夕礼拝

収穫の主

「収穫の主」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第44編1-27節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第9章35-38節
・ 讃美歌 : 449、352 聖餐 78

教え、癒し
 本日は共にマタイによる福音書第9章35節から38節の御言葉をお読みします。「イエスは、すべての町や村を残らず回って、会堂で教え御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」と本日の箇所が始まります。この35節の御言葉は同じマタイによる福音書第4章23節にほとんどこれと同じ言葉を書き記しております。4章の23節は主イエスの地上の生涯のお働き表している御言葉です。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とあります。主イエスがこの地上でどのようなお働きをしたのかということが記されており、それは主イエスがどのような伝道をされたのかと言うことです。主イエスの伝道の業を語るときには「会堂で教え御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気をや患いをいやされた。」とこの決まった言葉を用いたのです。
 マタイによる福音書第5章から7章は、いわゆる「山上の説教」が語られております。第5章から7章までは主イエスが「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」られた、その教えがまとめて語られております。そして8章から9章では、主イエスのなさった様々な奇跡、癒しを中心とする御業が語られております。「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と主イエスの御業が集中して語られています。このように、35節は、第5章から9章の締めくくりとして語られてきたことが要約をされています。そのような意味では、ここで一つの部分が終る、区切りがつけられています。

憐れむ
 主イエスがご覧になった人々の様子が36節に記されています。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。36節は35節の、主イエスが御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた主イエスの御業が、どのような御心によってなされていたのかを語っております。主イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている姿をご覧になったのです。そして「深く憐れまれた。」とあります。主イエスは深い憐れみを覚えられました。「憐れむ」とは、「はらわた」「内臓」という言葉から来ています。内臓が揺り動かされるような、はらわたを動かされるほどの心の動きを示します。主イエスは群衆に対してそのような深い憐れみ、愛を感じられました。自分は無関係な高い所にいて、苦しんでいる人々を「かわいそうに」と見下ろしているような「憐れみ」ではありません。自分自身のおなかが痛むような、そのような本当の同情をもって主イエスは人々の様子をご覧になったのです。群衆が飼う者をない羊のように弱り果て、打ちひしがれ、また口語訳聖書では「倒れている」となっておりましたが、そのような状況を主はご覧になったのです。直接の状況から見ますと、ありとあらゆる病気や患いにかかっている者が弱り果て、打ちひしがれ、倒れていると言うことも考えられますが、ここでは、そのような病気や患っている人ではなく、「群衆」となっております。一人や二人では「群集」とは言いません。そうなると、これは病気の人や患っている人だけではなく、「群衆」すなわち全ての人間と言うことになります。群衆が飼う者のない羊の群れのようであるとはどういうことでしょうか。また、弱り果てて、打ちひしがれているというのは、群衆が単に肉体的に弱っていたということではありません。

飼い主のいない羊
 それでは、精神的に弱り果て、打ちひしがれていたのでしょうか。そのような肉体的、精神的な弱さということもあったでしょうが、これは人間のそのような状況だけではありません。主イエスがありとあらゆる病気や患いをいやされたということを記してありますが、その前に主イエスは「会堂で教え御国の福音を宣べ伝え」ていたのです。4章の23節においてもそうです。「御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」御国の福音を語っているように、それは福音の立場から見た人間の姿であります。肉体的にも健康であり、精神的にも多少の困難はあっても弱り果て、打ちひしがれるような状態にはない人々も、主イエスから見れば、まさに飼い主のいない羊の群れであり、それゆえに混乱に陥り、打ちひしがれ倒れているのです。その姿は救いを必要とする者たちなのです。「飼い主のいない羊」という表現は旧約聖書以来、しばしばなされていることです。イスラエルの民を羊の群れに譬えている表現があります。民数記第27章17節には、「主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」とあります。羊を飼う生活をしていた民族にはこの表現があることは自然なことです。しかし、この羊の飼い主とは誰なのか、誰でなければならないのかということが重要です。詩編第23編は「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」と始まります
イスラエルの人々は、自分たちを、主なる神様という羊飼いに守られ、導かれている羊の群れとして意識してきました。羊は、一匹では生きていけません。群れとして、そして羊飼いに導かれなければ、自分で餌を得ることも、また狼などの猛獣から身を守ることもできないのです。そういう羊の姿が、主なる神様に守られ導かれる神の民であるイスラエルを譬えるのに最もふさわしいのです。つまり、自分たちは羊の群れであると意識する、そこには、羊飼いの存在、この群れを守り導いてくれる方の存在が前提となっているのです。そうであるからこそ、「飼い主のいない羊」というのは、異常な、そして悲惨な状態です。飼い主なしには羊たちは生きていくことができず、弱り果て、打ちひしがれてしまうのです。

飼い主のいない羊
 彼らを導くべき羊飼いはどこへ行ってしまったのでしょうか。36節の直ぐ前の35節にはこうあります。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え」とあります。主イエスがご覧になった「弱り果て、打ちひしがれている群衆」が住んでいた町や村には「会堂」が存在したのです。主イエスがご覧になった「弱り果て、打ちひしがれている群集」には「飼い主」であるべき人々がいた、ということです。「飼い主」は、存在しなかったのではなく、存在したのです。それなのに、彼らは「飼い主のいない羊のようだ」とイエスさまはご覧になったのです。飼い主として彼らを養い導く指導者たちが勤めを果たしていなかったということです。このことは、当時の指導者たちに対する激しい批判の意味が込められています。会堂が存在していたのにも関わらず、会堂の指導者たち人々の何の役にも立っていなかったのです。群れを指導し、養うのではなく自分のために群れを利用するようになってしまっていたのです。その指導者とは、この当時のイスラエルの人々においては、律法学者やファリサイ派と呼ばれている人々のことです。「弱り果てて、打ちひしがれている」人々の助けになっていなかったのです。当時の指導者たちは旧約聖書の、神様の律法を人々に教え、それに基づく生活を人々に指導していました。しかしそれは本当に神様のみ言葉によって人々を養うことになっていなかった。イスラエルの民は彼らの下で、命の糧を得ることができず、弱り果て、うちひしがれていたのです。指導者たちがどうであるかによって、そこに連なる者たちは「飼い主のいない羊」のようになり、弱り果て、打ちひしがれてしまうことが起こるのです。

弱り、打ちひしがれて
 しかし、人々が飼い主のいない羊のようになってしまうことには、指導者だけが悪いとそうなる、というだけではありません。私たちは、自分から、飼い主のもとを離れていってしまうことがあります。神様の下で、主イエス・キリストの下で、その群れに留まって生きることを窮屈に思い、もっと自由に、自分の思い通りに生きたい、束縛されずに、自分が主人になって歩みたいと思って家を飛び出していくのです。私たちはそうやって、飼い主のいない羊になっていく、そしてその結果、弱り果て、打ちひしがれていってしまうのです。いや、私たちは、自分が飼い主のいない羊となって弱り果て、打ちひしがれてしまっているということになかなか気づかないのではないでしょうか。私には羊飼いなどいらない、私は私一人で、自分の思いによって自由に生きていくことができる、弱ってなどいない、打ちひしがれてなどいない、そう思っている。主イエスの当時の人々もそうだったのではないでしょうか。彼らが、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている、それは主イエスがそのようにご覧になったのであって、彼ら自身はそうは思っていなかったかもしれません。それが多くの人々の思いだったのではないでしょうか。しかし主イエスの目からご覧になると、その人々は皆、「飼い主のいない羊」であり、「弱り果て、打ちひしがれている」のです。

隣人との関係において
 飼い主のいない羊に何が起こるのでしょうか。エゼキエル書34章では、羊飼いを失った、飼い主のいない羊の様子が描かれております。こうあります。「お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる」。これは、羊と羊の間でのことです。「良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回す」とは、羊が、自分のことしか考えず、他の羊のための思いやりを持つことができないという姿です。そのために、弱い羊は押しのけられ、踏み荒らされた草を食べ、濁った水を飲まなければならないということが起っているのです。飼い主のいない羊は、自分が弱り打ちひしがれていくだけではありません。羊どうしの関係が、愛を失ったものとなり、自分勝手な思いが支配するようになり、互いに押しのけ、傷つけ合うようになっていくのです。それはまさに私たちの間で起っていることではないでしょうか。そのようなことこそ、私たちが、まことの羊飼いを失った、飼い主のいない羊として弱り衰えてしまっている徴なのです。

主イエス・キリスト
 エゼキエル書34章は、飼い主のいない羊のようになってしまっている人々のもとに、神様が僕ダビデを牧者として遣わして下さるという約束を語っています。11節以下によれば、それは神様ご自身が牧者となって群れを導き養って下さるという約束でもあります。これらの約束が、主イエス・キリストにおいて実現したのです。主イエス・キリストこそ、神様ご自身が私たちを養い導いて下さるまことの牧者です。この牧者は、群れを飛び出し、失われてしまった羊である私たちのあとをたずね、遠くの山々、谷底まで、どこまでも捜し求め、見つけ出して連れ帰って下さる、なさけの深い羊飼いです。私たちはこのまことの羊飼いである主イエスによって、探し出され、群れへと、私たちが本当に生きることのできる場である神様のみもとへと連れ帰られたのです。私たちが今こうして礼拝を守っているというのはそういうことです。ここで、私たちは、主イエス・キリストというまことの羊飼いの下に養われているのです。それが、主イエスの弟子たちの姿です。弟子たちも、以前は群衆たちと同じように、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていたのです。しかし今は、主イエスというまことの羊飼いに見出され、その下に養われる羊として生きているのです。

収穫の多い
 その弟子たちに、つまり信仰者たちに、主イエスはこう言われるのです。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。収穫、それは神様がご自分のもとに救われる人々を集めて下さる、その神様の羊の群れのことを言っています。その収穫は「多い」と主イエスは言われるのです。今よりももっともっと沢山の、飼い主のいない羊のような人々を、神様はご自分のもとに連れ帰り、ご自分の牧場の羊として養い、導き、守ろうとしておられるのです。しかしその人々が収穫として神様のもとに呼び集められ、救いにあずかるためには、「働き手」が必要なのです。もっと多くの働き手が立てられることによって、多くの人々がまことの羊飼い主イエスの憐れみにあずかることができるのです。その働き手を送ってくださるように、収穫の主である神様に祈れと主イエスは言われます。私たちに求められているのもこの祈りです。「収穫は多い」と約束して下さった神様が、もっともっと多くの人々を、主イエス・キリストの救いにあずからせ、私たちと共に主に養われる羊として下さるように、そのための働き手が起されるようにと、私たちも祈っていくのです。

収穫のため
 そのように祈っていく弟子たちに主イエスがして下さることが、次の10章の始めに語られていきます。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」。弟子たちの中から十二人が選び出され、汚れた霊を従わせるような権威と力が与えられたのです。つまりこの十二人が、「収穫のための働き手」として立てられたのです。「収穫のために働き手を送ってくださるように」との祈りは、このようにかなえられていくのです。つまり神様は、そのように祈っている者自身を、収穫のための働き手としてお立てになり、お遣わしになるのです。それは私たちが、「この私を、収穫のための働き手として立てて下さい」と祈るのではありません。私たちが祈ることができるのは、「神様どうか収穫のための働き手をあなたが起し、遣わして下さい」ということです。私たちはその神様の選びを受け入れ、それに応えなければなりません。

収穫は多い
 「収穫は多い」と約束して下さった主に、一人でも多くの人々が主イエスのもとで養われる羊となることができるように、その導きを願うのです。主イエスは、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々の様子を見て、深く憐れみ、汚れた霊を追い出し、病気や患いを癒されたのです。主イエスの深い憐れみのみ心を表していく道は、もっと身近な所にいくらでもあるのです。苦しんでいる人、悲しんでいる人のことを覚えて、何らかの支えや慰めの言葉をかけ、行動を起すこともそうでしょう。人のために自分の願いや欲望、こうしたい、という思いをがまんすることです。そしてそれはさらに言えば、人の自分に対する罪や過ち、それによって自分が傷つけられたことを赦すことです。そういう行動によってこそ、私たちは主イエス・キリストの深い憐れみのみ心の担い手となり、収穫のための働き手となるのです。そういう歩みへと、私たち一人一人が、それぞれの生きている場で招かれているのです。
 飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた人々の一人だったのです。主イエス・キリストはそのように弱り果て、打ちひしがれている者たちを憐れました。憐れみによって見出し、彼らの牧者となられたのです。自分のために羊を食い物にするのではありません。羊のために御自分の命を捨て、十字架にかかって死んで下さいました。人間が主イエスの、はらわたのよじれるような憐れみの御心によって生かされる者になりました。そして主がその憐れみのみ心を人々に分け与えようとされる、その収穫のための働き手が送られることを祈り求める者となったのです。その祈りの中で彼らは、まことに弱い、罪深い、欠けの多い者だけれども、主イエス・キリストがその働き手として自分を遣わして下さる、その御心を喜びをもって受け入れる者へと変えられていったのです。自分に何が出来るかではありません。情けの深い、憐れみに満ちたまことの羊飼いの下に、その羊として養われ生かされている喜びが、私たちを、収穫のための働き手としていくのです。

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