主日礼拝

主イエスの沈黙

「主イエスの沈黙」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第62編1-13節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第23章1-12節
・ 讃美歌:278、136、443

総督ピラトのもとで
 ルカによる福音書の第23章に入ります。いよいよ、主イエスが十字架につけられて殺される、そのことを語っている章です。先週、元旦の礼拝で読んだ22章の最後のところには、ユダヤ人たちの最高法院において、主イエスが自らを神とするという冒涜の言葉を語ったと判断され、有罪が宣言されたことが語られていました。23章は「そこで」と始まります。最高法院における有罪の判決が下った、そこで、それを受けて次の行動が起されたのです。それが「全会衆が立り上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」ということです。ピラトとは誰か。それはこの福音書の第3章1節に語られていました。そこに「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」とあります。主イエスが活動されたその時代に、その地域をどのような人々が支配していたのかがここに語られています。その中に「ポンティオ・ピラト」の名前があります。彼が、エルサレムを中心とするユダヤの総督として、ローマ皇帝ティベリウスから派遣されていたのです。最高法院の人々は、このピラトのもとに主イエスを連行したのです。そして2節にあるように、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と言って主イエスを訴えたのです。先週も申しましたが、ローマ帝国の支配下に置かれている今、ユダヤ人の最高法院は宗教的な決定しか下すことができません。政治的な影響の大きい事柄については、総督の判断を仰がなければならなかったのです。彼らの願いはイエスを死刑に処して抹殺することですが、民衆の間で影響力の大きかったイエスを死刑にすることは、彼らだけの判断ではできなかったのです。それで総督ピラトに裁いてもらおうというわけですが、ローマの総督に訴え出るためには、それなりの理由が必要です。最高法院の思いにおいては、主イエスが自分を神の子であると言ったというだけで死刑に当る罪だということになるのですが、それは総督ピラトには通じません。ローマ帝国の総督は、そのようなユダヤ人の間の信仰の問題に口を出すつもりはないのです。ピラトに裁いてもらうためにはもっと政治的な、ローマの支配と権威に触れるような罪状でなければなりません。そのために彼らが持ち出したのが、「わが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っている」ということでした。この男はユダヤ民族を惑わし、ローマの支配にとって都合の悪い影響を与えているということです。具体的には、皇帝に税を納めることを禁じている、と言っています。これは20章20節以下のことを背景にしているわけですが、そこでは今主イエスを訴えている彼ら自身が、神の律法にてらして皇帝に税金を納めてもよいだろうか、という問いを主イエスに投げかけ、陥れようとしたのです。しかし主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。それは皇帝に税を納めることを禁じているのではなくて、むしろ認めている言葉です。しかし彼らはこれを曲げて理解し、イエスが皇帝に税を納めるのを禁じた、と言っているのです。さらに、「自分が王たるメシアだと言っている」ともあります。主イエスがメシア、つまりキリスト、救い主であるかということは先週の最高法院での裁判の中心的な問題でした。しかしそのことだけではピラトに訴える口実になりません。そこで彼らはそこに「王たる」という言葉をつけ加えたのです。来るべき救い主キリストはまことの王として来られる、ということは預言者が語っていたことですから、「王たるメシア」という言い方は間違ってはいません。彼らはそのことを用いて、主イエスを、ローマ皇帝の支配を否定し、自らが王となろうとしている者として訴えたのです。つまり全体としては、イエスはローマに税金を納めることを禁じ、自分が王となろうとすることによってローマの支配を否定している、そのように人心を惑わしている者だ、と訴えたのです。彼らのこの言い種はまことに欺瞞に満ちています。彼らは基本的には、神の民であるユダヤ人を異邦人であるローマが支配していることに我慢ならない思いでいるのです。ローマを追い出し、最高法院が宗教的なことのみでなく政治的な決定もできる世の中にしたいと願っているのです。しかし今はローマの支配を認めざるを得ないので、あたかもそれを喜び、皇帝に忠実であるような言い方をしてピラトの権威を利用しようとしているのです。

問いに答えない主イエス
 この訴えを受けたピラトは主イエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と問いかけました。イエスが自分は王だと名乗るとしたら、それは総督としては見過ごすことができないわけです。主イエスはこのピラトの問いに対して、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。主イエスのこのお言葉は、先週の最高法院における「では、お前は神の子か」という問いに対する70節におけるお答え「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と重なります。「あなたたちが言っている」と「あなたが言っている」は、複数と単数の違いのみで同じ言葉です。しかしそこには違いもあります。先週の箇所では「わたしがそうだとは」がついていました。つまり「私が神の子であることは」ということです。これはご自分が神の子であることを認めておられる言い方でもあります。それを認めつつ、「あなたがたはそのことを受け入れるのか、それとも否定するのか」と問いかけておられるのです。しかし本日の箇所でのピラトへの答えはそれとは違います。「お前がユダヤ人の王なのか」と問われて「あなたが言っている」とだけ答える、それは否定でも肯定でもない、要するに答えになっていないのです。主イエスはピラトの問いに対しては答えておられないのです。

領主ヘロデのもとで
 しかしピラトはこれを聞くと、主イエスを連行してきた祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。ピラトは、ユダヤ人の指導者たちがイエスを訴えてきたのが、ローマの支配の安定のためなどではないことが分かっているのです。また彼らの信仰の問題に総督が首を突っ込むのは利口でないとも思っているのです。だから、主イエスが「自分はユダヤ人の王である」とはっきり言わない限り問題にするつもりはないのです。しかしユダヤ人たちはあきらめません。「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張ったのです。ピラトはこの「ガリラヤから始めて」という言葉に食い付きます。イエスがガリラヤの出身なら、ヘロデの支配下にある者だから、ヘロデに判断させよう、ということで、丁度エルサレムに滞在していたヘロデのもとに主イエスを送ったのです。「そちらの管轄だから」と言ってめんどうな一件を余所へ回そうということです。このヘロデも先ほどの3章1節に名前がありました。ガリラヤの領主です。彼はクリスマスの物語に出てくるヘロデ大王の息子で、ヘロデ・アンティパスと呼ばれている人です。このヘロデはピラトから主イエスが送られて来たことを非常に喜びました。8節に「イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」とあります。ヘロデがイエスを見たいと望んでいたのは、単なる興味本位ではなかったでしょう。9章7節以下に、人々がイエスのことを、ヘロデが首を切って殺した洗礼者ヨハネが復活してきたのだとうわさしていることを聞いた彼が、「この人はいったい何者だろう」と思い、イエスに会ってみたいと思ったということが語られていました。ヘロデの心には、自分の罪におののき、主イエスを恐れる思いがあったのだと思います。恐れているがゆえに、相手がどのような者か確かめたいと思っていたのでしょう。しかしヘロデがいろいろ尋問したことに対して、また祭司長や律法学者たちがヘロデの前でも激しく訴えたにもかかわらず、主イエスは何もお答えになりませんでした。勿論、何のしるしも、つまり奇跡もなさらなかったのです。その結果ヘロデは、11節にあるように、「自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した」のです。主イエスを恐れていたヘロデは、主イエスに会ってみて、何も答えることができない、何の奇跡も行うことができない、こんなやつ恐れるに足りなかった、と思ったのです。恐れはあざけりの思いに変わり、「王なら王らしく立派な衣を着せてやろう」という侮辱を加えてピラトのもとに送り返したのです。

罪なくして
 主イエスの十字架の死刑が決定する前のこの一連の出来事はいくつかのことを示しています。第一には、ローマ帝国のユダヤ総督ピラトも、ガリラヤの領主ヘロデも、主イエスを死刑にするべき罪人とは認めなかった、ということです。ピラトは「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言っていますし、ヘロデが主イエスをピラトに送り返したのは、「自分はこの男を処刑しようとは思わない、あなたがお好きなようにどうぞ」ということです。主イエスの十字架の死は、主イエスご自身の罪の結果ではなかった、主イエスは罪なくして十字架につけられたのだ、ということがこのことによって示されているのです。

ピラトとヘロデの連帯
 第二のことはその裏返しですが、ピラトもヘロデも、自分が主イエスを裁き、有罪か無罪かを決めることができると思っている、その点でこの二人は共通しているということです。そしてこの共通点において、それまで対立していたこの二人が仲良くなったことが12節に語られています。ピラトは主イエスをヘロデに送り、「あなたがこの男を好きなように裁いて下さい」と言うことによってヘロデを尊重していることを示し、ヘロデは主イエスをピラトに送り返し、「いやいや、あなたがお裁きになってください」と言ってピラトのご機嫌を取ったのです。政治の世界というのは、いかにお互いの顔を立てるかという面がありますから、このことによってそれまで対立していた二人の関係が良くなったのです。それは支配者どうしの政治的駆け引きの道具として主イエスが利用されたということです。しかしこのことをもっと深く見つめるならば、主イエスを裁き、有罪か無罪かを決める、ということにおいて、人間は様々な対立を乗り越えて連帯するのだ、ということが示されていると言えるでしょう。共通の敵を持つことにおいて仲良しになり、連帯する、ということが私たちの間にはしばしば起ります。そういう連帯は健全なものではないし、本当の意味で実りあるものではありません。そのことが、このピラトとヘロデの姿において描かれているのです。彼らの連帯は、主イエスを裁き、侮辱し、十字架につけることにおける連帯だったのです。

主イエスの沈黙
 私たちがここで見つめるべき第三の、そして最も大切なことは、主イエスが、ご自分を裁いているピラトの前でもヘロデの前でも、沈黙を守っておられる、ということです。ピラトの問いに対しては、「それは、あなたが言っていることです」という答えにならない一言を語るのみでしたし、ヘロデの前ではもはや何もお答えにならず、全くの沈黙を貫かれたのです。先週の、最高法院における裁判の場面とはずいぶん違います。主イエスはそこではいくつかのことをお語りになりました。それは先週読んだように、尋問に答えたというのではなくて、むしろ逆に裁いている者たちに問いかけ、責任ある応答を求めていかれたのでした。しかし本日の箇所では、問いかけすらしておられません。その違いは、問われ、問題となっていることの違いによると言えるでしょう。最高法院における裁判では、主イエスが救い主キリストであられるのか、神の子であられるのか、ということが問題でした。つまり主イエスと神様との関係という信仰において重要なことが問われていたのです。しかしピラトやヘロデが問題としているのは、彼らの握っている政治的権力のことでしかありません。主イエスはそのようなことについては何も語ろうとはなさらないし、問いかけることもなさらないのです。政治的な領域において、この世の支配者と対立してご自分が王となろうなどとは少しも考えておられないのです。これが、ピラトやヘロデの前で主イエスが沈黙しておられたことの第一の理由です。けれども、主イエスの沈黙をそのようにのみ捉えることは正しくありません。この沈黙は、興味のないこと、語る必要のないことについては黙っていた、というだけのことではないのです。

沈黙して神に向かう
 沈黙する、ということは聖書において大事な、また積極的な意味を持っています。そのことを語っている代表的な箇所の一つが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第62編です。その2、3節と6、7節はこの詩における折り返し、リフレインとなっています。2、3節には「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」とあります。6、7節には「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない」とあります。いずれにおいても、沈黙することは、ただ神に向かい、神による救いをこそ求め、そこに希望を置くことを意味しているのです。聖書において沈黙するとは、ただ語るのを止めて黙ることではありません。あるいは自分の内面を見つめ、いわゆる内省をすることでもありません。沈黙するとは、人間との関係、関わりから目を離して神様に向かうことです。人間の言葉を語り、聞くことをやめて神様のみ言葉に耳を傾けることです。そこでこそ「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔」ということが示され、「わたしは決して動揺しない」という力強い歩みが与えられるのです。

欺きの言葉の氾濫
 詩編62編を歌った詩人は、決して平穏な、外界の雑音から遮断された静かな場所にいたのではありません。4、5節には「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり、人を倒れる壁、崩れる石垣とし、人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う」とあります。彼は敵に攻められ、苦しめられているのです。欺きの言葉、口先で祝福し、腹の底で呪うような言葉が彼の周囲に満ちているのです。表面的には祝福を語り、好意的な、人のためを思っているように思える言葉が、実は腹の底には呪いの毒を持っている、そういう人間の言葉に彼は辟易しているのです。10節ではこう語っています。「人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い」。裏表のある言葉が氾濫している現実の中で、詩人は人間不信に陥っています。人間の空しさ、吹けば飛ぶような軽さを感じています。重みのある、本当に中身が充実している、それゆえに頼りになり、支えとなり慰めとなるような人間がいないことを感じています。人間の言葉も同時に形だけの、まことに軽いものとなっており、本当に中身があり、人を生かし、慰め、支えるような力ある言葉が聞かれなくなっているのです。
 11節にはこうあります。「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな」。人間そのものとその語る言葉がこのように空しいもの、形だけの軽いものになってしまっているのは、力に依存し、他の人からどれだけ奪い取って自分のものとすることができたかを誇り、力が力を生むこと、つまり強い者がますます強くなり、その力によって弱い者を食い物にしていく、そういう成功による繁栄に心を奪われ、誰もがそれを求めてあくせくしていることによってです。その熾烈な競争の中で、先ほどの4、5節にあった、「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり、人を倒れる壁、崩れる石垣とし、人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う」ということが生じているのです。

沈黙して、ただ神に向かう主イエス
 そのような人間の言葉が毒矢のように飛び交っている現実の中で詩人は、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と言っているのです。この詩人の思いは、ピラトやヘロデの前で沈黙しておられた主イエスの思いでもあったのではないでしょうか。主イエスは沈黙して、ただ父なる神様のみを見つめつつ、神の独り子であるご自分を裁き、罪があるとかないとか、信じられるとか疑わしいとか言っている人間の空しい傲慢な言葉に耐えておられたのです。そしてただ我慢しておられただけではなく、それらの人間の罪をご自分の身に背負って、十字架の死への道を歩んでおられたのです。主イエスが罪のない方でありながら、人間の裁きを受け、その中で沈黙してただ神に向かい、神にのみ望みを置いて十字架の死へと歩み通して下さったおかげで、私たちは罪を赦され、新しくされて、空しい偽りの言葉ではなく、互いに愛し合う新しい言葉を語っていくことができるようになったのです。

沈黙してみ言葉を聞く
 しかしそのためには、私たちも主イエスに倣って、そしてこの詩人に倣って、沈黙してただ神に向かわなければなりません。人間の言葉、自分の言葉を語るのをやめて黙らなければなりません。それは先ほども申しましたように、黙って自分の内面を見つめるということではありません。私たちの内面に渦巻いているのも、やはり人間の言葉です。口先で祝福し、腹の底で呪うような欺きの言葉が私たちの内面をも支配しているのです。私たちが見つめるべきものは自分の内面ではなくて、主イエスの父なる神様です。沈黙してただ神に向かい、神様のみ言葉に耳を傾け、それを聞くことが大切なのです。詩編62編の12、13節にこうあります。「ひとつのことを神は語り、ふたつのことをわたしは聞いた。力は神のものであり、慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と。ひとりひとりに、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる、と」。ここはどう解釈するか難しいところでもありますが、細かいことはともかく、基本的に言われているのは、神が語り、人間がそれを聞く、ということの大切さです。神はそこで「力は神のものである」ことを語って下さいます。人間がそのみ言葉を聞いて、力は神のものであって人間のものではないことを受け入れ、「力が力を生む」ことに心を奪われ、自分が力を得て勝利し、成功し、繁栄することを追い求めることをやめるなら、まことの力の神が慈しみを与えて下さるのです。この神の慈しみによってこそ、「私は決して動揺しない」という歩みが与えられるのです。

わたしは決して動揺しない
 先週見つめたように、私たちは自分の思いによって主イエスを裁こうとする者です。しかしまた同時に私たち自身も、主イエスがピラトやヘロデの下で体験なさったように、人々に裁かれ、人間の言葉、口先で祝福し、腹の底で呪うような欺きの言葉によって傷つけられています。傷つけられる苦しみ悲しみを知っているはずの自分も、そのような言葉を語り、人を傷つけてしまうことを繰り返しています。そのような罪深い私たちのために、主イエスは罪がないのに人間による裁きを受けて下さり、その苦しみの中で沈黙してただ神に向かうという模範を示して下さいました。主の2012年、私たちも主イエスの父である神様のみ前に沈黙して、そのみ言葉を聞くことを追い求めていきたいと思います。そこにこそ、「わたしは決して動揺しない」という歩みが与えられていくのです。

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