主日礼拝

信仰者の自由

「信仰者の自由」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第24編1-10節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第10章23-第11章1節
・ 讃美歌; 2、122、543

 
すべてのことが許されている
 本日与えられている聖書の箇所の冒頭、コリントの信徒への手紙一の第10章23節に、「すべてのことが許されている」という言葉が二度繰り返して語られています。しかもこの言葉には括弧がつけられています。こういう括弧は聖書の原文にあるものではなくて、翻訳する時に解釈に基づいてつけられるものですが、そこに示されている理解は、これはコリントの教会の人々の間でしばしば語られていた言葉の引用だ、ということです。コリント教会の人々は「すべてのことが許されている」ということを、自分たちの信仰の一つのスローガンのように掲げていた、その言葉をパウロがここに引用しているのだと思われるのです。コリントの人々が言っていた、「すべてのことが許されている」とはどういうことだったのでしょうか。

偶像に供えられた肉
 この手紙の8章以下に語られてきたことの根本にある問題は、キリスト信者は偶像に供えられた肉を食べてもよいかどうか、ということです。ギリシャ、ローマの町々には、沢山の、偶像の神々の神殿がありました。それらの神々への献げ物として神殿に供えられた動物の肉が、下げられてきて市場で食肉として売られていたのです。このような環境の中でキリスト信者となった人々にとって、偶像を拝むことを拒み、ただ一人の神様を信じ、従う自分たちが、そういう肉を食べてもよいのかどうか、ということが信仰上の大きな問題となりました。旧約聖書の教えに従うユダヤ教の人々、つまりユダヤ人たちは、そのような肉を「汚れたもの」として絶対に食べようとはしませんでした。それは一つには、その肉を食べることは、神様の律法によって固く禁じられている偶像礼拝に加担することになるからです。もう一つの理由は、律法に、動物の血を食べてはならないと教えられていることです。だからユダヤ人たちは動物を屠殺して肉を取る時に必ず「血抜き」をするのです。そのような仕方で屠殺された肉しか食べなかったのです。ところが偶像に供えられた肉は、そのような仕方で屠殺されていない、そういう意味でも彼らはこの肉は食べられないと考えていたのです。主イエス・キリストを信じる信仰、キリスト教も、このような旧約聖書の教えを背景として、そこから生まれてきたものです。キリスト教は最初はユダヤ教の一派であると考えられていたのです。そういうユダヤ的な信仰の伝統の中を生きてきた人が、偶像に供えられた肉を食べるようになるというのは、私たちの想像を遥かに超えた大きな飛躍です。「すべてのことが許されている」という言葉は、その飛躍の大きさをあらわしていると言うことができるでしょう。これは激しい言葉です。「何をしてもいいんだ、どんな悪いことをしたってかまわないんだ」という意味にも理解されかねません。しかし勿論そういうことを言っているのではなくて、律法において禁じられているいろいろなこと、例えば偶像に供えられた肉を食べてはいけないとか、そういうことにはもう囚われる必要はないのだ、イエス・キリストを信じる信仰者は、それらの掟、戒めから自由にされているのだ、ということをこの言葉は語っているのです。旧約聖書の信仰を受け継ぐ者たちにとって、それは驚くべき教えでした。その驚きが、「すべてのことが許されている」という激しい言い方を生んだのです。

律法の権威
 このように、「すべてのことが許されている」という言葉が語っているのは、直接には、偶像に供えられた肉を食べることが許されている、ということです。しかし、このことが持っている広がりを無視することはできません。偶像に供えられた肉を食べることは、律法において禁じられている、しかしもはや、その掟は意味を失った、それに囚われる必要はない、とするならば、それは律法に定められている他の様々なことについても言えるはずです。この掟は守らなくてもよいが、こちらの掟はやはり守らなければならない、という区別はどうしてできるのか、ということになるのです。そうすると、律法の一つの掟が意味を失うならば、それによって律法の全体が規範としての意味を失うのではないでしょうか。律法の中心は十戒ですが、そこに語られていることも、もはや絶対の規範ではなくなるのではないでしょうか。十戒には、「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、むさぼってはならない」などとありますけれども、これらのことも、神様からの絶対的な戒めとしての意味を失う、時と場合によっては、殺したっていい、姦淫したっていい、盗んだっていい、偽証してもいい、むさぼってもいい、ということになるのではないでしょうか。「すべてのことが許されている」という言葉には、そのような広がりがあると言わなければならないのです。神様の掟、戒めである律法というのは、そういう意味で全体がつながったものです。「律法の一点、一角も変えてはならない」と言われているのには意味があるのであって、蟻の一穴から堤防全体が崩れていくように、律法のほんのささいな一点が規範性を失うならば、その全体が神の掟としての権威を失っていくのです。

一神教と多神教
 このことは、人間の文明を考えていく上での根本的な問題に関わることです。塩野七生の「ローマ人の物語」というシリーズについて、これまでにも何度か説教において取り上げてきましたが、この本は、聖書の背景となった世界を理解する上で大変よいものであると同時に、私たちの信仰について、いろいろなことを考えさせてくれる、問いかけに満ちた本です。その中で、ユダヤ人とギリシャ人とローマ人の違いがこのようにまとめられていました。人間の行動の規範を、宗教に求めたのがユダヤ人、哲学に求めたのがギリシャ人、法律に求めたのがローマ人である、というのです。「宗教」というのはこの場合、神様の掟、戒め、もっと広く言えば神の言葉、ということです。それに人間の行動の規範を置いたのがユダヤ人であり、それゆえにユダヤ人の間に、神の言葉を記した聖書が生まれたのです。ところがギリシャ人やローマ人は、そういうものに規範を置かなかった。ギリシャやローマに宗教がなかったわけではありません。沢山の神々が信じられており、神殿があり、礼拝が行われていました。しかし、ギリシャ人やローマ人はそこに人間の行動の規範があるとは考えなかった。人間は神々の教えに従うべきであるとは考えなかった。神々はそこでは、人間が従うべき主ではなくて、人間の営みを見守る存在だったのです。そこに、ユダヤ的一神教と、ギリシャ、ローマ的多神教の違いがあります。一神教と多神教の違いというのは、神様が一人であるか多数であるかという数の問題と言うよりも、人間に従うべき規範を与える神と、人間を見守る存在である神という違いなのです。一神教と多神教のすれ違いはそこに起こります。そしてそれがまさに、私たちがこの社会においてキリスト信者として生きようとする時に経験するすれ違いなのです。私たちは主イエス・キリストを信じ、神様に従って生きようとしている、だから例えば神道の結婚式や仏教のお葬式に連なって柏手を打ったり、手を合わせて拝むことには抵抗を覚えるわけです。ところが、私たちの周囲の多くの人々はそのことを、信じるとか従うとかいう感覚を全然持たずにしているのです。だから、私たちが何をそんなにこだわっているのか、理解してもらえないということになるわけです。
 キリスト教は、神様のみ言葉こそ人間の行動の規範であるとするユダヤ的伝統を受け継ぐ一神教です。しかしそのキリスト教の中に、「すべてのことが許されている」という考え方が生まれてきました。それは今申しましたように、つきつめて言えば、神様の掟、戒めをもはや人間の行動の規範としない、神様の戒めに縛られないで、人間が自分で判断して、自由に生きるのだ、ということであって、ユダヤ人たちには絶対に受け入れることのできない考え方でした。ところが、基本的にユダヤ教と同じ流れの中にあるはずのキリスト教会に、このような教え、考え方が起って来たのです。初代教会の最大の指導者であるパウロが、そのことを否定していないのです。パウロがここで「すべてのことが許されている」というコリント教会の人々の言葉を引用しているのは、「そんなことはとんでもない間違いだ」と言うためではありません。むしろ、彼はこのことを基本的には「その通りだ」と受け入れているのです。それを受け入れた上で、「しかし」と言って、ある但し書きをつけ加えているのです。それはどういうことでしょうか。パウロは、ユダヤ人でありながら、神様のみ言葉を人間の生活の規範とするユダヤ的な一神教の信仰を捨ててしまったのでしょうか。ギリシャ、ローマの人々のように、人間のことは人間が自分で決める、神様はそれを見守っているだけ、という多神教的世界観に妥協してしまったのでしょうか。

他人の利益のために
 この問いを抱きつつ、先ずは、パウロが「すべてのことが許されている」という教えにつけ加えた「但し書き」を読んでいきたいと思います。23節に、「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」とあります。すべてのことが許されているというのは確かにその通りだ、しかし、その許されていることすべてが益になるわけではない、私たちを造り上げるわけではない。この「益になる、造り上げる」ということを基準として、すべてのことを判断していくべきだ、とパウロは言っているのです。その「益になる」というのは、自分の益になるかどうか、ということではなくて、他人の益になることを追い求めよということだ、と言っているのが24節です。「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。「益になる、造り上げる」というのは、他人の益になる、他人を造り上げることなのです。全てのことが許されている中で、そのことをこそ追い求めよう、とパウロは言っているのです。その具体的実例として、偶像に供えられた肉を食べることについて述べているのが25節以下です。25節に「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」とあります。これは、偶像に供えられた肉であっても、気にすることなく食べてよい、ということです。その理由が、26節の「地とそこに満ちているものは、主のもの」という、本日共に読まれた詩編24編からの引用の言葉です。この言葉は、この世界の全てのものは主なる神様のものである、と語っています。偶像に供えられたものであっても、もともと主なる神様が造り、与えて下さっているものなのだから、汚れているなどと考える必要はないのです。つまり、偶像に供えられた肉を食べることができるのは、神様の掟を無視するからではなくて、むしろ神様を本当に信じるからです。主なる神様のご支配が、人間が造り出した偶像やそれを拝む人々の上にも確立していることを信じるからです。だから27節のように、「あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と言うことができるのです。「信仰を持っていない」というのは、主イエス・キリストを信じていない異教徒ということです。そういう人に招かれて食事をする時に、この肉はどこから手に入れたものか、などと詮索する必要はない、出されたものは感謝して、喜んで、おいしくいただけばよいのだ、ということです。ここまでが、「すべてのことが許されている」ということに当ります。「すべてのことが益になるわけではない」に当るのは28節です。「しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません」。この「だれか」とはどういう人であるかについて、様々な議論があります。一つの理解は、この「だれか」は共にその食事に招かれているクリスチャンであるという理解です。その場合には「これは偶像に供えられた肉です」というその人の言葉は、「私たちはこれを食べてもいいんですか、食べない方がいいんではないですか」という信仰上の心配、不安の言葉となります。このような心配を抱く人というのは、パウロが8章で指摘していた、「信仰の弱い人、偶像についての知識を十分に得ていない人」です。そういう人が同席していることがわかったなら、その人にいらぬ不安や心配を抱かせ、信仰のつまずきとなることを避けるために、その肉を食べるのをやめなさい、とパウロは教えているのだ、というのが第一の理解です。しかしこの「だれか」については別の理解もあります。これは、招いてくれたその家の主人のことだという理解です。その場合にはこの発言は、「この肉は、どこそこの神殿から下げられてきた、なになにという神様に献げられていた有り難い肉ですから、どうぞ沢山召し上がってください」という、本人にしてみれば好意から出る言葉だということになります。しかしそのように言われたら、キリスト信者であるあなたは、それを「ありがとうございます。いただきます」と言って食べるべきではない。そんなことをすれば、キリスト信者も、神々のご利益を喜び、それを求めているのだと相手に思わせることになってしまう。だからそういう指摘があった時は、「そういうものでしたら、私は遠慮します」と言って、キリスト者としての姿勢を示すべきだ、というのです。このどちらの読み方が正しいのか、決め難いところがありますが、いずれにしても、事がある人の信仰に関わり、その人がつまずいたり、あるいは間違った理解を持ってしまう恐れのある時には、食べてもよいものでも食べないように、許されていることでもしないようにするのが、私たちのあるべき姿だ、と言われているのです。そこには「良心のため」とあり、その良心とは自分の良心ではなく、他人の良心のことだ、と29節に語られています。自分の良心においては、何もやましさを感じる必要はない、全てのことが許されているのだ、しかし、人の良心、それは信仰と言い替えることもできるわけですが、それを痛め、傷つけることのないように、そのためには、許されていることでもしない方がよいことが多々あるのです。このように、他人の良心、他人の信仰のために配慮していくことを、パウロは31節で「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と言い表しています。「神の栄光を現す」、これこそが、「益になる、造り上げる」ことの内容なのです。

神の栄光を現すために
 「すべてのことが許されている」ことを受け入れた上で、この但し書きを加えることにおいてパウロがしていることの意味は何でしょうか。「すべてのことが許されている」というのは、先程申しましたように、律法をもはや人間の生活の規範とはしない、ということです。何かをする時に、このことは律法ではどう定められているか、ということに照らして事を決めることはもうしないということです。キリストを信じる者は、そういう掟からは自由になったのです。しかしそれは、ギリシャ人やローマ人のように、人間の考える哲学や、人間の定める法律に行動の規範を置くということかというと、そうではありません。もはや掟や律法に縛られていない自由な人間が、何をするにしても、先ず神の栄光を現すことを考え、そして他人の信仰のつまずきにならないように、他人の信仰を育てていくために、自分の自由を制限し、放棄するのです。掟によって強いられてそうするのではなくて、自分の意志で、自発的にそうするのです。それが、「すべてのことが許されている」信仰者の生き方なのです。「すべてのことが許されている」者が、「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにする」、それが、パウロの教える信仰者の自由です。それこそが、本当に自由な、解放された人間の姿なのです。

神のみ心はキリストのうちに
 先ほどの問いに戻りたいと思います。神様のみ心を人間の従うべき規範として受け止める、という点では、ユダヤ教もキリスト教も同じ一神教です。しかしその神様のみ心をどこに見るか、という点に違いがあります。ユダヤ教、つまり旧約聖書の教えにおいては、神様のみ心は律法において、掟という形で与えられており、それに従うことが神に従うことでした。しかし新約聖書は、旧約の時代に掟、律法において示されていた神様のみ心はが、主イエス・キリストにおいて成就、完成したと教えているのです。それゆえに私たちは神様のみ心を、律法にではなく、主イエスの救いのみ業に見つめます。私たちが信仰において何かをするのは、あるいはしないのは、掟、戒律に命じられたり禁じられたりしているからではありません。戒律を守ることが私たちの信仰ではないのです。そういう意味で私たちには全てのことが許されています。私たちはそういう自由に生きているのです。それは、人間の行動の規範を神にではなく人間自身に置くギリシャ、ローマの物の考え方とある点で通じるものです。人間の自由な決断が、そこでは大きな位置を持ってくるのです。しかし、その人間の自由な決断が、主イエス・キリストによって示された神様のみ心に添うものであることを追い求めていくのがキリスト教の教えです。もっと正確に言うならば、生まれつきの私たちは、そもそも自由な決断ができなくなっているのです。罪に支配され、その奴隷となってしまっているからです。人間は、自分の自由な決断によって行動していると思っていても、その全てが、実は罪の力によって支配され、ねじ曲げられてしまっているのです。それゆえにその人間の自由が、様々な問題を、対立を、悲惨な結果を生んでしまっているのです。その私たちを、罪の支配から救い出し、解放して下さったのが主イエス・キリストです。主イエスは、私たちの罪を全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んでくださいました。それによって私たちは、罪の支配から解放され、赦されて新しくされ、自由に生きることができるようになったのです。何者にも支配されず、拘束されずに、自由な決断に生きることができるようになったのです。その自由は、罪に支配されている私たちが行使する自分勝手な自由、自分の利益や、自分を造り上げることをのみ追い求める自由とは違います。主イエス・キリストによって本当の自由を与えられた私たちは、その自由を、キリストによって示された神様のみ心に従って生きるために用いていくのです。具体的には、自分の益よりも他の人の益のために、他の人が主イエス・キリストを信じてその救いにあずかり、感謝して生きることができるようになるために、むしろ自分の自由を制限し、放棄する、という歩みをしていくのです。そのように、与えられている自由を、神様のみ心に従って、他の人の救いのために用いていくことは、主イエス・キリストご自身が私たちのために歩んで下さった道でした。主イエスは、神様の独り子というご自分の自由と権利を、私たちの救いのために放棄して、人間となり、十字架の苦しみと死とを引き受けて、私たちを罪の支配から解放して下さったのです。「すべてのことが許されている」はずの主イエスが、その自由を、私たちの益のために、私たちを救いにあずかる者として造り上げるために用いて下さったのです。そのことによって、私たちは本当に自由な者として、何者にも囚われることなく生きることができるようになったのです。

信仰者の自由
 この自由を与えられた私たちはもはや、いかなる掟にも戒めにも縛られていません。私たちはもはや、戒律を守ることによって救いを獲得するのでもなければ、それを破ることによって滅びに陥るのでもありません。もともと罪の奴隷であり滅びに至るしかない私たちが、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しという神様の恵みによって救われるのです。だから私たちは今やいかなる掟からも戒律からも自由であり、全てのことが許されているのです。その私たちの歩みはしかし、神様抜きの、人間の思いのみによって生きる歩みではありません。私たちは、主イエス・キリストによって示された神様の恵みのみ心を思い、それに従って生きるのです。主イエスによって与えられた自由を、他の人々の益となるように、人々が主イエス・キリストを信じて、その救いにあずかり、それによって神の栄光が現されるために用いていくのです。「すべてのことが許されている」者が、自分の権利を主張するのではなくて、むしろ「すべてを神の栄光を現すためにする」、それが、信仰によって与えられる私たちのまことの自由なのです。32節には、「人を惑わす原因にならないようにしなさい」という警告が語られています。つまり人をつまずかせる者となるな、ということです。そのために私たちに必要なのは、このまことの自由に生きることなのです。罪に支配された、自分の利益を求める自由に生きようとするところに、人をつまずかせることが起るのです。33節には「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから」とあります。パウロはまさにこのまことの自由に生きているのです。そして11章1節「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」。パウロはキリストに倣う者として、キリストの後に従う者として生きているのです。それゆえにこそ、「全てのことが許されている」と言うことができるし、同時に「すべてを神の栄光を現すためにする」ことができるのです。私たちも、このパウロに倣って、主イエス・キリストによって与えられている自由を、み心に従って用いていきたいのです。

関連記事

TOP