主日礼拝

恵みによる召し

「恵みによる召し」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第1章4-10節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第1章11-17節
・ 讃美歌:11、166、516

人によるものではない  
 「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います」と、パウロは語り始めます。「はっきり言う」とは「はっきり知らせる」ことです。あなたがたに、つまりガラテヤの諸教会の人たちに「はっきり知らせる」と、パウロは言っているのです。なにを「はっきり知らせた」のか。それは、パウロが「告げ知らせた福音は、人によるものではない」ということです。そしてその福音とは、私たちが律法を守ることによって救われるのではなく、ただ神の恵みのみによって救われるということです。戒めを守ることも、良い行いをなすことも、私たちの救いとはなんの関係もありません。私たちの救いは、ただ神の恵みのみによるのです。私たちの救いはただ神の恵みのみによる。このことを私たちはみ言葉を通して繰り返し聴いてきました。もう十分知っている、分かっている、そのようにお感じになる方もあるかもしれません。しかしそのことを知っていても、分かっていても、私たちは自分が少しは救いに貢献できるのではないか、という誘惑に絶えずさらされています。私たちの行いや振る舞いが、頑張りが、努力が、奉仕が、私たちの救いにちょっとは役に立つのではないか、と思うのです。しかし私たちが救われたのは、そのような自分の行いによるのではありません。神の恵みのみによって救われた。このことを知るよりも、分かるよりも、信じるために、私たちは繰り返しパウロが告げ知らせた福音に、神の恵みのみによる救いに目を向けていくのです。  
 パウロが11節で語っているのは、この「福音」が「人によるものではない」ということです。パウロは、手紙の冒頭で、自分が使徒とされたのは「人による」のではないと言っていました。1節で「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」とあります。「人からではなく」「人を通してでもなく」、「イエス・キリストによって」そして「キリストを死者の中から復活させた父である神によって」自分は使徒とされた、とパウロは語ったのです。11節でパウロが語っているのは、自分が使徒とされたのが「人によらない」というだけでなく、自分が告げ知らせた福音も「人によるものではない」ということです。そのことが12節以下でさらに語られているのです。  
 12節前半には「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく」とあります。ここでパウロが言う「福音を人から受けたのでも教えられたのでもない」とは、なにを意味しているのでしょうか。私たちは自分が知らされた福音を人から受け継いできたのではないでしょうか。どのように受け継いできたかはそれぞれに違うとしても、リレーでバトンを繋いでいくように、確かに福音は人から人へと受け継がれてきたのです。ですからパウロが「福音を人から受けたのではない」と語るとき、それは「福音を人から受け継いだのではない」と言っているのではありません。  
 福音は、「喜びの知らせ」であり「救いの知らせ」、グッド・ニュースです。教会はこのグッド・ニュースを2000年に渡って伝えてきました。それは、インターネットやテレビや新聞などのメディアを通してニュースが人から人へと伝えられるように、教会でもこのグッド・ニュースが伝えられてきたということなのでしょうか。確かに私たちはこの「喜びの知らせ」「救いの知らせ」を人から伝えられてきました。けれどもメディアを通してニュースを知るように、人を通してこの「喜びの知らせ」「救いの知らせ」を私たちが知ったとしても、それだけで「福音」を受けたこと、「福音」を信じたことにはならないのです。メディアを通して伝えられるニュースによって社会についての知識が増えたり、世の中への見識が広がったりするのと違って、「喜びの知らせ」、「救いの知らせ」についての知識が増えることで、「福音」を受け、信じられるのではありません。私たちがこの「福音」を受け、信じるのは、私たちがキリストと出会うことによってのみです。福音は人から人へと受け継がれていきます。しかしそれは、単なる情報の伝達ではなく、キリストが私たち一人ひとりに出会ってくださり、キリストが私たち一人ひとりを救ってくださった、その救いの出来事の連なりです。「福音」を受け継ぐとは、「救いの知らせ」を知識や思想として受け継ぐことではなく、キリストによって救われた者の連なりそのものにほかならないのです。それはキリスト教の「教え」の連なりではなく、キリストを信じる者の連なりです。キリストとの出会いによって私たちは福音を受け、信じるのです。人から人へと福音は受け継がれます。しかし福音の根幹は、キリストとの出会いにあるのであり、私たちが受ける福音は「人からのもの」ではありえないのです。私たちは自分へと受け継がれた福音を「人からのものではなく」、神からのものとして受け、信じるのです。パウロが、福音を「人から受けたのでも教えられたのでもない」と言うのは、このことを意味しているのです。

イエス・キリストの啓示  
 その「福音」をパウロは「イエス・キリストの啓示によって知らされた」と言います。「啓示」とは、覆われていたものが、神さまによってその覆いを取り除かれ、明らかになることを意味します。この啓示は、徹頭徹尾神さまがなさることであり、人間がすることではありません。つまり、神さまが覆いを取り除いてくださらない限り、私たちにはなにが隠されているのかも分からないのです。パウロが言う「イエス・キリストの啓示」とは、神さまがイエス・キリストを啓示したということです。イエス・キリストこそ啓示そのものです。つまりイエス・キリストは私たちには隠されていたのです。より正確にいえば、イエス・キリストの十字架の死による私たちの救いは隠されていたのです。神の独り子が、私たちの救いのために十字架にかかってくださることは、私たちの思いをはるかに越えた神さまの驚くべきみ業です。「福音」を受けるとは、このイエス・キリストの十字架の救いの出来事によって、自分は救われたと信じることにほかなりません。  
 パウロは「イエス・キリストの啓示」によって、「福音」を受けました。復活して生きておられる主イエスとの出会いによって「イエス・キリストの啓示」を与えられたのです。それによってパウロは、律法を守ることで救われようとすることが、人間の力で救いを得ようとすることだと知らされたのです。律法を守ることによってではなく、神の恵みによって救われることが「キリストの福音」です。復活したキリストとの出会いを通して、神さまはそのことをパウロに明らかにしたのです。この「イエス・キリストの啓示」によって、パウロは神の恵みによって救われたと確信したのです。

確信を持って福音を告げ知らせる  
 このように神の恵みによって救われ、生かされていると確信していたパウロが、11、12節では、「自分」を強調しているようにも思えます。11節でガラテヤ教会の人たちに「あなたがたにはっきり言います」と述べているだけではありません。翻訳でははっきりとしませんが、11、12節でパウロは二度「わたし」と自分を強調しているのです。一つは11節の「わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません」の「わたし」であり、もう一つは12節の「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく」の「わたし」です。原文において、このどちらの「わたし」がなかったとしても意味は分かります。それにもかかわらず、パウロはあえて二度「わたし」と記したのです。しかしこのことによってパウロが強調しているのは、自分ではなくむしろ神さまのみ業です。自分の告げ知らせた福音が決して「人によるもの」ではなく、「神さまによるもの」にほかならないことを強調しているのです。言い換えるならば、パウロは「わたし」と繰り返すことによって、自分が何者であるかをはっきり示しているのです。それは、神の恵みによって救われ、その恵みによってひたすら生かされていることと決して矛盾しません。神の恵みによって生かされていると確信を持って告げるために、自分が何者であるかをはっきりさせる必要があるからです。2章20節に「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」とあります。確かに信仰とは「自分」に死ぬことです。けれどもそれは、「自分」がなくなってしまうことではなく、「自分」が何者であるかを知ることなのです。自分が神の恵みによって救われた者であることを知り、確信を持って「はっきり」と「イエス・キリストの啓示」によって救いを信じたと告げるのです。

神のみ業による  
 パウロは「イエス・キリストの啓示」によって回心しました。そのことについて語っているのが13、14節です。パウロは「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています」と述べていますから、ガラテヤ教会の人たちもパウロがかつてどのようなユダヤ教徒であったか知っていたのでしょう。彼は、自分がユダヤ教徒として「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」と述べています。しかもここでパウロは「迫害する」や「滅ぼす」という言葉を、継続している行い、あるいは反復している行いを意味する言葉として用いています。つまり彼は「徹底的に神の教会を『繰り返し』迫害し、滅ぼそうとし『続け』ていた」ということです。使徒言行録の6章から8章にかけて、初代の教会の一員であり、信仰と聖霊に満ちていたステファノの逮捕と、逮捕され連れて行かれた最高法院での彼の説教、そして彼の殺害が語られていますが、パウロはこの殺害に賛成していたと8章1節に記されています。そして9章1節以下には「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、連行するためであった」と、ダマスコへ向かった理由が記されています。サウロはヘブライ語での呼び名、パウロはギリシア語での呼び名ですが、いずれにしても彼は、そのダマスコへ向かう途中で、復活した主イエス・キリストに出会い、主イエスを迫害し、教会を滅ぼそうとする者から、主イエスを宣べ伝え、教会を建てる者へと変えられたのです。  
 パウロの迫害は、律法への熱心さによるものです。そのことを14節で「また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」と述べています。つまり13節で述べられているパウロの迫害と14節で述べられているパウロの律法への熱心さは別々のことがらではなく、分かちがたく結びついているのです。14節の「先祖からの伝承」とは、十戒を中心とする旧約聖書に記されている律法そのものと、その律法の解釈から成立したユダヤ教における口伝えの伝承のことです。ユダヤ教のファリサイ派は、この伝承に律法に並ぶ権威を認めていましたし、パウロはファリサイ派の一員でした。「人一倍熱心で」とありますが、直訳すれば「熱心家であった」となります。また「同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」とありますが、ここは「ユダヤ教において進歩していた」とも訳せます。つまりパウロは律法に対して「熱心家」であり、同年代の誰よりもその理解と実践において先に進んでいたと言っているのです。まるで自分はクラスメートの誰よりも熱心で優秀だったのだ、と言っているようなものです。ここには、確固たる自信に溢れたファリサイ派パウロの姿が鮮明に見てとれるのです。  
 私たちは、なぜパウロが回心前の自信に溢れた自分をここまで語るのだろうかと不思議に思います。回心後の自分こそキリストによって救われた者である、という確信が強ければ強いほど、回心前の自分を小さい、弱い、間違っていた者として語ってもおかしくありません。かつて自分はどうしようもなく駄目な人間だったが、キリストと出会い、キリストによって救われ、今生かされている、というようにです。けれどもパウロはそのようには語りません。回心前の自分を自信満々に語るのです。それは、かつての自分を正当化しているわけではもちろんありません。そうではなくパウロはこれによって、自分の方からキリストによる救いへ近づく理由がこれっぽっちもなかったということを語っているのです。律法を守るのに堪えられなかったから、キリストによる救いに惹かれたのではないのです。このことは、パウロの回心が人間によっては起こりようがなかったこと、いかなる人間の業も入り込む余地がなかったことを意味します。パウロが律法による救いから恵みによる救いへと大転換したのは、徹頭徹尾神のみ業によることなのです。それは神の奇跡と言ってもよいのです。パウロはそのことを確信しているゆえに、回心前の自分を小さく見せたり、弱く語ったりすることがないのです。

恵みによる召し  
 13、14節がパウロの回心より前のことを語っているのに対して、15-17節は回心より後のことを語っています。15、16節の前半では、パウロの召しが語られていて、ここでは旧約聖書の預言者の召命物語の表現が用いられています。本日の旧約箇所は預言者エレミヤの召命物語と呼ばれていますが、5節にはエレミヤに臨んだ主の言葉が記されています。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」とあります。ここでは、神がエレミヤを選び預言者として召したことが語られていますが、同じようにパウロは、神が自分を選び、召したことを15節で「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と語ります。旧約聖書は、神の計り知れないご計画、神の尽きることのない愛と恵みを表そうとして「母の胎内に造る前からあなたを知っていた」「母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し」たと語ります。エレミヤと同じように、パウロが気づくよりはるかに前から、神さまはパウロを選んでくださり召してくださっていたのです。パウロの回心が徹頭徹尾神のみ業であったように、パウロの召しも、徹頭徹尾神のご決断とご計画による神のみ業です。そのことをパウロは「恵みによって召し出してくださった」と言うのです。そしてその「恵みによる召し」は、神が御子を示すことによって実現したのです。「御子を示す」とは「御子を啓示する」ことです。それは4節の「イエス・キリストの啓示」にほかなりません。イエス・キリストが私たちの救いのために十字架で死なれた、この福音を信じること、この「救いの知らせ」を受けることによって「恵みによる召し」が与えられたのです。キリストによる救いを信じるとき、福音を信じるとき、神の「恵みによる召し」が必ず伴います。「恵みによって召し出される」とは、神の恵みによって救われ、神のみ業のために召されるということです。「召す」という言葉は「呼ぶ」という言葉でもあります。つまり「恵みによる召し」とは、神の恵みによって救われた者が、神のみ業のために「呼ばれる」ことなのです。パウロは神の恵みによって救われ、生かされ、召され、そして特別な使命が与えられました。それは、異邦人に福音を告げ知らせることです。私たちにはパウロのような特別な使命が与えられているわけではないかもしれません。またパウロは使徒として召されましたが、私たちは使徒ではありません。その点で、私たちとパウロは異なると言えるでしょう。しかしそうであったとしても、私たちはパウロのように特別ではないから、と言い訳じみたことを言うわけにはいかないのです。すべての信仰者は、つまり私たちは、神の恵みによって救われ、神のみ業のために召されているからです。私たちは、それぞれ「救いの知らせ」を受けて、福音を受けて、神のみ業の前進のために神から召されているのです。  
 パウロは、異邦人へ福音を告げ知らせる使命が神さまから与えられたとき、「すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻った」と記しています。ここで言う「血肉」とは血の繋がりのある親類のことではなく人間一般を意味します。つまり「すぐ血肉に相談するようなことはせず」とは、異邦人へ福音を告げ知らせることについて誰にも相談しなかったということです。このことによって、パウロは12節の「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」ことを明らかにするのです。さらにそのことは、パウロがエルサレム教会にいる使徒たちのところに行かなかったことによってよりはっきりと告げられています。パウロが受けた福音は、誰かに相談して与えられたのでも、自分より先に使徒として召された人たちから教えられたのでもないのです。  
 パウロにとって、キリストが出会ってくださり、神の恵みによって救われ、召されたことこそ、彼のすべてであり、彼の異邦人伝道を支え続けたものであったに違いありません。パウロにとって、キリストの代わりなどありません。ユダヤ教徒として極めて優秀であり熱心であった回心前も、回心後の異邦人への伝道の働きの大きさも、キリストによる救いに代えられるものではありません。ただ「恵みによる召し」によって、彼は与えられた使命に仕え続けたのです。私たちもまた、キリストが私たちに出会ってくださり、一方的な神の恵みによって救ってくださり、その神の恵みによって生かされ続けています。「この福音」を私たちは、パウロと同じように、イエス・キリストの啓示によって、イエス・キリストの十字架による救いによって知らされました。私たちも「キリストによる救いに代えられるものなどない」と知らされ、いや「キリストによる救いだけで十分」だと知らされ、「恵みによる召し」によって与えられた、それぞれの使命に仕え、神のみ業のために用いられていきたいと願います。

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