主日礼拝

恵みに踏みとどまって

説教題「恵みに踏みとどまって」 副牧師 川嶋章弘

イザヤ書 第51章12-16節
ペトロの手紙一 第5章12-14節

結びの言葉
 ペトロの手紙一を読み進めてきまして、本日で読み終えます。2022年の6月から読み始め、基本的に月一回読み進めてきました。一年半をかけて読み終えることになります。本日の箇所は手紙の結びの部分ですが、とても短いので、うっかりすると読み飛ばしてしまいそうな箇所です。とりたてて注目するところのない、手紙の終わりに記される定形の文章のようにも思えます。しかしこの短い手紙の結びの言葉に、実はこの手紙全体が要約されていて、手紙のテーマがはっきり示されているのです。私たちはこのことに目を向けることを通して、改めてこの手紙が語ってきたことを受けとめ、この手紙を読み終えたいのです。

シルワノとマルコ
 しかしこのことに目を向けていく前に、この箇所を読んでまず目にとまることについて触れておきたいと思います。それは12節のシルワノと13節のマルコという人名と、同じく13節のバビロンという地名です。具体的な人名や地名は、手紙についての基本的な情報、つまり誰が手紙を書いたのか、どこで手紙が書かれたのかを知る手掛かりになるので、研究者は色々なことを論じてきました。12節には「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き」とあります。シルワノによって書いたと言われていることから、シルワノがペトロの語ったことを書き記した、つまり口述筆記したと考えられることもありますし、あるいは最初の説教でお話ししたように、この手紙はペトロが書いたとは考えにくいので、シルワノがペトロの名前を借りて書いたと考えられることもあります。また同時代の資料によると、「誰々によって手紙を書き」という表現は、手紙の書き手の名前ではなくて、手紙を送り届けた者の名前を示していることが多いようです。そうであればペトロないしペトロの名前を借りた著者が書いた手紙を、シルワノという人物が小アジアの諸教会に送り届けたことになります。「忠実な兄弟と認めているシルワノ」と言われているのは、手紙の書き手が、手紙を受け取る人たちに、手紙を送り届けたシルワノが信頼に足る人物であると推薦しているのです。しかしそもそもシルワノとは、誰なのかという問題があります。それは13節の「わたしの子マルコが、よろしくと言っています」のマルコについても同じです。マルコが「わたしの子」、つまりペトロの子と呼ばれているのは、マルコがペトロの実の子ということではなく、ペトロによってキリスト者となり、ペトロと共に福音宣教のために働いたということでしょう。パウロがテモテのことを「わたしの愛する子」と呼んでいるのと同じです(コリントの信徒への手紙一4章17節)。しかしそうであるとしてもこのマルコとは、誰なのかという問題が残ります。シルワノ(シラス)は、使徒言行録やパウロの手紙に出てくるパウロの同労者と同一人物であると考えられることがあり、マルコも使徒言行録に出てくる「マルコと呼ばれるヨハネ」と同一人物であると考えられることがあります。そうなのかもしれません。しかしシルワノ(シラス)もマルコと呼ばれるヨハネも、パウロと関わりのある人物であり、ペトロの手紙の結びの言葉で登場するのは、やや不自然なのです。色々とお話ししてきましたが、また研究者はもっと多くの議論を費やしていますが、結局のところ、この部分に登場するシルワノやマルコという名前の人物が誰なのかは、はっきりしない、よく分からないのです。

バビロン
 この二人の人名よりバビロンという地名については、もう少しはっきりしたことが言えます。このバビロンはローマを指していて、いわばローマの暗号名、コードネームなのです。かつて紀元前6世紀にバビロニア帝国によってエルサレムは破壊されました。それと同じように、紀元70年にローマ帝国によってエルサレムが破壊されます。そのためバビロンとローマが重ね合わされて、バビロンがローマのコードネームとなったのです。この手紙は紀元70年より後に書かれたと考えられているので、この手紙を受け取った小アジアのキリスト者たちは、バビロンという地名を見て、ローマのことを指していると分かったのではないでしょうか。ただしバビロン、つまりローマの名前が手紙の結びの言葉に記されているからといって、この手紙がローマで書かれたかどうかまでははっきりしません。

将来と希望を与える神のご計画のもとで
 繰り返しお話ししてきたように、この手紙が書かれた時代に、小アジアではローマ帝国によるキリスト者に対する激しい迫害がありました。迫害の中で、この手紙を受け取った小アジアのキリスト者たちは、バビロンという地名に600年前にエルサレムを破壊したバビロニア帝国と、ごく最近エルサレムを破壊し、今も自分たちを迫害しているローマ帝国を重ねて受けとめたに違いありません。そしてそのことを通して、600年前に預言者を通して主なる神がイスラエルの人たちへ語りかけたみ言葉を、自分たちに語りかけられているみ言葉として、自分たちを支え、励まし、生かすみ言葉として聞いたに違いないのです。その一つとして最初の説教において引用したのがエレミヤ書29章11節でした。預言者エレミヤは捕囚とされたイスラエルの人たちに、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と告げました。小アジアのキリスト者たちも、試練のただ中で、神が自分たちのために災いの計画ではなく、将来と希望を与える平和の計画を立ててくださっていることを知らされ、生きる希望を与えられたのです。捕囚の民にとって将来と希望を与える神の計画とは、捕囚からの帰還でした。しかし小アジアのキリスト者には、そして私たちにはこの地上に帰る場所はありません。私たちの帰る場所は天にこそあるからです。ですから小アジアのキリスト者と私たちにとって、将来と希望を与える神の計画とは、地上の生涯を超えて、終わりの日に復活と永遠の命を与えられ天に住まうことなのです。この神のご計画のもとで小アジアのキリスト者も私たちも歩んでいるのです。

手紙全体が要約されている一文
 さて手紙の結びの部分に出てくる、シルワノとマルコという人名とバビロンという地名について見てきました。私たちはこれらに興味を持ちますし、それは決して意味のないことではありません。しかしそれよりもはるかに大切なこと、目を向けるべきことがあります。それは、12節から「忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き」を除くとよく分かります。このようになります。「わたしは…勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」。この一文に、この手紙全体が要約されています。このことにこそ私たちは目を向けていきたいのです。

勧め、慰め、勇気づける
 「わたしは…勧告をし」の「勧告をし」は、この手紙のほかの箇所では「勧める」と訳されている言葉です。たとえば2章11節では「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と言われていました。愛する人たち、つまり小アジアのキリスト者全体への勧めが語られていたのです。また5章1節でも「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます」と言われていて、長老たちへの勧めが語られていました。ほかにも召し使いであるキリスト者への勧めが語られ、キリスト者の妻、あるいは夫への勧めも語られていたのです。このようにこの手紙は異教社会にあって、試練の中にある小アジアのキリスト者に向かって「勧め」を語っています。このように生きなさい、と勧めているのです。しかしこの「勧め」は、単なる生き方の「教え」ではありません。このことは「勧告をし」や「勧める」と訳されている言葉が、「慰める」とも「勇気づける」とも訳せることにも示されています。この手紙を通して手紙の著者とされるペトロは、小アジアのキリスト者を、そして私たちを慰め、勇気づけているのです。それは、試練や困難の中にある私たちに希望を告げているということにほかなりません。苦しいことや悲しいこと、嫌なことがいっぱいある日々の中に、神が主イエス・キリストによって私たちに希望を与えてくださっている、と告げているのです。希望に満ちた言葉は、この手紙のあちらこちらに見いだせますが、希望そのものについて告げているのは1章3節です。このように言われていました。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。ここでは洗礼という言葉を使わずに、洗礼が見つめられています。私たちは洗礼において、死者の中から復活させられ永遠の命を生きておられるイエス・キリストに結ばれ、神の子として新たに生まれさせられたからです。その私たちに「生き生きとした希望」、「生ける希望」が与えられています。それは、時代や状況が変われば、たちまち吹き飛んでしまうような人間が造り出した希望ではなく、神が与えてくださる希望です。この希望について、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」と言われています。キリストを死者の中から復活させてくださったように、神は世の終わりに私たちをも復活させてくださり、朽ちることも汚れることもしぼむこともない永遠の命に与らせてくださいます。このことこそ神がイエス・キリストによって私たちに与えてくださっている「生き生きとした希望」、「生ける希望」にほかなりません。生きているときも、死を迎えるときも、死んでからも失われることのない、この生ける希望が私たちを慰め、勇気づけるのです。

これこそ神のまことの恵み
 「わたしは…勧告をし」に続けて、「これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」と言われています。「これこそ神のまことの恵みである」の「これこそ」とは、何を指しているのでしょうか。これまでこの手紙を読み進めてくる中で見てきたように、この手紙は神の恵みについて繰り返し語っていました。このことは、この短い手紙の中で、「恵み(カリス)」という言葉が10回も使われていることからも分かります。恵みとは、神が私たちに一方的に与えてくださるものです。私たちが何かをしたからではなく、つまり何か手柄を立てたからでも、ある条件をクリアしたからでもなく、神によって一方的に与えられるものが恵みなのです。しかし恵みという言葉が具体的に何を指しているのかは文脈によって異なります。そうであるなら手紙の終わりで「これこそ神のまことの恵み」と言われている恵みは、これまでこの手紙の中で語られてきた恵みの中で、どの恵みのことなのでしょうか。「これこそ」と言われているので、広い意味での神の恵みではなく、具体的な神の恵みが見つめられているはずなのです。

キリスト者として苦しみを受ける
 2章19節、20節に、「これこそ神のまことの恵み」とほぼ同じ言葉があることに注目したいと思います。19節には「それは御心に適うことなのです」とあり、20節には「これこそ神の御心に適うことです」とあります。「恵み」という言葉が使われていないので分かりにくいのですが、「御心に適う」と訳されているのが「恵み」という言葉です。ですから19節は「それは恵みなのです」と訳せ、20節も「これこそ神の恵みなのです」と訳せます。そして文脈から「それは」とは、キリスト者が不当な苦しみを受けることであり、「これこそ」とは、キリスト者が善を行って苦しみを受けることです。つまり19節、20節では、キリスト者として苦しみを受けることが神の恵みとして見つめられているのです。そうであるなら本日の箇所で、「これこそ神のまことの恵み」と言われている恵みとは、19、20節で見つめられている神の恵み、つまりキリスト者として苦しみを受けることなのではないでしょうか。「わたしは…これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」と言われているように、ペトロはこの手紙全体を通して、キリスト者として苦しみを受けることが神の恵みであると証しし、私たちに告げてきたのです。このことがペトロの手紙一の主題と言って良いのです。

キリストの苦しみにあずかる
 しかしキリスト者として苦しみを受けることが神の恵みであるとは、私たちが日々の歩みの中で直面する苦しみや悲しみそのものが、神の恵みであるということではありません。あるいは苦しむことそれ自体が、恵みであるとも言えません。私たちキリスト者は苦しみを受けることそれ自体を恵みとして喜んでいるのではないのです。そのような喜びは不健全な喜びです。より苦しんでいるほうがより多く神の恵みを受けられると考えるようになり、お互いの苦しみを比べて、より大きな苦しみを求めていくことになりかねないからです。キリスト者として苦しみを受けることが神の恵みであるのは、苦しみを受けること自体が恵みであるからではなく、苦しみを受けることにおいて、私たちがキリストの苦しみにあずかるからです。この手紙では、このことが繰り返し語られてきました。先ほどの2章19、20節に続けて、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」と言われていました。4章13節でも「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」と言われていました。イエス・キリストは私たちの罪を赦し、私たちを救うために、十字架の死という誰も経験したことのない、そしてこれからも誰も経験することのない苦しみを受けられました。キリスト者として苦しみを受けるとは、このキリストの苦しみにあずかって生きることです。キリストが担った苦しみのほんの一端を担って、キリストの苦しみにあずかって生きることなのです。私たちにとって、これこそが神のまことの恵みなのです。

キリストに結ばれて
 私たちがキリストの苦しみにあずかって生きるのは、私たちがキリストと結ばれているからです。この手紙の最後14節に「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように」とあります。小アジアのキリスト者が、「キリストと結ばれているあなたがた」と呼ばれています。キリスト者とは、洗礼によってキリストと結ばれている者です。洗礼によってキリストと結ばれ、キリストと共に生きるようにされたからこそ私たちは、キリストの苦しみにあずかって生きるのです。そしてキリストの苦しみにあずかって生きる歩みは、決して苦しみで終わるものではありません。キリストは十字架で苦しみを受け、死なれました。しかしそれで終わりではありませんでした。神が十字架で死なれたキリストを死者の中から復活させてくださったからです。キリストに結ばれ、キリストと共に生きる私たちは、同じように世の終わりに復活させられ、永遠の命に生きるようになるのです。キリストに結ばれて生きる私たちは、この地上の歩みにおいてキリストの苦しみにあずかるだけでなく、世の終わりに復活と永遠の命にもあずかるのです。

今を生きる私たちに喜びと希望が与えられる
 このようにキリストの苦しみにあずかり、キリスト者として苦しみを受けることは神の恵みであり、私たちは今、苦しみを受けているとしても、将来、喜びに満ちあふれるのです。しかしそれは、私たちが喜びに満たされるのは将来であって、今は、ひたすら苦しみに耐えるしかない、ということでは決してありません。確かに救いの完成のときに私たちに与えられる喜びは、この地上の歩みで与えられるどんな喜びとも比べられない大きな喜びでしょう。しかしそれにもかかわらず、この手紙が語り続けてきたのは、私たちがこの地上の歩みにおいて受ける苦しみのただ中に、喜びと希望が与えられる、ということです。世の終わりに復活と永遠の命にあずかり、喜びに満ちあふれるという約束は、「将来そういうことがあると良い」というようなものではなく、今を生きる私たちを生かすものであり、今を生きる私たちに喜びと希望を与えるものなのです。復活と永遠の命の約束が「生き生きとした希望」であるとは、そういうことです。たとえ私たちが苦しみや悲しみに打ちのめされて、うずくまってしまったとしても、この生き生きとした希望が私たちを立ち上がらせるのです。4章13節で「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」と言われていました。「キリストの栄光が現れるとき」に、つまり将来、「喜びに満ちあふれる」という約束が私たちに与えられているから、今、私たちはキリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜ぶことができるのです。私たちがキリスト者として苦しみを受けて生きる歩みに、確かに生き生きとした希望が与えられ、喜びが与えられるのです。

恵みに踏みとどまって
 ペトロは私たちに、「わたしは…勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」と告げています。私たちはこの手紙が語り続けてきた恵みにしっかり踏みとどまって歩んでいくのです。キリストの苦しみにあずかって、キリスト者として苦しみを受けるという神のまことの恵みにしっかり踏みとどまって歩んでいくのです。その歩みは、日々の苦しみに歯を食いしばって耐えるだけの歩みではありません。頑張れなくなることがあっても良いのです。耐えることができなくなっても良いのです。頑張れなくても耐えることができなくても、私たちは苦しみや悲しみの中で決して絶望することはありません。苦しみや悲しみのただ中に、神がイエス・キリストによって希望と喜びを与えてくださっているからです。キリスト者として苦しみを受ける歩みに希望と喜びが実現する、という神のまことの恵みに、私たちはしっかり踏みとどまって生きていくのです。私たちを取り囲む状況も、この社会や世界が直面している状況も、希望の持てない、喜ぶことのできない状況のように思えるかもしれません。しかし私たちキリスト者は、そのような人間の力では希望も喜びも生み出せない状況に、神がキリストの十字架と復活によって、確かな希望と喜びを与えてくださっていると信じて生きていくのです。そのように歩む私たちは、「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」(1章8節)生きていくのです。そのように歩む私たちは、「キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめ」(4章16節)ながら生きていくのです。

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