主日礼拝

都のために泣くイエス

「都のために泣くイエス」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第56章1-8節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第19章41-48節
・ 讃美歌:13、165、432

エルサレム入城
 前回礼拝においてルカによる福音書を読んだのは5月8日でしたが、その日に読んだ19章28節以下のところに、主イエスがご生涯の最後にエルサレムに来られた時のことが語られていました。その時にも申しましたが、ルカ福音書はこの主イエスのいわゆる「エルサレム入城」を、他の福音書とはかなり違った仕方で語っています。つまりエルサレムの人々が「ホサナ」と叫び、棕櫚の枝を振って主イエスを喜び迎えた、ということをルカは語っていないのです。前回の所に語られていたのは、主イエスが子ろばに乗ってエルサレムへと入ろうとされた時に、弟子たちの群れが「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と神を賛美したということです。そこには群衆もいたことが記されていますが、群衆がこの弟子たちの賛美に声を合わせて主イエスを歓迎したとは語られていないのです。しかしエルサレムの人々は主イエスの到来を喜ばなかった、というわけではありません。本日の箇所の最後の所、つまり19章の最後の48節には、「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていた」と語られています。エルサレムに来られた主イエスの話を人々は喜んで聞いていたのです。つまりルカは、主イエスのエルサレム入城において賛美を歌い迎えたのは弟子たちだけだったが、エルサレムの民衆もその後は夢中になって主イエスの話に聞き入っていたことを語っており、それらのことの間に、41~47節を語っているのです。

感情的な主イエス
 41~47節には二つのことが語られています。第一は、主イエスがエルサレムの都のために泣いたこと、その涙の中でお語りになったみ言葉です。41節に「エルサレムに近づき、都が見えたとき」とあります。弟子たちが賛美を歌ったのは、37節にあったように「オリーブ山の下り坂にさしかかられたとき」でした。エルサレムの都の東にオリーブ山があります。そこから下って行ったところがキドロンの谷です。その谷を隔てた丘の上にエルサレムの町があります。オリーブ山からは、谷を隔てた向こうにエルサレムの市街が一望できるのです。いわゆる聖地旅行に行った人は皆、このオリーブ山からエルサレムを見る体験をします。エルサレムを写した写真もそこから撮られたものが多いのです。エルサレムの町を見るために最もよいスポットがそこなのです。「エルサレムに近づき、都が見えたとき」に主イエスがおられたのはまさにそこだったのでしょう。エルサレムの都全体が最もよく見える場所から見つめつつ、主イエスは涙を流されたのです。そのあたりには今、この19章41節にちなんだ「主の嘆きの教会」が建っています。
 ここに語られている第二のことは、45節以下の、主イエスがエルサレム神殿の境内で商売をしていた人々を追い出したという話です。「宮清め」と呼ばれる、怒りに満ちた乱暴な主イエスのお姿がここには描かれています。泣いたという話に続いて、怒って乱暴なことをなさったという、どちらも珍しく感情的になっておられる主イエスのお姿が、この41~47節には並べられているのです。

宮清め
 さてこの珍しく感情をあらわにしておられる主イエスのお姿を語る二つの話の内、後の方の「宮清め」の話から先に見ていきたいと思います。主イエスが神殿の境内で商売をしていた人々を追い出したというこの話は、四つの福音書の全てに語られています。その中でルカは、この出来事を最も短く簡単に、ほとんど骨と皮のみを語っています。ルカが下敷きにしているマルコ福音書においては、「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返した」と語られています。ルカはそれを「そこで商売をしていた人々を追い出し始めて」とのみ記しています。神殿の境内でどんな商売がなされていたのか、また主イエスはどうやって彼らを追い出したのか、マルコ福音書が具体的に語っていることをルカは全く語らないので、ルカ福音書を読んだだけではこの出来事のイメージが湧かないのです。そこで先ずはマルコ福音書から、この出来事の意味を考えてみたいと思います。マルコでは11章15節以下です。そこにおいて、神殿の境内で商売をしていた人々とは、両替人と鳩を売る者です。どうしてこういう人々が神殿の境内に店を出しているのでしょうか。この両替人は、観光客のために例えばドルを円に両替するようなことをしていたのではありません。彼らがしていた両替は、一般のお金を神殿専用のお金に両替することでした。神殿で神様に捧げることができたのは、神殿専用の清いお金だけだったのです。つまりこの両替は、人々が神様に献金をするためになされていたのです。鳩を売る者というのも、エルサレム土産の鳩を売っていたのではありません。この鳩も、神様に犠牲として捧げるためのものです。経済的に余裕のある人は羊を犠牲として捧げますが、羊を用意するだけのお金のない人は、その代わりに鳩を捧げることができる、と旧約聖書の律法に記されています。また、神様に犠牲として捧げる動物は、どこにも傷がないことを祭司によって認定してもらわなければなりませんでした。自分の家から持って来た鳩は、途中で傷がついたりして捧げることができないかもしれません。それで多くの人はお金を出して祭司の認定ずみである犠牲用の鳩を買って捧げたのです。つまりこれらの商売はどれも、神殿で神様を礼拝する人々の便宜をはかるためになされていたことです。そういう店が神殿の境内に開かれていたのです。ですから私たちはこのエルサレム神殿の境内の様子を、お祭りの時に日本の神社の境内に屋台が立ち並ぶような光景と同じに考えてしまってはいけないのです。神殿での礼拝の便宜をはかるために商売をしていた人々を、主イエスは、マルコの記述によればその台をひっくり返すような乱暴なことをして追い出したのです。

わたしの家は、祈りの家でなければならない
 主イエスはなぜそんなことをなさったのでしょうか。ルカは主イエスのお言葉をこのように記しています。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」。ここで主イエスが「こう書いてある」と引用しておられる、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」という言葉は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第56章7節の終わりのところです。そこには「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とあります。「わたし」というのは主なる神様です。主なる神様の家、つまり神殿は「祈りの家」と呼ばれ、人々が神様に祈るための場でなければならない。それなのに、今やそれが商売のために利用され、「礼拝ビジネス」の場となってしまっている、主イエスはそのことに激しく怒ってあのような乱暴な振る舞いに及んだのです。
 しかしこの主イエスのお言葉も、ルカはマルコよりもずっと簡潔にしています。マルコではイザヤ書の引用は「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」となっています。ほぼイザヤ書の言葉の通りです。ルカはそれをマルコよりも縮めているのです。省略されているのは「全ての民の」という言葉です。しかしこの言葉はイザヤ書56章においては大変大事な言葉なのです。イザヤ書56章は、イスラエルの民でない異邦人や、神様の民になることはできないと律法に語られている宦官、つまり去勢された人であっても、主なる神様を信じ、主を愛し、主に仕え、主の戒めを守るなら、主はご自分の民として迎え入れて下さる、ということを語っています。その主なる神様の恵みを語っているのが7節なのです。その全体を読んでみます。「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。つまりここは、主なる神様が、イスラエルの民にもともと属さない者であっても、その献げ物を受け入れ、ご自分の祈りの家に迎えて下さる、そのようにして神様の家は全ての民のための祈りの家となる、ということを語っているのです。その文脈においては、「全ての民の」という言葉は省略することができない不可欠な言葉のはずです。そして、これを省略せずに引用しているマルコ福音書においては、主イエスのお怒りの意味がそこから見えてくるのです。ここで神殿の「境内」と呼ばれているのは、エルサレム神殿の一番外側に広がっていた「異邦人の庭」と呼ばれていた所です。つまりそこまでは、イスラエルの民でない異邦人も入ることができ、異邦人はそこで主なる神様を礼拝していたのです。その内側に、ユダヤ人の女性が入ることができる所があり、さらにその内側にユダヤ人男性のみが入れる所があり、さらにその内側は聖所で祭司たちのみが入ることができ、そして最も中心には至聖所と呼ばれる、大祭司が年に一度のみ入ることを許されている所がある、というのが神殿の構造です。その一番外側にある「異邦人の庭」で、両替人や鳩を売る者が商売をしていたのです。しかしそこは、異邦人が礼拝するための場所です。そこを、神の民であると自負するユダヤ人たちが、自分たちの礼拝の便宜のために売り買いをする場としてしまっている、その商売の喧騒によって、異邦人たちの祈りが妨げられている、そのことに主イエスは怒りを覚えた。それで、「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるべきである』 と神は言っておられるではないか、それなのにこの状況は何だ、まるで強盗の巣窟ではないか」とおっしゃった。これが、マルコ福音書から読み取れる「宮清め」の意味なのですが、しかしルカの記述からはそういうことは読み取れません。ルカにおいては、主イエスの怒りは、異邦人の祈りが妨げられていることにではなくて、もっと単純に、神殿が祈りの場となっておらず、商売の、金儲けの場となってしまっていることに向けられているのです。
 その商売が、礼拝をするために来た人々のための「礼拝ビジネス」だったことを先程申しました。礼拝ビジネスが成り立つのは、その礼拝が、清いお金や傷のない犠牲を捧げることによって成り立つような礼拝だったからです。それに対して主イエスは「祈り」を強調なさいました。「祈り」の強調によって主イエスが考えておられるのは、目をつぶって、手を組んで、敬虔な思いになって、よく整えられた言葉で祈る、というようなことではありません。そういうことは、清いお金や傷のない犠牲によって礼拝を整えるのと同じことです。そのような礼拝の根本には、敬虔な信心深い行為によって神様を動かし、願いを叶えてもらおうという思いがあるのです。神様を自分のために用いようとする礼拝です。「わたしの家は、祈りの家でなければならない」という主イエスのみ言葉に込められているのは、私たちの礼拝は、また信仰は、そのようなものであってはならない。私たちに語りかけておられる神様のみ言葉をしっかり聞き、生きて働きかけておられる神様ときちんと向き合い、神様とのそういう正面からの交わり、応答の関係をこそ求めていくものでなければならない、ということです。祈りが形式的なものとなり、本当に神様と向き合い、真剣にみ言葉を求め、そのみ言葉に従って生きようとしない礼拝は、ビジネスと化していくのです。そのような礼拝は、主イエスが最もお嫌いになるものであり、怒りをもって退けようとなさるあり方なのです。ルカ福音書がこの宮清めの出来事において語ろうとしているのはこのことなのです。

主イエスの涙
 さてこのことを確認した上で、主イエスがエルサレムを見て泣いたという41節以下に戻りたいと思います。主イエスはなぜ涙を流されたのでしょうか。その思いは42節以下に語られています。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。主イエスは、エルサレムの人々が「平和への道」をわきまえていないことを嘆いておられます。そのために彼らは平和に至ることができず、やがて恐しい破局に襲われるのです。攻め寄せる敵に包囲され、ついに陥落して徹底的に破壊され、多くの人々の命が奪われてしまうのです。このことは、紀元70年に実現しました。ローマ帝国に対する反乱を起こしたユダヤ人たちがローマ軍に打ち破られ、エルサレムが籠城戦の末陥落し、徹底的に破壊され、多くの人々が殺されたのです。主イエスはそのことを見越して、そのようなエルサレムの人々の運命を覚えて泣かれたのです。けれども主イエスのこの涙、嘆きは、エルサレムの人々にやがて訪れるこの過酷な運命を悲しんでいるというだけではありません。主イエスはそのようなことが起る根本的な原因を見つめて泣いておられるのです。それは、彼らが平和への道を知らない、ということであり、さらにその根本にあるのは、「神の訪れてくださる時をわきまえなかったから」ということです。このことと、そこから生じる結果を見つめつつ、主イエスは泣かれたのです。

神の訪れをわきまえる
 「神の訪れてくださる時をわきまえない」とはどういうことでしょうか。神様が訪れて来て下さっているのにそのことに気付かず、ちゃんとお迎えしないということだ、ととりあえず言えるでしょう。だとしたらそれは、主の名によって来られた方、まことの王である主イエスの到来、訪れを、弟子たちがしたように賛美の歌を歌って歓迎しなかったエルサレムの人々の姿だと言えるかもしれません。神様の独り子であるまことの王が、王の都であるエルサレムに来たのに、そのことを全くわきまえておらず、迎えようとしなかった人々は、平和への道を知らず、その結果滅びが彼らに臨む、そのことを主は嘆いておられる、ルカの文脈からすればそのようにここを読むこともできるかもしれません。けれどもそのように読んでしまうと、主イエスのこの涙はこの時のエルサレムの人々のための涙ということになります。しかしルカが、他の福音書には語られていない、この主イエスの涙を語っているのは、これを読む人々、つまり私たちにとってこのことが大きな意味を持つからであると言うべきでしょう。主イエスの嘆きは、私たちのための嘆きでもあるのです。主イエスは私たちのためにも涙を流されたのです。先ほどの宮清めにおける主イエスの怒りを合わせて見つめることによってそれが見えてくるのではないでしょうか。主イエスは、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」とおっしゃって、祈りを失った礼拝ビジネスに対する激しい怒りを表されました。「神の訪れてくださる時をわきまえない」というみ言葉においても、それと同じことが見つめられているのです。主イエスがエルサレムに来られたことも勿論神の決定的な訪れです。しかし神の訪れはその時にだけ起ったのではありません。主イエス・キリストが人間としてこの世に生まれて下さり、神の国の福音を宣べ伝えて下さり、そして十字架にかかって死んで下さり、父なる神様がその主イエスを復活させて下さった。そして天に昇られた主イエスのもとから聖霊が遣わされて地上に教会が誕生し、私たちがそこへと招かれている。主イエス・キリストによって実現したこれらの救いのみ業の全体において、主なる神様は私たちを訪れて下さり、私たちに働きかけ、み言葉を語りかけておられるのです。神様は独り子イエス・キリストによって私たちを訪れ、働きかけ、語りかけ、私たちと正面から向き合う交わりを結ぼうとしておられるのです。この神の訪れをわきまえ、それをしっかりと受け止めて応答し、神様と向き合っていくことこそが、祈ることの本質です。この祈りに生きることが信仰です。その祈りの家として教会が与えられています。それは建物のことではなくて、神様によって呼び集められ、神様を礼拝する者たちの群れとしての教会です。その礼拝において私たちは、神様からの語りかけを聞き、その働きかけに応え、つまり神の訪れをわきまえ、それに応答して神様との交わりに生きていくのです。その礼拝が一週間の生活の中心に据えられることによって、私たちの日々の生活、日常の歩みの全てが、神様と共に生きる歩み、祈りに支えられた生活になるのです。私たちの礼拝がそのような祈りの場、神様の訪れをわきまえる場となっていないならば、主イエスはそのことをお怒りになります。また私たちが主イエスにおける神様の訪れ、語りかけをわきまえず、それに応答する祈りに生きていないならば、そのことを主イエスは悲しみ、私たちのために涙を流されるのです。それは私たちが本当の意味での「平和への道」を知らないということだからです。神様が私たちを訪れて下さり、私たちと正面から向き合う交わりを結んで下さることをわきまえずに生きるところでは、私たちが生まれつき持っている様々な思い、願い、欲望がどこまでもふくれあがっていきます。そして人と人とのその欲望のぶつかり合いである争いや戦いが必ず生じていくのです。本当の平和への道は、私たちの思い、願い、欲望が、神様の訪れによって、そのみ言葉とみ業とによって打ち砕かれ、私たちがその神様のみ心に従う者となる所にこそ開かれていくのです。

主イエスの怒りと愛
 宮清めにおける主イエスのお姿は怒りに満ちており、乱暴で暴力的ですらあります。私たちが普通に抱いている主イエスのイメージとは違うと言えるでしょう。しかしこれも主イエスの真実のお姿です。主イエスは、私たちの礼拝が、祈りが、信仰が、主なる神様と真実に向き合うものとなっていないことに対してはこのようにお怒りになるのです。しかしその怒りと同時に、主イエスは私たちのために涙を流して下さっています。つまり私たちのことを本当に愛して下さっているのです。愛しているからこその怒りです。それゆえに主イエスは、怒りによって私たちを滅ぼしてしまうのではなくて、その私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、私たちの罪を赦して下さったのです。毎週の礼拝において、主イエス・キリストはこの赦しの恵みをもって私たちを訪れて下さっています。この訪れをわきまえて主イエスと向き合い、心から祈ることによって、真実の平和への道を示され、その道をしっかりと歩んでいきたいのです。

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