「神の子イエス」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第103編1-22節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第22章63-71節
・ 讃美歌:271、152、463
礼拝においてルカによる福音書を読み進めています。クリスマスの前に、22章62節まで来ていました。主イエスが逮捕され、大祭司の家へと連行されたこと、その後をそっとついて行って大祭司の家の中庭に入り込んだ弟子のペトロが、周囲の人々から「あなたもあのイエスの仲間だろう」と言われて、三度、主イエスを「知らない」と言ってしまったことまでを読んできたのです。本日の箇所、22章の終りの63節以下には、捕えられた主イエスが見張りをしている者たちによって侮辱を受けたこと、そして夜が明けて、ユダヤ人の最高法院に引き出されて裁判を受けたことが語られています。その裁判によって主イエスは、神を冒涜する者と判断されたのです。今私たちはそういう大変重苦しい、暗い箇所を読んでいます。この後の23章はいよいよ主イエスが十字架につけられて殺される場面となります。元旦早々なぜこんな暗い箇所を読むのか、もうちょっと明るい、希望の持てる箇所にしたらよいのではないか、と思う方もおられるかもしれません。しかし、クリスマスに備えるアドベントの時にも、私たちは主イエスの受難の物語を読み進めてきました。主の2012年の元日を主の日として迎えた今日も、それを読み進めることによって、主がこの新しい年の始めに私たちに語りかけて下さっているみ言葉に耳を傾けていきたいのです。
主イエスへの侮辱とペトロの否認
さて、今も申しましたように逮捕された主イエスは大祭司の家へと連れて行かれました。時はもう夜更けです。夜が明けてから、ユダヤ人の最高法院が招集されて主イエスの裁きが行われます。それまでの間、大祭司の家で監視の下に置かれていたのです。本日の63~65節に語られている、見張りをしていた者たちから侮辱、暴行を受けたというのは、その夜明けまで監視されている間のことです。前回読んだ54節以下の、ペトロが三度イエスを知らないと言ったという話も、それと同時並行的に起っているのです。監視されている主イエスが暴行を受けている、中庭にいる人々は火に当りながらそれを見物していたのです。前回の61節に、ペトロが三度目にイエスを知らないと言ったとたんに鶏が鳴くと、主は振り向いてペトロを見つめられた、とありましたが、それは様々な侮辱、暴行を受けている主イエスが、その中で一瞬振り返り、ペトロと主イエスの目が合った、ということでしょう。ですから63~65節はあのペトロの話と結びつけて読むことができます。そうすることによって、ペトロを見つめた主イエスのあのまなざしの意味がよりはっきりとしてきます。ご自分のことを三度、ということは徹底的に、「知らない」と言い、関係を否定してしまったペトロを、主イエスは、侮辱、暴行を受ける苦しみの中から見つめられたのです。それは、ペトロの、そしてペトロに代表される私たちの、罪を全て背負って、その罪が赦され、救いが与えられ、信仰をもって再び歩み出すことができるために苦しみを受けて下さっている方のまなざしです。私たちのために侮辱や暴行の苦しみを受けて下さった、その主イエスのまなざしの中にペトロは、そして私たちも置かれているのです。このまなざしと出会った時、ペトロは外に出て激しく泣きました。彼は自分の弱さ、罪深さをこの時初めて本当に知り、心から悔いたのです。そのペトロに復活された主イエスが再び出会い、語りかけて下さったことによって、彼は使徒として立ち上がることができたのです。
主イエスと神との関係を問う
さて、夜が明けて、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まって来て、最高法院が開かれました。「サンへドリン」と呼\ばれるこの最高法院は、ユダヤ人たちの最も権威ある決定機関ですが、集まっているメンバーから分かるように、政治的な決定のみでなく、むしろ宗教的な決定を下すのです。当時のユダヤにおいては政治と宗教は切り離すことはできません。しかし当時政治的にはローマ帝国に支配されていましたから、最高法院はもっぱら宗教的な面での権威しか発揮できなかったのです。そこにおいて行われた主イエスの裁判で問われたのはまさに宗教的、信仰的な事柄です。言い換えれば、神様との関係におけることです。主イエスが、神様とどのような関係にあるのかが問題とされたのです。 先ず問われたことは、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」ということでした。ここは前の口語訳聖書では「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」となっていました。言葉の響きとしては新共同訳の方が相応しい感じですが、「メシア」と訳されている言葉は口語訳のように「キリスト」であるべきです。原文のギリシャ語では「クリストス」で、それはヘブライ語の「メシア」をギリシャ語に訳した言葉です。それを元のヘブライ語に戻すことは翻訳とは言わないのであって、「キリスト」という言葉は既に立派な日本語になっているのですからそう訳すべきでした。この言葉の意味は「油注がれた者」であり、神様から特別な務めに任命された者、ひいては「救い主」を意味しています。つまりこの問いは、「お前は自分を神から遣わされた救い主だと言うのか、そうならそうとはっきり言え」ということです。それはまさに主イエスがご自分と神様との関係をどうとらえているのか、という問いであるわけです。
真剣でない問い
この問いに対して主イエスは、「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう」とおっしゃいました。このみ言葉は大切なことを示し教えています。ユダヤ人の宗教的指導者たちは、イエスと神との関係を問うています。しかし主イエスは彼らの問いには答えようとなさらないのです。なぜなら、彼らの問いは本当の意味での問いになっていないからです。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」という言葉がそれを示しています。つまり彼らは主イエスに問うているけれども、その答えを聞いて信じようとは全くしていないのです。彼らが考えているのは、イエスを有罪にするための材料を得ようということだけです。この方が救い主なら、従って救いを得ようなどとはこれっぽっちも思っていない、批判材料を得るためだけに問うているのです。しかし本来、イエスが救い主キリストであるかどうかを問うというのは、もっと真剣な、自分の生き方、人生の全てがそこにかかっているような問いであるはずです。その問いへの答え次第で、自分の生き方が変わり、新しい人生が始まるような問いであるはずです。そういう人生をかけた真剣さがこの問いには全くありません。ここはある意味では大変深刻な場面ですが、語られている言葉は全く真剣でない、まことに軽い問いでしかないのです。そういう問いには主イエスはお答えにならないのです。
主イエスから問われている
そのことはこう言い換えることもできます。彼らは、主イエスを尋問し、問うていますが、主イエスに問うことは自分自身が主イエスから問われることだということに全く気づいていないのです。そのことを語っているのが、「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」というお言葉です。主イエスに「あなたは救い主なのか」と問うことは、逆に主イエスから、「あなたは私を救い主と信じるのか」と問われることなのです。しかし彼らは、主イエスからの問いに答える気は全くありません。そもそも自分が問われていることに全く気づいていません。イエスを尋問しているとしか思っていないのです。先ほど申しました、主イエスへの問いは自分の生き方、人生の全てがかかっているような問いだというのは、言い換えれば、主イエスに問うことによって逆に主イエスから問われ、答えを求められる、そういう問いだということです。自分の人生をかけて主イエスからの問いかけに答えようという思いなしに何を問うても、主イエスからまともな答えは帰って来ない、そういう大切なことをこのみ言葉は示し、教えているのです。
全能の神の右に座している救い主
しかし主イエスは、彼らの問いにはまともに答えないながらも、ここで決定的なことをお語りになりました。それが69節の「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」というみ言葉です。「人の子」というのは主イエスがご自分のことをおっしゃる時にお使いになった言い方です。つまり今から後、私は全能の神の右に座るのだとおっしゃったのです。「今」というのは、このように捕えられ、裁かれ、その日の内に十字架につけられて殺される、そして三日目に復活してその後天に昇られる、それら全てを含めた「今」でしょう。主イエスはご自分が十字架の死と復活と昇天とを経て全能の父なる神様の右に座ることになると言われたのです。これは彼らの問いに対する答えではなくて、主イエスご自身の宣言です。主イエスはご自分が神の右に座す救い主であられることを、問いに対する答えとしてではなくて、ご自分から宣言なさったのです。そしてその宣言はやはりそれを聞く者たちへの、つまり私たちへの、問いかけです。わたしが今や全能の神の右に座している救い主であることをあなたは信じるか、と主イエスは私たちに問いかけておられるのです。私たちの信仰は、この問いと向き合うことによってこそ与えられるのです。
しかしこれが自分に向けられている問いだと感じない者たち、主イエスを裁き、尋問しているとしか思っていない者たちは、この言葉に「してやったり」とほくそ笑むのです。そして「では、お前は神の子か」と問うのです。全能の神の右に座るということは、自分を神と同等の者としていることです。ということは、「人の子」と言っているけれども実は自分を「神の子」としていることではないか、ということです。イエスがそれを認めれば、もうこの裁判は終りです。自分を神と等しい者とするなどということは彼らにとってはとんでもない冒涜であり、有罪を確定できるのです。
あなたたちが言っている
彼らのこの問いに対して主イエスは、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」とおっしゃいました。ここは口語訳では「あなたがたの言うとおりである」となっていましたが、直訳するとこの新共同訳のようになります。このお言葉をどう理解したらよいか、なかなか難しいところですが、先ほども申しました、主イエスに問うことは主イエスから問われることだ、ということをベースに理解することができるでしょう。主イエスは問いに答えようとはなさらずに、むしろ問うている者たちに考えさせようとしておられるのです。私が神の子であるということをあなたがたはどう考えるのか、つまり私を神の子と信じ、従うのか、それともそれを否定して私を抹殺しようとするのか、あなたがたはどちらの道を選ぶのか、と問いかけておられるのです。そしてさらにこの言葉に込められている意味は、「私はこれまで自分のことを『人の子』と呼んできた。一度も、『自分は神の子だ』などと言ったことはない。ところが、私が神の子かということをあなたがたが言ってくれるとはどうしたことか。いかにも私は、あなたがたが口にした通り、神の子であり、人の子としてこの世に来た者だ」ということでしょう。そういう意味では、「あなたがたの言うとおりである」という口語訳は内容的には正しいのです。主イエスはここで、ご自分が神の子であり、救い主キリストであることをはっきりと宣言なさり、あなたはそのことを信じるかと問うておられるのです。しかし最高法院の人々は勿論、これをそのような問いかけとしては聞かずに、71節にあるように、これでイエスの有罪を決定づける証拠があがった、と思ったのです。
問う者と問われる者の逆転
このように、この主イエスの裁判の場面で問われているのは、主イエスが救い主キリストであるかどうか、また神の子であるかどうか、ということです。人々はそのことを主イエスに問い、主イエスがそれにどう答えるかによって主イエスを裁こう、有罪か無罪を決めようとしたのです。しかしこの裁判で起ったことは、逆に彼らが主イエスによって問われたということでした。私が救い主キリストだと答えたらあなたがたはそれを信じるのか、私の与える救いにあずかろうとするのか、そういう思いなしに「救い主か」と問うことは無意味ではないか、またあなたがたは私が神の子かと問うが、あなたがた自身はどう思っているのか、私を神の子と信じるのか、それとも拒むのか、そのように主イエスの方が彼らに問うておられるのです。主イエスを裁いているはずの人々が、逆に主イエスによって裁かれていると言ってもよいでしょう。ユダヤ人の最高法院における、主イエスと神様との関係を問題とする、つまり信仰の問題における裁判においてこういうことが起ったことをルカは描いているのです。
この裁判において起ったことを、私たちは自分が主イエスを信じる信仰を与えられていくことの中で体験するのではないでしょうか。つまり私たちも、最初は、あたかも主イエスを尋問するような思いでいるのです。「あなたは救い主キリストなのか、私にわかるようにはっきり答えを与えてみろ」、「あなたが神の子だというなら、その証拠を見せてみろ」、聖書と教会に出会い、信仰について考え始めた頃、私たちはそのような問いを主イエスに投げかけているのではないでしょうか。そしてそういう問いに対しては、主イエスご自身も答えてはくれないし、牧師をはじめ教会の誰もまともな答えを与えることはできません。それは問いそのものが適切ではないからです。主イエスを裁いている最高法院の人々が信仰を得ることができないように、そのような問いからは信仰は生まれないのです。私たちが信仰者となるためには、そこで逆転が起らなければなりません。主イエスに問うている自分が、実は主イエスから問われていることに気付かなければならないのです。主イエスは私たちに、「あなたは私が救い主か、神の子かと問うているが、もし私が救い主ならその救いを得たいと本当に願っているのか、私を神と信じて、礼拝し、従う者となろうとしているのか、自分の人生をかけてその問いを私に投げかけ、その答えによって自分が新しくされ、変えられることを受け入れる覚悟があるのか、そういう主イエスからの問いかけの前に自分が立たされていることを覚え、その問いと真剣に向き合い、それに答えていくことによってこそ、主イエスは救い主キリストなのか、神の子なのか、という問いへの答えが与えられ、私たちは信仰者となることができるのです。新しく生き始めることができるのです。
主イエスを尋問し、侮辱する私たち
本日、この2012年の元旦に神様がこの箇所を通して私たちに語りかけておられるのはこのことではないでしょうか。つまり私たちは、この新しい年を歩み始めるに際して、主イエス・キリストが、そして主イエスの父である神様が、私たちに問いかけておられることを覚え、その問いの前にしっかり立ち、真剣にそれに答えていくことを求められているのです。私たちはともすれば、主イエスに対して、また神様に対して、尋問を始めます。これはどうなのか、あれはどうなのか、あなたは何をしているのか、と問い、その答えによって自分が神様を裁き、有罪か無罪かを決めるような思いに陥っていきます。そのような私たちの姿が、本日の箇所の前半、63~65節の、主イエスを侮辱した見張りの者たちにおいて描かれていると言えるでしょう。彼らは主イエスに目隠しをして殴り、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言いました。普通の囚人にこんなことはしません。これは、主イエスが、神様のみ言葉を告げる預言者として活動しておられたことを受けてのことです。つまり「お前が神から遣わされた預言者で、神の言葉を語ることができるなら、誰が殴ったかも分かるだろう、言い当ててみろ。そうすれば、お前が預言者だと認めてやる」ということです。だからといって彼らは主イエスを預言者として敬おうとは全く思っていません。主イエスを侮辱し、暴行を加えている者たちと、主イエスを裁いている最高法院の人々とは、全く同じ思いでいるのです。そして私たちも、それと同じ思いで主イエスを見つめ、主イエスに問うていることがあるのではないでしょうか。そのような私たちの問い、尋問、裁きの下で、主イエスは侮辱を受け、暴行され、そして十字架につけられて殺されていったのです。しかしその主イエスの苦しみと死とによって、父なる神様は私たちに救いを、罪の赦しを与えて下さったのです。
神からの問いに向き合いつつ誠実に
私たちは今、この神様によって問われています。あなたは神の子であるイエス・キリストがあなたの罪を全て背負って十字架にかかって死んだことを信じるか、そしてその主イエスが復活して永遠の命の先駆けとなり、今や父なる神の右に座してあなたを、またこの世界を導いておられることを信じるか、と問われているのです。この問いと真剣に向き合い、それに答えつつこの新しい年を歩み出したいのです。この問いと真剣に向き合っていく中で、今私たちに神様が求めておられることが何であるのかも示されていくでしょう。東日本大震災と原発事故の深刻な影響の下に今私たちのこの社会はあります。悲しみや絶望、やり場のない怒りが渦巻いています。厳しい経済状況の中で、格差が広がり、そのことでも不安、恐れが私たちの心を閉ざし、人を愛し、よい交わりを築くことがますます難しくなっています。前途に希望の見いだせない思いが、若い人々の間にあります。それらの問題が山積する中で、どうしたらよいか分からない思いを私たちは抱きますが、しかし一つ一つのことを、神様から与えられている問いとして受け止め、私たちの罪を背負って苦しみを受け、死んで下さった主イエスのまなざしの中でその問いに真剣に向き合っていきたいと思います。そのようにして、この新しい年を、神様の前で誠実に歩んでいきたいと願うものです。