主日礼拝

荒れ野の誘惑

「荒れ野の誘惑」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第8章2-10節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第4章1-11節
・ 讃美歌:

主イエスの活動開始の準備が整った
 マタイによる福音書において、主イエスが人々に宣べ伝え始め、救い主としての活動を開始されたことは4章12節以下に語られています。本日の箇所は、その直前のところです。主イエスの救い主としての活動の準備が、ここで完了したのです。その最後の準備は、荒れ野で悪魔から誘惑を受けることでした。ここには、主イエスが悪魔の誘惑を全て退けたことが語られています。最後の11節に「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた」とあります。悪魔を撃退した主イエスのもとに、天使たちが来て仕えた。それは、主イエスの救い主としての活動開始のための準備が整ったことを意味しているのだと思います。

悪魔=誘惑する者
 悪魔の誘惑に打ち勝つことによって、主イエスの救い主としての活動開始の準備が整った。それはどういうことなのでしょうか。「誘惑を受ける」という言葉のもともとの意味は、試す、テストする、ということです。テストされ、合格かどうかを試されるのです。主イエスはそのテストに見事に合格なさったのです。しかし「誘惑する」という日本語には、テストするというだけでなく、進むべき正しい道から逸らせて間違った道へと誘う、というイメージがあります。主イエスはそういう誘惑を退けて、正しい道から逸れることなく歩み続けたのです。主イエスを誘惑したのは悪魔です。悪魔のことが3節では「誘惑する者」と言い替えられています。悪魔の本質は「誘惑する者」です。つまり悪魔は、オカルト映画に出てくるようなものではなくて、私たちを、進むべき正しい道から逸らせ、間違った道へと迷い込ませようとする者なのです。悪魔はここで主イエスを、どういう道から逸らせ、どういう道へと迷い込ませようとしたのでしょうか。

神の子なら
 悪魔は三つの誘惑を仕掛けた、とここに語られています。第一は、四十日間、昼も夜も断食して空腹を覚えていた主イエスに、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言ったことです。第二は、主イエスを神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、ここから飛び降りてみろ。天使たちが守ってくれるはずだ」と言ったことです。第三は、主イエスにこの世の国々とその繁栄ぶりを見せ、「ひれ伏してわたし(つまり悪魔)を拝むなら、これをみんなあなたに与えよう」と言ったということです。悪魔はこの三つの誘惑によって、主イエスを救い主としての正しい道から逸らせようとしたのです。これらの三つの誘惑は、私たちが日々の生活の中で受ける誘惑とは全く違います。どんなにおなかがすいていても、「石をパンにしてみろ」というのは私たちにとって誘惑にはなりません。そんなことは私たちには出来ないからです。神殿の屋根から飛び降りることも同じです。出来ないことをしてみろと言われても誘惑にはならない。これらが誘惑であるのは、主イエスにはそれらができるからです。主イエスは、石をパンに変えることもできるし、神殿の屋根から飛び降りても、天使たちがちゃんと支えてくれるのです。それは、主イエスが神の子だからです。悪魔はそのことを知っています。最初の二つの誘惑が、「神の子なら、こんなことができるはずだ」となっているのがその証拠です。そしてこのことは、先週読んだ3章13節以下の、主イエスが洗礼をお受けになった話とつながっています。3章16、17節に、洗礼を受けた主イエスに神の霊が降り、天から「これはわたしの子、わたしの心に適う者」という声が響いたとあります。主イエスが神の子であられることが、父なる神ご自身によって宣言されたのです。主イエスはこの宣言を受けて、神の子である救い主として活動を始めようとしておられるのです。そこに悪魔が現れました。悪魔は、神のこの宣言を受けた主イエスに、「もしおまえが本当に神の子なら、こういうことができるはずではないか」と言ってきたのです。つまり第一の「石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑は、石をパンに変えて腹を満たせばいいではないか、という誘惑ではありません。悪魔は、石をパンに変えて食べることによって、「これはわたしの愛する子」という神の宣言を確かめてみろ、と言っているのです。石をパンに変えれば、自分は本当に神の子なのだ、神の子としての権威と力とが自分には与えられているのだ、ということを確認することができるのです。神殿の屋根から飛び降りるこも同じです。天使たちに支えられて無事に地上に降り立つことができれば、それによって、「これはわたしの愛する子」という宣言を確認することができるのです。救い主としての活動を開始しようとしているこの時、このことを確認したいという思いは主イエスの中にも強くあったのではないでしょうか。石をパンに変えろとか、神殿の屋根から飛び降りろというのは、私たちにとってはもともとあり得ない馬鹿げたことですが、主イエスにとっては、非常に切実な、まさに誘惑だったのです。そしてそこに悪魔の魂胆がありました。悪魔は主イエスに、神のあの宣言を、つまり主イエスが神の子であることを、確かめさせようとしたのです。それが悪魔の誘惑でした。その誘惑を主イエスは退けたのです。

主を試してはならない
 第二の誘惑に対する答えがそのことをはっきりと示しています。7節です。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」。「主なる神を試してはならない」という聖書の言葉によって主イエスは誘惑を退けたのです。確かめるとは、試すことです。試してみて、本当かどうかを確かめるのです。石にパンになれと命じてみて、そうなれば、「これはわたしの愛する子」という言葉は本当だと確かめることができる。神殿の屋根から飛び降りてみて、無事に降り立つことができれば、確かに自分は神の子だと確かめることができる。悪魔はそのように主イエスに神の言葉を確かめさせ、神を試させようとしているのです。それによって主イエスを、救い主としての正しい道から逸れさせることができるからです。救い主としての正しい道とは、「これはわたしの愛する子」という神の言葉を信じて、それを確かめることをせずに、父なる神に信頼して歩むことです。悪魔は主イエスをそういう歩みから逸らせようとしているのです。さらに、神の恵みを試すというのは、神のなさることが、自分の思い願っている恵みと合っているかどうかを確かめることです。自分が恵みと思うことがなされるなら、確かに神は自分を子として愛していてくれると確認できるのです。しかしもし主イエスがそのように、神の恵みを、神が父であられることを、自分の思いが叶えられるかどうかによって確かめながら歩んだとしたら、主イエスの十字架の死はなかったでしょう。石をパンにして空腹を満たしたり、神殿の屋根から飛び降りても無事であることによって自分が神の子であることを確かめようとしている者が、十字架にかかって死ぬことはあり得ないのです。なぜなら、十字架の苦しみと死は、神の恵みを確かめようがない、神に見捨てられてしまったとしか思えない出来事だからです。つまり主イエスが、十字架の死に至る道を歩み通して、私たちの救い主となって下さったのは、神を試すことをせずに、自分の思いや願いによって神の恵みを確かめることをせずに歩んだことによってなのです。主イエスは、「これは私の愛する子」という神のみ言葉を信じて、その神がお示しになる道を、十字架の死に至るまで歩み通されたのです。フィリピの信徒への手紙の第2章8節に、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と語られているのはそういうことです。それこそが、父なる神が主イエスに求めておられた、救い主としての歩みでした。悪魔はその歩みから主イエスを逸らせようとしたのです。つまりこの誘惑は、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いのご計画を根底から覆そうとしている悪魔の策略だったのです。

神の恵みを確かめることへの誘惑
 このように荒れ野の誘惑は、主イエスを、神の子である救い主としての歩みから逸らせようとするものでした。しかしそこには同時に、私たちの信仰のあり方にも深く関わる重大なことが示されているのです。私たちは、神は恵み深い方であり、私たちを愛して下さっていると教えられ、その神を信じて生きています。しかしその歩みにおいて、神の恵みをいちいち確かめながら、つまり神を試しながら歩んでいるのではないでしょうか。神の恵みを確かめるとは、先ほども申しましたように、自分の思い願っている恵みと合うかどうかによってそれを判断する、ということです。教会の礼拝を守り、聖書を読み、祈りながら、という信仰の歩みにおいて、自分が願っている恵みが与えられるかどうかをいつも確かめようとしているのではないでしょうか。だから、願っていたのとは違う苦しみや悲しみが起ってくると、信じているのに、祈っているのにどうして、と思う。そして「信じても無駄だった」と思って、信じることをやめてしまったりするのです。神の恵みを確かめつつ歩もうとすると、そういうことが起こります。そこにまさに悪魔の誘惑があります。悪魔は私たちにも、神を試し、恵みを確かめさせて、神を信じる歩みから逸らせようとしているのです。私たちの救い主イエス・キリストは、その誘惑を退けました。「私は神を試してその恵みを確かめるような歩みはしない」と断言されたのです。その主イエスによる救いにあずかって生きる私たちの信仰の歩みも、神を試し、その恵みをいつも確かめながら生きるようなものではあり得ません。悪魔の誘惑に打ち勝たれた主イエスを信じて生きる私たちには、神の恵みを確かめつつ歩むのとは違う新しい生き方が与えられているのです。このことについては、次回もう一度この箇所について説教をする時、それは1月1日になりますが、その時に語りたいと思います。

パンを求めている私たち
 このように、主イエスがここで受けた誘惑は、私たちの救いとは何か、ということと密接に関係しているのです。その観点から、第一の誘惑について改めて考えてみたいと思います。「石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑です。先程申しましたように、これは根本的には、主イエスに、ご自分が神の子であることを確かめさせよう、というものでした。しかしこの誘惑はさらに、人々がどのような救いを求めているか、ということと関係しています。石をパンにするのは、主イエスが空腹を満たすためと言うよりも、人々はそういう救いを求めているのだ、だから神の子としての力を用いて、その求めに応えて、彼らの空腹を満たしてやったらいいではないか、そうすれば彼らは神の恵みを具体的に体験して、おまえが救い主であるとを信じ、おまえに従うだろう、悪魔はそう言っているのです。この悪魔の言葉は、人間の本質を鋭くえぐり出しています。私たちが神に、主イエスに求めている救いとは結局はパンなのだ、と悪魔は言っているのです。そのパンは、この世の人生を支え、そこに喜びと楽しみを与えるものの全てを代表しています。つまりパンは、食べ物だけでなく、健康、お金、仕事、名誉、孤独からの解放、人の役に立っているという満足感、つまりは生きがいだったりするのです。そういうものを人間は求めている。その願いをかなえてやるのが、救い主として人々に受け入れられるいちばんの近道だと悪魔は言っているのです。この悪魔の人間理解に対して、私たちは、「馬鹿にするな、俺たちはそんなんじゃない」と胸をはって言うことができるでしょうか。私たちは確かに、いつもそういうものを求めている。それらが与えられれば神は恵み深いと感謝し、与えられなかったり、逆に奪われたりすると、神の恵みなんてどこにあるのか、とつまずいているのではないでしょうか。悪魔はそういう私たちのことをよく知っているのです。だから、「彼らには石をパンにして与えてやるのが一番だよ」と言っているのです。

神の口から出る一つ一つの言葉で生きる
 ここから、私たちが考えなければならないことは何でしょうか。悪魔にこんなことを言わせてはならない、「あいつらはパンさえ与えてやればついて来る」なんて悪魔に言われるようであってはならない、ということでしょうか。パンとは要するにこの世の生活における幸いです。家内安全商売繁盛といったようなことです。そんなことばかりを求めていてはならない、この世におけるご利益よりももっと大切なものを見つめ、求めていかなければならない、ということが教えられているのでしょうか。そうではありません。私たちに求められているのは、この悪魔の誘惑に対して、主イエス・キリストがお語りになったことをしっかりと聞くことです。主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と言って、この誘惑を退けられたのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第8章3節の引用です。ここには、エジプトを出たイスラエルの民の四十年間の荒れ野の旅がふりかえられています。主なる神はその旅の間、彼らを、天からのパン、マナによって養い、支えて下さったのです。4節には「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」とあります。また7節以下には、神がこれから与えて下さる約束の地は、良い土地であり、そこであなたがたは不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることがない、とも言われています。つまり神はご自分の民に、これまでも、これからも、必要なパンを与え、養って下さるのだ、と語られているのです。そのように基本的に主に支えられている歩みの中で、しかし「主があなたを苦しめ、飢えさせる」こともある、と3節に語られています。その苦しみ、飢えの中で、主は天からのパンであるマナを与えて下さいました。それは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」、これが引用されている言葉です。つまりこの言葉は、パンなどを求めてはならない、この世の利益を追及してはならない、そんな物質的な、外面的なものではなくて、神の言葉をこそ求めなさい、と言っているのではありません。そうではなくて主イエスは、「主なる神はあなたがたにパンを与え、生きるのに必要なものを備えて下さる。しかし神の恵みはそれに尽きるのではない。神はむしろもっと大きな恵みを与えて下さるのだ。それは神の口から出る一つ一つの言葉だ。私は、あなたがたが、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる者となる、という救いを実現するためにこの世に来た。だから私は、石をパンに変えて人々に与えることはしない。それはかえって、父である神が私を通して実現しようとしておられる救いを見失わせてしまうことになる。」と言っておられるのです。つまり主イエスはここで、パンを与える救い主としての道ではなくて、私たちを、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる者とする、という救いを実現する者としての道を選び取られたのです。このことをしっかり見つめなければなりません。パンを求めること、この世の生活が守られ、支えられることを願い求めることは決して間違ってはいないし、神は確かにそういう恵みをも与えて下さるのです。またその恵みを一部の者たちが独占してしまうのでなく、世界の人々皆がそれにあずかれるようにしていくことは私たち人間の大切な責任です。しかし神は、パンよりもさらに大きな恵みを与えて下さっているのです。それは、神の口から出る一つ一つのみ言葉によって生かされる恵みです。その恵みを与えるために、神はその独り子主イエスをこの世に遣わして下さったのです。迎えようとしているクリスマスに私たちが喜び祝うのはそのことです。この神の恵みから私たちの目を逸らさせ、パンのことばかりを見つめさせ、求めさせようとしているのが悪魔の誘惑なのです。第一の誘惑を退けたことによって主イエスが私たちに示して下さっているのは、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことにこそ本当の幸いがある、ということであり、主イエスは私たちにその幸いを与えて下さるためにこの世に来られたのだ、ということなのです。

日々神の語りかけを聞きつつ
 「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。それは、神が私たちに語りかけて下さり、私たちがそれを聞いて、そのみ言葉に応えていく、という神との交わりに生きることです。しかも「一つ一つの言葉で」とあるのは、一度み言葉を聞いたらもうそれで十分、というのではなくて、日々新たにみ言葉を聞き、それに応えていくということです。「一つ一つの言葉で」を、神がお与えになった一つ一つの掟を細かく守ることによって、と捉えてはなりません。信仰をもって生きることは、細かい規則や戒律に縛られたり、ノルマを課されて生きることではないのです。神は私たちを掟で縛ろうとしておられるのではなくて、私たちの日々の具体的な歩みの中で、主イエス・キリストによって語りかけ、私たちと共に歩もうとして下さっているのです。その語りかけのみ言葉の一つ一つを、日々聞いて、それに応えて祈りつつ、主イエス・キリストとの交わりに生きることが私たちの信仰です。主イエスとの交わりに生きている者は、神の愛を自分の思いや願いに照らして確かめ、神を試すようなことからは解放されます。つまり神を信頼して生きることができるようになるのです。主イエスが悪魔の誘惑を退け、神を試すことなく、父なる神を信頼して、十字架の死に至る救い主としての道を歩んで下さったことによって、私たちにも、神の愛を試すことなく信頼して、神の口から出る一つ一つの言葉によって、日々、主イエス・キリストの父である神との交わりに生きていく道が開かれているのです。

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