていた人々の中からも、離れ去っていく人々が多く出た、ということが6章の後半に語られていました。そのような事態の中で、シモン・ペトロが「あなたこそ、永遠の命の言葉を持っている神の聖者、救い主です」という信仰を告白しました。主イエスをまことの神である救い主と信じて従っていく信仰者の群れが一方にあり、それを否定して離れ去っていく人々が他方にいることが明確に示されたのです。それは、この福音書が書かれた紀元1世紀の終り頃に、ユダヤ人たちの社会の中で教会が置かれていた状況だったのです。

仮庵祭
 本日からは第7章に入ります。第6章の舞台はガリラヤでしたが、7章と8章はエルサレムが舞台となります。ユダヤ人たちの大きな祭の一つである「仮庵祭」の時に、多くのユダヤ人たちがエルサレムに上りました。その祭の間にエルサレムの神殿の境内で主イエスが語られたこと、またファリサイ派の人々や群衆たちの間で交わされた対話あるいは論争が7、8章に語られているのです。つまり6章とは別の、新たな部分がここから始まるのです。
 7章2節に「ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」とあります。この「仮庵祭」について語られている旧約聖書の箇所が先程朗読されました。レビ記第23章です。39節以下に語られているのが仮庵祭のことですが、34節にもこうあります。「イスラエルの人々に告げなさい。第七の月の十五日から主のために七日間の仮庵祭が始まる」。第七の月の十五日から七日間行われるのが仮庵祭です。39節にはそれは「あなたたちが農作物を収穫するとき」であると語られています。つまり仮庵祭は秋の収穫の祭で、私たちの暦では9月から10月頃、つまり丁度今頃に行われるものです。秋の収穫を感謝する祭でもあるわけですが、しかしこの祭の中心的な意味はこのレビ記23章の42、43節に語られていることです。「あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である」。仮庵というのは、木の枝などで造った俄仕立ての仮小屋です。庭などにそういう小屋を建ててそこで七日間暮らすことによって「仮庵祭」が祝われるのです。それは、主なる神がイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放して下さり、約束の地に向かって荒れ野を歩んでいた時のことを思い起こすためです。その時民は、すぐに取り壊して持ち運ぶことができる天幕つまりテントに住んで旅をしていきました。仮庵はその天幕での生活の再現です。つまり仮庵祭は秋の収穫感謝の祭であると同時に、主なる神によるエジプトの奴隷状態からの救いを記念する祭でもあるのです。その仮庵祭が近づいていたのです。

兄弟たちの促し
 しかし本日の箇所の9節までは、まだその祭が始まる前のことで、その祭に主イエスがエルサレムに上って行くのかどうかについての話です。1節には、「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた」とあります。この時点で主イエスはまだガリラヤにおられるのです。それは「ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった」からだとあります。ユダヤ人たちがイエスを殺そうと狙うようになったことは5章18節に語られていました。それは主イエスが神を父と呼び、ご自身を神と等しい者とされたからでした。このことが先程申しましたように第6章においてさらにはっきりと示されたので、イエスを殺そうとするユダヤ人たちの思いはますます強まったのです。だから主イエスはユダヤには、ましてその中心であるエルサレムには上ろうとしなかったのです。しかし仮庵祭が近づいて来た時、イエスの兄弟たちがイエスに、エルサレムに行くようにと促しました。主イエスには兄弟がいました。主イエスは母マリアの最初の子でしたが、弟や妹がいたのです。その兄弟たちは主イエスに「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」と言ったのです。
 5節には、「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」とあります。これによって、この兄弟たちの勧めに込められた思いが分かってきます。彼らはイエスのためを思って、「こうした方がいいよ」と言っているのではありません。「こういうことをしているからには」という言葉に、彼らは主イエスが今しておられることを迷惑に思っていることが感じられます。主イエスは神を父と呼び、自らを神の子であると言っておられます。そしてそのしるしとしていろいろな奇跡を行っておられます。そのために多くの人々がイエスのもとに集まって来ている反面、イエスが神であることを認めない多くの人々の反発をかってもいるのです。「こういうことをしている」というのはそれらのこと全てを指しています。そういうことはガリラヤのような田舎でひそかにするのではなくて、ユダヤの中心であるエルサレムへ行って、そこで多くの人々の前で公にしなさい、と兄弟たちは言ったのです。それは、ガリラヤでだけ活動しているのでは井の中の蛙だ、もっと広い世界を見て、少し頭を冷やせ、という感じなのでしょう。

隠されている主イエスがはっきり示される
 しかし兄弟たちが言っていることは、ヨハネ福音書に語られている主イエスのこれまでの歩みと合っていません。ヨハネにおいて主イエスはガリラヤとエルサレムの間を行ったり来たりしておられます。エルサレムの神殿の境内で商売をしていた人々を追い出して「わたしの父の家を商売の家としてはならない」とおっしゃったことが既に第2章に語られていました。また第5章には、エルサレムのベトザタの池のほとりで三十八年間病気で苦しんでいた人を癒したことも語られていました。つまり主イエスは既に何度もエルサレムにおいて人々の前に姿を現し、み業を行っておられたのです。またガリラヤにおいても、決して「ひそかに」行動しておられたわけではありません。五千人の人々を前にして、彼らを満腹にするという奇跡を行われたのです。このように主イエスは人々の前で公に教えを語り、奇跡を行っておられます。だから兄弟たちの言葉は的外れなのですが、しかしここには、ヨハネ福音書が語ろうとしている大切なテーマを表す言葉が語られています。それは、「ひそかに」と「はっきり示す」という言葉です。「ひそかに」とは「隠されている」ということであり、その反対が「はっきり示す」です。兄弟たちは、主イエスの言葉や働きが、「隠されている」と言っており、それを「はっきり示す」ことを求めているのです。これは、ヨハネ福音書を貫いている一つの大事なテーマです。ヨハネ福音書は、隠されている主イエスが、はっきり示され、明らかになることを語っているのです。あるいは、そのことを目指して書かれているのです。これまでにも何度も指摘してきましたが、第20章31節に、この福音書が書かれた目的がこのように語られています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。イエスは神の子メシア即ち救い主であることを、読む人が信じるためにこの福音書は書かれたのです。それは、イエスは神の子メシアであることが隠されている、という事実があるからです。隠されているのでそのことを知らずに、信じることができないでいる人たちが大勢いるのです。その人々に、主イエスこそ神の子、救い主であることをはっきり示すためにこの福音書は書かれたのです。この福音書全体のことが「証し」と呼ばれているのもそのためです。隠されている主イエスのことを証しして、はっきり示そうとしているのがこの福音書です。第6章において、主イエスに従うことをやめて去って行った人たちが多くいたのも、主イエスは神の子であり救い主であることが隠されていたからです。その隠されている主イエスがはっきり示され、人々が主イエスを信じるようになることがヨハネ福音書の願いです。「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」という兄弟たちの言葉には、この福音書を書いた人の願いが反映していると言うことができるのです。

わたしの時、あなたがたの時
 この兄弟たちの促しに対して主イエスは、「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」とおっしゃいました。隠されているご自分を世にはっきりと示しなさいという促し対して主イエスは、「まだその時は来ていない」とおっしゃったのです。主イエスが神の子であり救い主であることがはっきりと示される「わたしの時」はまだ来ていないのです。「しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」、これはどういうことでしょうか。兄弟たちは、今こそ、エルサレムに上って人々に自分をはっきり示すのに相応しい時だ、と言ったのです。それは、仮庵祭が近づいていたからです。仮庵祭には、ユダヤやガリラヤから多くのユダヤ人たちがエルサレムに集まります。その人々の前で、しるしと業を行ってそれを人々に見せることによって、自分をはっきりと示したらいい、今こそその時だ、今がチャンスだ、と彼らは言ったのです。しかし主イエスは、「わたしの時はまだ来ていない」と思っておられます。つまりここには、主イエスが見つめておられる時と、人間が見つめている時との違いが示されているのです。その違いはどこから来るのでしょうか。それは、主イエスと私たち人間とでは、「世」との関係が違うからです。そのことが7節に語られています。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ」。世はあなたがたを憎むことはできない、つまり世とあなたがたは仲良しだ、しかし世はわたし、主イエスを憎んでいる、つまり世と主イエスは敵対関係にあるのです。それは、主イエスが、「世の行っている業は悪いと証ししているから」です。主イエスは世の罪を指摘しているので、世と仲が悪いのです。それに対して私たちは、世の罪の中にどっぷり浸かって生きています。私たち自身も、主イエスから「あなたがたの行っている業は悪い」と指摘されなければならない者なのです。そのように、この世との関係が違っているために、主イエスが見つめておられる時と、私たち人間が見つめている時とは違っているのです。私たちが、今こそ主イエスがご自分を世に示すべき時だ、今がチャンスだと思っても、主イエスにとってそれはご自分の時ではないのです。私たちは、いろいろな時に、今が良い時だ、チャンスだ、要するに「今でしょ!」と思うのです。しかし私たちが「今でしょ!」と思って、このチャンスを捉えようとする時、イエスの兄弟たちがそうだったように、「イエスを信じていない」ことが多いのです。つまり主イエスを信じて、主イエスに信頼し、依り頼んで何かをしようとしているのではなくて、人間の力を信じて、それに期待して、あるいは人間によってもたらされたチャンスを捉えようとしているのです。それは主イエスの時ではありません。主イエスが神の子である救い主であられることがはっきり示される主イエスの時は、そこにはまだ来ていないのです。

主イエスの時はいつ来るのか
 それでは、主イエスの時、隠されている主イエスの本当のお姿、主イエスこそ神の子であり救い主であられることがはっきりと示される時とは何時なのでしょうか。ヨハネによる福音書は、その時がいよいよ来たことを13章1節において語っています。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。過越祭は本日の箇所の仮庵祭と並ぶもう一つの大切な祭です。その過越祭の時に主イエスは十字架につけられて殺されるのです。その祭を前にして主イエスは、「御自分の時が来たことを悟」ったのです。それはこの世から父のもとへ移る時、つまり十字架にかかって死んで、復活して、天に昇られる時です。それこそが主イエスの時なのです。17章1節にも、そのことを語っている主イエスのお言葉があります。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください』」。ヨハネ福音書は、18章から主イエスの受難つまり十字架の死の話が始まります。17章はその直前に、十字架の死を意識しつつ主イエスが弟子たちのために、また弟子たちの信仰を受け継ぐ教会のためにとりなし祈って下さった祈りです。十字架の死を前にして主イエスは「時が来ました」とおっしゃったのです。それは、神の子である主イエスの栄光がはっきりと示される時です。それまでは隠されている主イエスの神としての栄光が、十字架の死と、そして復活において、はっきりと示され、明らかになるのです。

十字架と復活による主イエスの時
 ヨハネによる福音書は、今は隠されている、主イエスこそ神の子であり救い主であられることがはっきり示され、明らかになる時、つまり主イエスの時が来ることを語っています。しかしその主イエスの時は、人間が考えるチャンスとは違います。祭のために人々が沢山集まるから、そこで奇跡を行って主イエスの力を示せば主イエスこそ救い主だということが多くの人々に分かる、というようなことによって主イエスの時が満ちることはないのです。主イエスの時は、主イエスの十字架の死と、父なる神による復活においてこそ到来します。そこでこそ、主イエスが神の独り子であられ、まことの救い主であられることがはっきり示されるのです。主イエスは、世の罪を指摘したために世の人々から憎まれ、殺されました。しかしその主イエスの十字架の死は、人間の罪を全てご自分の身に引き受け、本当は私たちが受けなければならない死を主イエスが代って受けて下さった、救い主としての死だったのです。父なる神はこのことのために独り子主イエスをこの世に遣わして下さり、罪に支配されて生きている私たちに赦しを与えて下さったのです。そして父なる神はその主イエスを死者の中から復活させて下さいました。それによって私たちにも新しい命を与え、主イエスと共に復活して永遠の命を生きる者とされる約束を与えて下さったのです。主イエスの十字架の死と復活においてこそ、主イエスが神の独り子、救い主であることがはっきりと示されています。それこそが、主イエスの時なのです。本日の箇所で主イエスが「わたしの時はまだ来ていない」と言っておられるのは、十字架の時はまだ来ていない、ということです。なので、主イエスはこの時兄弟たちの促しを受けてもエルサレムに上ることはせず、9節にあるようにガリラヤに留まられたのです。

言行不一致?
 ところが10節以下には、その主イエスが後から、「人目を避け、隠れるようにして」エルサレムに上って行かれたことが語られています。兄弟たちには、「わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである」と言っておられたのに、結局上って行ったのです。これは、言ったこととしていることが違う、つまり言行不一致、一貫性のないあり方ではないか、とも感じられます。しかしこれまでに見てきた、9節までに語られているヨハネ福音書の捉え方からすればこれは決して一貫性のないことではありません。主イエスの時はまだ来ていないのです。主イエスこそ神の独り子、救い主であられることは、まだはっきり示されてはいないのです。つまり隠されているのです。兄弟たちはそのことをはっきり示すためにエルサレムに行くことを促しました。しかし今はまだ、たとえエルサレムに行ったとしても、主イエスのことは隠されているのです。10節に「人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」と語られていることはそのことを示しています。ここに、あの兄弟たちの言葉の中の、ヨハネ福音書の大切なテーマを表している二つの言葉があるのです。「ひそかに」と「はっきり示す」という言葉です。「人目を避け」は直訳すれば「はっきり示すことなく」であり、「隠れるようにして」は「ひそかに」です。つまり主イエスは仮庵祭に行ったけれども、その主イエスは隠されていた、ということをこの10節は語っているのです。11節に「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、『あの男はどこにいるのか』と言っていた」とあるのも、主イエスが隠されていたことを示していると言えるでしょう。主イエスの時がまだ来ていない間は、主イエスは隠されているのです。そういう意味では、これまで何度かエルサレムに上りそこで活動なさった時にも、またガリラヤで多くの人々の前でみ言葉を語り、み業をなさった時にも、主イエスは根本的にはまだ隠されていたのです。主イエスこそ神の独り子、救い主であることは、それらのみ言葉やみ業においてはまだはっきりと示されてはいなかったのです。それが示されるのは主イエスの時が来た時、つまり十字架の死と復活においてです。そこにおいて主イエスの時が来るまでは、主イエスによる救いは隠されているのです。

隠されている主イエスが示される時
 主イエスによる救いが隠されていたからこそ、ユダヤ人の中には主イエスを殺そうと思う者たちが出てきていたし、多くの人々が主イエスに従うのをやめて去って行ったのです。本日の箇所の12節にも、「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた」とあります。主イエスが救い主であることが隠されているからこそ、人々は主イエスについていろいろなことを語っていて、信じる人もれば去って行く人もいるのです。それが、紀元1世紀の終りに教会が直面していたことであり、21世紀を生きている私たちも同じ状況の中にあります。その中でヨハネ福音書は、主イエスの十字架と復活においてこそ主イエスの時が満ちている、そこにおいてこそ、主イエスが独り子なる神であり、まことの救い主であることがはっきりと示されている、と語っているのです。私たちも、十字架と復活を見つめることによってこそ、主イエスとは誰であるかを知り、信じることができます。その他のところを見つめている間は、主イエスによる救いは隠されているのです。
 これから聖餐にあずかります。聖餐において私たちは、私たちのために十字架にかかって肉を裂き、血を流して死んで下さった主イエスと一つとされます。十字架と復活の主イエスとの出会いと交わりが、聖餐において体験されるのです。み言葉に導かれてあずかる聖餐においてこそ、主イエスの時が満ちて、主イエスの本当のお姿が私たちに示されるのです。

関連記事

TOP