主日礼拝

離反の予告、復活の約束

「離反の予告、復活の約束」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:ゼカリヤ書 第13章7-9節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第14章27-31節
・ 讃美歌:50、298、441

<離反の予告>
 主イエスは、弟子たちに向かって言われました。
「あなたがたは皆わたしにつまずく。」
 「つまずく」というのは、聖書の中でよく使われる言葉ですが、信仰を失うこと、神に従えなくなることを言います。主イエスは弟子たちが、ご自分によって信仰を失う、ご自分によって従うことが出来なくなる、と言われました。

 これは衝撃的な言葉です。面と向かってこの言葉を突き付けられたら、わたしたちはどうするでしょうか。主イエスが仰るのです。
 「あなたはわたしにつまずくだろう。あなたは、わたしに従うことができなくなるだろう」。
 これを聞いたら、わたしたちは、まず自分の信仰を自ら問うかも知れません。
 わたしは、つまずいてしまうのだろうか。どうして従えなくなるのだろうか。わたしの信仰は弱いのだろうか。わたしの信じる覚悟や努力が足りないのだろうか。つまずかないようにするには、どうしたらよいのだろうか。

 そこでペトロの場合は、主イエスに向かって自分の信仰の覚悟を言い表しました。
「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」力強い宣言です。

 しかし主イエスは、「あなたはつまずかずにいられるか」と、問われたのではありません。
 「あなたがたは皆わたしにつまずくのだ」と、予告なさったのです。 
 主イエスは、ご自分の受難と十字架の死を前に、弟子たちが自分を見捨て、離れていってしまうことをご存知でした。その弱さを、脆さを、罪を、すべて知っておられたのです。この弟子たちは、皆、主イエスに従うことはできません。ですから主イエスは、弟子たちを新しく変えようとしておられます。

 わたしたちも同じです。主イエスに新しくしていただかなければ、わたしたちは、自分の力や覚悟で信仰を持とうとしても、主イエスにつまずくし、主イエスに従えないのです。

 みなさんは、となりの国で、今激しい迫害が起こっていることをご存知でしょうか。主イエスを信じる信仰によって、牢に繋がれ、家族を奪われ、命の危険にさらされている、教会の兄弟姉妹がいます。信じているのに、どうしてこんな苦しみに遭うのか。それこそ、信仰を失ってしまいそうな、つまずいてしまうような出来事です。

 ある一人の牧師は、国家を転覆しようとした罪で逮捕されました。しかし、この牧師は国家ではなく、神に従うことを表明し、その苦しみを受け入れています。事前に準備していた声明文があり、その最後あたりに、このように書いておられました。
 「この世の権力者は、私を妻子から引き離すこと、私の地位や名誉も奪うこと、私の家庭を破滅させること、これらすべてをすることができる。しかし、私に信仰を捨てさせること、私に人生を変えさせること、私を死の中から復活させること、これらのことを地上のだれもすることはできない。」

 最初、わたしは、なんという強い覚悟か、強い信仰かと思いました。もしわたしが同じ立場なら、お前はどうするのか、主イエスにそこまでして従えるのか、それほどの信仰を持っているか、と問われているように感じました。
 でもわたしは、どれだけ覚悟したって、こんなことには絶対に耐えられないと思いました。誰だって耐えられないと思います。そして、三度知らないと言って泣いた、ペトロの姿を思い起こしたのです。

 しかし本当は、そのように覚悟を問われているのではない、と思わされました。主イエスは、わたしたちが、弱く、従うことが出来ない者であることを、よくご存じです。
 そしてこの牧師は、決して自分の決意や覚悟を言い表したのではありませんでした。主イエスを信じる信仰を告白したのです。
 世の権力者はあらゆることができる。しかし、私の信仰を捨てさせること、私の人生を変えさせること、私を死の中から復活させること、これは主イエスにしか出来ないのだ、と言っているのです。主イエスだけが、信仰を与え、主イエスだけが、人生を新しくし、主イエスだけが、私を死の中から復活させることができる。そのことを信じている。そう言っておられるのです。
 これは、この牧師個人の決意ではなく、主イエスが与えて下さった出来事であり、真実であり、希望の約束です。この牧師は、この確かさにのみ依り頼み、この主イエスに立たされているのです。

 わたしたちも、この主イエスが与えて下さる同じ信仰に、立たされ、生かされているはずです。わたしたちは、どのように新しくされるのか、どのようにまことの信仰を歩んで行くことが出来るのか。今日はそのことを、御言葉から聞いていきたいと思います。

<神のご計画>
 今日の場面は、最後の晩餐の後の出来事です。最後の晩餐のことは、この直前、22~26節のところに語られていました。
 ここで主イエスは、ご自分の体が裂かれ、血が流されることで、神が新しい契約を与えて下さること。つまり、ご自分の苦しみと死によって、神の救いのみ業が成し遂げられ、すべての人が神の民となることができる。そのような、新しい契約が与えられることを、お示しになったのです。

 そして、食事が終わると、一同は賛美しながらオリーブ山へ出かけていきました。今日の主イエスと弟子たちのやりとりは、そこでの場面です。
 裏切ろうとしているユダ以外、十一人の弟子たちは、主イエスがこの直後に捕えられ、その日の内に裁判によって死刑にされ、十字架に架けられるなんて、思いもよりません。
 本当は、主イエスは、ご自分の受難と復活の予告を、これまで何度も弟子たちに教えておられました。主イエスは、その時がいつかもご存知ですし、これからお受けになる苦しみや辱めについても、語っておられました。
 しかし、弟子たちにとっては、力ある教えを語り、驚くような御業を行われる主イエスが、苦しみを受けて殺されるなど、現実離れしたことのように思われたのではないでしょうか。
 賛美の歌を歌っていた弟子たちは、お腹も満たされ、過越しの食事も無事に終わり、気分よく、夜風に吹かれながら歩いていたかも知れません。

 しかし、そこで、主イエスが言われたのです。
「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたたちより先にガリラヤへ行く。」

 ここで、主イエスは三つのことを言われました。
 一つは、弟子たちが皆つまずくという、離反の予告です。
 二つ目は、「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」という部分です。ここは今日お読みした旧約聖書のゼカリヤ書から引用されています。これは、主イエスの苦しみも、弟子たちのつまずきも、旧約聖書に書かれていたことであり、神の御言葉、神のご計画の実現である、ということです。
 羊飼いとは主イエスのことであり、ここで羊飼いを打つのは、父なる神です。主イエスが打たれ、苦しみをお受けになるのは、決して予想外の出来事や、あり得ないということではなく、むしろ、それは父なる神の救いのご計画なのです。
 そして、主イエスの苦しみを前に、離れて散ってしまう弟子たちの弱さや裏切りも、すでに神によって知られていた、ということです。
 そして三つ目が、復活の約束です。「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」ここに、すべての希望が語られています。

 でもおそらく、この時、弟子たちが最も衝撃を受け、反応したのは、「あなたがたは皆わたしにつまずく」という言葉だったのです。

<信仰の比較>
 これを聞いたペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」と言いました。ペトロは悲しく思ったに違いありません。主イエスはわたしたちの信仰を、心許ないと思っておられるのだろうか。弟子のわたしたちを信頼しておられないのだろうか。自分をそんなに弱い者だと思っておられるのだろうか…。
 しかしペトロは、自分だけは他の人とは違う、という思いがありました。
 「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」
 他の者たちはだめかも知れないが、わたしは違う。わたしはもっと真剣です。わたしだけは大丈夫です。そう言ったのです。

 しかし、ペトロはどうしてここで、他の弟子たちと自分とを比べたのでしょうか。自分は特別だと思っていたのでしょうか。自分の信仰に自信があったのでしょうか。
 実はわたしたちも、自分の信仰と人の信仰を比べてしまうことが、よくあります。
 あの人の信仰は立派だな、と感心したり。あんな熱心な人と違って自分の信仰は全然だめだ、と落ち込んだり。あの人の信仰生活はちょっとだらしないな、あの人はもっと真面目に、しっかりしなきゃダメだ、と批判してみたり。
 どこかで信仰を人と比較して、うらやましがったり、劣等感を持ったり、人を批判したりしていることはないでしょうか。

 そうなってしまうのは、信仰が自分の思いや、熱心さや、真面目さなど、自分の力によるものだと思っているところから来るのだと思います。信仰が、自分の思いや態度によって左右されるような、自分の持ち物になっているからこそ、他の人が持っている物はどうだろうかと気になったり、比べたりしてしまうのです。人と比較するところには、必ず優越感や、劣等感が生まれます。
 ペトロのように、自分は他の人とは違うと言って、信仰に自信を持つことも、自分の信仰なんて全然だめだと自信を無くすのも、その根っこは同じです。

 でも、そのような考え方は、根本的に間違っています。
 そのような自分の力に頼る信仰は、自分の限界で終わってしまいます。どれだけ頑張っても、どれだけ張り切っても、わたしたちの限界を超える出来事に直面したら、あっけなく消え失せてしまうのです。そのような信仰「のようなもの」は、必ずつまずきます。

<ペトロのつまずき>
 ですから、ペトロの発言に対して、主イエスははっきりと言われました。
 「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
 三度、というのは、完全に、徹底的に、ということを意味します。ペトロは、主イエスとの関係を徹底的に否定し、完全につまずく、と予告されたのです。

 主イエスは、ペトロのことを、弟子たちのことを、わたしたちのことを、よくご存知です。主イエスは、わたし以上に、わたしのことをご存知なのです。 
 主イエスは、一人一人の弱さを、罪を、よく知り、よく見つめておられます。
 「あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われた言葉は、「お前は本当にだめなんだよ」、というような、突き放す言葉ではありません。そこに注がれているのは、裏切り者に向けた、冷たい眼差しではありません。
 ペトロは今、本当に、真剣に主イエスに従いたいと願っている。心からそう思っているのに、そのようにすることが出来ない。そんな人の弱さを、悲しみを、深い憐れみの目で、愛をもって見つめて下さっているのです。

 でも、人はこの眼差しに、おそらく耐えられないのです。自分の弱さや罪を認められないし、何とかしたい、何とかできると思うのです。ペトロは、主イエスに自分の熱心さが届いていない、真剣さを理解してもらっていない、と思ったかも知れません。
 このとき、さらにペトロは力を込めて言い張った、とあります。
 「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」
 主イエスの予告を打ち消すように、顕わになりそうな弱さを振り払うように、自分はあなたと一緒に死ぬことも覚悟できる。あなたを決して「知らない」などと否定しない。裏切ることなどない。人生の最後まで、従い抜いてみせます。そんな風に力強く言い張ったのです。ペトロは自分の信仰の覚悟を、決意を、申し述べました。
 そして、「皆の者も同じように言った」とあります。弟子たちは皆、死を恐れずに従う決意をしたのです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」

<弟子たちの裏切り>
 この後、主イエスはゲツセマネの園で祈られ、その後にユダの裏切りによって、ユダヤ人の指導者たちに逮捕されます。14:50には、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあります。また、14:66以下には、ペトロが、主イエスが仰ったとおりに、三回主イエスのことを「知らない」と言ったことが語られています。今日の聖書箇所の主イエスとのやりとりから、たった数時間後の出来事です。14:71、72には、このように語られています。
「すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」

 ペトロは、主イエスが何もかもご存知だったことを知りました。そして、自分の熱心さや、覚悟や決意など、何の支えにもならなかったことを知ったのです。ペトロが信じ、頼っていたのは、自分自身でした。弟子たる者は、どんなことがあっても勇敢に主イエスに従い抜くべきであり、自分はそのようにできる。他の者たちとは違う。そう思っていました。
 でも、そのような自分の力に頼る信仰は、主イエスの逮捕、死の恐怖を前に、簡単に崩れ去ったのです。

 主イエスの苦しみを前に、十字架を前に、人はその弱さも、罪もすべて顕わにされます。わたしたちが心から主イエスに従うことを願っていても、真剣に思っていても、どれだけ熱心にやっていても、わたしたちは圧倒的な現実に、受け入れられない出来事に、あっけなくつまずくのです。

 それに、まだ弟子たちは、主イエスに自分たちの理想の救い主を思い描いていたかも知れません。主イエスの力強い教えを聞き、力ある方を目撃し、この方が神の御子であることを知らされてきた弟子たちです。主イエスは、自分たちを率いて、力強い王国を実現して下さるだろう。その偉大な力で、すべてを支配なさるだろう。そのような自分たちの願望を、主イエスに託そうとしていたのです。
 わたしたちも、神に勝手な理想を持ち、自分の願いを叶え、幸せにしてくれる神、自分の思い描く神を信じたいと願っています。誰だって、自分の信じる神が、人に侮辱され、痛めつけられ、殺されるなど、どうして受け入れられるでしょうか。
 わたしたちは、主イエスの十字架の御前で、勝手に抱いていた神への理想も、自分の信仰の覚悟も、決意も、何もかも打ち砕かれるのです。

 しかし、神はそのようなわたしたちの思いを超えて、常識を打ち破って、救いの御業をなさるのです。そしてわたしたちが、そのことにつまずくことも、よくご存知なのです。

<復活した後、ガリラヤへ>
 主イエスが十字架に架かられたのは、まさにこのような、身勝手な、自分勝手な思いで神に従えなくなる、わたしたちの罪を赦して下さるためでした。わたしたちの罪を打ち破り、新しい者として下さるためでした。
 ですから、これから十字架に向かわれる主イエスは、つまずきの予告と同時に、希望の約束を与えて下さっていたのです。
 「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 ガリラヤというのは、弟子たちの故郷であり、はじめて主イエスと出会った場所です。弟子たちは、そこで主イエスに見つめられ、招かれ、弟子になったのでした。
 彼らは、主イエスの十字架の後、エルサレムを離れ、その故郷のガリラヤへ帰って行くでしょう。彼らは、十字架での処刑という残酷な仕方で従うべき方を失います。なお弟子であった自分たちも殺されるかも知れないという恐怖と不安があります。それに、愛する、尊敬する主イエスを裏切ってしまった、見捨ててしまったという、自分の弱さと罪の意識に押しつぶされそうになっているでしょう。
 弟子たちは、恐らくこれまで経験したことのないような、悲しみと、絶望を味わいながら、死を恐れながら、自分たちの故郷へ帰っていくでしょう。

 ところが、主イエスは復活して、彼らより先にガリラヤへ行かれる、というのです。主イエスの十字架は、彼らの罪を赦すためでした。彼らが、新しい命に生きるためでした。
 主イエスは、罪の赦しの御業を成し遂げて、死者の中から復活されます。誰にも動かすことが出来ないと思われるような、罪の苦しみと、絶望と、死に満ちた現実を、神の力が打ち破って下さるのです。新しい命に至る道を、主イエスが打ち開いて下さるのです。

 そして、ガリラヤで待っていると言われます。弟子たちと初めて出会い、ご自分が彼らを弟子として招いた場所に、復活して先に行って立ち、そこで新しく弟子たちを迎えて下さる、というのです。
 これは、彼らがつまずく予告とともに、与えられた約束です。主イエスは、ご自分の十字架と復活の御業の中で、弟子たちの歩みを見つめて下さっています。神の救いのご計画の中に弟子たちを置いて下さり、その計画を必ず実現して下さいます。
 あなたたちはつまずくが、復活のわたしと出会い、新しく歩み出すであろう、と約束して下さるのです。

 ゼカリヤ書の預言は、主イエスが引用された「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい」の後に、このように語られています。
 「三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」と言い/彼は「主こそわたしの神」と答えるであろう。
 神が羊飼いを撃ち、羊の群れを散らすのは、イスラエルの罪に対する神の裁きです。しかしそれは、神がその試練を通して、「彼こそわたしの民」「主こそわたしの神」と応答し合う、神との愛の交わりに生きる、まことの神の民を造ろうとしておられるのです。
 主イエスの十字架の死も、弟子たちの弱さや罪による裏切りも、神が救いの御業をなさり、まことの神の民を興し、人を恵みの中で生かそうとする、そのご計画の中にあります。
 復活の主イエスは散らされた弟子たちを再び集め、まことの羊飼いとして、彼らを導き、命を養って下さるのです。

 わたしたちの罪によって、つまずきは必ず起こります。神はそのことをご存知です。そして、わたしたちが本当に十字架の御前に立ち、罪にうちひしがれる時、わたしたちはその罪をご自分の死によって赦し、復活して下さった主と出会うのです。
 この復活の主イエスに出会い、新しくされることによって、人は神に従う者へと変えていただくことが出来ます。今わたしたちが、十字架と復活の主イエスに出会うところは、神の御言葉においてであり、この礼拝です。生きておられる主イエスが、今も共におられ、わたしたちを招き、導き、養って下さるのです。罪を赦し、新しくして下さるのです。
 人が依り頼むことが出来るのは、自分の力や覚悟などではありません。復活し、生きておられる主イエスに支えられ、立ち上がらされ、共に歩むことこそ、わたしたちの信仰の歩みであり、それが主イエスに従うということなのです。
 弟子たちが、死を恐れず、殉教してでも福音を宣べ伝える者となったように、捕えられてもなお、神の恵みを証ししようとする隣国の牧師のように、復活の主イエスは、わたしたちの弱さや限界を超えさせる、確かな恵みと、信仰と、希望を与えて下さるのです。
 今、わたしたちがどんなに神から離れているように感じていても、悲しんでいても、うちひしがれていても、絶望していても、主イエスがおられるなら、大丈夫です。
 復活の主が先立ち、待っておられるからです。

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