主日礼拝

この希望によって救われている

「この希望によって救われている」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編第27編1-14
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第8章18-25節 
・ 讃美歌:7、196、386

被造物のうめき苦しみ
 今日皆さんとご一緒に読み、味わおうとしている聖書の箇所は、新約聖書、ローマの信徒への手紙の第8章18節以下ですが、その中の22節にこのようにあります。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」。被造物というのは、神様によって造られたもの、つまりはこの世界の全てのものです。この世界の全体が、うめいている、産みの苦しみを味わっている、と聖書は語っているのです。この世界のうめき、苦しみを今私たちは感じているのではないでしょうか。このところ、様々な自然災害が起り、多くの人々の命が失われました。大地震やそれによる津波、あるは火山の噴火などは、これは昔からあったことで、日本という国に暮らしている以上仕方のないことかもしれません。しかし大雨や台風は、数十年前とはその規模が全く違ってきているように思います。「これまでに体験したことのない大雨」という表現が気象予報で用いられるようになり、それが毎年のように起っています。このごろの台風は、近づいてきても勢力が衰えず、むしろ発達することがあります。それは海水面の温度が高いからです。地球の温暖化をそういう所で実感させられます。温暖化の原因は大気中の二酸化炭素濃度の上昇であり、二酸化炭素は人間の営みによって排出されています。つまり私たち人間の活動によって地球の環境が汚染され、破壊されているのです。地球の自然は今、人間による破壊によってうめき苦しんでいる、そのしっぺ返しとして、様々な自然災害が起っていることを私たちは感じています。
 人間の造り出したものが環境に対する重大かつ深刻な汚染、破壊をもたらしている、その代表があの原子力発電所の事故です。先日の台風でも、新たに大量の汚染水が海に流れ出ました。大気中への放射性物質の放出は止まっていないし、汚染水は全然コントロールされていません。メルトダウンした核燃料がどうなっているのか未だにはっきり分かっていないし、廃炉に向けての作業の間に何が起るか、全く予断を許さない状況です。人間が、大量のエネルギーを、つまりは富を得るために造り出した施設が制御不能になり、人間が処理することの出来ない汚染物質が大量にばらまかれ、今後何十年、何百年にわたって人が住むことの出来ない地域が生じ、特に子供たちへの健康被害の恐怖が人々を包んでいます。見た目には以前と全く変わらないのどかな田園風景が広がっているのに、放射能のためにそこに人は住むことができない、そのように汚染されてしまった自然のうめき苦しみの声、そのような汚染をもたらした人間への恨みと呪いの声なき声が聞こえてくるようです。被造物のすべてが今うめき苦しんでいる。そしてその責任は私たち人間にあるのです。

私たちのうめき苦しみ
 しかしうめき苦しんでいるのは自然だけではありません。私たち人間もまたうめき苦しんでいます。環境破壊が原因である自然災害や原発事故によって自然だけでなく人間自身にもうめき苦しんでいますが、それだけでなく私たちが築いているこの社会も今うめき苦しんでいます。先日テレビで、今世界でベストセラーとなっている経済学の本のことを紹介していました。その本は、資本主義によって経済活動が盛んになっていけば、富んでいる者つまり資本家と、貧しい者つまり労働者の格差は次第に縮まっていくと従来考えられていたのは間違いで、格差はますます広がっていくだけだ、ということをデータに基づいて論証しているのだそうです。確かに今、豊かな者と貧しい者の格差が拡大しています。このままでは、格差が固定化し、人々の心がますます荒み、絶望が広がり、社会の一体性が失われていくことが懸念されます。世界全体でそういうことが起っており、武力対立や暴動、テロの背景には、格差に対する人々の怒りの高まりがあります。この社会全体が今悲鳴をあげ、うめき苦しんでいるのです。その中で生きている私たち一人一人も、自分と家族の生活を守るために必死にならざるを得ません。仕事においても、厳しい競争の中で成果を求められ、以前よりも遊びやゆとりがなくなってきているように思います。厳しい労働環境の中で心のゆとり、余裕がどんどん失われて、精神的にも追いつめられていきます。私たち一人一人もそういううめき苦しみの中にいるのです。22節に語られている被造物のうめき苦しみは、まさに今のこの世界と私たちの現実だと言えるのです。

パウロは被造物のうめきを何によって知ったのか
 この手紙を書いたのはパウロという人ですが、彼は紀元1世紀を生きた人です。パウロとイエス・キリストはだいたい同じ頃に生まれたと考えられます。今から二千年も前、日本で言えば弥生式土器の時代、邪馬台国とか卑弥呼とかよりもさらに200年くらい前です。その時代の人がこのように被造物全体のうめき苦しみということを書いているのは驚くべきことだと思います。確かに当時の人々の暮らしは貧しかっただろうし、生きていくのは大変だったでしょう。しかしパウロはそういう人間のうめき苦しみだけでなく、被造物全体がうめき苦しんでいることを見つめているのです。私たちが今体験している環境破壊や温暖化などを彼は全く知りません。勿論、原発事故や放射能汚染も知りません。それなのに彼が被造物全体のうめき苦しみを感じ取ったのは何によってなのでしょうか。それは聖書によってでした。彼は聖書、今で言う旧約聖書に親しんでいたために、被造物全体のうめき苦しみを感じ取ることができたのです。

人間の罪の結果としての被造物の苦しみ
 旧約聖書の最初の創世記には、神がこの世界と人間をお造りになったこと、つまりこの世界は神による被造物であることが語られています。神はこの世界と人間を、極めて良いものとして造り、人間を、被造物の全てを治め、支配する者として造って下さったのです。人間は言わばこの世界の管理人として神によって立てられたのです。神が極めて良いものとして造って下さったこの世界を、神のみ心に従って管理することが使命として人間に与えられたのです。ところが人間は、神に背き逆らう罪を犯しました。神の下で、神に従って生きることをやめて、自分が主人となり、自分の欲望に従って生きるようになったのです。そこに人間の罪の本質があります。そしてその罪の結果、神との良い関係を失ってしまった人間は、この世界を神のみ心に従って適切に管理することも出来なくなりました。むしろ自分の欲望のために被造物を破壊し、自分の思い通りに作り替え、利用するようになったのです。そこに、被造物のうめき苦しみの原因があります。人間が罪に陥り、神との良い関係を失ったために、人間に管理される被造物は適切な管理を受けることができなくなり、苦しみに陥ったのです。パウロは、聖書が語っているこのことを受け止めているのです。それゆえに彼は、環境破壊も温暖化も、また原発の事故も起こっていない二千年前に既に、被造物のうめき苦しみを感じ取り、それを語ることができたのです。
 今私たちが体験している環境破壊や温暖化はまさに、人間が自然を自分の欲望のために利用し、破壊してきた結果です。原子力も、自然のままなら安定している原子核をわざと破壊することによって莫大なエネルギーを得ようとするものです。その結果、放射性物質という自然と人間を脅かすもの、しかも人間がコントロール出来ないものが生み出されてしまったのです。これらは人間が被造物の管理の仕方を間違えてしまったことによって起ったことです。その根本には、自分が主人となり、自然を神のみ心に従って管理するのではなく、自分の欲望のままに利用しようとする人間の罪があります。罪によって神との良い関係が失われた結果として、今私たちが感じている被造物のうめき苦しみが起っているのです。パウロが聖書に基づいて、人間の罪の結果としての被造物のうめき苦しみについて語ったことは、二千年後の今日私たちが体験していることを的確に説明しているのです。

神の子たちが現れるのを待ち望む
 罪によって人間が神との良い関係を失ってしまったために、人間も含めた被造物の全てがうめき苦しんでいる、パウロがそのことを語っているのは、それを見つめることによってこそ、そのうめき苦しみから解き放たれる希望が見えてくるからです。被造物はうめき苦しんでいるが、同時に希望が与えられているとパウロはここで語っています。20節には、被造物は虚無に服しているが、同時に希望も持っているとあります。その希望とは、19節に語られている「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」ということです。神の子たちが現れることが被造物の希望なのです。「神の子たち」というのは、神との間に父と子という良い関係を回復された者たちです。そういう人間が現れることを、被造物はうめき苦しみつつ待ち望んでいるのです。その人たちが現れれば、つまり人間が神の子となり、神との良い関係を回復するならば、神のみ心に従う正しい適切な管理が回復されるからです。被造物はそのことを待ち望んでいるのだと聖書は語っています。まさにこのことこそ、今この世界が必要としていることなのではないでしょうか。人間の営みが自然に与える影響は昔とは比べものにならないくらい大きくなり、昔のように、川に流してしまえばそのうち自然が浄化してくれるようなレベルではなくなりました。今後この世界を、地球を、適切に管理していかなければ、つまり環境を守り、資源を守り、二酸化炭素の排出を制限し、温暖化を防いでいかなければ、早晩この地球に人類は住めなくなってしまいます。これまでのように欲望のままに資源を使い、環境を破壊し続けているわけにはもういかないのです。私たちには、将来の世代の人々に対する責任があります。自分たちの今の生活を維持するために、何千年、何万年も管理しなければならない放射性廃棄物をどんどん溜め込み、それを将来の世代の人々に押し付けるわけにはいかないのです。このように私たちは、この地球の環境を適切に管理していかなければなりません。そのためには、私たち人間が変らなければなりません。自分を主人とし、自分の欲望を第一としている生き方から、神をこそ主とし、そのみ心に従って、神がお造りになったこの世界を適切に管理し守っていく者へと変っていかなければならないのです。つまり私たちが神の子とされ、神との良い関係を回復されていってこそ、被造物はうめき苦しみから解放されるのです。21節に、「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」とあるのはそういう希望を語っているのです。

私たちは変っていかなければならない
 そしてこのことは同時に私たち自身が救われることでもあります。私たち自身もこのことによってうめき苦しみから解放されていくのです。格差が広がり、人々の心が荒み、社会の一体感が失われていくことに歯止めをかけ、互いを思いやり支え合い愛し合って生きる社会を築いていくためには、経済政策をどうするかということだけでは足りないでしょう。私たち一人一人の生き方が変らなければならないのです。自分の欲望を抑えて、隣人のために、地球上に共に生きる人々のために、また将来の世代のためになすべきことをしていく、そのように自分の生活を管理していくこと、それは言い換えれば愛に生きる者となることですが、そのように私たちは変わっていかなければなりません。私たちがそのように変わっていくことができるかどうかに、人類の将来、地球の未来はかかっていると、大げさでなく言えると思います。しかし私たちは、自分で変わろうと思っても、なかなか変わっていけない者です。これまでの生き方から脱皮することはなかなか出来ないのです。その私たちが本当に変っていくことができるのは、神様と出会うことによってです。神様との間に父と子という関係を与えられることによってです。神様が自分を本当に愛していて下さり、ご自分の子として養い、守り、導いて下さっていることを知ることによってこそ、私たちは変えられるのです。神の子としての新しい生き方が生まれるのです。神の子たちが現れること、つまり私たち一人一人が神の子とされることこそ、被造物全体の希望なのです。

〝霊〟の初穂をいただいている私たち
 私たちは、神の子とされることを待ち望みつつ生きています。それが、教会の信仰、クリスチャンの信仰です。そのことを語っているのが23節です。「被造物だけでなく、〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。「わたしたち」と言われているのは、イエス・キリストを信じて生きている信仰者、クリスチャンたちです。クリスチャンは、神の子とされることを、心の中でうめきながら待ち望みつつ生きているのです。つまり、クリスチャンになれば神の子とされてうめき苦しみがなくなるわけではありません。教会に集い、神を礼拝しつつ生きている者たちも、全ての被造物と共に、うめき苦しみながら、自分が神の子とされることを待ち望んでいるのです。それでは、信仰者になってもそれまでと全然変わらないということか、というとそうではありません。「〝霊〟の初穂をいただいているわたしたち」とあります。キリストを信じて洗礼を受け、教会に連なっている信仰者は、「〝霊〟の初穂」をいただいているのです。霊とは、神の霊、聖霊です。聖霊が自分の内に与えられ、宿って下さる、それが信仰者に与えられる恵みです。そしてその聖霊は「初穂」と言われています。初穂とは、その年の実り、収穫の最初のものです。つまり初穂が与えられているということは、それに続く豊かな実りが約束されていることを意味します。つまりキリスト信者は、神の子とされるという実りの初穂を与えられ、その最初の一歩を歩み出しているのです。私たちの内に働いて下さる聖霊は、その初穂に続いて、次々に実りを与えていって下さいます。神に敵対して、自分が主人になって、欲望によって生きていた私たちが、この聖霊のお働きを受けて、次第次第に、神の愛をより深く確かに知らされていき、神が自分の父となって下さっており、自分を子として愛し、養い、導いて下さっていることをより深く知らされていくのです。そのようにして、神との良い関係が次第次第に深められていくのです。「〝霊〟の初穂をいただいている」とはそういうことであり、そこに、キリスト信者として生きる者の幸いがあるのです。

子として下さる神の愛の下で
 私たちが神の子とされることが被造物の希望であり、それこそが私たちの救いですが、それは私たちのこの地上の人生の中で完成してしまうことはありません。この世の人生を生きている私たちは、どこまで行ってもなお罪ある者であり、弱い者です。自分を主とし、神に従うよりも自分の欲望を第一にすることによって、神との良い関係を繰り返し失ってしまうのです。それによってこの世界の被造物を破壊し、苦しめてしまい、また共に生きる隣人をも苦しめ、悲しませてしまうのです。そしてその結果自分自身もうめき苦しみに陥っていくのです。そのうめき苦しみは、私たちが地上を生きている限り続きます。しかしそのような私たちのために、神は独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。まことの神の子である主イエスが人間となって下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を赦して下さったのです。聖霊なる神が初穂として宿って下さることによって、私たちはこのキリストと結び合わされ、神の子とされて新しく生き始めます。私たちが神の子と呼ばれるのに相応しい生き方をしていくのではなくて、キリストの十字架によって神が与えて下さった罪の赦しの恵みを受けて、神が私たちを子として下さり、ご自分との間に良い関係を結んで下さる、その愛によって生かされていくのです。聖霊の働きによってこの新しい一歩を踏み出すことが、洗礼を受けて信仰者となることです。最初の一歩を踏み出しただけなのですから、私たちの罪によって生じるうめき苦しみはなお続いていきます。しかし信仰者となる前と決定的に違うのは、聖霊の導きによって一歩を踏み出し、歩き始めたということです。うめき苦しみは同じようにあるとしても、歩き始める前と、歩き始めた後とでは、その意味は全く違うのです。神の愛に支えられて歩き始めた者にとっては、その道の途上でのうめき苦しみは、神の子とされる救いの完成を待ち望む希望の中での苦しみです。信仰によって、私たちのうめき苦しみは、待ち望む苦しみ、希望のある苦しみとなるのです。22節で、被造物が、「産みの苦しみを味わっている」と言われていたのはそのこととつながるのです。産みの苦しみは、希望ある苦しみです。喜びが約束されている苦しみです。被造物が、この世界が今うめき苦しんでいる、その苦しみは産みの苦しみ、希望ある苦しみなのです。なぜなら、主イエス・キリストの十字架と復活による神の救いのみ業が既に実現しているからです。独り子の命を与えて下さるほどに、神は私たちを愛して下さっており、私たちの罪を赦して、神の子として新しく生かそうとして下さっているからです。神がご自分の子らをこのようにして立てて下さろうとしているので、被造物のうめき苦しみはもはや虚しい苦しみではなく、産みの苦しみ、希望ある苦しみなのです。

忍耐して待ち望む
 主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しの恵み、神が私たちを神の子として下さり、ご自分との良い関係に生きる者として下さるという救いを信じて、洗礼を受け、キリストと結び合わされて生きるならば、私たちのうめき苦しみも、産みの苦しみとなります。希望ある、喜びへと向かう苦しみとなります。私たちはなお自分の罪にうめき苦しみつつも、神の子としての新しい生き方へと、自分の欲望を抑えて、神と隣人を愛し、将来の世代の人々への責任をしっかり果して生きる歩みへと、一歩一歩前進していくことができるのです。私たちはこのような希望を与えられています。この希望によって救われているのです。希望は、まだ目に見える現実となってはいないから希望です。24節に「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」とある通りです。私たちが神の子として、神との良い交わりに生き、神のみ心に従って被造物を適切に管理し、また神のみ心の通りに、この社会を互いに愛し合い、いたわり合い、支え合う社会へと整えていくことは、まだ目に見える現実とはなっていません。しかし聖霊を初穂として与えられている私たちは、まだ目に見えるものとはなっていないこのことを希望をもって見つめつつ、忍耐してそれを待ち望むのです。希望をもって待ち望むところには忍耐が与えられます。あきらめて絶望してしまうのでなく、自分のまた人々の罪の現実、そして社会全体がその罪によって支配されている現実にも拘らず、なお希望を失わずに忍耐強く歩んでいくことができるのです。独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さった神は、私たち人間に対して希望を失わず、忍耐して私たちの悔い改めを待っていて下さり、私たちを神の子としようとしておられます。そのために聖霊を初穂として私たちの内に宿らせて下さいます。この神の恵みのゆえに私たちは、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて、神の子としての新しい一歩を踏み出すことができます。そして、なお罪の中でうめき苦しみつつも、聖霊の導きによって、神の子としての歩みを一歩一歩前進していくことができるのです。そこに私たちの希望があるし、うめき苦しんでいるこの世界の、被造物全体の希望もあるのです。

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