主日礼拝

預けられたもの

「預けられたもの」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第52編7-10節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第19章11-27節
・ 讃美歌:323、412、453

神の国はすぐにも現れる?
 本日ご一緒に読むルカによる福音書第19章11節以下には、主イエスがお語りになった一つのたとえ話が記されています。それは小見出しにもあるように、「ムナのたとえ」と呼ばれているものです。このたとえ話をもって、9章51節から始まったエルサレムへの旅が終わります。この後の28節からは、主イエスがエルサレムに入られたこと、いわゆる「エルサレム入城」が語られます。そこから、主イエスのご生涯の最後の一週間が始まります。ご生涯の最後にエルサレムに入り、そこで捕えられ、十字架につけられて殺される、このたとえ話はその直前に語られたのです。このことは、このたとえ話を読む上でとても重要です。このたとえ話は、どの時点で、どういう場面において語られたのかを知ることによってこそ意味を正しく理解できるのです。そのことは、冒頭の11節においても示されています。そこに「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」とあります。主イエスがこのたとえを話されたのは、「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」なのです。
 主イエスが今おられるのはエリコという町です。この町が、エルサレムへの旅における最後の経由地です。ここからいよいよエルサレムへと登って行こうとしておられるのです。「エルサレムに近づいておられ」とあるのはそのことです。そしてそれと、「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていた」ということが結び合わされています。それについては少し説明が必要でしょう。「神の国」とは「神様の王としてのご支配」という意味です。神様のご支配がいよいよ現れ、実現する、それが「神の国が現れる」ことです。人々は、主イエスがエルサレムに入ることによってそれが実現することを期待していたのです。エルサレムは、ダビデ王以来、イスラエルの王の都です。イスラエルのまことの王がエルサレムに来て、そこで王として即位することによって神の国が現れることを人々は期待し、待ち望んでいたのです。今ユダヤの地は、異邦人であるローマ帝国に支配されています。イスラエルは国としての独立を失っているのです。しかしまことの王、つまり救い主がエルサレムに来て即位するなら、そのローマの支配を打ち破り、神様の王国であるイスラエルを回復して下さる、そのようにして、神の国が現れ、実現する、そういう救い主の到来を人々は長年待ち望んでいました。そこにイエスという人が現れ、神の国の到来を告げ、病人を癒し、悪霊を追い出しつつ、今エルサレムへと向っている。このイエスこそ待ち望んだ救い主ではないか、神様の王国を実現して下さる方ではないか、そういう期待がエリコの人々の間にも高まっていたのです。それゆえに18章の終わりで主イエスがエリコに入る時にも、大勢の群衆が取り囲んでいました。また先週読んだザアカイの話でも、主イエスが歩く道には群衆がつめかけて人垣を作っていたのです。このイエスがエルサレムへと入ることによって、神の国がもうすぐにも現れ、実現するのではないか、という期待が人々の間に高まっていたのです。このたとえ話は、そのような期待を抱いている人々に対して語られたのです。それゆえに、エルサレムに入る直前のこの時点で語られているのです。

遠い国へ旅立つ
 このたとえ話はこのように始まります。12節、「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」。これは明らかに、人々が抱いている期待を意識した設定です。王の位を受けようとしているある立派な家柄の人、それは人々が王として即位することを期待している主イエスのことを指しています。そしてこの設定は、エルサレムにおいて、人々が主イエスに期待しているのとは違うことが起ることを語っています。人々は、主イエスがエルサレムですぐに王となることを期待しているわけですが、この話においては、この人は王の位を受けるために遠い国へ旅立つのです。王様になるのにどうして遠い国へ行かなければならないのか、不思議に思うかもしれませんが、これは当時の人々にとっては身近な話でした。つまり当時の地中海沿岸の世界は全体がローマ帝国の支配下にあり、いちおう独立を認められた王国があったとしても、その王はローマ皇帝によって王位を認めてもらわなければ王となることは出来なかったのです。だから、ある国の王の位を得るために遠い国であるローマに行く、というのはよくあることだったのです。そういう王を題材としたたとえ話を語ることによって主イエスが人々に示そうとしておられるのは、確かに私はあなたがたが期待しているように王となる、しかしそのためには先ず、遠い国へ旅立たなければならないのだ、ということです。遠い国に旅立った者は、しばらくこの地からはいなくなります。私はこれからエルサレムに登るが、そこから遠い国へ旅立ち、あなたがたの間からいなくなるのだ、と主イエスは言っておられるのです。エルサレムから旅立っていなくなる、それは主イエスがエルサレムにおける十字架の死と復活を経て天に昇り、父なる神様のみもとに帰られるということです。それによって、主イエスはエルサレムから、いやこの地上からいなくなるのです。「遠い国へ旅立つ」はそのことを意味しています。しかしそれは同時に、いつまでもいないままなのではない、ということをも示しています。主イエスがいなくなるのは、王の位を受けて再び帰って来るためであり、必ず戻って来るのです。それは、世の終わりに主イエスがもう一度来られる、いわゆる主の再臨を意味しています。しかしその再臨による世の終わりまでにはかなりの時間がかかります。だから主イエスのご支配、神の国は、人々が期待しているように「すぐに」は現れない、世の終わりまではそれは未完成であり、それまでは主イエスがいない不在の時が続く、そのことをも、このたとえ話の設定は語っているのです。

主イエスの不在の時
 このような場面と状況の設定がなされた上で、13節にこうあります。「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」。王の位を受けるために旅立とうとしている主人が、十人の僕たちに、自分が旅に出て不在である間になすべきことを命じたのです。その命令を受けた僕たちがどうしたか、がこのたとえ話の中心的内容です。主人が王となって帰って来るのを待っている僕たち、それが、主イエス・キリストを信じる信仰者の姿です。私たちは今まさに、主イエスが十字架と復活と昇天によって天の父のもとに帰られてから、その主イエスが世の終わりにもう一度来られる再臨までの間の、主イエスの不在の時を生きています。それゆえに私たちは、今この地上の人生において、この目で見たり手で触れるような仕方で主イエスと出会うことはできないのです。しかしその中で信仰者は、主イエスが王として帰って来られることを信じて、主イエスの僕として、主イエスに命じられたことを行いつつ生きています。主人が旅に出て不在の間、主人の言い付けを守って働いている僕、それがこの世を生きる信仰者の姿なのです。この「主人の不在の間」ということが、私たちの信仰における重要なポイントです。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、この世界と私たちに対する神様の救いの恵みとそのご支配は既に確立しています。そして天に昇り、父なる神様のみもとに帰られた主イエスも、今決してこの世に不在なわけではありません。聖霊のお働きによって、世の終わりまでいつも私たちと共にいて下さるのです。しかし父なる神様のご支配も、主イエスが共にいて下さることも、今この世においては、誰の目にもはっきりと分かるような仕方で確立してはいません。この世の目に見える現実においては、神様に敵対する様々な罪の力が働いているし、またこのたびの地震や津波のような恐しい災害も起ります。主イエス・キリストによる救いや神様の恵みのご支配は、今のこの世においては、信じるしかない事柄なのです。信じないなら、つまり聖霊のお働きを度外視するなら、この世界に神様も主イエスも不在だとしか言いようがないのです。そのような状況の中で、今は目に見えない主イエスがもう一度来て下さり、そのご支配を現わして下さり、それによってこの世が終わり、神の国が完成することを信じて、その時を待ち望みつつ、主イエスの僕として生きていく、それがこの世を生きる私たちキリスト信者の信仰なのです。

タラントンとムナ
 旅立つに際して主人は、「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」。つまり一人に1ムナの金を渡し、それを用いて商売をせよと命じたのです。この主人の命令に僕たちがどう応えたかがこのたとえ話の中心となるわけですが、これと同じような設定のたとえ話があることを私たちはすぐに思い起こします。マタイによる福音書の第25章にある、いわゆる「タラントンのたとえ」です。あのたとえ話も、主人が旅に出るに際して僕たちにお金を預け、主人の留守中に僕たちがそのお金をどう用いたか、という内容となっています。このタラントンのたとえと本日の箇所のムナのたとえは兄弟のような関係にあります。しかしそこには明確な違いもいくつかあります。まず、僕たちに預けられた金額が全く違います。タラントンのたとえに用いられているタラントンという単位は、ムナという単位の60倍の価値があります。つまり1タラントンは60ムナなのです。そして聖書に出てくるもう一つのお金の単位であるデナリオンと比べるなら、1ムナは100デナリオンとなります。この1デナリオンが、一人の人の一日分の賃金ですので、100デナリオンである1ムナは100日分の賃金です。年間300日働くと考えると、年収の三分の一ということになります。このたとえで主人は十人の僕たち一人一人にそういうお金を渡したのです。タラントンのたとえでは、三人の僕に、一人には5タラントン、一人には2タラントン、一人には1タラントンが渡されています。一番少ない人に渡された1タラントンでも、60ムナですから、6000日分の賃金ということになります。年間300日働くというさっきの計算で言えば、20年分の賃金です。タラントンのたとえとムナのたとえでは与えられているお金の桁が違うことが分かります。
 もう一つの違いは、今申しましたようにタラントンのたとえでは人によって与えられている金額が違うということです。そこには「それぞれの力に応じて」という言葉があって、この金額の違いは神様からそれぞれの人に与えられている能力、タレントの違いを表しています。能力、才能を意味するタレントという言葉はこのタラントンから生まれたのです。それに対して、このムナのたとえにおいては、十人の人それぞれに1ムナが渡されています。皆同じものを与えられているのです。ですからこのムナは、能力、才能を意味してはいません。皆に同じように与えられているもの、そしてタラントンに比べればかなり少額なもの、が見つめられているのです。
 またタラントンのたとえにおいては、5タラントン預けられた者は5タラントンを、2タラントン預けられた者は2タラントンを儲けました。元手が違えば生じる実りも違うわけです。そして主人はその二人を全く同じ言葉で褒めています。大事なのは実りの多少ではなくて、神様から与えられているタレントを生かして用いたかどうかなのです。しかしこのムナのたとえでは、同じ1ムナから、ある者は10ムナを、ある者は5ムナを儲けました。この場合は元手が同じですから、儲けの違いは用いた者の力の違いということになります。そして主人は、10ムナ儲けた者には10の町の、5ムナ儲けた者には5つの町の支配権を与えています。同じ1ムナを用いてあげた成果の違いがこの酬いの違いにもなっているのです。つまりムナのたとえにおいては、私たち信仰者に神様から皆同じものが与えられているけれども、人によってそれをどう生かし、どれだけの実りを生むかが違っている、ということが見つめられているのです。その、私たち一人一人に平等に与えられている1ムナとは何を意味しているのでしょうか。

信仰という1ムナ
 先ほど申しましたようにこれは私たちそれぞれの能力や才能ではありません。人によって様々に違っているものではないのです。主の僕として生きる信仰者の一人一人に、皆同じく与えられているもの、それは「信仰」です。それ以外の点では様々に違っている私たち一人一人に、等しく与えられているのは、主イエスを信じる信仰なのです。その信仰をもう少し内容的に言えば、主イエスこそ救い主であられ、まことの王として私たちを、そしてこの世界を支配なさる方である、と信じることです。その主イエスの王としてのご支配は今、この世界に、誰の目にも明らかな仕方では確立していないけれども、しかし主イエスは確かにまことの王として戻って来られ、その主イエスの再臨によってこの世は終わり、神の国が完成するのです。そのことを信じて、再び来られる主イエスを待ちつつ、主の僕として、主のみ心を行なっていく、それが私たち一人一人に与えられている信仰であり、信仰に基づく生活なのです。主イエス・キリストを信じる信仰者は、誰もが皆、この信仰を与えられています。主イエスがまことの王として再び来て下さることによって神の国が現れるという将来の救いの完成を信じる信仰、それが私たち一人一人に預けられている1ムナなのです。

信仰の価値
 主イエスの不在の時であるこの世において、この1ムナをどう用いていくか、が私たちに問われています。この1ムナの、つまり信仰の価値を認めて、それを真剣に受け止め、そこに示されている神様の約束を信じて生きるなら、そこには豊かな実りが与えられます。それが10ムナを儲けた人の姿が示していることです。しかし与えられている信仰の価値に疑いを抱き、神様による救いの約束を中途半端にしか信じることができず、ということは半分は神様を信じながらも後の半分は自分の力に依り頼みながら生きるならば、実りも半分にしかなりません。それが5ムナ儲けた人の姿であると言えるでしょう。つまりこの二人の違いは、力量や努力の差と言うよりも、与えられている信仰の価値をどう見ているかの違いなのです。このたとえにおけるムナが、もう一つのたとえ話におけるタラントンの六十分の一であることの意味がそこにあります。タラントンに比べてこれはかなりの小額です。しかし年収の三分の一である1ムナは決してはした金ではありません。それを元手に商売をするという場合にその価値をどう見るかは、その人の受け止め方次第です。そういう微妙な金額がこのたとえ話においては用いられているのです。それは私たちに、あなたは主イエス・キリストを信じる信仰の価値を、また主イエスがまことの王としてもう一度来られるという約束をどう受け止めるのか、と問うための金額であると言えるでしょう。

三人目の僕
 そしてこの話には、三人目の僕が登場します。彼は、主人から預けられた1ムナを布に包んでしまっておいたのです。つまりそれを全く用いることなく、主人が帰ってきた時そのまま返したのです。その僕は主人から厳しく叱られ、持っている1ムナも取り上げられてしまいます。あのタラントンのたとえにも、同じ三人目の僕が出てきます。1タラントンを預けられたその僕は、やはりそれを用いることなく、土を掘って隠しておいたのです。21節のこの僕の言葉は、タラントンのたとえにおける三人目の僕とほぼ同じです。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」。この三人目の僕の姿は何を示しているのでしょうか。タラントンのたとえにおいては、神様から与えられているタレント、能力、才能を生かすことなく、用いなかったということになります。そしてそれが三人の内で最も少ない額を預けられた人だったところに、この人が他の人に与えられているものと自分に与えられているものとを見比べてひがんでしまった、ということが意識されていると思われます。しかしこのムナのたとえにおいてはそれとは全く違うことが見つめられています。彼に預けられていた1ムナは先ほど申しましたように主イエスを信じる信仰です。主イエスが王となって戻って来るという約束です。この人はその1ムナを全く用いなかった、つまり信じなかったのです。主イエスを信じる信仰に価値を見出さず、主イエスがまことの王としてやがてもう一度来られるという約束を信じなかったのです。それを信じないというのは、実はそれを望んでいない、ということです。そうなったらいいと思っていないのです。主イエスがまことの王となって私たちを、またこの世界を支配して下さることを好ましいこと、願わしいことと思っていないのです。なぜそう思わないか、それは彼が、主人に対して良い思いを持っていないからです。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」という言葉はそれを表しています。この僕は主人が厳しい、恐ろしい人だと思っているのです。だからそんな人に王になってもらいたくないのです。ですからこの三人目の僕は、この話の14節に出てくる、「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」という人たちと重なります。それゆえにこの話の最後においても、三人目の僕が持っているものまでも取り上げられてしまうことに続いて27節で、「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」と語られているのです。なんだか随分物騒な、恐ろしいことが語られていると思います。しかし主イエスのことを厳しい恐ろしい方と思い、主イエスが王となることを好まないというのは、愛によって独り子主イエスを遣わして下さった神様のみ心を無にすることですから、このような神様の怒りを招くことは当然なのです。

主イエスの不在の時を信仰に生きる
 私たちはこれまで、18章の終わりから19章の始めにかけて、この三人目の僕とは正反対に、救い主イエス・キリストとの出会いと、その救いを真剣に求めた人々の姿を見てきました。エリコの町の門の外に座っていた、目の見えなかった物乞いは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けて、主の救いにあずかったのです。徴税人ザアカイは、なんとかして主イエスを見ようとしていちじく桑の木に登りました。そのザアカイの下で主イエスは立ち止まり、彼の名を呼び、「急いで降りて来なさい。今日私はあなたの家に泊まる」と宣言して下さったのです。主イエスのその語りかけに従って急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えたことによって、救いがザアカイの家にももたらされたのです。これらの人々は、自分に与えられた1ムナをかけがえのない大切な価値あるものとしてそれを生かしたのです。主イエスが王となって下さることを心から求めたのです。それによって、彼らの信仰は豊かな救いの実りを生んだのです。もしも彼らが、主イエスとの出会いを求めて叫ばず、主イエスを見ようともせず、また呼びかけられても自分が登っている木から降りて来ようとしなかったならば、彼らの救いはなかったのです。1ムナを布に包んでしまっておいた、とはそういうことなのです。
 先ほども申しましたように、私たちは今、主イエスの不在の時を生きています。先週私たちは主イエスの復活を喜び祝うイースターを過ごしたばかりですが、復活して今も生きておられる主イエスも、またその主イエスによる神様の恵みのご支配も、この世の現実においては目に見える仕方で確立してはいません。むしろ地震や津波や原発事故による悲惨な災害こそが目に見える現実です。私たちはその中で、主イエスの十字架の死と復活によって私たちの罪の赦しと新しい命の約束が既に与えられており、神様はその約束を主イエスの再臨において必ず果たし、神の国を、神様による救いの完成をもたらして下さるという、私たちに預けられている1ムナの信仰を大切にして、「主の再び来りたまふを待ち望」みつつ生きていきたいのです。それによってこそ、この信仰は私たちのこの人生において五倍十倍の実りを生み、災害の苦しみの中にある人々を支え助けていく力もそこに与えられるのです。

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