夕礼拝

はっきり見えるようになる

「はっきり見えるようになる」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第53章1-12節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第7章1-6節
・ 讃美歌 : 460、229

人を裁くな
 本日はマタイによる福音書第7章1節から6節の御言葉を共にお聞きしたいと思います。本日の御言葉は最初に「人を裁くな。」とあります。「裁く」とは「裁判をする」ということです。言葉には「見分ける、判断をする」という意味があります。私たちが「裁く」と言う言葉を聞きますときには、マイナスの判断をして、「あの人はだめだ」と言うことのみを指しているように思います。けれども、この「裁く」と言う言葉には「見分ける、判断をする」という意味がありますので、人のことをあれこれと評価し、批判し、判断するというようなことの全体を含んでいると言えます。そのように考えますと、私たちの歩みとは、人を裁くことの多いものであると言えるのではないでしょうか。私たちは日々の生活において、そのように人を裁いて生きている者だと思います。そして私たちがどちらかと言うと好むのは、人の悪い点をあげつらうことです。人を批判し、悪い点、足りない点をあげていくことは簡単です。そのことによって自分が慰められるのです。あの人も自分と同じだ、いや、自分の方が少しはましかもしれない、と思って安心できるからです。私たちはそういうことに慰めを感じるのではないでしょうか。
 主イエスはそのような私たちに対して「人を裁くな」と言われます。人を裁くとは、人のことを評価したり、判断することだとすれば、そういうことを一切やめることが求められているのでしょうか。しかしそんなことはあり得ません。私たちは社会の中で、人と共に生活をしております。私たちは、何らかの意味で人を判断したり評価したりすることなしに生きることはできないのです。家族の中でだってそうでしょう。よいことを褒め、悪いことをしかるというのだって一つの判断です。陰口を言うのはいただけないですが、しかし人との交わりの中で、「あなたのしているこのことはいけない」とはっきり言わなければならないことだってあります。あるいは、そういう個人的なことだけでなく、社会の制度として裁判があり、裁きが行われています。人を評価し、判断するということで言えば、入学試験や入社試験などもそれに当ります。そういうことによって社会は成り立っているのです。主イエスの教えは、それらのことを全てやめてしまえということなのでしょうか。個人的なことで言えば、人について一切の判断を停止せよということなのでしょうか。

自分の目の中の丸太
 何故人を裁いてはならないのでしょうか。3~5節にこうあります。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。人を裁くことが、「兄弟の目にあるおが屑を見ること」に喩えられています。「おが屑」とは以前の訳では「ちり」となっていました。人の目の中に小さなちりがある、それを見つけて、指摘し、取ってあげようとすること、それが人を裁くことだというのです。ところがここでは、「自分の目には丸太があるではないか」と言われています。「丸太」は前の訳では「梁」でした。家の屋根を支える梁です。太い、立派な材木が使われます。そういうものが自分の目の中にはあることに気づかないのか、と言われているのです。これが、人を裁いてはならないという教えの理由です。人の目の中のおが屑、小さなゴミを見ているその自分の目の中には、はるかに大きな丸太、梁がある、そのような者が、人の目のゴミを指摘したり、それを取ってやることなどできるはずはないのです。
 主イエスはここで、あなたには人を裁く資格があるか、裁いているあなたの中にも、同じような、いやそれ以上の問題があるではないか、自分のことを棚に上げて人を裁くことができるか、と言っておられると理解して良いのでしょうか。私たちも、自分を振り返って見るならば、決して人を裁くことができるような者ではないことに思い当ります。自分のことを棚に上げて人を裁くのは傲慢なことなのです。私たちは「あなたに人を裁く資格があるか」と問われれば、私たちは「ない」と言わざるを得ません。しかしそれで事柄は解決できません。私たちは人と共に生きていく中でどうしてもある意味で人を裁き、判断せざるを得ない、ということへの答えにはこれはなっていません。勿論自分にもいろいろと問題や欠けはある、しかしこのことに関してはあなたよりは正しい判断ができるし、評価もできる、その私の判断では、あなたは間違っている、と言わなければならない場面が多々あるのではないでしょうか。そこで「自分は完璧な人間でないから人を裁く資格はない」と言って判断停止してしまうのはかえって無責任なことになってしまいます。

神との関係において
 1節で主イエスは「人を裁くな」とおっしゃいました。それに続いて「あなたがたも裁かれないようにするためである」と言われました。「人を裁くな」という教えには、その理由があります。「自分自身が裁かれないようにするためである」ということです。「自分が裁かれる」ということが2節において言われております。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」とあります。「自分が裁かれる」、とありますが、誰によって裁かれるのでしょうか。人に裁かれるのでしょうか。本日の箇所は自分が人を裁き、判断するように、人も自分のことを裁き、判断する、だから、人のことを厳しく裁いていると人も自分のことを厳しく裁く、人に対して寛大な心を持てば、人も自分を寛大に扱ってくれる、ということでしょうか。ここで言われていることは、そういう人との間での裁いたり、裁かれたりということではなくて、神様によって自分が裁かれる、ということです。神様との関係においての事柄であります。
 「人を裁くな」と言うことの理由は、「神様が私たちをお裁きになる」からということです。そのことは、自分が人を裁く、それと同じように神様が自分をお裁きになる、だから、人のことを厳しく裁いていると神様も自分のことを厳しく裁くし、人に対して寛大な心を持てば、神様も自分を寛大に扱ってくれる、ということでしょうか。人にやさしくすれば、神様も自分にやさしくしてくれる、人の罪を赦せば、神様も自分の罪を赦してくれる、そうなると、これはもう神様との交換条件、取り引きのようなものになってしまいます。私たちがどれだけ寛大な、やさしさをもって人に対することができるかで、神様の私たちに対する態度も決まるというわけです。そのために人を裁くな、と主イエスは言っておられるのでしょうか。主イエスは、私たちにそのような神様との取り引きを教えるような方ではありません。主イエスがこのことによって私たちに伝えていることは、神様が私たちをお裁きになる、ということです。そして、私たちが人ではなく、神様の方を見るときに「自分の目の中の丸太」に気づかされていくのです。

罪の大きさ
 主イエスは、兄弟の目にはおが屑があり、あなたの目には丸太がある、と言っておられます。おが屑と丸太とでは、全く大きさが違います。私たちが分かるのは、人と自分とを見比べて、自分の目にもおが屑がある、ということです。おが屑の量が少し多かったり少なかったりするのが、人と自分との関係です。しかし主イエスは、あなたの目には丸太があると言われます。そのことは人との関係において、人と比べてのことではありません。人の罪や過ちと比べて、あなたの罪や過ちは何十倍何百倍も大きい、ということではありません。人との比較ではなく、神様があなたをお裁きになる、ということです。主イエスがここで言われているのは、神様があなたをお裁きになるその時、あなたの目には丸太があることが明らかになるのだと言うことです。おが屑と丸太は、罪や過ちの大きさや量を比較しての言葉ではありません。ここで比べられていることは、人間の裁きと神様の裁きなのです。人間が人間を裁く時には、お互いに相手の目にあるおが屑を見ているのです。しかし神様の前に立ち、神様がお裁きになる時、私たちは、目に丸太がある者であることを明らかにされるということです。私たちの目におが屑があれば、少し見えにくいことはあるかもしれませんが、全く見えないということはないでしょう。しかし目に丸太があったら、それはもう全く見ることはできません。私たちは神様との関係においては、神様の裁きの前では、見るべきものを何一つ見ることができない、全く目を塞がれた者なのです。神様との関係において、私たちの目を塞いでいる丸太とは私たちの罪です。この私たちの罪によって、私たちは神様から離れ、神様を忘れ、自分の思いによって生きるのです。その罪の丸太が私たちの目を塞いでいるのです。私たちが神様から離れ、神様を忘れるところから人を裁くことも生じます。裁くことは本来、主人である神様のみがなさることなのです。私たちが人を裁こうとするところには、神様に代わって自分が裁く者となろうとする私たちの罪が表れているのです。私たちに人を裁く資格がないのは、自分も似たようなものだからではありません。人を裁くことができるのは神様お一人だからです。人間が自分の目にある丸太によって目が塞がれ、神様が分からなくなってしまい、自分が裁き手になろうとしてしまう。そのことが人間の罪なのです。

裁きを受けたお方
 そして、主イエスは「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われました。私たちは、人の目のおが屑を取ろうとするより前に、自分の目の丸太を取り除かなければならないのです。しかしこの丸太はどうしたら取り除くことができるのでしょうか。私たちは、自分でこの丸太を取り除くことはできません。自分の目に丸太があることさえ、気づくことが出来ないのです。この丸太は神様の裁きにおいて明らかになると申しました。神様が私たちをお裁きになる時に、私たちの目の丸太が明らかにされます。私たちの目にある大きな丸太を取り除くことができるのも神様お一人です。主イエスの十字架の死、それは主イエスが、私たちに対する神様の裁きを身代わりになって受けて下さったということです。私たちの罪、私たちの目を塞いでいる丸太がそこで明らかにされ、償いがなされて取り除かれたということです。先ほど旧約聖書イザヤ書第53章をお読みしました。ここでは、民の罪を背負って裁かれ、苦しみを受け、死に、それによって民に罪の赦しをもたらす主の僕のことが歌われています。それは主イエス・キリストの十字架のお姿を預言したものです。5節には「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。8節には「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」とあります。11節にも「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」とあります。このように、神様の裁きが、この主の僕である独り子イエス・キリストの上に下されたということです。そして私たちの罪は赦され、丸太が取り除かれて、神様を見つめる目が開かれたのです。
 本日の箇所において主イエスは私たちに神様の裁きについて示されました。しかし、その神様の裁きは私たちに下されたのではありません。その裁きは、主イエス・キリストに下されたのです。主イエスが私たちに代わって神様の裁きを引き受けられたのです。主イエスが十字架にかかられたということです。主イエスの十字架の出来事によって、私たちの目を塞いでいる丸太が取り除かれたのです。罪が取り除かれたということです。即ちそれは罪が赦されたということです。罪の赦しが与えられたのです。私たちの目の中の丸太は、主イエスが私たちに代わって裁きを受けることで取り除かれました。主イエスは「まず自分の目から丸太を取り除け」という御言葉を通してそのことを示されているのです。自分の目から丸太が取り除かれたその時に「はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」のです。

はっきり見えるようになる
 目の中の丸太が取り除かれた私たち一体何がはっきり見えるようになるのでしょうか。私たちの目の中にあった丸太がいかに、大きいものであったかということが見えます。それは丸太の大きさ、罪の大きさであります。そして、いかに大きな罪が神様の独り子主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによって、赦されたということが示されます。主イエスの十字架によって取り除かれた丸太がいかに大きなものであったのか。また大きな丸太が私たちの目を塞いでいたことがはっきり見えてくるのです。そこには独り子を与えて下さった神様の恵みがあります。私たちはこの神の恵みによって自分が生かされていることが見えてきます。神の恵みによって自分が生かされていることが見える時に、私たちが隣人を見る目が変わります。人を裁く目から、兄弟の目からおが屑を取り除く目へとです。それは相手の欠点をあげつらって裁く目ではなくて、相手と共に神様の赦しの恵みにあずかろうとする目です。私たちの目の丸太を取り除いて下さった神様の恵みがその人にも注がれていることを信じて、その人と共にその恵みに生かされることを願い求める目です。それは人を赦す目です。神様が私たちを裁くのではなく、赦して下さったのだから、私たちも、裁きではなく赦しに生きるのです。「人を裁くな」という主イエスの御言葉はこのことを示しています。実現していくのです。私たちが裁かなければ神様も裁かないで下さる、というような取り引きではなくて、神様が赦して下さったから、私たちも赦しに生きるのです。そしてまたこのことをわきまえる時に、この社会で人のことをある意味で評価したり判断したりすることなしには生きられないではないか、というあの疑問も解決するのです。主イエスが言っておられるのは、人に対する判断を停止せよということではありません。私たちはそれぞれの置かれた立場や場面に応じて、ある意味で人を裁いたり、判断したり、時には厳しいことを言ったりするのです。それはむしろ責任ある生き方には不可欠なことです。しかしそこにおいて私たちが、神様が主イエスによって与えて下さった赦しの恵みを覚え、その恵みに相手と共にあずかることを願い求めていくならば、私たちの言葉は、相手を殺す裁きの言葉ではなくなり、「兄弟の目からおが屑を取り除く」ものとなるのです。

6節との関連で
 本日の個所にはさらに続けて6節があります。この教えがその前の所とどう結びつくのかはわかりにくいかもしれません。私が持っている神聖なもの、真珠と何のことでしょうか。それは私たちの目から丸太を取り除いて下さった神様の恵みであると言うことができます。その神聖なもの、高価な真珠を私たちはいただいているのです。そしてそれを兄弟たちにも、人にも与えたいと願うのです。いや、私たちが与えるというようなことではなくて、私たちが兄弟たちと共にその恵みにあずかりたいと願うのです。ところが私たちがそう願っても、相手はそれを好まず、それを足で踏みにじり、向き直ってかみついてくるということが起こります。それはまさに、神様の大きな恵みを見る目が塞がれてしまっている人の姿です。丸太がその人の目を塞いでいるのです。そういうことがあっても驚きあわてるな、と主イエスは言っておられます。それは主イエスご自身がそのように人々に踏みにじられ、かみつかれて、十字架にかけられていったからです。

私たち一人ひとりに
 大きな丸太によって目が塞がれている私たちの歩みにおいてそのようなこと繰り返し起こります。そのような中で私たちに示されていることは、与えられている神聖なもの、真珠を本当に大切にすることです。なかなか人々に受け入れてもらえないときがあります。けれども、その中身を薄めて安売りをするようなことがあってはなりません。この6節は昔から、聖餐が祝われる時に、洗礼を受けていない人や、その生活が聖餐にあずかるにふさわしくないと判断された人々にはパンと杯が与えられないことを意味する言葉として読まれてきました。今は洗礼を受けていない人を犬や豚に喩えるのは問題だということで、この言葉が聖餐において読まれることはなくなっています。しかし、犬や豚ということではなく、聖餐において神様から私たちに与えられている尊い恵みを、私たちが本当に大切にしていかなければならないということは確かです。この恵みにあずかることを許されている、つまり既に洗礼を受けている私たちが、与えられている恵みの本当の価値を、尊さをわきまえずに、それを軽んじるようなことがあれば、私たちこそが、犬や豚同然になってしまうのです。犬や豚という言葉は、誰か他の人に向けられているのではなくて、私たち一人ひとりへの言葉として読むべきでしょう。
 更にこの神聖な恵み、真珠の価値を理解していない、丸太に目を塞がれている人々に対して、私たちが、裁きの目を向けるのではなく、主イエス・キリストによって丸太を取り除いていただいた者として、その兄弟たちと共にこの恵みにあずかることを切に祈り求めていくことです。私たちがなすべきことは、私たちの目から丸太を取り除き、罪を赦して、恵みの内に生かして下さった神様に感謝することです。そして与えられている神聖なもの、真珠を大切にしつつ、それをできる限り多くの人々と分かち合っていこうとする、神様の恵みを多くの人へ宣べ伝えることです。

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