「一匹を見つけるまで」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: エゼキエル書 第34章11-16節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第15章1-10節
・ 讃美歌: 241、200、476
15章に入る
アドベント第三の主の日を迎えました。いよいよ来週はクリスマスの礼拝です。そして本日から、ルカによる福音書の第15章に入ります。今年のクリスマスは、この第15章をご一緒に味わいつつ歩みたいと思っています。ルカ福音書第15章には、よく知られた三つのたとえ話が語られています。見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、そして放蕩息子のたとえです。本日は最初の二つのたとえ話を読みます。そして来週のクリスマス礼拝においては、放蕩息子のたとえによって、クリスマスの恵みをご一緒に味わいたいと思っています。
よく知られたたとえ話が並んでいることもあって、このルカ15章は、ここだけ独立した形で読まれることが多いように思います。例えば特別伝道礼拝の聖書箇所として選ばれたりするわけで、そうすると、前後の文脈からは切り離された仕方で、それぞれのたとえ話だけに集中して説教が語られます。しかし私たちは、ルカによる福音書を連続して読んで来る中で今ここにさしかかっているわけですから、そのことを生かして、14章からのつながりの中でここを読んでいきたいと思います。
ファリサイ派や律法学者たちの不平
15章の最初のたとえ話は見失った羊のたとえですが、それは4節以下です。3節までのところには、このたとえ話が語られた経緯、事情が語られています。そこを読んでみます。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」。15章の三つのたとえ話は、主イエスに不平を言ったこのファリサイ派の人々や律法学者たちに対して語られたのです。これらのたとえ話を理解するためには、この経緯、事情をいつも念頭に置いておかなければなりません。そうすることによって、14章とのつながりも見えてきます。14章の前半には、主イエスがあるファリサイ派の議員の家に招かれて食事の席に着いた時のことが語られていました。そこで主イエスは、神様の救いにあずかることを、神様が催す盛大な宴会に招かれ、その食卓に着くことにたとえてお語りになりました。同じ食事の席に着いていたある人がそれを聞いて、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言うと、主イエスは今度は、宴会に招かれていたのに、直前になって、なんだかんだと理由をつけて来るのを断った人々のたとえを語られました。宴会を催した主人は、その人々に代って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人たちを招き、彼らがその宴席に着いたのです。これらの話のポイントは、神様の救いにあずかる人、つまり神の国で宴会の席に着く人は誰か、ということです。もともと招かれていたはずの人々は来るのを断り、招かれるに相応しくないと思われていた、貧しい人や体の不自由な人こそが招かれてその席に着き、救いにあずかるのです。神様の救いは、そのように、人間の思いや常識を逆転させるような仕方で与えられるのです。主イエス・キリストは、まさにそのような神様の救いを宣べ伝え、具体的な行動によって現しておられました。それが、徴税人や罪人たちを迎えて食事を共にする、ということです。主イエスが彼らを迎えて共にとられた食事は、14章における神の国の食事を先取りするようなものであり、そこには、救いに相応しくないと思われていた罪人たちが招かれ、あずかっていたのです。それを見たファリサイ派の人々や律法学者たちは不平を言いました。それは、「なぜ自分たちは招かれないのか」という不平ではありません。主イエスは彼らをも招いておられ、共に食事をしようとしておられるのです。だからこそ、ファリサイ派の議員の招きに応えてその家で食事の席に着かれたのです。主イエスは彼らがご自分のもとに来て、その教えを聞き、悔い改めて、主イエスによってもたらされた神の国の福音を信じることを求めておられるのです。しかし彼らは、「あんな罪人たちと一緒に食事をしている者のところになど行けるか」と言って主イエスを批判したのです。つまり彼らこそ、神様の招きを断って宴会に来ようとしない人々です。それに対して徴税人や罪人たちは、「話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」のです。この人たちだけが招かれたのではなくて、この人たちだけが主イエスの招きに応えたのです。14章の終わりのところには、「聞く耳のある者は聞きなさい」という主イエスのお言葉がありました。その「聞く耳」を持っていたのは、彼ら徴税人や罪人たちだったのです。しかしまさに彼らが主イエスの話を聞くために集まって来て、食事を共にしていることが、ファリサイ派の人々や律法学者たちには我慢のならないことでした。神様の律法をしっかり学び、それをきちんと守って生きている自分たちは、あの罪人たちとは違うのだ、我々とあのような連中とを一緒にされてはたまらない、それが彼らの不平です。要するに彼らは自分たちのプライドを傷つけられたのです。
あなたがたの中に
そのように腹を立てているファリサイ派の人々や律法学者たちに、主イエスは「見失われた一匹の羊」のたとえをお語りになりました。そのたとえは、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば」と語り出されています。ここに、ルカ福音書におけるこの話の特色が現れています。同じようなたとえ話はマタイによる福音書の第18章にもありますが、そこにおいては、「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて」と語り出されています。つまりマタイにおいては、「あなたがた」への問いではあるけれども、話そのものは「ある人」の話であるのに対して、ルカにおいては「あなたがた」の話となっているのです。その「あなたがた」とは、主イエスを批判しているファリサイ派の人々や律法学者たちです。その人々に向かって主イエスは、「自分が百匹の羊を持っていて、その一匹を見失ったとしたらどうするかを考えてみてごらん」と言っておられるのです。そして、もしそうだったら、「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」、誰でも当然そうするだろう、とおっしゃったのです。
当然こうするだろう
ここに、このたとえ話の一つの難しさがある、と私たちは感じます。主イエスは、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回るのが当然だ、誰でもそうするだろう、と言っておられますが、しかしそれは決して当然ではない、と私たちは感じるのです。そこで必ず生じる疑問は、見失った一匹を捜しに行っている間、野原に残された九十九匹はどうなるのか、そこに狼が襲って来たらどうするのか、ということです。だから、一匹を捜しに行くことが当然だとは言えないのであって、むしろ残った九十九匹を守る方が大事だから、失われた一匹のことはあきらめる、という考え方だってあり得る、と思うわけです。だから、当然一匹を捜しに行くだろう、という主イエスのお言葉には難しさがある、と思ってしまうのです。しかし今回この説教を準備しつつ私が示されたのは、ここにそういう難しさを見る必要はないのではないか、ということです。「当然こうするだろう」という主イエスのお言葉は、残りの九十九匹のことは心配する必要がない、ということを前提としていると考えるべきです。例えば、残りの九十九匹を見ていてくれる仲間の羊飼いがいる、と考えればよいのです。つまりこの羊飼いは、後の九十九匹のことは心配せずに失われた一匹を捜しに行けるのです。そのように考える根拠の一つは、第二のたとえ話、無くした銀貨のたとえとの関係です。この第一と第二のたとえが同じ内容を語っていることは明らかでしょう。どちらも、見失ったものを捜して見つけ出す、という話です。ちなみに第三の放蕩息子のたとえは、放蕩息子が帰って来るという話ですから、第一第二とは違う内容となっています。さて第二の銀貨のたとえにおいては、無くなった一枚の銀貨を捜す時に、残りの九枚のことを心配する必要は全くないわけです。この話との並行関係を考えるなら、第一のたとえにおいても、九十九匹についての心配は考えなくてよいと言えるでしょう。つまり「残りの九十九匹はどうなるのか」という問いは、このたとえ話においては的外れな問いであって、それにひっかかっているとこの話が語ろうとしていることが見えなくなってしまうのです。
自分のものであるがゆえに
そうすると、主イエスがこのたとえによって語ろうとしておられることは何でしょうか。それはごく単純に、「あなたがたも、自分の大切なものが無くなったら、必死に探し回るだろう」ということです。一匹の羊が当時どれくらいの値段だったのかは分かりませんが、しかし大事な財産であることは間違いないでしょう。またドラクメ銀貨一枚というのは、聖書の後ろの付録の中の「度量衡及び通貨」の表を見ると分かるように、一デナリオン、つまり一人の労働者の一日の賃金に当たる金額です。この銀貨一枚を無くすことは、一日の働きを無駄にすることになるのです。そういう価値のあるものを見失ったら、私たちも必死に捜し回るでしょう。見つからないと大損だからです。主イエスがこの二つのたとえ話で、「あなたがたも当然そう思うはずだ」と言っておられるのはそのことなのです。「あなたがたも、自分のもの、財産が失われるとなったら、必死に捜しまわり、なんとかして見つけ出そうとするだろう」ということです。この「自分のもの」ということが大事です。あの羊飼いが一匹の羊を捜しに行くのは、彼が特別に愛に満ちた慈悲深い人だからではありません。その羊が自分のものだからです。銀貨を無くした女が家じゅうを捜し回るのも同じです。自分のもの、自分にとって大切なものを失いたくないから、必死に捜し回るのです。それは、ファリサイ派も、律法学者も、そして私たちも、つまり特別に愛が深くもなく、慈悲深いわけでもない者たちも皆共有している思いなのです。
捜し出してくださる神
主イエスは、誰の中にも当然あるこの思いに目を向けさせることによって、「神様も同じお気持ちなのだ」ということを示そうとしておられます。神様も同じように、ご自分の大切なものが失われていくのを、まあいいや、と放っておくのではなく、捜しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとなさるのです。主イエスが徴税人や罪人たちを招き、迎え入れ、一緒に食事をしているのは、神様のこのみ心によってです。ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちは徴税人や罪人たちとは違って神様に従って生きている、と思っています。しかし、主イエスの招きに応えようとせず、そのみ言葉に聞く耳を持たない彼らもまた、神様のもとから失われている羊です。徴税人や罪人たちと、ファリサイ派や律法学者たちは、現れ方は違うけれども、どちらも、神様の群れから迷い出てしまった羊である私たちの姿を描き出しているのです。そしてこのたとえ話が語っているのは、そのような迷い出た羊である私たち一人一人のことを、神様が、ご自分のものとして大切に思って下さり、捜しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとして下さるのだ、ということです。神様はそのために、ご自分の独り子をこの世に遣わして下さいました。神様の独り子イエス・キリストが、迷子になってしまっている私たちを捜し出し、見つけ出して神様のもとに連れ帰って下さるまことの羊飼いとして、人間となってこの世に生まれて下さったのです。クリスマスはそのことを喜び祝う時です。しかしそれは同時に、私たちに対する問いかけでもあります。つまり私たちは、あの徴税人や罪人たちのように、主イエスのもとにその話を聞こうとして近寄って来るのか、それともあのファリサイ派や律法学者たちのように、自分たちの罪を認めず、主イエスに聞く耳を持たず、招きを拒むのか、という問いです。徴税人や罪人たちと共に、自分の罪を認めて主イエスのもとに集い、神の国の福音を告げるそのみ言葉を受け入れることによってこそ、私たちは主イエスが招いて下さる神の国の食卓にあずかることができるのです。
罪人の悔い改めのたとえ
それこそが、「悔い改める」ことです。この二つのたとえ話のそれぞれの終わりのところに、「悔い改める一人の罪人については」とか「一人の罪人が悔い改めれば」と語られています。「罪人の悔い改め」ということが、この15章の三つのたとえに共通しているテーマなのです。しかし本日の二つのたとえには、罪人が悔い改める、つまり心の向きを変えて神様のもとに帰って来る、ということを意味する部分はありません。迷子になった羊は、自分で羊飼いのもとに帰ったのではありません。そもそも羊にはそんなことはできないのです。羊は、群れの中で、羊飼いに守られ養われなければ生きることのできない動物です。そしていったん迷子になってしまったら、自分で道を見つけて戻ることはできないのです。つまり群れから迷い出た羊は、羊飼いが捜しに来て見つけてくれなければ、死を待つ他ないのです。そういう意味で、迷い出た羊と、命や意志を持たない銀貨は同じだと言えます。どちらも、自分で持ち主の所に帰ることはできない、つまり悔い改めることなどできないのです。この二つのたとえが語っているのはもっぱら、神様の方が罪人を捜しに来て下さり、見つけ出して下さることです。それなのに主イエスはこの二つのたとえを、「罪人の悔い改め」のたとえだと言っておられるのです。それはなぜなのでしょうか。
悔い改めの土台
この二つのたとえ話には、私たちの悔い改めを可能にする根拠、土台が語られている、と言うことができると思います。私たちは、自分が神様のもとから迷い出て、道を見失い、死と滅びを待つしかない者であることを認め、主イエス・キリストのもとに来て、そのみ言葉を聞き、救いにあずかるのです。それが私たちの悔い改めです。しかし私たちは、そもそも自分が罪人であることになかなか気づかないし、それを認めようとしません。ファリサイ派の人々がそうだったように、あの連中に比べれば自分は清く正しく生きている、ということを拠り所として、自分のプライドを守ろうとしているのです。だから、自分がこのままでは死と滅びを待つしかない者だなどとは考えずに、むしろ自分は自由だ、と思って意気揚々と歩みつつ、実はずるずると死と滅びの淵へと陥っていく、それが私たちの姿なのではないでしょうか。そのような私たちは、自分で悔い改めて神様のもとに帰り、救いにあずかることが限りなく困難なのです。神様は、そのような私たちを、しかしご自分の大切なものとして愛して下さっています。なんとかして私たちを滅びの淵から救い出したいと思っておられます。そのみ心によって、神様の方から、私たちを捜しに来て下さるのです。そのために、独り子イエス・キリストがこの世に生まれて下さり、十字架にかかって死んで下さったのです。主イエス・キリストのご生涯、特にその十字架の死と復活に、神様が私たちのことを必死に捜し回り、ようやく見つけ出し、連れ帰って下さるというみ心が具体的に示されています。私たちは、この主イエスのご生涯に示されているみ心に触れることによって自分の罪に気づかされ、このみ心に支えられて、主イエスのもとに来てその救いにあずかることができるのです。つまり悔い改めることができるのです。見失った羊のたとえと無くした銀貨のたとえによって、私たちが悔い改めて救いにあずかるための土台を、神様ご自身がしっかりと据えて下さっているのです。その土台の上に、来週のクリスマス礼拝において読む「放蕩息子」のたとえが置かれているのです。
神の喜び
そして最後に、この15章を貫いている最も大事なテーマが残されています。見失った羊を見つけ出した羊飼いは、「喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。また無くした銀貨を見つけた女も、「友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。失われていた大切なものを見出した人は、大いに喜ぶのです。先ほど、見失った羊のたとえを題材とした讃美歌200番を歌いました。その四節の歌詞は、「抱かれて帰るこの羊は、喜ばしさに踊りました」となっています。しかしこれはこのたとえ話とは違います。ここに語られているのは、見出され救われた羊の喜びではなくて、見出した羊飼いの、つまり神様の喜びです。私たちが悔い改めて神様のみもとに立ち帰ることを、神様ご自身が誰よりも喜んで下さるのです。罪人の悔い改めにおける神様ご自身の喜びこそが、この15章の三つのたとえ話を貫いている中心主題なのです。
喜びへの招き
そして神様は、一人の罪人が悔い改めて救いにあずかることにおけるご自身の喜びを、多くの人々と分かち合おうとなさいます。「一緒に喜んでください」という言葉が繰り返されています。これこそ、神様が主イエス・キリストを通して人々をご自分のもとに招いておられるみ言葉です。神様の救いにあずかることが、盛大な宴会に招かれることにたとえられる根拠もここにあります。神様が、救われる人々を招く盛大な宴会を催し、「一緒に喜んでください」と人々を招いておられるのです。この招きに応えて、この宴席に着き、神様の救いの喜びにあずかり、それを分かち合うことが私たちの信仰です。ところが、この喜びへの招きを断り、この宴会の席に着こうとしない人々がいます。主イエスは、徴税人や罪人たちが悔い改めて救いにあずかったことにおける神様の喜びを分かち合おうとして、ファリサイ派の人々や律法学者たちをも招いておられますが、彼らは、あんな連中と同席するのはまっぴらだと言って招きを断り、この喜びの席に着こうとしません。主イエスと共に喜ぼうとしない彼らは、神様の喜びから落ちてしまっているのです。これは、私たち一人一人への問いかけです。このクリスマス、私たちは主イエスによって、神様の大いなる喜びへと招かれています。主イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さり、十字架にかかって死んで下さったことによって、神様のもとから失われ、迷い出てしまっている私たちを捜し出し、連れ戻して下さる、その恵みが自分に与えられていることを受け入れ、悔い改めて主イエスの救いにあずかり、そのことを心から喜んで下さっている神様の喜びにあずかり、主イエスが同じように招いて下さっている兄弟姉妹とその喜びを分かち合っていくなら、私たちもクリスマスの大いなる喜びにあずかることができるのです。しかし、主イエスが同じように招いて下さっている人を、あの人は罪人だ、救いに相応しくない、あの人と喜びを分ち合うことはいやだ、と言い出すなら、それは「一緒に喜んでください」という主イエスの招きを拒むことになります。そこには、クリスマスの本当の喜びはありません。神様が独り子主イエスを遣わして、罪人である私を見出して下さり、そのことを大いに喜んで下さっている、その喜びを、同じ救いにあずかっている全ての兄弟姉妹と共に、そしてさらにその救いへと神様が新たに招いて下さっている人々と共に、しっかりと分かち合う、そういうクリスマスを迎えたいのです。