夕礼拝

わたしの愛する子

「わたしの愛する子」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第2編1-12節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第3章21-22節
・ 讃美歌:350、277

愛される子でありたい  
 「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。皆さんは「あなたはわたしの愛する子だよ」と言われたことがあるでしょうか。私たちは、親子であるかどうかに限らず、「愛される子」でありたい、「愛される者」でありたいと願うでしょう。この人は私のことを愛してくれている、そのような「人からの愛」を求めるのです。それはとても自然なことで、間違っているわけではありません。けれども人の愛、人の気持ちは揺れ動くものです。どれほど強い想いであっても、ときに裏切られることもあるでしょう。ですから「人からの愛」が私たちのすべてであるとしたら、私たちの人生はまことに不確かな、絶えず揺さぶられるものとなるのです。「あなたはわたしの愛する子」という天からの声は、私たちが人から「あなたのことを愛している」と言われるのとは異なります。そのことに本日の聖書箇所を通して目を向けていきたいのです。

ルカが語らないこと  
 マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書のどれもが主イエスが洗礼を受けたことを語っています。三つの福音書を比べてみると、ルカは主イエスの洗礼を一番簡潔に記しています。本日お読みした聖書箇所もたったの二節です。だからといってルカが主イエスの洗礼をほかの福音書より大切にしなかったということではありません。むしろこのたった二節にルカが語りたいことが凝縮されているのです。そのことを知るために、マタイとマルコでは語られ、ルカが語っていないことを見ておきたいと思います。なにを語っているかだけでなく、なにを語っていないかも大切なメッセージを伝えているからです。一つは、マタイとマルコが、主イエスがガリラヤからヨルダン川に来たことを記しているのに対して、ルカはそのことを記していません。このことについては後でお話しします。もう一つは、これは前回も申したことですが、ルカは主イエスがヨハネから洗礼を受けたことを語っていません。前回まで、ヨハネについて語られている3章1節から20節までを三回に分けて読んできました。最後の19、20節には、ヘロデがヨハネを牢に閉じ込めたことが語られています。ヨハネが逮捕されたのは、ヘロデが自分の兄弟の妻であるヘロディアと結婚したことについてヨハネがヘロデを責めたからです。それがヘロデの逆鱗に触れて、ヨハネは逮捕され牢に閉じ込められました。マタイとマルコもこの出来事について語っていますが、主イエスの洗礼よりも前にそのことを語っているのはルカだけです。ルカは福音書の冒頭でテオフィロに「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」と記していました。「順序正しく」書くことにこだわっていたルカが、ここでは出来事が起こった順序を逆にして、先にヨハネが投獄されたことを語り、次に主イエスの洗礼を語っているのです。「すべての事を初めから詳しく調べた」ルカですから、主イエスがヨハネから洗礼を受けたことを知っていたはずです。それにもかかわらず、ルカは21節で主イエスの洗礼を語るときヨハネの名前を記していないのです。ここにルカのはっきりした意図を見ることができます。20節でルカが記す救いの物語の舞台からヨハネは降りるのです。そして主イエスがその物語の舞台に本格的に登場します。そのことによってルカは、主イエスとヨハネがはっきりと区別されることを告げると同時に、ヨハネの働きをも明らかにするのです。ヨハネは主イエスに先立つ者であり、主イエスを指し示す者です。イザヤの預言の言葉を用いるならば、主イエスの道を整える者です。ヨハネは主イエスより先に現れなくてはならなかったし、主イエスの登場によってその働きを終えなくてはならなかったのです。ルカは20節でヨハネの死を語っていません。しかしマタイとマルコとは異なり、ヨハネが牢の中で首をはねられたという物語をルカはこの後も記していないのです。ただ9章9節でヘロデが「ヨハネなら、わたしが首をはねた」と語っているだけです。ルカによる福音書では、ヨハネの生涯の記述は20節で終えられていると言えるのです。

働きを終えるとき  
 ルカが語るヨハネの働きを見つめるとき、私たちもまた自分の働きについて考えさせられます。私たちは主イエスに先立つ者ではありません。その点で私たちとヨハネは異なります。しかし神さまから働きを与えられているという点で私たちとヨハネに違いはありません。神さまから働きを与えられ、ヨハネは「わたしよりも優れた方が来られる」と主イエス・キリストを指し示し、証ししました。私たちもまた神さまから働きを与えられ、主イエス・キリストは私たちの救い主であると証ししていくのです。そしてその働きにはヨハネと同じように終わりがあります。それは私たちが必ず迎える地上の死においてです。私たちはどうせ死んでしまいます。では、どうせ死んでしまうのだとしたら、私たちの働きなど虚しいものなのでしょうか。いえ、決してそうではありません。なぜなら私たちの働きが実り豊かに思えない時、多くが徒労に終わってしまったと感じる時、そのような時でも神さまはキリストを証しする者として私たちを用い続けてくださるのです。昨週、私たちの教会は創立145周年を記念する礼拝を守りましたが、キリスト教会の歴史に目を向けるならば2000年の歩みがあります。その歩みの中で、一人一人の働きは小さくても神さまが用いてくださり、キリストを証しすることを受け継いできたのです。ヨハネは逮捕され処刑されその働きを終えました。どのようにして私たちが地上の歩みを終えるかは分かりません。しかしそのときまで私たちは主イエス・キリストを証ししていくのです。

ルカが語る主イエスの洗礼  
 本日の聖書箇所でルカが語らなかったこと、それが示していることについて目を向けてきましたが、ルカが語っていることの中心には、主イエスの洗礼があるように思えます。このルカが描く主イエスの洗礼もマタイやマルコとはかなり異なります。先ほど申しましたが、ルカは主イエスがガリラヤからヨルダン川に来たことを記していません。それはルカが主イエスの地図上の移動に関心を持っていなかったのではなく、主イエスの動きにあえてスポットライトを当てていない、と言えます。主イエスの洗礼についてルカは21節で「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて」と語っています。この主イエスの洗礼の描き方はルカだけに見られるものです。マタイとマルコが主イエスの洗礼だけを語っているのに対して、ルカは、民衆が洗礼を受けることと、イエスが洗礼を受けることを同時に語っているのです。主イエスにスポットライトが当てられていないとは、そういうことです。つまり多くの群衆の中に主イエスが紛れ込んでいて、その人たちが洗礼を受けるのに混じって主イエスも洗礼を受けた、そのようにルカは描いているのです。ルカは、罪のない神の子である主イエスがなぜヨハネから洗礼を受けたのかについて、マタイが記すようなヨハネと主イエスのやり取りを記していません。ルカはただ主イエスが民衆と一緒に洗礼を受けたことだけを語っているのです。

私たちとまったく同じ者として  
 しかしこの主イエスが民衆と一緒に洗礼を受けたことは、私たちにとって大きな意味があります。主イエスは罪のない神の子です。その主イエスが、生まれてから八日目に割礼を受けたとルカは記しました。イスラエルの民にとって割礼は神との「契約のしるし」ですが、その契約には清められた者のみが入れると考えられていました。また、モーセの律法に定められた清めの期間が過ぎたので、主イエスの両親は彼を主に献げるためにエルサレム神殿に連れていったとも記しました。どちらも罪なき神の子である主イエスにとって必要なことではなかったでしょう。同じように洗礼を受ける必要のない主イエスが民衆に混じって洗礼を受けたとルカは語るのです。これらのことを通して告げられているのは、主イエスが民衆とまったく同じ歩みを歩まれたということです。主イエスは神の子であるにもかかわらず、罪と汚れに満ちた群衆とまったく同じ者として、つまり私たちとまったく同じ者としてこの世に来てくださったのです。このことをパウロは「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(二コリント5・21)と言っています。だから主イエスは民衆と一緒に洗礼を受けたのです。パウロはまた「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・6、7)とも言っています。主イエスが民衆と一緒に洗礼を受けたことは、主イエスが私たちとまったく同じ者となってくださった恵みを告げているのです。もし主イエスが私たちとまったく同じ者としてこの世へ来てくださったのでなければ、十字架による死からの復活は私たちの初穂とはならなかったからです。罪がないことを除いて、主イエスが私たちとまったく同じ者となってくださったからこそ、私たちは主イエスに結ばれることで復活の希望に与ることができるのです。

ルカの視線  
 本日の聖書箇所でルカが語っているその中心には、主イエスの洗礼があるように思える、と申しました。しかしルカはここで主イエスの洗礼だけを見つめているのではありません。むしろルカの視線は、主イエスの洗礼よりも天が開け聖霊が降り、天から声が聞こえたことに向けられているのです。原文では「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」が22節の最後にあり、そのほかは一つの文章としてその前に記されています。その文において「イエスも洗礼を受けて」という文は文法的には従属節であり状況を説明しています。主節は、つまり中心となる文は、天が開け聖霊が降り、天から声が聞こえたことなのです。

祈りの中で聖霊が降る  
 そのことは、主イエスが洗礼を受け祈っておられたときに起こりました。洗礼を受けるのは一回きりの出来事です。それに対して「祈っておられる」と訳されている言葉は、「祈り続けている」とも訳せます。つまり洗礼を受けた主イエスが祈り続けているときに起こったのです。この場面で、主イエスが祈っていることを語っているのはルカだけです。ルカは、主イエスが祈っている姿を福音書の中で繰り返し語っています。特に主イエスの生涯における節目で、大切な場面で、主イエスが祈っていることが語られているのです。たとえば、主イエスが十二人の弟子たちを選ぶとき、「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(6・12)と、夜通し祈る主イエスを描いています。また主イエスは弟子たちに「群衆は、わたしのことを何者だと言っているのか」と尋ねる前に、「ひとりで祈っておられた」(9・18)と語られています。さらに山の上で主イエスの姿が変わったときも「祈っておられる」(9・28)ときだったのです。そしてなにより十字架の上で主イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23・34)と祈りました。  
 このようにルカは、福音書で主イエスが祈っている姿を繰り返し告げました。さらにこの福音書の続きである使徒言行録でも、祈りの中で聖霊が降ることを語っています。ペンテコステの日に聖霊が降ったのは、「一つになって集まって」(2・1)「心を合わせて熱心に祈っていた」(1・14)ときです。またペトロとヨハネがサマリアに行ったとき「聖霊を受けるようにその人々のために祈った」(8・15)とあります。本日の聖書箇所においても、まさに主イエスが祈り続けているときに、天が開け聖霊がイエスの上に降り、そして天から声が聞こえたのです。  
 主イエスの祈りは神さまに聴かれました。天が開けるとは、神さまがそこにいてくださることを意味します。そしてまさに聖霊なる神さまが「鳩のように目に見える姿でイエスの上に」降ったのです。「鳩のように目に見える姿で」とありますが、聖霊が鳩になったわけではありません。ペンテコステに教会学校の分級で鳩を工作で作ることがあります。この鳩は、聖霊ではなくて聖霊のシンボルです。「鳩のように目に見える姿で」降ってきたと思えるような、目に見える現実として聖霊がイエスに降ったのです。とはいえ聖霊がイエスに注がれたこのときに、初めてイエスが神の子となったわけではありません。主イエスの誕生物語で見てきたように、主イエスは聖霊の注ぎによってマリアから生まれました。ですから主イエスは初めから聖霊の注ぎによって神の子であったのです。しかしここで主イエスに聖霊が降ったことが語られているのは、その公の生涯の初めに主イエスが聖霊に満ち溢れていたことを告げるためです。3章の後4章の初めには、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」とありますし、14節には「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」とあります。祈りの中でイエスに聖霊が降り、聖霊に満たされて主イエスは公の生涯へと歩み始めようとしているのです。

わたしの愛する子  
 主イエスの祈りに応えて神さまは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天から語りかけられました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」は、直訳すると「あなたは私の子 愛する子 私はあなたを喜ぶ」となります。このみ言葉は旧約聖書からの引用です。「あなたは私の子」は、本日お読みした旧約聖書詩編2編7節の「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ』」から引用されています。詩編2編は「王の詩編」と呼ばれます。王が即位するときに唱われた、あるいは祈られたのではないかと考えられているからです。しかしこの2編で言われている王とは、地上の王や支配者のことではありません。むしろそれら地上の王や支配者が主なる神さまに逆らう中で、主はご自分が「油注がれた方」を聖なる山シオンで王として即位させたことを告げているのです。この王こそ、この「油注がれた方」こそ、神さまが「あなたはわたしの子」と呼ばれた主イエス・キリストを指し示しているのです。その一方で、9節の「お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く」に目を向けると、主イエスはそのような王だろうか、と疑問に思います。確かに2編から引用され「あなたはわたしの子」と語られることで、主イエスは神の子であり、神によって立てられた王であることが告げられています。しかし主イエスの祈りへの神さまからの応答はそれで終わりません。神さまは続けて「わたしの心に適う者」と言われるのです。

私はあなたを喜ぶ  
 「わたしの心に適う者」は、直訳すれば「私はあなたを喜ぶ」となると申しました。このみ言葉にも旧約聖書のみ言葉の反響が見られます。それはイザヤ書42章1節の「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す」というみ言葉です。反響とはこだまのことです。旧約のみ言葉のこだまが新約のみ言葉に見られるのです。「見よ、わたしの僕」とあるようにイザヤ書42章1-4節は「僕の歌」と呼ばれます。その僕は「わたしが選び、喜び迎える者」であると言われているのです。この「喜び迎える者」というみ言葉の反響が「私はあなたを喜ぶ」に見られるのです。さらに42章1節はこの僕の上に神さまの霊が置かれること、つまり聖霊が注がれることをも告げています。詩編2編で主イエス・キリストが指し示されていたように、イザヤ書の「僕の歌」もまた主イエス・キリストを指し示しています。2節に「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」とあり、神さまの僕として従順に歩まれた主イエスが想い起こされます。つまり「私はあなたを喜ぶ」とは、神さまがご自身の僕として歩まれる主イエスを喜ぶことにほかなりません。「わたしの心に適う者」とはこのことを意味しているのです。

僕として仕える王  
 このことから、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまからの応答がなにを告げているかが分かります。それは、主イエス・キリストは神さまが立てた王であると同時に、神さまの僕として仕える方だということです。今、主イエスの公の生涯が始まろうとしています。この大切な節目で主イエスは祈られました。その祈りに応えて神さまは「あなたは愛する子」だと言われます。この神さまの愛する子、神さまの独り子は、僕として仕える王なのです。力によって支配し周りの人々に仕えられる王ではなく、力を捨てて周りの人々に仕える王なのです。私たちに仕えてくださった王なのです。先ほどのパウロの言葉「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・6、7)はこのことにほかなりません。

「愛する子」と呼ばれる者たちの群れ  
 本来「あなたはわたしの子」と呼ばれるのは神さまの独り子である主イエス・キリストだけです。罪に満ちた私たちは神さまの子と呼ばれるのにまったくふさわしくありません。けれどもその私たちの罪の赦しのために、主イエスは私たちと同じ者となってくださり、僕として歩まれ、十字架に架けられ、その十字架の上においても私たちの赦しのために執り成し祈ってくださり、そして死んで復活されたのです。私たちは、この主イエス・キリストと結ばれることによって神の子とされています。神さまは私たち一人ひとりに「あなたはわたしの子」「あなたはわたしの愛する子」「私はあなたを喜ぶ」と語りかけてくださっています。神さまの子として愛されていること。これほど確かな愛はありません。これほど私たちに慰めを与え、安心を与える愛はありません。神さまは、すでに救われた者として歩みつつも、いまだ繰り返し罪を犯す弱さを抱えて生きている私たちに向かって「私はあなたを喜ぶ」と言ってくださいます。私たちがなにか良いことを行ったから、神さまは「私はあなたを喜ぶ」と言われるのではありません。私たちは良いことを行おうと志すときですら悪いことを行ってしまう、そのようなひとりひとりです。それにもかかわらず、主イエス・キリストによって、ただ神さまの一方的な恵みによって救われ、神の子とされた私たち一人ひとりのことを神さまは喜んでいてくださるのです。信頼できる思想や価値観や人物が見つけられず霧の中を手探りで歩くような世界にあっても、神さまの愛と喜びの確かさの中で、私たちは神さまに信頼して生きていくことができます。人と人との間に疑いが渦巻き、不安に押しつぶされそうな毎日の中で、私たちは安心して神さまに寄りすがることができるのです。「愛する子」と呼ばれ、「私はあなたを喜ぶ」と言われた私たちは、愛する者へと変えられていきます。主イエスが私たちと同じ者となり私たちに仕えてくださったように、私たちも隣人に仕えていくのです。そこに、神さまから「愛する子」と呼ばれる者たちの群れがあるのです。教会は、揺れ動く人間の愛ではなく、揺らぐことのない神さまの愛によって「愛する子」と呼ばれる者たちの群れとして造り上げられていくのです。

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