主日礼拝

霊のとりなし

「霊のとりなし」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第139編1-10節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章26-30節
・ 讃美歌:4、166、354

 主日礼拝においてローマの信徒への手紙の第8章を読み進めています。この第8章の中心的な主題であり最も頻繁に出て来る言葉は「霊」です。それは人間の霊や魂のことではなくて、神の霊、聖霊のことです。これまでのところでパウロは、キリストを信じ、その救いにあずかって生きている私たちには神の霊が与えられ、宿って下さっていることを、そしてその神の霊が私たちの内でどのような働きをして下さっているのかを、繰り返し語ってきました。私たちがキリストによる救いを信じ、洗礼においてキリストと結び合わされて新しく生きることができるのは、私たちの内に宿って下さっている神の霊の働きによるのです。また、神の霊は私たちを神の子とする霊であって、この霊の働きによってこそ私たちは神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです。また神の霊は、世の終わりに約束されている復活と永遠の命を待ち望んで生きる私たちのために、その約束の初穂、最初の実りとして与えられている、ということも先週読んだ25節までの所に語られていました。本日から読んでいく26節以下にも、神の霊が私たちの内で何をして下さるのかが語られています。26節に「同様に、〝霊〟も弱いわたしたちを助けてくださいます」とあります。神の霊、聖霊は私たちの内に宿って、弱い私たちを助けて下さるのです。それはどのような助けなのでしょうか。

私たちの弱さ
 「弱いわたしたちを」という所は直訳すれば「わたしたちの弱さを」です。その「弱さ」は複数形になっています。つまり様々な弱さ、ということです。私たちは自分が弱い者であることを、様々なことを通していつも思い知らされています。病気や老いによって肉体的な弱さや衰えに苦しめられます。体は元気でも、自分の能力や技術や知識の不足という弱さを覚えることもあります。「心の弱さ」を感じることもあります。つらいこと、苦しみに直面する時に、心が弱り、元気を失ってしまうために、それを乗り越えることができないのです。私たちはそのように様々な弱さをかかえていますが、その弱さの中で、パウロがここで特に見つめ、語っているのは、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが」ということです。つまりパウロは、私たちがかかえている様々な弱さの中で、最も根本的なこととして見つめるべきなのは、「どう祈ったらよいかを知らない」という弱さだと言っているのです。どう祈ったらよいのか分からない、祈ることができない、それこそが私たちの弱さの中心、根本なのだ、ということです。

祈れないことが弱さの根本
 祈れないことが私たちの弱さの中心、根本だ、と言われて皆さんはどう思うでしょうか。いや自分にとっては肉体の弱さの方が、能力的な弱さや心の弱さの方が深刻な問題だ、と思うかもしれません。あるいは、祈ることは、あまりしないけれどもできないわけではない、と思う人もいるかもしれません。現に人は弱さを覚える時にしばしば祈ります。「困った時の神頼み」とはそういうことです。弱さを覚え苦しみを感じる時に祈ることは、信仰のあるなしに関わらず誰にでもあると言えるでしょう。だとすれば祈れないことが私たちの弱さだというのは当らないことになります。しかしここでパウロが「祈る」と言っている言葉は、苦しみからの救いを祈り願うという「祈願」のみを意味する言葉ではなくて、むしろ神を礼拝する、という言葉です。神の前に立ち、神を拝み、み言葉を聞き、神と共に生きるということの全体が「祈る」という言葉に込められているのです。そういう意味では、「困った時の神頼み」という祈りは、パウロが言っている意味での祈りとは言えないものです。私たちの祈りはどうでしょうか。パウロが言っている意味での、神の前に立ち、神を拝み、み言葉を聞き、神と共に生きるという祈りができているでしょうか。「困った時の神頼み」程度の、祈りとは言えないような祈りに止まってしまっていることはないでしょうか。だとしたら私たちはまさに「どう祈るべきかを知らない」者なのです。自分の勝手な願いや希望だけを神の前に並べ立てることはできるけれども、本当の意味で祈ること、神の前に立ち、神を礼拝しつつ神と共に生きることはなかなかできない、そこに私たちの弱さの根本があるのです。

忍耐して待ち望むことが出来なくなる
 この私たちの弱さは、私たちがこの世の人生において神とその救いの完成をこの目で見ることができない、ということと関わっています。先週読んだ箇所の最後の所、24節から25節にかけてこのように語られていました。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。私たちの信仰は、今はまだ目に見えないものを待ち望む信仰です。言い換えれば、希望に生きる信仰です。何を待ち望んでいるのか、それは23節にあったように、「神の子とされること、つまり、体の贖われること」です。それは具体的には、この世の終わりに、私たちも主イエス・キリストと同じように復活し、永遠の命を与えられるということです。キリストを信じる信仰によって私たちは今この世において既に神の子とされていますが、復活と永遠の命という救いの完成にはまだあずかっていません。私たちが神の子とされることが完成するのは、この世の終わりにおいてなのです。それまでは私たちは、自分が神の子とされていることをこの目で見ることが出来ません。まだ実現していない救いの完成を待ち望みつつ、希望に生きるのです。しかし見えないものを待ち望んで生きることには忍耐が必要です。その忍耐が出来なくなっていくことが私たちの弱さです。目に見えない神の、まだ現実となっていない救いの約束を忍耐して待ち望むことができなくなり、神の救いの約束を信じられなくなり、目に見える何らかの助けを求めていってしまうのです。苦しみ悲しみの中でそういうことが起ります。苦しい時の神頼みではなくて、苦しい時の神離れが起るのです。そのようにして私たちは信仰を失い、神から遠ざかり、礼拝を失っていくのです。どう祈るべきかを知らない、祈れないという弱さは、そのように私たちがこの世の目に見える現実に飲み込まれ、神を見失い、礼拝から遠ざかり、救いの完成への希望を見失い、神を待ち望むことができなくなる、ということなのです。

祈ることができれば
 そのように祈りを失ってしまうことによって私たちは、日々の具体的な様々な弱さの中で、出口のない苦しみに陥っていくのです。病気や老いによって私たちは確かに自分の弱さを思い知らされます。そしてその先には肉体の死があります。死においては、この世において私たちが得ていた全てが失われるのです。それは私たちの味わう弱さの決定的なものです。しかしその弱さの極限において、主イエス・キリストの私たちのための十字架の苦しみと死、そして復活を見つめ、神が私たちに与えて下さった復活と永遠の命の約束を信じて神に祈ることができるならば、病や老いや死の苦しみは、出口のない絶望にはならないのです。その弱さの中で、なお希望を失わずに生きることができるのです。また病や老いや死のみでなく、人生の歩みの中で自分の様々な弱さを覚え、力不足に嘆き、願っていたことが思い通りにならない、実現していかないことに悲しみや苛立ちを覚える時にも、また自分の罪によって人を傷つけ、自分も傷つき、人間関係の破れの悲惨さに陥っている時にも、本日の箇所の28節に語られているように、神が万事を益となるように導いて下さることを信じて、万事を、私たちの弱さによる失敗や悲しみも、罪による悲惨な現実も、神に委ねて祈ることができるならば、私たちは絶望に陥ることはないのです。様々な弱さをかかえている私たちは、苦しみ悲しみによって心弱り、力を失ってしまいますが、その時に、祈りにおいて神のみ前に出て、神を礼拝し、み言葉を聞き、神に委ねて生きることができるならば、そこには、自分の心の中を見つめているだけでは決して得られない慰めと支えとが与えられていくのです。祈ることを知っている者は、弱さの中でも、それに押しつぶされずに歩むことができるのです。それゆえに、祈ることができないことこそが、私たちのかかえている様々な弱さの中心であり根本なのです。

神の霊の執り成し
 神の霊が私たちを助けて下さるのはこの私たちの弱さの根本において、つまり祈りにおいてです。神の霊は、どう祈るべきかを知らない私たちを助けて下さるのです。この「助ける」という言葉の原語は、三つの言葉が合成されています。「共に」「代って」「取る」という三つの言葉です。神の霊は、祈ることのできない私たちと共にいて下さり、私たちに代って祈って下さり、また私たちの祈りを引き取って、それを父である神に伝えて下さるのです。私たちと共に神の前に立ち、祈れない私たちの代わりに父なる神に祈って下さることが神の霊の助けです。そのようにして神の霊は私たちのための「執り成し」をして下さるのだと26節は語っています。執り成しとは、二人の人の間に立って仲を取り持つこと、両者が良い関係を築くために骨を折ることです。そのことを、父である神と私たちの間で、神の霊、聖霊がして下さるのです。神と私たちの関係、交わりは祈りにおいてこそ成り立ちます。それは先程も申しましたように、私たちが神の前に立ち、礼拝し、み言葉を受け、神と共に生きるという広い意味での「祈り」においてということです。私たちは、そのような祈りによって神との関係を築くことができない弱い者です。目に見えない神とその約束を疑い、神に信頼することができずに、すぐに目に見えるものに依り頼もうとします。そのように弱い私たちを神の霊が助けて下さり、神と交わりをもって生きることができるように執り成して下さるのです。

人の心を見抜く神
 27節にはこのように語られています。「人の心を見抜く方は、〝霊〟の思いが何であるかを知っておられます。〝霊〟は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」。「人の心を見抜く方」、それが父なる神です。神は私たちが心の奥に隠している全ての思いを見抜き、知っておられます。私たちは、自分の心の思いを人には隠しておくことができても、神に対しては隠しておくことはできません。それは恐ろしいことだと言わなければならないでしょう。私たちの心の中には様々な罪の思いがあります。また人には見せていない様々な弱さがあります。そしてその弱さの中心には、「どう祈るべきかを知らない」、祈りにおいて神との関係を築くことができないという根本的な弱さがあります。それらの私たちの弱さを神は全て見抜いておられるのです。しかしここでパウロは、「人の心を見抜く方は、人の思いが何であるかを知っておられる」と言っているのではなくて、「人の心を見抜く方は、〝霊〟の思いが何であるかを知っておられます」と言っています。つまりパウロがここで言おうとしているのは、神は私たちの心を全てお見通しだから何も隠し立てはできない、ということではなくて、全てお見通しである神が、私たちの心を見つめる時に、私たちの内に宿らせて下さった神の霊、聖霊の思いを見つめて下さるということです。神の霊の思いとは、私たちのために執り成し、私たちと神との関係を良いものとするために骨折って下さる思いです。神はこの霊の思いを通して私たちを見つめて下さるのです。霊は、「神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださる」とあります。神の霊がこのように私たちのために執り成しをして下さることは、父なる神の御心なのです。そのような執り成しをさせるために、神は聖霊を私たちの内に宿らせて下さっているのです。聖霊の執り成しによって私たちは、独り子イエス・キリストが十字架の死と復活によって成し遂げて下さった罪の赦しの恵みにあずかります。この後共にあずかる聖餐においても、パンと杯にあずかる私たちに聖霊が働いて下さり、私たちを主イエス・キリストと結び合わせ、キリストの十字架と復活による救いにあずからせて下さるのです。このように聖霊による執り成しによってキリストによる救いを与えて下さることが神のみ心であり、それが「霊の思い」です。神はこの「霊の思い」によって私たちを見つめて下さるのですから、私たちは「人の心を見抜く方」である神を怖がる必要はないのです。むしろキリストによる救いに信頼して、安心して神の前に出て礼拝し、祈ることができるのです。
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第139編においても、詩人は、神が自分のことを全て知っておられること、この世の何処に行っても神のみ前から逃れることはできないことを歌っています。そのことは彼にとって恐しいことではなくて、むしろ喜ばしいことです。自分がどこに行っても神がそこで御手をもって導き、右の御手をもってとらえて下さる、ということを彼は喜びをもって歌っているのです。神の霊が執り成して下さることによって私たちはこれと同じ恵みの中に置かれているのです。神の霊が弱い私たちを助けて下さる、その助けはこのように、神の霊が私たちのために執り成して下さることによって与えられているのです。

言葉に表せないうめきをもって
 神の霊が私たちのためにして下さる執り成しは「言葉に表せないうめきをもって」の執り成しであるということにも注目したいと思います。神の霊が私たちと共に、私たちに代って祈って下さる、その祈りは、「言葉に表せないうめき」なのです。それは私たち自身が、様々な弱さをかかえているこの世をうめきつつ歩んでいることと対応しています。つまり神の霊が私たちに代って祈り執り成して下さるというのは、祈れない私たちの代わりに聖霊が素晴しく流暢な立派な祈りを祈ってくれている、ということではありません。神の霊は、祈ることができずにいる弱い私たちと同じ場所に立ち、その弱さを担って共に歩んで下さるのです。私たちは自分の弱さの中でうめいています。うめきは言葉になりません。祈りを失っている私たちは、自分の弱さや罪の中で言葉を失い、うめくしかないのです。しかし神が私たちの内に遣わし、宿って下さっている聖霊が、その私たちと共に、私たちに代って、「言葉に表せないうめき」をもって執り成して下さっています。聖霊は私たちのうめきを、祈りとして神に届けて下さっているのです。聖霊がうめきをもって執り成して下さっているので、どう祈るべきかを知らない私たちのうめきが、神への祈りとなり、神との交わりがそこに築かれているのです。

うめきを共有する交わり
 26節の冒頭には「同様に」とあります。何と何が同様になのでしょうか。22節に、被造物全体がうめき、産みの苦しみを味わっていると語られていました。また23節には、霊の初穂を与えられている私たち信仰者も、神の子とされ、体の贖われること、つまり世の終わりに復活と永遠の命にあずかることをうめきながら待ち望んでいる、と語られていました。これらと同様に、ということです。被造物全体も、私たち自身も、そして私たちの内に宿って下さっている神の霊、聖霊も、同じようにうめいている、うめきつつ、神による救いの完成を待ち望んでいる、そこに、うめきにおける繋がりがある、とパウロは言っているのです。
 先週の礼拝において、私たちは自分のうめき苦しみだけを感じているのでなく、被造物全体のうめきを聞き取る耳を持たなければならない、ということを申しました。そこには、他の人のうめき苦しみの声を聞き取っていくことをも含んでいるし、また人間以外の被造物、自然のうめき苦しみの声を聞き取っていくことも含まれていると申しました。しかし私たちがそのようにうめきにおいて他の被造物との繋がり、連帯に生きる者となるために先ず第一に聞き取らなければならないうめきは、神の霊、聖霊が私たちの内で、私たちのために執り成し祈って下さっている、そのうめきなのです。神が御心によって遣わし、私たちの内に宿らせて下さった神の霊が、私たちとうめきを共にし、うめきをもって私たちと神との間を執り成して下さっているのです。この神の霊のうめきによる執り成しによって、私たちは神の子とされるのです。そしてうめき苦しみの中で「アッバ、父よ」と祈りの声を上げることができるようになるのです。先週も申しましたが、うめくことしかできないような苦しみの中で、神に向かって「父よ」という一言を祈ることができるかどうかで、私たちの人生は大きく違って来ます。苦しみ悲しみの中で、神の霊のうめきによる執り成しによって「父よ」と神に祈ることができるならば、その私たちの歩みは、神の子としての歩みとなり、世の終わりに私たちも主イエスと同じ復活と永遠の命を与えられるという約束を忍耐して待ち望む、希望のある歩みとなるのです。つまり私たちのこの世でのうめき苦しみは、神の霊の執り成しによって、復活と永遠の命への産みの苦しみ、希望ある苦しみとなるのです。そして自分自身のうめき苦しみをそのように希望ある苦しみとして受け止めることができるならば、他の人々の、さらには被造物全体のうめき苦しみをも、神による救いの希望が与えられている産みの苦しみとして聞き取っていくことができるのです。そこに、自分のうめき苦しみだけを感じるのでなく、他の人や被造物全体のうめき苦しみを聞き取り、うめきを他者と共有しつつ、希望に生きる交わりが築かれていくのです。

うめきを「父よ」という祈りに変えて下さる聖霊
 うめき苦しみの中で私たちに「父よ」という祈りを与えて下さるのが、神の霊、聖霊の執り成しです。聖霊は、様々な弱さの中で嘆き悲しんでいる私たちのうめきを「父よ」という祈りに変えて下さるのです。私たちは様々なことによって自分の弱さを思い知らされています。肉体の弱さに苦しみ、心の弱さに失望し、また自分の罪や失敗による苦い思いを抱いています。その私たちのうめき苦しみが聖霊の執り成しによって「父よ」という祈りに変えられていくなら、私たちの弱さは、もはや出口のない絶望ではなくなります。神に「父よ」と呼びかけて祈る者とされた私たちは、28節に語られているように、父である神が私たちを御計画に従って召して下さり、万事が益となるように計らって下さることを信じて、その神のみ心に全てを委ねて生きていくことが

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