主日礼拝

今日、救いがこの家を訪れた

「今日、救いがこの家を訪れた」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編第96編1-13節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第19章1-10節
・ 讃美歌:326、321、475

新しく生まれ変わった人
 本日はイースター、主イエス・キリストの復活を喜び祝う日です。主イエスの復活を喜び祝うのは、主イエスのためではありません。イエス様に、「復活できてよかったですね、おめでとうございます」と言うための日ではないのです。イースターの喜びと祝いは、私たち自身の喜びであり祝いです。この日私たちは自分自身に、またお互いどうしの間で、「イースターおめでとう」と言うのです。主イエスの復活は、私たちにとって本当に喜ばしい恵みの出来事だからです。主イエスの復活によって私たちに与えられている恵みと喜び、それは、私たちも主イエスの復活にあずかって新しく生かされる、という恵みであり喜びです。十字架にかけられて死んだ主イエスを復活させ、新しい命を与えて下さった父なる神様が、私たちをも新しく生まれ変わらせて下さるのです。このことこそ、イースターの恵みであり喜びです。今私たちは礼拝においてルカによる福音書を読み進めていますが、順番に読んできて本日このイースターから19章に入ることになりました。このことは神様の恵みによる導きだと思います。何故ならば本日の19章1節以下にはまさに、主イエス・キリストによって新しく生まれ変わった人のことが印象深く語られているからです。イースターに与えられる恵みと喜びとを覚えるためにまことに相応しい箇所が与えられたのです。

ザアカイとエリコの人々
 ここで主イエスによって新しく生まれ変わったのはザアカイという人です。この人はエリコという町の徴税人の頭で、金持ちだったと2節にあります。「徴税人の頭で金持ち」というだけで、この人が当時のユダヤ人たちの間でどのような立場にあり、また人々からどのように思われていたかが分かります。彼が集めていた税金はユダヤを支配しているローマ帝国に納める税金です。それを同胞であるユダヤ人から徴収するのですから、人々からは、敵に魂を売った売国奴と見なされ、神の民を裏切り、神に逆らうどうしようもない罪人として断罪され、また憎まれ、軽蔑されてもいました。そんな役割を好き好んで担う人はいないわけで、当然そこには役得が与えられていました。ローマに納める分以上に取り立てて、それを自分の懐に入れることができたのです。彼が金持ちだったのはそのようにして財産を得たということです。それもまた、人々から憎まれる理由だったのです。そういうザアカイが住むエリコの町に、ある日主イエスが来られたのです。3節に、ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」とあります。ここにもう一つ、ザアカイについての描写があります。彼は背が低かったのです。そのために群衆に遮られて、主イエスが道を通って行かれる姿を見ることができませんでした。ここに、群衆つまりエリコの町の人々とザアカイとの関係が暗示されています。これは、背が低かったので前に人々がいるとその向こうを見ることができない、という単なる物理的な問題ではありません。彼が人々と親しい、良い関係にあるならば、人々は背の低い彼に場所を譲って前に出してくれたでしょう。しかし誰もそういうことをしなかった。むしろ故意にザアカイの前に立ち塞がって見えないようにしている、ということが「群衆に遮られて見ることができなかった」という言葉には感じられます。そこにエリコの町の人々のザアカイに対する敵意、憎しみが見て取れるのです。

イエスを一目見たい
 ところでザアカイは「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。主イエスの評判はこのエリコの町にも伝わっていました。18章の終わりに語られていたように、主イエスがエリコに入る時にも大勢の群衆が周りを取り囲んでいたのです。その噂の主イエスを自分も見てみたいとザアカイは思ったわけですが、彼の思いは群衆たちとは少し違っていただろうと思われます。群衆たちは、神の国の到来を告げ、奇跡を行なっているという主イエスが、預言者たちが告げており、彼らが待ちに待っていた救い主ではないか、という期待をもってつめかけていたのですが、ザアカイが主イエスを見たいと思ったのはそういうことによってではなくて、この方が、自分と同じ徴税人たちを嫌ったり蔑んだりせずに迎え入れていることを聞いたからでしょう。この福音書の15章の冒頭に「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」とあります。ザアカイはこのような主イエスの姿を伝え聞いて、その方を一目見てみたいと思ったのです。

木に登るザアカイ
 しかし群衆の敵意によって邪魔された彼は、「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」と4節にあります。主イエスが通っていかれる道端の木の上から、群衆に邪魔されることなく主イエスを見ようとしたのです。背の低い彼が先の方へとあわてて走っていき、一生懸命に体を伸ばし、枝をつかみ、足をかけて木によじ登っていく姿を想像してみて下さい。それはある意味でこっけいな姿ですが、しかしそこには、彼の必死の思いが、何とかして主イエスを見たいという願いが感じられます。このザアカイの姿と、18章の終わりのところでエリコの町に入ろうとしておられる主イエスに向かって、道端で物乞いをしていた目の見えない人が「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と必死に叫び続けた姿とは重なると思います。ザアカイの心の奥底にも、あの目の見えない物乞いと同じ叫びがあったのではないでしょうか。しかしザアカイ自身、自分の心の奥にあるその叫びに気付いてはいません。彼はあの物乞いのように主イエスに呼びかけて救いを願おうとは思っていないのです。いやそもそも主イエスと正面から出会おうとも思ってはいないのです。ただ、徴税人をも迎え入れているという噂のイエスとはどんな人なのか、その顔を見てみたいというだけで、それ以上どうしようとも思ってはいなかったのです。でも彼はあわてて走って行って木によじ登りました。それは、どうでもよいと思っていることをしている者の姿ではありません。彼の心の奥底にある、主イエスの憐れみを求める思い、救いを求める切なる叫びが、そのような行動を取らせたのだと言えるでしょう。

想定外の出来事
 このようにしてザアカイはいちじく桑の木の上から、下を通っていく主イエスを見ていました。やがて主イエスは彼の下を通り過ぎていき、彼もその木から降りて家に帰り、それまでと変わることのない日常が続いていく、「あの時私はイエスという方の顔を見た。まことに柔和な、愛に満ちたお顔だった」という記憶だけが残り、彼は時々それを思い出しては気持ちをなごませる、ということになるはずでした。ところが、全く想定外の出来事が起ったのです。5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』」。主イエスが、全く一面識もないはずの彼の名前をお呼びになったのです。木の上から見下ろしているザアカイを見上げて驚くでもなく、むしろ彼がそこにいることをもともと知っておられたように彼の目をしっかりと見つめながら、主イエスが「ザアカイ」と彼の名前を呼んだ時、彼ははっきりと感じ取ったに違いありません。この方は、自分の全てを知っておられる、自分がどのような者であり、どのような人生をこれまで歩んできたのか、そして今、この町で徴税人の頭として、金持ちにはなっているけれども、人々から憎まれ、嫌われ、蔑まれて、誰も自分に好意を持ってくれる人もなく、また自分も、それで結構だ、嫌うなら嫌え、憎むなら憎め、こちらもローマを後ろ楯とする徴税人の権力を用いて、お前たちから金を搾り取ってやる、そして贅沢な暮らしを見せつけてやる、それでおあいこだ、と思って生きている、でも心の中には、どんなに財産があっても満たされないさびしさ、虚しさ、悲しみ、愛を求める思い、救いを求める叫びがある、それを必死に押さえつけながら、徴税人の頭という役回りを演じている、自分にはそれしかない、そのようにしか生きられないと思っている、彼自身も気付いていないそういう心の奥底に潜む思いをも含めた全てをこの方は知っておられる、ということを彼は感じ取ったに違いありません。

今日あなたの家に泊まる
 ザアカイの名前をお呼びになった主イエスは、「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」、ここは口語訳聖書では「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」となっていました。この口語訳の方が原文のニュアンスを伝えています。「泊まりたい」では、「泊まりたいので泊めてくれないだろうか」という依頼の言葉のように感じられます。しかし主イエスはザアカイに「泊めてくれないだろうか」と願ったのではありません。口語訳にあるように「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」とおっしゃったのです。つまりこれは依頼ではなくて宣言です。正確に訳せば「今日私はあなたの家に泊まらなければならない」となります。英語で言えばmustに当たる、「こうしなければならない」という言葉が使われているのです。しかもそこには、これは神様のご意志であるからそうしなければならない、という意味が込められています。今日ザアカイの家に泊まるのは、主イエスご自身の意志と言うよりも神様のみ心なのです。そういう意味が表わされているのは「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」という口語訳の方です。さらに以前の文語訳聖書では「今日われ汝の家に宿るべし」となっていました。文語における「べし」という言葉がここの意味を表すに最も相応しい日本語であると言えるでしょう。いずれにしても主イエスは、ザアカイの都合など少しも問うことなく、今日私はあなたの家に泊まる、と一方的に宣言なさったのです。

驚くべき喜び
 また主イエスは、「急いで降りて来なさい」とおっしゃいました。「急げ」と言っておられるのです。するとザアカイは「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」のです。「急いで」と「喜んで」が結び合わされていることが大事です。ここでの「急ぐこと」は「喜び」の表れです。主イエスが「急げ」とおっしゃったのは、喜びへと急げということであり、ザアカイが急いだのも喜びによってです。主イエスがザアカイの都合も意志も問わずに、今日あなたの家に泊まる、と一方的に宣言なさったことは、ある意味でまことに非常識なこと、少しは人の迷惑も考えろ、と言われるようなことです。しかしザアカイはそれを迷惑に思うどころか、心から喜んだのです。これまで、彼の家に客として来る人などいませんでした。食事に招待しても普通の人は誰も応じてくれません。まして、誰かが泊まっていくことなどとうてい考えられなかったのです。彼の家に泊まるということは、自分もザアカイと同じ罪人の仲間ですと世間に公言するようなものだからです。しかし主イエスは、そのようなことを全く気にせず、敢えて彼の家に押し掛け、泊まっていくと宣言なさいました。ザアカイにとってそれは驚くべき喜びでした。「喜んでイエスを迎えた」というところに、彼の喜びが表れています。そしてこのことのゆえに主イエスはやはり、人々のつぶやきを受けることになりました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と非難されたのです。それは先程読んだ第15章の冒頭にあったのと同じ批判です。ザアカイはそれを伝え聞いて主イエスの顔を見たいと願うようになった、その出来事が今度は自分において現実となったのです。

生まれ変わったザアカイ
 主イエスを家にお迎えしたザアカイは、主の前に立ち上がって言いました。8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。ここに、ザアカイが新しい人間へと生まれ変わったことが具体的に示されています。人々の敵意と憎しみ、蔑みの中で、自分も人々を憎み、恨み、法外な取り立てをすることによって仕返しをし、そのためにますます人々に嫌われ、憎まれていくという悪循環、憎しみのスパイラルに陥っていた彼が、すっかり変えられ、新しくされて、隣人を愛し、助け、良い関係を築いていくことができる新しい生き方を始めることができたのです。憎しみのスパイラルから抜け出すことができたのです。ザアカイのこの新しい姿を、救いを得るためには財産の半分を貧しい人々に施し、また過去の過ちに四倍の弁償をすることが必要だ、などと読んでしまってはなりません。また、ザアカイはどうして財産の半分までも貧しい人々に施すことができたのだろうか、自分にはとてもそんなことはできない、と悩んだりすることもナンセンスです。ザアカイはこれらのことをしたから救いを得たのではありません。救われ、新しくされ、新しい命を生き始めた結果、このようにすることができたのです。8節におけるザアカイの言葉が示しているのは、彼が頭や心の中だけでなく、その生活において、本当に新しくされた、生まれ変わった、ということです。そしてその新しい命はどこから始まったのかというと、財産の半分を施しますと言ったことからではなくて、彼があのいちじく桑の木から急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えたことからです。彼の新しい命は、この喜びからこそ生まれたのです。主イエスはザアカイの名を呼んで、「今日私はあなたの家に泊まる」と宣言なさいました。そのようにして彼のところを訪れ、出会って下さったのです。彼自身は全く期待もしていなかったし、想定もしていなかったけれども、主イエスの方から押し掛けて来られたのです。そのことによって彼は、それまでの人生において体験したことのない驚くべき喜びを知り、その喜びによって新しくされたのです。人が本当に新しくされ、生まれ変わって生き始めることができるのは、このような喜びによってです。自分のそれまでの歩み、人生を根底から揺さぶるような驚くべき喜びが与えられることによって、私たちは新しい命を生きる者とされるのです。

新しい命を生きる
 生まれつきの私たちは、皆徴税人ザアカイのように生きています。神様に背き逆らい、そっぽを向いているがゆえに、神様を愛することができずに自分の運命を恨み、隣人をも愛することができずに憎み、傷付け、その憎しみが憎しみを呼び、増幅させていくような悪のスパイラルに陥っています。そのような罪人である私たちのために、神様は独り子イエス・キリストを遣わして下さり、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死とを引き受けて下さり、罪の赦しを成し遂げて下さいました。そして父なる神様は主イエスを復活させて、新しい命の先駆けとして下さったのです。この主イエス・キリストを信じる者は、主イエスの十字架による罪の赦しと、復活による新しい命が与えられるのです。主イエス・キリストによるこのような救いを聖書は告げています。しかしその救いは、それについての説明を聞いただけでは本当に私たちのものとはなりません。救いについての情報を知ることと、実際に救われることとは違うのです。私たちが救われるのは、復活して今も生きておられる主イエス・キリストと出会うことによってです。主イエスが私たちの人生を訪れて下さり、特に関係はないと思っている私たちの名前を呼んで下さり、そして「今日私はあなたの家に泊まる」と宣言して下さることによってです。そのことが、今私たちに起っています。この礼拝に集っている私たち一人一人に向かって、主イエスは、「今日私はあなたの家に泊まる」と宣言しておられるのです。私たちの方は、そんな期待を持ってここへ来たのではない。イエスというのはどんな方なのか、どんな教えを宣べ伝えているのか、いちじく桑の木の上からちょっとのぞいてみよう、という思いでここへ来た方もおられるでしょう。しかし私たちの思いはどうであれ、生きておられる主イエス・キリストは今、私たちのところに押し掛けて来ておられるのです。主イエスの復活を記念するイースターを本当に祝うことは、この主イエスと出会うことによってこそ実現します。そしてこの主イエスの「今日私はあなたの家に泊まる」という語りかけを、自分に対する語りかけとして聞いて、主イエスをただ眺めているだけの木から急いで降りて来て、喜んで主イエスを迎えること、それが洗礼を受けるということです。本日一人の姉妹が洗礼を受けます。この姉妹も、「今日私はあなたの家に泊まる」と自分に語りかけておられる主イエス・キリストのみ声を聞いたのです。そして急いで降りて来て、主イエスをお迎えするのです。そのようにして、ザアカイに与えられた、「今日、救いがこの家を訪れた」というみ言葉が、この姉妹においても実現するのです。「今日私はあなたの家に泊まる」と語りかけて下さっている主イエスを喜んでお迎えするなら、私たち一人一人に、主イエス・キリストによって新しく生まれ変わって生きる恵みが与えられるのです。

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