「教会の親石」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第118編22-25節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第20章9-19節
・ 讃美歌:346、152、411、67、458
ペンテコステの日の出来事
本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。クリスマス、イースターと並ぶ、教会の三つ目の大事な記念日です。しかしキリストの誕生を祝うクリスマス、その復活を記念するイースターと比べ、ペンテコステの意味は分かりにくいかもしれません。この日に私たちは何を記念するのでしょうか。その出来事は、今礼拝において読み進めているルカによる福音書の、同じ著者による続編である使徒言行録の第2章に語られています。十字架につけられて亡くなり、三日目に復活した主イエスは、四十日にわたって弟子たちに生きておられるご自身の姿を現わされました。そして四十日目に天に昇られたのですが、その前に弟子たちに、あなたがたの上に聖霊が降るのを待っていなさいとお命じになったのです。その約束を受けて集まり、祈りつつ待っていた弟子たちの上に、このペンテコステの日、訳せば五旬祭、つまり過越の祭りから五十日、ということは主イエスの復活からも五十日目に、聖霊が降り、一同は聖霊に満たされたのです。聖霊に満たされるってどんなことなのだろうと思いますが、ここで起ったのは、彼らが様々な国の言葉で、主イエス・キリストによって成し遂げられた神様の偉大な救いのみ業を語り始めた、ということです。聖霊に満たされることによって弟子たちは、主イエス・キリストのことを宣べ伝えていく言葉を与えられたのです。しかも、様々な違った言葉を持つ世界中の人々にそれを伝えるための多様な言葉を語る者とされたのです。弟子たちが聖霊に満たされたことによって、主イエス・キリストによる救いの恵みが全世界に宣べ伝えられる、伝道が始まったのです。弟子たちを代表してペトロが語った説教を聞いた人々は、大いに心を打たれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いました。聖霊の導きの中で語られるみ言葉は人の心を打ち、新しくされることを求める思いを与えるのです。ペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と勧めました。その勧めに答えて、その日に三千人の人々が洗礼を受け、弟子たちの仲間となりました。このようにしてこのペンテコステの日に、イエス・キリストを神の子、救い主と信じ、悔い改めて罪の赦しにあずかり、その救いの恵みを宣べ伝える者たちの群れである教会が誕生したのです。ペンテコステは聖霊が降って教会が誕生した日です。そのことを私たちは本日覚え、記念するのです。
敵意の中で
本日この礼拝においてご一緒に読むのは、その使徒言行録第2章ではなくて、ずっと読み進めているルカによる福音書の続き、20章9節以下です。19章の後半において主イエスはエルサレムにお入りになりました。それは主イエスのご生涯の最後の一週間、いわゆる受難週が始まったということです。この週の金曜日には十字架につけられて殺される、その数日前の出来事がここに語られているのです。この時主イエスはエルサレムの神殿の境内で、集まって来た民衆に教えておられました。そのことは19章の最後の所の47節と20章の1節から分かります。これらの箇所を読むと分かるように、神殿の境内で人々を教えておられる主イエスのことを、当時のユダヤ人の宗教指導者であった祭司長、律法学者、長老たちが敵意に満ちた厳しい目で見つめています。彼らは何とかしてイエスを殺してしまいたいと思っているのです。しかし民衆が喜んでイエスの話を聞いているので、手を出すことができなかったのです。そういう緊張をはらんだ状況の中で、主イエスは一つのたとえ話をなさったのです。本日はこのたとえ話を読みつつ、ペンテコステの出来事に思いを馳せていきたいと思います。
ぶどう園と農夫のたとえ
このたとえ話は、ぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して長い旅に出た主人の話です。農夫たちはこのぶどう園で働き、そこで収穫を得、具体的にはぶどう酒を造って売り、その利益の一部を地主であり設備投資をした主人に支払う義務を負っているのです。ところが主人がその取り分を受け取らせるために遣わした僕を、この農夫たちは袋だたきにして手ぶらで追い返しました。主人は別の僕を遣わしましたが、彼らはその僕をも袋だたきにし、侮辱し、やはり何も持たせずに追い返したのです。そこで主人は、「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と言って愛する息子を遣わします。すると農夫たちは、「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って、息子をぶどう園の外にほうり出し、殺してしまったのです。そういうストーリーを語られた上で主イエスは、「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人に与えるにちがいない」とおっしゃいました。ここまでが主イエスの語られたたとえ話です。するとそれを聞いていた人々は、「そんなことがあってはなりません」と言いました。「そんなこと」とはどのことでしょうか。直前の、主人がこの農夫たちを殺してぶどう園を他の人に与える、ということを受けているようにも思えます。しかし人々が「そんなことがあってはならない」と感じたのは、むしろこの農夫たちが主人の僕を袋だたきにし、愛する息子を殺してしまうということだと考えた方がよいでしょう。ぶどう園を作り、ぶどう酒を造るための設備を整えて、そこに自分たちを雇ってくれ、自分たちの生活が成り立つようにしてくれた主人に対して、こんな恩を仇で返すようなことをするなんてとんでもないことだ、と人々は思ったのです。そんなことをすれば当然主人の怒りをかい、滅ぼされてしまう、そのような結果を招くことになってはいけない、ということでもあるでしょう。人々の言葉をそのように理解することによって、17節以下の主イエスのお言葉とつながるのです。
主イエスは、「そんなことがあってはなりません」と言う人々を見つめながらこう言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」。このお言葉は、「そんなことがあってはなりません」という人々に対して、「まさにそういうことが起ると聖書が既に予告しているのだ」と告げているのです。農夫たちが、雇い主である主人の僕たちを侮辱し、愛する息子を殺してしまう、そんなとんでもない理不尽なことがあってはならない、という人々に対して主イエスは、後に隅の親石として決定的に重要な役割を果すことになる石を、家を建てる者、つまり建築の専門家たちが、「これはいらない、役に立たない」と言って捨ててしまうということが起る、と聖書が既に語っている、と言っておられるのです。
見立て違い
「隅の親石」というのは、家の土台に据えられる石のことではなくて、石を積んでアーチが造られる、その一番上の真ん中に据えられる石のことです。その石がしっかりとはまることによってアーチ全体が堅固な構造物となり、その石がはずされてしまうと、アーチ全体が崩れてしまう、という石です。最初は役に立たないと思われていた石が、そこに丁度はまる最も大事な石となる、それはそのことを見抜けなかった家を建てる者たちの見立て違いなのです。そのことが、ぶどう園の農夫のたとえと結びつきます。僕たちを侮辱し、息子を殺した彼らは決定的な見立て違いをしています。僕を追い返せば利益を独り占めできる、さらには、跡取り息子を殺せば相続財産であるこのぶどう園が自分たちのものになる、それは決定的な見立て違い、判断ミスです。世の中そんなに甘くない、そうは問屋が卸さない、誰でもそれが分かるような話として主イエスはこのたとえを語られたのです。それは、そういう見立て違いをしている者たちがいる、ということを示すためです。それは誰か。19節に、「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので」とあります。このたとえを民衆に語っておられる主イエスは、実はその周りで敵意ある目で見つめている律法学者や祭司長たちに向けてこれを語っておられたのです。彼らは、ユダヤ人の宗教指導者です。神様を信じ、礼拝し、信仰に生きることにおいての指導者、専門家と目されている人々です。その彼らは、神の国の到来を宣べ伝えつつエルサレムに来られた主イエスを全く受け入れようとしていません。むしろ何とかして殺そうと思っているのです。家を建てる者が、本当は隅の親石となる石を、この石はいらない、役に立たないと言って捨ててしまうのと同じ大いなる見立て違いを彼らはしているのです。しかもその見立て違いは今に始まったことではありません。息子の前に遣わされた僕たちは、昔の預言者たちのこと、さらには洗礼者ヨハネのことを指しています。神様がその人々を遣わして語りかけても、彼らはそれに耳を傾けることなく、拒み、侮辱したり殺したりしたのです。そして今、神様が愛する息子、独り子である主イエスを遣わして下さったのに、彼らはその独り子を殺そうとしているのです。
隅の親石となる主イエス
しかし詩編118編の言葉を引用することによって主イエスが示そうとしておられるのは、彼らの見立て違いだけではありません。家を建てる者たちが見立て違いをして捨てた石が、隅の親石となる、最も肝心要の石となる、そのことをこの言葉は予告しているのです。そのことが、ご自分においても実現しようとしていることを主イエスは示そうとしておられます。祭司長たちや律法学者たちが拒否し、排除し、殺そうとしている主イエスが、父なる神様が建て上げようとしておられる救いの家、新しい神の民の隅の親石となるのです。主イエスこそ、家を建てる者によって捨てられるが、隅の親石となる石なのです。そして18節の「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」というみ言葉は、隅の親石となる主イエスを拒み、敵対するなら、その人は滅びに至る、ということを意味しています。隅の親石はそのように救いと滅びとを分ける決定的な意味を持っているのです。この石としっかり結び合わされることによってこそ、神様による救いにあずかることができ、新しい神の民の一員となることができるのです。詩編118編の言葉をご自分のことを語っている言葉として引用することによって、主イエスはそのようにご自分が神の救いの家の隅の親石であることを示そうとしておられるわけです。しかしそこに同時に示されているのは、ご自分が、家を建てる者たちから、「これはいらない、役に立たない」と思われて捨てられる、ということです。つまりこの引用は、今目前に迫っている主イエスの十字架の死、受難の予告にもなっています。この受難、十字架の死と、それに続く復活によって、ご自分が隅の親石となる新しい家、救いの家が建て上げられていくことを主イエスは示そうとしておられるのです。
ペンテコステ―教会の棟上げ
ここに、本日の箇所をペンテコステの礼拝において読むことの意味があります。ペンテコステは最初に申しましたように、教会の誕生日です。神様はこの日に、聖霊を遣わして下さることによって、主イエス・キリストを信じ、その救いにあずかる者たちの群れである教会という家を、新しい神の民として建て上げて下さったのです。ペンテコステの日の出来事は、日本的な感覚で言えば教会の棟上げであると言ってもよいかもしれません。石造りの家における棟上げは、アーチの頂点に隅の親石がしっかりと据えられ、堅固な構造が出来上がることです。聖霊が降ることによって、新しい神の民である教会に、主イエス・キリストという隅の親石がしっかりと据えられたのです。教会はキリストの体であり、その頭はキリストである、という言い方がありますが、キリストが教会の頭であるというのと、隅の親石であるというのは同じことです。ペンテコステの日に、キリストの体である教会が、キリストを頭として、つまり隅の親石として、建て上げられたのです。そこに至るまでには、主イエスの十字架の死と、三日目の復活と、四十日目の昇天という建築工事が進められてきました。主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、父なる神様が死の力に勝利して主イエスを復活させて下さり、そして天に昇った主イエスが父なる神の右の座に着いて下さったことによって、主イエスによる救いのみ業が成し遂げられたのです。後はそれをこの世の目に見える現実の中に現わし、人々がそれにあずかるための道を開くことです。そのために、ペンテコステの日に、天におられる父なる神と独り子主イエスから聖霊が遣わされて、キリストを隅の親石とする、キリストの体である教会がこの世に誕生したのです。例えて言えば、棟上げがなされ、教会という建物の形がはっきりと示されたのです。しかしその建設工事はなおも続いています。教会を誕生させた聖霊は、その後も教会を守り導きつつ、その建設のみ業を進めておられるのです。その聖霊が今私たちにも働きかけて下さっています。私たちが主イエス・キリストによる救いを信じ、洗礼を受けて罪の赦しと新しい命に生きる者とされ、教会に連なる者とされるのは全て聖霊のお働きによることです。聖霊が私たちを、教会の隅の親石である主イエス・キリストのもとへと導き、キリストと結び合わせ、私たちをも一つの生きた石として、救いの家である教会の建設を押し進めていって下さるのです。
洗礼を受けて
本日も、一人の姉妹が洗礼を受けて教会に加えられます。この姉妹も、聖霊によって導かれて今日に至り、聖霊の力によって、教会の親石である主イエス・キリストと結び合わされて、教会を建て上げていく生きた石とされ、兄弟姉妹と共に、キリストの体である教会の部分として新しく生き始めるのです。このことを通して、既に洗礼を受け、教会の一員とされている全ての者たちが、それぞれに与えられている聖霊のお働きを再確認し、隅の親石である主イエス・キリストと結び合わされて教会を建て上げる生きた石とされていることを覚え合いたいと思います。家を建てる者たちによって捨てられた主イエスが、神の救いの家である教会の隅の親石となったことを見つめる時、私たちは、自分自身が人々に役に立たないと思われ、捨てられてしまうようなことを体験したとしても、神様が聖霊によって自分を、教会を築いて行く一つの大事な石として用いて下さることを信じて歩むことができます。また逆に、自分が誰かを、「あんな人は役に立たない、邪魔だ」と思って捨ててしまおうとするような時にも、神様が聖霊によってその人をも、教会を築いて行く一つの大事な石として用いて下さることに思いを致し、悔い改めを与えられるのです。主イエス・キリストという隅の親石がしっかりと据えられ、教会がこの世に誕生したペンテコステの恵みを覚え、聖霊のお働きによって私たち一人一人が新たにされ、教会の生きた石として用いられていきたいと思います。