主日礼拝

わたしたちの過越祭

「わたしたちの過越祭」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 出エジプト記 第12章1―20節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第5章1-8節
・ 讃美歌 ; 11、141、317(1,2,3,5,7)

 
コリント教会の問題
 先週の礼拝において、コリントの信徒への手紙一の第5章1~5節を読みました。本日は、そこを含めて8節までを読みたいと思います。パウロがここで語っているのは、コリント教会の人々の中に「みだらな行い」、すなわち性的な不道徳を行っている者がいる、ということです。それは「ある人が父の妻をわがものとしている」ということでした。先週申しましたように、これは自分の母親ということではなくて、父の後妻か、あるいは何らかの形で父が関係を持った女性と、父の死後今度は息子が関係を持っているということです。それは旧約聖書の律法においても罪とされているし、異邦人たち、つまりギリシャ、ローマの人々の間でも忌み嫌われていたことなのです。そのようなことをしている人がコリント教会の教会員の中にいるのは由々しいことだ、とパウロは言っているのです。
 パウロが問題にしているのは、このような罪を犯している本人よりも、そのことを知りながら何もせずにいるコリント教会の全ての人々のことでした。彼らは、自分たちの間にこのような罪を犯している者がいるのに、その人を注意しようとしない、叱責しようとしないのです。それは、注意すべきだと思うのだがそれをすると教会の人々の間が気まずくなるから、見て見ぬふりをしている、ということではなかったようです。むしろコリント教会の多くの人々は、自分たちの間にこのようなことがあるのを恥じるどころか、かえってそれを、信仰によって古い律法や道徳から解放された自由の表れとして誇っていたのです。今日的な言い方をすれば、自分たちは進歩的なんだ、こういうことに目くじらを立てるのは、古い、保守的な人々のすることだ、ということです。6節でパウロは「あなたがたが誇っているのは、よくない」と言っていますが、彼らはそのように、自分たちの中に罪を犯している者がいることを、むしろ誇り、高ぶっていたのです。

高ぶり
 それと同じようなことは今日もあるということを、先週一つの具体的な事例を挙げて申しました。教会の中の、進歩的と称される人々の中には、これまで大切なこととして守られてきた倫理的、道徳的な教えを無視し、破ることに誇りを覚えるような向きがあります。確かに、道徳的教えや倫理的常識というものは、ある時代やある社会状況の制約を受けている面がありますから、時代と共に変わっていくことはあり得るでしょう。しかしそのような中で、聖書に語られていることが、これは時代に合わないとか、こんなことは古代人の無知によることだとか、現代の人権感覚と相入れない、と言って無視され、軽蔑されてしまうのは正しくありません。それでは、聖書が私たちの信仰と生活の規範なのではなくて、私たちが聖書を裁く基準になってしまいます。聖書と私たちの、つまり神様のみ言葉と人間との、本末転倒が起っているのです。それは人間の究極的な高ぶり、誇りです。コリント教会に起こっていたのも、そのような、人間の思いや感覚を神様のみ言葉よりも上位に置いてしまうという、神様に対する高ぶり、誇りなのです。
 ここで取り上げられているのは性的不道徳ですが、問題は性的な事柄のみに限られたことではありません。私たちは、日々の生活の中で様々な罪を犯します。その罪によって人を傷つけています。そのように罪を犯しながら、しかし自分の罪を真剣に受けとめようとせず、それを認めようともしない、人から罪を指摘されると、逆に腹を立て(こういうのを今は「逆ギレ」と言うようです)、いろいろと言い訳をし、あの人だって、この人だってこんなことをしているじゃないか、と自分を正当化しようとする、それは私たちが、このコリント教会の人々と同じように、神様に対する高ぶり、誇りに陥っているということです。ですからこのコリント教会の問題は、私たちにとって決して他人事ではないのです。

悔い改めを求める
 さてパウロは、コリント教会に起っているこの性的不道徳が由々しき罪であり、そのようなことをした人は、教会の交わりから除外されるべきだ、つまり悔い改めを求める戒規が行われるべきだ、と言っています。そのことについては、先週の説教において述べましたので、ここで繰り返すことはしません。ただ、ここでもう一度確認しておきたいことは、パウロがこのように言っているのは、このような罪を犯している者を教会から追放して滅ぼしてしまうためではない、ということです。5節に「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」とあることがそれを示しています。このような者をサタンに引き渡した、教会の交わりから除外するという戒規はそのように厳しいことなのですが、それは、彼をサタンの餌食にして滅ぼすためではなくて、「主の日に彼の霊が救われるため」です。主の日、つまりこの世の終わりの裁きの日に、彼の霊が救われる、つまり彼が最終的には神様の救いにあずかるという希望をパウロは持っているのです。そのためにこそ、今この地上の教会において、彼の罪を責め、悔い改めを求めることが必要なのだということを私たちは忘れてはならないのです。

パン種
 さて本日は、特に6節以下を見つめていきたいと思います。ここでパウロは、「あなたがたが誇っているのは、よくない」とコリント教会の人々の誇り高ぶりを批判した後、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか」と語っています。教会の中における罪の問題を、パンとパン種つまりイーストという喩えで語っていくのです。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる、つまり、ごく少量のイーストが、粉全体を発酵させ、ふっくらとしたおいしいパンにする、そのイーストがなければ、パンはパンにならず、おせんべいかクラッカーのようなものになってしまうのです。ですから、パン作りにイーストは無くてはならないものです。そういう意味ではイーストはよいもの、欠かせないものであるわけですが、聖書においては、それはむしろ、ほんの少しなのに全体に影響を及ぼして全体を悪くするもの、という悪い意味で用いられています。ですからここでは、「わずかなパン種」が、コリント教会で起っている小さな罪を指すものとして語られているのです。その小さな罪が、実は教会全体に影響を与え、全体を腐敗させていく、そういう意味で、これは小さな、どうでもよいことではないのだ、とパウロは言っているのです。そしてそれゆえに、7節「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」と言われていきます。これが、罪を犯した者を教会から除外せよということなのです。罪のパン種を、教会である練り粉から取り除け、というわけです。ここに、戒規を行うことのもう一つの理由が示されています。戒規は先程申しましたようにその人の悔い改めを求め、その人が最終的に救われるために行われるものです。しかしもう一つの目的は、罪を犯している者を取り除くことによって、罪が教会全体を汚染することを防ぎ、教会を清く保つことです。つまり戒規はそれを受ける本人のためであると同時に、教会全体のためでもある、ということがここに語られているのです。

過越祭と除酵祭
 ところで、聖書においてパン種が悪い意味で用いられることには訳があります。それは、ここにも語られている過越祭との関係におけることです。過越祭はイスラエルにおける最大の祭です。その由来が、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、出エジプト記12章に語られています。イスラエルの民はエジプトで奴隷とされ苦しめられていました。そこから彼らを解放し、約束の地、乳と蜜の流れる地カナンへと導くために、神様はモーセを遣わされたのです。モーセは神様の命令によって数々の奇跡を行い、エジプトの国中に災いを下して、エジプト王ファラオに、イスラエルの民の解放を認めさせようとします。しかしファラオはなかなかそれを認めようとしません。それで最後に下された災いが、エジプトの全ての初子、つまり最初に生まれた男の子と雄の家畜を殺すということでした。その災いが下される晩に、イスラエルの人々の家では、過越の小羊が屠られ、その血が家の入り口の二本の柱と鴨居に塗られました。その血が目印となって、主の使いはその血の塗られた家は何もせずに通り過ぎ、つまり過ぎ越して、エジプト人の初子だけが殺されたのです。このことによってついに彼らはエジプトを出ることができました。それを記念して、過越の小羊を殺してその血を家の戸口に塗り、その小羊の肉を家族で食べる過越祭が祝われるようになったのです。それは、エジプトの奴隷状態からの、神様による解放を祝い、喜ぶ祭であるわけです。この過越祭と合わせて祝われるのが、種入れぬパンの祭、除酵祭です。12章15節以下にそのことが語られています。「七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。最初の日に聖なる集会を開き、第七日にも聖なる集会を開かねばならない。この両日にはいかなる仕事もしてはならない。ただし、それぞれの食事の用意を除く。これだけは行ってもよい。あなたたちは除酵祭を守らねばならない。なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして守らねばならない。正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる。七日の間、家の中に酵母があってはならない。酵母の入ったものを食べる者は、寄留者であれその土地に生まれた者であれ、すべて、イスラエルの共同体から断たれる。酵母の入ったものは一切食べてはならない。あなたたちの住む所ではどこでも、酵母を入れないパンを食べねばならない」。過越祭に続いて7日間、除酵祭、即ちパン種を入れないパンの祭が行われるのです。なぜパン種を入れないパンを食べるのか、それは、12章の39節を読むとわかります。「彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである」。エジプトから脱出した時、民はパン種を入れて発酵させているいとまもなく、急いで出発した、そのことが記念されているのです。つまりこの除酵祭、パン種を入れないパンの祭は、過越祭と密接に結びついており、共に、エジプトの奴隷状態からの神様による解放、救いの恵みを記念する祭なのです。イスラエルの民はこの過越祭と除酵祭を大切に守っていきました。その中で除酵祭は次第に、パン種を取り除かなければならない、という祭に変化していったのです。この祭の最初の日に家から酵母を取り除き、7日間家に酵母があってはならないということになり、酵母を除き去ることに神経が集中されるようになりました。そこから、酵母、パン種を悪いものとして除き去る、という感覚が生まれたのです。パウロもその感覚を受け継いで、あなたがたの間から罪のパン種を取り除きなさいと言っているのです。

パン種の入っていない者
 しかしパウロは、当時のイスラエルの人々が除酵祭に必死になって酵母を取り除こうとしているのと同じ感覚で、罪を犯している人を教会から除き去ろうとしているのではありません。7節後半に不思議な文章があります。「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」。7節前半では、「パン種を取り除きなさい」と言っていたのです。ところが後半では「あなたがたは既にパン種の入っていない者なのだ」と言っています。これは矛盾した言い方です。しかしまさにここに、パウロがここで語ろうとしていることの神髄があるのです。パウロは、パン種を、つまり罪を犯している人を教会から除き去れば教会を清くすることができる、と言っているのではないのです。そうではなくて、教会は、あなたがたは、既にパン種のない者、清い者とされているのだ、だから、その事実にふさわしく自らを整えなさい、と彼は言っているのです。

過越の小羊キリスト
 教会は既にパン種のない者とされている、清い者とされている、それは7節の終わりにあるように、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたから」です。ここに、イエス・キリストの十字架の死の意味がはっきりと示されています。キリストの十字架の死は、わたしたちの過越の小羊としての死でした。過越の小羊は、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、救われるために犠牲となって殺されたのです。その血が印となって、彼らは全ての初子を殺す主の使いの手から、つまり神様の裁きの手から救われたのです。イエス・キリストの十字架の死も、それと同じように、私たちの救いのための犠牲の死でした。主イエスは私たちの全ての罪を背負って、身代わりとなって十字架の死刑を引き受けて下さり、罪人に対する神様の裁きを私たちに代って受けて下さったのです。その死によって、私たちは罪を赦され、罪の支配から解放され、神様の恵みの下へと移されたのです。キリストが私たちの過越の小羊として屠られたというのはそういうことです。このことのゆえに、私たちはパン種のない、清い者とされているのです。私たちは、自分で自分の罪のパン種を取り除く前に、既に主イエスの十字架の死によって、罪のパン種を取り除かれているのです。

罪を赦された者として
 イエス・キリストを信じるとは、このことを信じることです。キリストが私たちの過越の小羊として屠られたから、もはや私たちはパン種の入っていない者とされている、罪を赦され、清められた者となっている、そのことを信じ受け入れて、私たちは洗礼を受け、信仰者となるのです。私たちの信仰の歩みは、このキリストによって既に与えられている恵みの事実に即して、自分の歩みを、生活を整えていくことです。私たちの歩み、生活の中には、なお様々なパン種が残っています。いろいろな罪の思いや言葉や行いが私たちの中にあり、それが私たちの言葉と行いを汚し、人を傷つけています。パン種の入っていない者だなどとはとても言えないような現実があるのです。コリント教会はまさにそうでした。しかしそのコリント教会に対してパウロは、「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」と言っています。それは、主イエス・キリストを信じる信仰によってのみ与えられる認識です。主イエスによって、まだ目には見えていない新しさが与えられていることを信じているからこのように語られるのです。この信仰に基づいて、8節に、「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と勧められています。古いパン種、悪意と邪悪のパン種を捨てて、純粋で真実のパンによる過越祭を祝うとは、自分の中にある罪の心を捨て、あるいは罪を犯している人を教会から除き去ることによって教会を清くしよう、ということではありません。そうではなくて、主イエス・キリストが、過越の小羊として死んで下さったことによって、既に私たちの罪を赦し、清い者として下さっている、その恵みを無にしてしまうことがないように、その恵みに応えて、自分自身を、そして教会を、整えていこうということです。教会を、イエス・キリストによる罪の赦しの恵みに本当に生きる群れとしよう、ということです。そのために、罪を犯している人には悔い改めを求めていくのです。先程、戒規の第二の目的は、罪が教会全体を汚染することを防ぎ、教会を清く保つことであると申しました。それは、誰かある罪人を断罪して、その人を追い出すことで他の者たちが自分たちは清いと自己満足するようなことではありません。罪が指摘され、悔い改めが求められることによって、その罪を犯した者も、また教会に連なる全ての者が、主イエスによる罪の赦しの恵みに立ち帰り、悔い改めて、共に真実に主の赦しの恵みに生きる者へと新しくされていくのです。そのことによってこそ、教会は清く保たれていくのです。

私たちの過越祭
 「パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」とパウロは勧めています。私たちも、過越祭を祝うのです。私たちの祝う過越は、出エジプトの出来事ではなくて、主イエス・キリストが、私たちの過越の小羊として十字架の上で屠られて下さったことです。この過越によって私たちは、罪の支配から解放され、神様による罪の赦しの恵みの中に置かれたのです。そのことを共に喜び祝いつつ生きるのが私たちの信仰です。それゆえに私たちの信仰生活は、基本的に喜びであり祝いなのです。このことはとても大事なことです。主イエス・キリストを信じる信仰者の生活は、掟や戒め、戒律に縛られた窮屈な生活ではありません。道徳的に立派な人になることが義務づけられていて、その達成度をいつも採点されているような生活でもありません。キリスト信者の生活は、喜びの祭を祝う生活です。毎週の主の日、日曜日の礼拝において、私たちは、私たちの過越祭を祝っているのです。その喜ばしい祝いの中心にあるのが聖餐です。聖餐においてあずかるパンとぶどう液は、主イエス・キリストが、私たちのための過越の小羊として、十字架の上で肉を裂き、血を流して下さったことを覚え、その恵みを味わうためのものです。イスラエルの民の過越祭の中心が過越の食事であったように、私たちの過越祭の中心が聖餐なのです。私たちは基本的に月に一度聖餐を祝っています。しかし今日のように聖餐の行われない礼拝においても、主イエス・キリストが十字架の死によって私たちのために成し遂げて下さった過越の恵みを喜び祝っていることは同じです。私たちは毎週の礼拝において過越祭を祝いつつ、月に一度の聖餐においてその目に見えるしるしにあずかっているのです。
 教会とは、主イエス・キリストによって成し遂げられた過越の恵みにあずかり、新しい過越祭である聖餐にあずかりつつ生きる者の群れです。キリストによる罪の赦しの恵みを信じて、その群れに加えられ、聖餐にあずかる者となることが、洗礼を受けるということです。まだ洗礼を受けておらず、従って聖餐にあずかることのできない方々がこの礼拝にも大勢おられます。神様はその皆さんをも、過越祭の喜び、祝いへと招いておられるのです。その招きにあずかるために、清く正しく立派な人間になる必要はありません。「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」、このことを信じ、受け入れて洗礼を受けることによって、誰でも、神様の招きにあずかることができるのです。喜びの過越祭を共に祝うことができるのです。そして、その喜びと祝いの歩みの中で、一人一人の生活においても、また教会における兄弟姉妹との共なる歩みにおいても、与えられている恵みを無にすることのないように、過越の恵みにふさわしく生きるべく、努力をしていくのです。

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