夕礼拝

アロンの祝福

「アロンの祝福」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:民数記 第6章22-27節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第4章1-6節  
・ 讃美歌:155、469

民の数にこだわる書?  
 私は2003年9月に当教会に赴任しましたが、それ以来、月に一度夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書を創世記の初めから読み進めて参りました。そして先月をもってレビ記を読み終えました。10年かけて、創世記、出エジプト記、レビ記を読んできたということになります。そして本日からは四番目の書物、民数記に入ります。聖書のそれぞれの書にはこのように「レビ記」とか「民数記」というタイトルがつけられていますが、聖書の原文にもともとそのような題がついていたわけではありません。これらのタイトルは、後の人が、この書は内容からしてこのように呼んだらよいだろう、と思ってつけた名称であって、それが慣例となって今に至っているのです。これから読んでいくのは「民数記」です。英語では「ナンバーズ」と言います。文字通り「数」という言葉で呼ばれているのです。どうしてそう呼ばれるようになったのか、それは、この書が、イスラエルの民の各部族の人数は何人だった、ということを語っており、その人数を調べる人口調査が行なわれたことを二度にわたって語っているからです。第1章に第一の人口調査のことが語られており、「兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての男子」の数が、十二の部族ごとに示されています。そういうところから、この書は「民数記」、民の数の記録、と呼ばれるようになったわけです。この第1章を読んでいて、私たちはたいていいやになってきます。さらに第2章には、各部族はどのような位置関係で宿営しなければならないか、また各部族の指導者は誰それである、ということがやはり延々と語られていて、またまたいやになります。そしてさらに3章4章に入ると、十二部族とは別の、祭司としての務めを担う部族であるレビ族のことが語られており、そこではご丁寧なことにそのレビ族の中のそれぞれの氏族ごとの人数と、その氏族が担うべき務めのことがずらずらと語られているのです。ここに至ってはもう忍耐も限界というものです。民数記は、その名の通り、民に人数のことばかりを語っている無味乾燥な、退屈な書だ、と思って読むのをやめてしまいそうになるのです。しかし、それで本当に読むのをやめてしまったとしたら、私たちはとてももったいないことをしているのです。民数記は決して、数字を並べて喜んでいる数字フェチの書ではありません。民の数を数えることは、後で申しますが、大きな意味を持っているのです。また民数記には、決して民の数のことだけが書かれているのではありません。エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、神様の約束の地に向かって荒れ野を旅していく、その旅路において起こった様々な事件のこともここに語られています。つまり、数を数えられた神の民がどのように歩んでいったかを語ることが民数記の主題なのです。ですから、最初の何章かの印象に捕われてしまうことなく、この書をじっくりと味わっていきたいと思います。

祝福を与えるために  
 さてこの民数記において最初にご一緒に読みたい箇所が、本日の第6章22節以下です。ここには、主なる神様がモーセを通して、アロンとその子ら、それはつまりレビ人である祭司たちということですが、彼らに、「イスラエルの人々を祝福して、次にように言いなさい」とお命じになったことが語られています。神様の祝福が、レビ人である祭司を通してイスラエルの人々に与えられるのです。無味乾燥とも思えるあの人口調査は、このことを目指して行なわれたのです。先ほど申しました、民の数を数えることの大きな意味とはこのことです。民の人数を数えることによって、その民は、主なる神様の前に数えられた民となり、そして神様からの祝福をいただくのです。一人一人は、神様に数えられることによって神様の民の一員とされ、神様の祝福にあずかる者となるのです。つまり民数記における人口調査は、私たちにおける国勢調査のように、国民の数を確認し、それによっていわゆる人口動態を調べ、国民の現在の状況を調べ、今後の予測を立て、政策の参考としていくための調査ではありません。あるいは、主イエスがお生まれになったあのクリスマスの時に、ローマ皇帝アウグストゥスが命じたあの人口調査とも全く違うものです。あれは、ローマが支配している地域の人々から税金を取り立て、ローマの支配を確かなものとするための人口調査です。しかし民数記における人口調査は、神様の祝福を民全体にもたらすための、神の恵みによる人口調査なのです。
 そしてここで大事なことは、その祝福が、神様によって直接与えられるのではなくて、レビ人である祭司たちに「イスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい」と命じられていることです。神様の祝福を告げる者として祭司が立てられているのです。3、4章で祭司の部族であるレビ族の人数が細かく数えられていたのも、この命令への備えです。つまり、神様の祝福にあずかる民の数が数えられ、その祝福を告げる祭司の数と務めが確認された上で、この祝福の命令が与えられているのです。ここには、イスラエルの民が、常に主なる神様の祝福を受け、祝福の内を歩むようにという神様のみ心があります。主なる神様によって数えられた民として、祝福を受けつつ荒れ野を旅していくイスラエルの歩みを語ること、それが民数記の主題なのです。

主の祝福とは  
 ところで、民族の歩みに神様の祝福を祈り求め、告げるために祭司が立てられるということは、どの民族においてもなされていることです。わが国においても、神道における祭というのはそのような、民族への、あるいはもっと狭くこの町、この村の人々への祝福を祈り求めるという性格を持っています。そして日本民族全体の平安と繁栄を祈り求める祭司としての務めの頂点に立つ、言わば大祭司が天皇である、とも言われます。新しい天皇が即位する時に行なわれるいわゆる大嘗祭は、天皇が神々に即位を報告し、国の平和と繁栄を祈願する儀式であると説明されます。つまり天皇は国民のための大祭司であって、祝福を祈り求め、告げる者だ、ということです。本日の箇所においてアロンとその子らに与えられた務めは、この天皇と同じようなものなのでしょうか。イスラエルの祭司たちは、天皇が大嘗祭を行なうのと同じような意味で、神様の祝福を祈り、民の繁栄と平和を祈願するのでしょうか。そうではありません。そこには根本的な違いがあります。日本に限らず、通常このように民族への祝福を祈るために立てられている祭司は、人々の願いに基づいて祝福を祈願します。例えば五穀豊穣、豊年満作という人間の願いの実現を神に祈り求めるのです。そして人々の意識としては、その願いが叶えられれば、「祝福が与えられた」ということになるのです。ところが本日の箇所において、アロンとその子らに命じられているのは、民の願いの実現を神様に祈り求めることではなくて、主なる神様が教えて下さった通りの言葉を民に告げることです。「あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい」という23節がそのことを示しています。祭司たちは、自分の好きな言葉で祝福を祈り求めることはできないのです。彼らが民に告げることができる祝福は、神様が民に与えようとしておられる、その祝福以外のものではないのです。そこに、聖書における祝福の特徴があります。つまり聖書において神様の祝福とは、神様が、そのみ心によって何かをして下さることなのであって、人間の夢や希望が叶う、ということではないのです。  
 聖書における祝福のそういう特徴が、24?26節の、祝福を告げるために与えられた言葉そのものにも現れています。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように」。礼拝の最後の「祝福派遣」において毎週告げられているこの言葉は、「主がこうして下さるように」ということの繰り返しです。つまり、ただ「これこれのことが実現しますように」という願いではなくて、主なる神様がこうして下さる、ということを語っているのです。しかも、「主がこうして下さるように」という願い求めの文として訳されていますが、原文を直訳すれば、「主があなたを祝福し、あなたを守られる」というように、願いではなくてむしろ宣言の文となっています。つまりこれらの言葉は、人間がこれが祝福であると考えることを神様に願い求めていくのではなくて、主なる神様が祝福として何を与えて下さるのかを告げているのです。

主の祝福の第一のポイント  
 主なる神様は何を与えて下さるのでしょうか。それが三つの文章として語られています。第一は「祝福し、守って下さる」ということです。ここでは祝福は守ることと結びつけられています。神様の祝福を受けるとは、その守りの内に置かれることです。神様はご自分の民をしっかりと数えて下さっている、というのが先ほど申しましたように民数記の中心的メッセージですが、神様は数えて下さった民を、一人もそこから失われることがないようにしっかりと守り、導いて下さるのです。これが神様の祝福の第一のポイントです。主イエス・キリストは、ルカによる福音書第12章6、7節でこのようにおっしゃいました。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。神様はこのように、私のことを決してお忘れになることはない、髪の毛一本までも、数えていて下さり、把握していて下さり、守って下さっている、それこそが、どのような豊かさや繁栄にも勝る祝福なのです。

主の祝福の第二のポイント  
 祝福の第二の文章は、「御顔を向けて照らし、恵みを与えて下さる」ということです。ここと、次の第三の文章に「御顔」という言葉が出てきます。神様の「顔」がこの祝福において重要な意味を持っているのです。「主の御顔」という言葉は実は旧約聖書にしばしば語られています。例えば、出エジプト記第33章14節に「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」という主のみ言葉がありますが、この「わたしが自ら」というところは直訳すれば「わたしの顔が」なのです。また申命記第4章37節には「主はあなたの先祖を愛されたがゆえに、その後の子孫を選び、御自ら大いなる力をもって、あなたをエジプトから導き出された」とありますが、その「御自ら」というのも、直訳すれば「御顔をもって」なのです。この二つの例から分かるように、「主の御顔」は、主がおん自ら人間と共にいてみ業を行なって下さることを語っているのです。遠くから力を及ぼす、というのではなくて、人間のごく近くに来られて、まさに顔と顔を合わせるようにして恵みのみ業を行なって下さる、ということが、「御顔を向けて」という言葉によって表現されているのです。  
 そして主が御顔を向けて下さる時、私たちは照らされ、恵みを与えられるのです。それが祝福の第二のポイントです。「照らされ、恵みを与えられる」、それは、暗い闇の中で道を見失っている者が、光に照らされて道を示され、歩き出すことができる、ということです。つまり主なる神様の祝福の第二のポイントは、私たちが暗闇の中から救い出されて光を与えられ、歩むべき道を示されることなのです。生まれつきの私たちは、罪の暗闇の中にいます。自分がどこにいるのかも分からず、どちらに向かって進めばよいのか、その道も分からずに、闇雲に動き回ってはあちらにぶつかり、こちらにぶつかりしているのが私たちではないでしょうか。神様が御顔をもって照らし、恵みを与えて下さることによってこそ、私たちは自分がどこにいるのかを知り、歩むべき道がどちらなのかを示されるのです。この神様の祝福、御顔をもって照らして下さるその御顔の光がどこに輝いているのか、それを語っているのが、先ほど共に読んだ新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙二第4章のはじめのところです。その6節をもう一度読みます。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」。主なる神様が御顔を向けて私たちを照らして下さる、その光は、神様の独り子主イエス・キリストの御顔に輝いているのです。御顔の光に照らされるというのは、この主イエス・キリストの御顔に輝く主の栄光を悟ることなのです。主イエス・キリストこそ、私たちを暗闇から救い出して光を与え、歩むべき道を示して下さる方です。主イエス・キリストの御顔の光に照らされることにこそ、主なる神様の祝福があるのです。

主の祝福の第三のポイント  
 祝福の第三の文章は、「主が御顔を向けて、平安を与えて下さる」ということです。第二の文章と同じように、主が顔と顔とを合わせるように私たちに近く臨み、語りかけて下さることによって、平安が与えられるのです。「平安」という日本語は「心の平安」という狭い意味になってしまいますが、これは原文では「シャーローム」という言葉です。それは「心の平安」という個人の内面の状態を超えた、とても広い意味を持った言葉であり、「平和」と訳すこともできます。つまりこの「平安」は個人の内面に留まるのでなく、社会性を持った、他者との関係において実現していく事柄でもあるのです。しかしこの「平和」を、他の人との間に争いや戦いがない、という消極的な意味で捉えてしまったら、それはまだ不十分です。「シャーローム」は、まさにこの箇所が示しているように、神様の祝福が満ち溢れている状態を言い表しているのです。主が御顔を向けて下さることによって、私たち一人一人の生活、心にも神様の恵みが満たされて平安が与えられ、また他の人との関係、交わりも、神様の恵みによって導かれ、良い関係、互いに愛し合い、生かし合っていく交わりが与えられていくのです。それが主の祝福の第三のポイントなのです。

三位一体の神の祝福  
 主なる神様はアロンとその子ら、つまり祭司たちに、イスラエルの人々にこのような祝福を告げることをお命じになったわけですが、この24?26節の祝福の言葉は「アロンの祝福」と呼ばれており、宗教改革者ルター以来、プロテスタント教会の礼拝において、礼拝を締めくくる祝福として用いられてきました。カルヴァンも、この祝福をもって礼拝を閉じています。この「アロンの祝福」は、プロテスタント教会において、礼拝の最後に、神様の祝福をいただいて、それによってそれぞれの生活へと遣わされていく、という役割を担ってきたのです。この祝福の言葉がそういう大きな役割を持つようになった一つの理由として、古来、この祝福を構成している三つの文章が、父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊という三位一体の神様の祝福を語っていると考えられてきた、ということがあります。それは単に三つの文章が三位一体の三と同じ、というだけのことではなくて、今見てきた、この祝福の三つのポイントがそれぞれ確かに、父、子、聖霊による祝福として捉えることができるのです。「祝福し、守って下さる」という第一のポイントは、天地の創り主であられる父なる神様が、私たちをも創り、命を与え、髪の毛までも一本残らず数えていて下さる、そのように守って下さっているということです。また「御顔を向けて照らし、恵みを与えて下さる」という第二のポイントは、先程申しましたようにまさに、独り子である神主イエス・キリストの御顔に輝く栄光に照らされ、罪の暗闇の中にいた私たちがその光によって道を示されていくということです。そして「御顔を向けて、平安を与えて下さる」という第三のポイントは、神様の祝福が満ち溢れている「シャーローム」を与えて下さることだと先程申しました。神様の祝福を私たち一人一人の生活において、また他の人との関係、交わりにおいて満たして下さるのは、聖霊のお働きです。聖霊こそ、今私たちに働いて下さり、主イエス・キリストによって実現した神様の救いの恵みにあずからせ、神の子とされて生きる私たちの信仰の歩みを整え、導いて下さる方です。主の祝福によって与えられる平安はまさに聖霊の働きなのです。このようにこのアロンの祝福は、その内容においても、父と子と聖霊の三位一体の神様によって与えられる祝福を告げていると言うことができるのです。

主の御名を負って生きる  
 最後に27節を読んでおきたいと思います。「彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう」とあります。主なる神様の御名をイスラエルの人々の上に置く、それこそがここで祭司たちに命じられていることなのです。神様の民として、主に数を数えられて生きること、私たちであればキリストの体である教会の一員とされて生きることは、自分たちの上に主なる神様の御名、そして主イエス・キリストの御名を置かれた者として生きることです。そこにこそ、神様の祝福があるのです。主なる神様は、ご自分の御名を、そして救い主イエス・キリストの御名を、私たちの上に置き、私たちを、この御名の下に生きる者として下さいました。私たちが洗礼を受けてクリスチャン、キリスト者となる、というのはそういうことです。クリスチャンという呼び方はもともとは、世間の人々がキリスト信者につけたあだ名です。「口を開けばキリスト、キリストと言っているおかしな連中」ということからこのあだ名がつけられたのです。しかしそれは私たちにとって大変意味のある、光栄な呼び方です。私たちは、キリストの御名の下に置かれた者であり、私たちの上には常に主イエス・キリストの御名が置かれているのです。そこにこそ、神様の大いなる祝福があります。クリスチャン、キリスト者として生きることこそ、神様の祝福を受けて生きることなのです。本日も、この祝福の宣言をいただいて、この礼拝から、新しい一週間の生活へと遣わされて行きたいと思います。

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