夕礼拝

神の国と神の義

「神の国と神の義」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第24編1-10節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章25-34節
・ 讃美歌 : 68、231

思い悩むな
 本日は、マタイによる福音書第6章25節から34節の御言葉に聞きたいと思います。聖書の小見出しにもありますように、私たちは本日、主イエスの「思い悩むな」と言う御言葉を聞きます。25節「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」とあります。ここでの「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」とは日々の生活に関する事柄についての思い悩みです。主イエスは自分の命のことで、日々の生活のことについて思い悩むな、とおっしゃるのです。ここで「命」と訳されている言葉は単なる肉体の命ではありません。ここでの「命」とは「魂」とも訳せる言葉を用いております。それでは、私たちの魂を本当に養い、支え育む糧とは何でしょうか。私たちの中で自分の命のこと、体のことについての思い悩みとは全く関係がないと言える人はいないでしょう。私たちはそれぞれの命のこと、体のことについて思い悩みを持っております。自分の命、魂、体について思い悩みを持つ私たちに対して主イエスは言われます。「思い悩むな」と言うのです。その理由は「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と言うことです。更に26節では「空の鳥をよく見なさい、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」とあります。また野の花は、働きもせず、紡ぎもしないとあります。主イエスは鳥も花も、思い悩まずに生きている、そのような姿を見なさいと言います。しかし、ここで気を付けたいのは鳥は悠々と空を飛んで遊んでいるように見えますが、決して思い悩みがないと言えるのでしょうか。その日の食べ物を得るために必死でしょう。花が美しく咲いているのも、花粉を飛ばし、虫を呼び、種の保存のためです。ここでは鳥や花が思い悩みを持たずに生きている例を示しているのではありません。主イエスはここで「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」と言われるのです。主イエスは神様が、鳥たちを養っていて下さる、神様が、野の花を、栄華を極めたソロモンにもまさる仕方で美しく装っていて下さる、と言います。それぞれのところに「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」という言葉が加えられています。神様が空の鳥や野の花を養い、装っていて下さるなら、あなたがたにはなおさら、それ以上の養い、装い、導きを与えて下さらないはずはない、と言うことです。主イエスは、私たちを鳥や花よりもはるかに価値のあるものなのだ、と言って下さるのです。鳥や花の姿を通して、神様の養い、守り、導きの恵みを示しているのです。ここで人間と鳥や花と比べているのではありません。ここで大切なことは、神様が、私たち人間のことをどれだけ大事に思っていて下さるか、ということです。神様は、ご自分がお造りになった自然を、大事に養い、装って下さるのです。空の鳥、野の花はその代表です。しかしそれ以上に、神様は私たち人間を愛し、養い、守り、導いて下さいます。「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」とありますように、神様は「あなたがたの天の父」なのです。私たちが、空の鳥や野の花よりも価値あるものであるというのは、神様にとって、私たちが子であるということです。神様は、私たちを、ご自分の子と呼んで下さります。私たちの父となって下さる神様は、父として、私たちを育み、養い、守り、導いて下さるのです。

命は
 25節の「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」という御言葉も、この神様の恵みであります。神様の養い、守り、導きと言う恵みを前提とするのです。命と食べ物と、体と衣服と、どちらがより大切かという比べる話ではありません。神様は、あなたがたを子として愛しておられ、あなたがたの命と体を養い、守り、はぐくんでいて下さるお方です。その神様がその命のために必要な食物を、体のために必要な衣服を、必ず与えて下さいます。命と体は本質的なものです。食物と衣服はそれを支える補助的なものです。本質的なものが神様によって守られているなら、補助的なものが与えられないはずはないのです。それが、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」という言葉の意味なのです。天の父なる神様が、私たちを、子として、その命と体、本質的なものを養い、守り、はぐくんでいて下さるお方であるということを信じて生きる時に、私たちは、補助的なものへの思い悩みから解放されるのです。命と体を支え、充実させ、養っていくためには、あれが必要だ、これも必要だ、しかしあれも不足している、これも足りない、そういう中で私たちは思い悩んでいくのです。それが、食物や衣服のための思い悩みです。しかし主イエスは私たちに、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と言われます。命と体という本質的なところを、養い、守り、はぐくんでいて下さる天の父なる神様がおられる、ということです。主イエスはその神様の恵みに目を向けなさい、と言われるのです。

前節とのつながり
 本日の御言葉は「だから、言っておく。」と始まります。19節から24節までにおいて語られてきたこととつながります。19節から24節まででは天に富を積め、神と富とに共に仕えることはできない、ということが語られてきました。私たちを本当に支え、養い、導いてくれるものは天に、神様の恵みにこそある、ということです。地上の富、自分が持っている様々な意味での財産、力、そういうものに目を向け、それにより頼んで生きるのが、地上に富を積み、富に仕える生き方です。それに対して、神様の恵みをこそ拠り所として、そこに目を向け、それにより頼んで生きるのが、天に富を積み、神に仕える生き方です。本日の箇所もそのことを受けております。私たちの命と体、という本質的なものを神様が養い、守り、はぐくんで下さいます。私たちはその神様の恵みに目を向けることが求められています。食物と衣服という、補助的なものについて思い悩んでいくことは、自分が持っているもの、自分の財産、力に目を向け、それにより頼んでいくところに起こってくることです。私たちが「あれがない、これが足りない」と思い悩むものは全て、私たちが何らかの意味で持つもの、私たちの力や知恵です。地上に富を積み、その自分の富に仕えて生きようとするところに、思い悩みが生じるのです。主イエスの「思い悩むな」という教えは、あなたがたの天の父である神様の恵みを信じ、その恵みを拠り所として歩むということです。それでは、なぜ神様が私たちの天の父であられ、私たちのことを、何にも増して、子として愛しておられるということを言えるのでしょうか。神様が私たちを子どもとして愛して下さるということは、神様の独り子イエス・キリストが、人間となってこの世に生まれて下さったことによって示されました。神様がご自分の子として愛し、また神様を父と呼ぶことができるのは、本来この主イエス・キリストだけなのです。しかしその独り子主イエスが、人間となってこの世に生まれて下さいました。その主イエスが、ご自分の父なる神様を「あなたがたの天の父」と呼んで下さるのです。私の父はあなたがたの父でもあると言って下さるのです。あなたがたも私と共に神の子となるのだと言って下さるのです。私たちはこの主イエス・キリストを通して、神様を天の父と呼ぶことができます。主イエス・キリストを通して、神様は私たちの天の父となって下さり、私たちを子として愛して下さるのです。独り子主イエスがこの世に来られたのはそのためでした。

主イエスは背負って下さる
 「思い悩むな」と教えられた主イエス・キリストは、私たちの数々の思い悩み、苦しみ、悲しみを背負って歩まれました。主イエスご自身の歩みは、決して思い悩みや苦しみのない、暢気なものではなかったのです。そしてその歩みの果てに、主イエスの十字架の出来事があります。主イエスは私たちの罪を背負って十字架にかかって死なれました。神様の独り子が、罪人である私たちの身代わりとなって死んで下さったのです。神様が私たちを、ご自分の子として特別に愛して下さっている、その恵みは、そこにまで至るものだったのです。主イエスがこの世に来られ、私たちの悩みや苦しみや罪を負って下さる歩みを通して、私たちは神様の天の父としての愛を受けているのです。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな、と主は言われます。「それはみな、異邦人が切に求めているものだ」。異邦人とは、まことの神を知らない人々です。まことの神は独り子主イエスをこの世に遣わし、主イエスによって私たちをも子として愛して下さる天の父なる神様です。その神を知らないのであれば、自分で自分の命と体とを守り、養い、支えていかなければならないのです。そのためには様々な地上の富を得ようと必死になります。しかし、主イエスは「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と言われます。主イエス・キリストによって私たちの父となって下さった神様の愛を知っている者は、神様が、私たちの命と体を養って下さり、そのために必要なものを全てご存じであり、それを与えて下さることを信じて生きるのです。

神の国と神の義
 主イエスは続けて言われます。33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「これらのもの」とは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という、命と体を支えるために私たちが持っていなければと思うもの、拠り所としているものです。しかし主イエス・キリストによって神様の子とされている私たちは、命と体を支えるために自分が何かを得ようとするのではなくて、まず、神の国と神の義とを求めていくのです。神の国とは神様のご支配、神の義とは神様の御心にかなった歩みです。つまり神様が私たちを支配して下さり、私たちが神様に従い、その御心にかなったことを行っていく、そのことをこそ求めていくのです。その神様のご支配とみ心によってこそ、私たちの命と体が支えられ、養われ、はぐくまれていくからです。そのために必要なものを神様は必ず加えて与えて下さるのです。
 「思い悩むな」との教えは、命令ではありません。私たちに、天の父である神様への信頼に生きることを教え、求めることです。神様を信頼して生きるか、それとも自分が持っているもの、自分の豊かさ、力を、つまり地上の富を信頼して生きるか、そのことが問われているのです。天の父なる神様は目に見えないお方です。またその恵み、養いや導きも、はっきりと目に見えるものではありません。目に見えるものしか信頼しない、というのであれば、まず神の国と神の義とを求めることはできないでしょう。目に見えない方の恵みを信頼して、目に見える支えではなく、まず神の国と神の義とを求めていくという、信頼なのです。

神は願う前から
 神様が私たちの天の父として、私たちの命と体を養い、支え、はぐくんで下さいます。その恵みに信頼して歩み、まず神の国と神の義とを求めて生きていく。そのように私たちが信仰の歩みをするのであれば、全く思い悩みのない歩みになるのでしょうか。そうではありません。34節では「だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とあります。信仰を持ち、神様に信頼して生きる歩みにおいても、その日その日の苦労はあるのです。この地上を歩む限り思い悩みがなくなるということはありません。主イエスは主の祈りを教えられました。その前に祈りについて語られた時にこう言いました。少し前の6章の8節です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」「あなたがたの父」である神様は、私たちの命と体のために本当に必要なものをご存じであります。本当に必要なものを与え、備えて下さるお方です。私たちはいつか必ず、この地上における命が取り去られる時があります。その時にも、神は父としての恵みをもって私たちを導いて下さいます。その信頼を与えられている者は、その日の苦労をその日の苦労として背負っていく力を与えられます。思い悩みがなくなってしまうことはありません。次から次へと形を変えて、私たちの思い悩みは尽きることがないのです。自分の命と体のことを天の父なる神様にお任せをするとき、思い悩みを神様に委ねるとき、信頼と安心の内に生きることができます。私たちにそのような歩みを与えるために、主イエス・キリストはこの世にお生まれになり、そして今、「思い悩むな」と私たちに語りかけておられるのです。思い悩みをすべて神様に委ねることが許されているのです。

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