主日礼拝

洗礼の喜び

「洗礼の喜び」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第36編25-28節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第3章11節
・ 讃美歌:205、470、507

総員礼拝
 今日の礼拝は、子供から大人まで、みんなが一緒に守る「総員礼拝」です。普段教会学校の礼拝に来ている皆さんは、今日はたくさんの大人の人たちが周りにいて、緊張しているかもしれません。指路教会では、毎週日曜日、教会学校の礼拝の後、10時半からは、こんなに沢山の大人の人たちが集まって礼拝をしているんです。どうですか、周りの大人の人たちの顔はどんなふうに見えますか。恐そうですか。やさしそうですか。大人の皆さん、子供たちの目に、礼拝している自分たちの顔がどんなふうに見えるだろうか、とちょっと考えてみてください。特別にやさしそうに見えなくてもいいでしょう。でも、神様を礼拝する喜びが顔に現れている、というふうでありたいものです。沢山の大人たちが、喜んで神様を礼拝している、その大人たちの顔を見ることが、子供たちへの何よりの伝道となるのです。

洗礼―お客様から家族へ
 ところで、こうして毎週教会の礼拝に集まっている大人の人たちの中のとても多くの人たちは、洗礼を受けた人たちです。私もそうですし、みんなが教会学校で習っている先生たちもそうです。教会というのは、洗礼を受けた人たちの集まりなのです。じゃあ、洗礼を受けていない人は来てはいけないのか、そんなことはありません。洗礼を受けていない方々は、教会を訪ねて下さったお客様です。教会は、お客様大歓迎です。一人でも多くのお客様に来てほしいと思っています。教会学校の生徒の皆さんや、保護者の皆さんの中にも、洗礼を受けておられない方々が沢山います。皆さん、教会のお客様です。今日の礼拝には沢山のお客様をお迎えすることができてとても嬉しいです。で、そのお客様が、洗礼を受けると、今度はこの教会の人になります。つまりお客様ではなくなって、教会という家の家族の一人になるのです。家族になれば、それなりにいろいろしなければならないことも出てきます。お客様のように客間に座っていればお茶やお菓子が出てくる、というわけにはいかなくなります。でも家族になればこそ味わえる喜びも沢山あります。そして何よりも、神様がお父さんであり、イエス様が一番上のお兄さんである神様の家族の一人になれることが、洗礼を受けることによって与えられる最大の喜びなのです。

洗礼の水
 洗礼ってどんなことをするのかというと、ここにある洗礼盤というものに入れられた水を、牧師である私が手ですくって、父なる神様と、その独り子のイエス様と、聖霊のお名前によって、三度、その人の頭にかけます。そうやって洗礼を受けると、私たちはイエス様を信じてその救いにあずかるクリスチャンになるのです。どうして水をかけるのでしょう。それは、皆さんがお家で入っているお風呂やシャワーと関係があります。皆さんはお風呂やシャワーで体を洗って汚れを落としますね。お風呂に入った後はさっぱりして気持ちいいです。何日もお風呂に入っていないと、汗くさくなって、ベタベタして気持ちが悪いです。そのお風呂やシャワーで私たちは、水で体をきれいに洗います。水は、私たちの汚れを落とし、きれいにする役目を果たすのです。洗礼で水が使われるのもそのためです。洗礼を受けるのは、体の汗や汚れを落とすためではありません。私たちは誰でも生まれつき、神様に背いており、神様をも周りの人々をも、愛するよりもむしろ傷つけてしまうことの多い者です。それを罪といいます。私たちは皆罪を負っているのです。その罪を神様が洗い流して下さり、きれいにして下さることを表しているのが洗礼です。そういう洗礼の意味を表すために水が使われるのです。

キリストの十字架による罪の赦し
 でも、頭にちょっと水をつけただけで罪がなくなるわけではありません。私たちの罪を洗い流してきれいにして下さるために、神様がとても大きな、大変なことをして下さったのです。それは、ご自分の独り子のイエス様を、私たちと同じ人間としてこの世に遣わして下さったということです。イエス様は人間となってこの世に来て下さった神様の独り子です。そのイエス様が、私たちみんなの罪を背負って、私たちの代わりに、十字架にかかって死んで下さったのです。十字架というのは、赦されないような悪いことをした人がはりつけの死刑にされる、死刑の道具です。神様の独り子であられ、何も悪いことをしていない、罪を犯していないイエス様が、死刑になったのです。私たちの代わりに、本当は私たちが受けなければならない罰を受けて下さったのです。このイエス様の十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。私たちの罪が洗い流されて清められるのは、イエス様が十字架にかかって死んで下さったことによってなのです。洗礼は、このイエス様の十字架によって与えられた罪の赦しに私たちがあずかることを表しているものです。ですから、洗礼を受けるときには必ず、あなたはイエス様を救い主と信じますか、ということが問われます。イエス様が神様の独り子であられ、私の罪を全部背負って十字架にかかって死んで下さった、そのことによって私の罪が赦された、ということを信じて、そのイエス様に従っていこう、という信仰を持って、それをみんなの前で言い表した人に、洗礼が授けられるのです。

新しく生まれ変わる
 洗礼に水が使われることにはもう一つ意味があります。洗礼はもともとは、川などの中に入って、全身を、つまり頭のてっぺんからつま先まで全部を水の中に沈められて、そして引き上げられる、という仕方で授けられていました。そのことは、全身が水に沈められて、そこでそれまでの古い自分が一旦死んでしまう、そしてそこから引き上げられることによってもう一度新しく生き返る、ということを表しているのです。ですから、洗礼を受けるというのは、古い自分が死んでしまって新しく生まれ変わることです。水が使われることは洗礼のそういう意味をも表しているのです。洗礼を受けることで私たちは新しく生まれ変わります。さっき、洗礼はお客さまから家族の一人になることだと言いましたが、それは一つのたとえであって、そこで起ることはただ立場が変わるというよりももっとずっと大きな、根本的な変化なのです。私たちは、洗礼を受けることによって、死んで、生き返るのです。

主イエスと一つにされる
 死んで、生き返った人がいることを、教会学校の皆さんも知っていますよね。そう、それはイエス様です。イエス様は十字架にかけられて亡くなられましたが、三日目に復活なさったのです。私たちは洗礼を受けることによって、このイエス様と一つにされるのです。イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、そのイエス様と一つにされて、神様に背き、人を傷つける罪に捉えられている私たちが死んでしまうのです。そして、イエス様が神様の力によって復活させられた、そのイエス様と一つになって、私たちも神様の恵みの力によって新しく生まれ変わらせていただくのです。洗礼を受けた人たちというのは、神様によってイエス様と一つにされて、新しく生まれ変わらせていただいた人たちです。私もそうです。教会学校の先生方もそうです。さっき言ったように、今この礼拝には、洗礼を受けて、イエス様と一つにされて、新しく生まれ変わらせていただいた人が沢山いるんです。

洗礼の喜び
 この中のどの人が、イエス様と一つにされて、新しく生まれ変わらせていただいた人なのか、それは見た目では分かりません。洗礼を受けると何か目に見える印がつくわけではありませんし、誰が見ても「あの人は洗礼を受けている人だ」と分かるようになるということはありません。洗礼を受けたからって、昨日まで意地悪だった人が突然やさしくなったり、いい加減な人が急に立派な人に変身したりすることもありません。洗礼を受けた皆さん、そうですよね。私たちは相変わらず、神様に背いたり、人を傷つけたりし続けている罪人なのです。それじゃあ洗礼を受けたって何にもならないじゃないか…。いいえ、それは違うんです。洗礼によってやっぱり私たちは新しく生まれ変わるんです。それは、私たちが立派な人になるとか、意地悪だったのが優しい人になるということではなくて、神様が、私たちの罪を赦して下さるのです。洗礼を受けることによって私たちは、立派な人になるのではなくて、神様によって罪を赦された人へと新しく生まれ変わらせていただくのです。洗礼を受けたんだから少しはマシになろう、と思っても、やっぱり罪を繰り返してしまうのが私たちです。でも神様はそんな私たちに、いつも繰り返し語りかけて下さるのです。「あなたは洗礼を受けた。私があなたの罪を、イエス・キリストの十字架の死によって赦した。あなたはもう私の独り子イエス・キリストと一つになっている。あなたはもう私の家の家族の一人なのだ」。洗礼を受けた人たちは、毎週日曜日の礼拝で、この神様からの語りかけを聞いているんです。そこに、洗礼の喜びがあります。洗礼の喜びというのは、洗礼を受けた時にだけあるものではありません。洗礼を受けた人は、毎週の礼拝で、その喜びを新たにされていくのです。今日読まれた聖書の言葉、マタイによる福音書の3章11節は、ヨハネが、私は悔い改めに導くために水で洗礼を授けているが、私の後から来る方、つまりイエス様は、私よりずっと優れた方で、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる、と言っている所です。教会で授けられるのは、イエス様の洗礼、イエス様を信じることによって授けられる洗礼です。その洗礼もやっぱり水で授けられます。でも、ヨハネの洗礼と違うのは、その水で授けられた洗礼の喜びが、毎週の礼拝で、聖霊によって、聖霊が神様のみ言葉によって私たちの内に火をともして下さることによって、繰り返し新しく与えられていくということです。この洗礼の喜びを毎週新しく与えられ続けていくならば、その喜びによって、私たちは変えられていくのです。神様がイエス様の十字架によって私の罪を赦して下さって、イエス様と一つにして下さって、神様の家族の一人にして下さった、その恵みに応えて、感謝して、喜んで、神様に従って生きていく者へと、私たちは本当に新しくされていくのです。今はまだ教会のお客様であられる皆さんが、この洗礼の喜びを共にする家族になる日が来ることを、私たちは神様に願い、祈り、待っているのです。

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