主日礼拝

宴席に招かれる人

「宴席に招かれる人」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第57章14-19節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第14章1-14節
・ 讃美歌:58、127、451

宴会の席に着く主イエス
 礼拝においてルカによる福音書を読み進めていますが、本日から第14章に入ります。その冒頭の1節に、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが」とあります。主イエスがファリサイ派の人に招かれてその家で食事をする、という場面を、ルカによる福音書は度々描いています。7章36節以下にもそういう場面がありました。11章37節以下にもありました。ですからファリサイ派の人からこのように食事に招かれるのは少なくともこれで三度目です。そしてこの第14章において、この食事の席での話は24節まで続いています。この食事の席で主イエスが、「宴会に招かれる」ということをめぐって語られた教えが24節まで続いているのです。主イエスはこのように、宴会の席に着いて人々と飲み食いし、語り合うことを喜んでおられました。この後の15節以下では、神様による救いにあずかることを、盛大な宴会に招かれることに譬えておられます。救いにあずかることの譬えとして用いておられるのですから、宴会に連なり、食事を共にすることを、主イエスは基本的に良いこと、恵みに満ちたこととして捉えておられるのです。

様子をうかがう人々
 しかし、この日のこの食事は、和気藹々とした楽しいものとは言えませんでした。「人々はイエスの様子をうかがっていた」と1節の終わりにあります。主イエスを招いたファリサイ派の議員も、また共に招かれていた人々も、主イエスのことを疑いの目で見つめ、監視していたのです。それは、彼らファリサイ派と主イエスとの間が次第に険悪になってきていたからです。ファリサイ派の家に最初に招かれた7章においては、そこに入って来た罪深い女に主イエスが「あなたの罪は赦された」と宣言なさったのを聞いて、招かれていた人々が「罪まで赦すこの人はいったい何者だろう」と考え始めたことが語られていました。二度目の11章においては、その食事の席で主イエスがファリサイ派の人々の偽善を厳しく批判なさったために、その後律法学者やファリサイ派の人々が主イエスに対して激しい敵意を抱き、言葉尻をとらえようとねらうようになったと語られています。そのように、ファリサイ派の人の家での食事を重ねるごとに、主イエスと彼らの間は次第に険悪になってきていたのです。

安息日の癒し
 主イエスと彼らとの対立の要因の一つは、安息日についてのことでした。ユダヤの律法では、週の七日目の土曜日は安息日であり、その日には何の仕事もしてはならないと定められていました。モーセの十戒にもある「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という戒めは、もともとは、人間の業をやめることによって、神様による天地創造のみ業を喜び祝い、その恵みを感謝し、そして自分も、また自分の下で働いている者たちも、安息にあずかることが目的でした。ところがこの時代の律法学者やファリサイ派の人々は、安息日にしてはいけない「仕事」に当たることは何か、についての細かい規定を守ることばかりを考えるようになっていました。そのために、安息日の本来の意味に即して行動しておられた主イエスと彼らとの間に対立が生じたのです。その対立は6章1節以下から始まっています。主イエスの弟子たちが安息日に麦畑で麦の穂を摘んで手でもんで食べたのを、ファリサイ派は、それは収穫と脱穀という仕事に当たる、と批判したのです。13章10節以下には、ある安息日に主イエスが会堂で教えておられた時に、そこに十八年間腰が曲がったままだった女性がおり、主イエスがその人を癒したことが語られていました。それを見て腹を立てた会堂長に対して主イエスは、「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」とおっしゃったのです。このように、ユダヤ人の宗教指導者たちと主イエスの間には、安息日をめぐる対立があったのです。この日も安息日でした。招かれてこの議員の家に入ったファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、イエスの様子を伺っていました。それは、2節にあるように、イエスの前に水腫という病気を患っている人がいたからです。水腫というのは、体に水がたまり、むくんでしまう病気ですが、この人が何故ここにいたのか、についてはいろいろ想像を巡らすことができます。この家の主人であるファリサイ派の議員が、わざとこの人を招いて、主イエスがこの人をどうするかを試そうとしていたのかもしれません。あるいは、主イエスご自身がこの人を連れて来たのかもしれません。とにかく、この安息日の食事の場に、はっきりと病気と分かるこの人がいたのです。それで人々は、主イエスが安息日にこの人を癒すのかどうか、席に着く前から様子を伺っていたのです。
 主イエスはこのたびはご自分から彼らに、「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と、挑戦的に問いかけていかれました。「彼らは黙っていた」と4節にあります。敵意に満ちた沈黙です。その沈黙の中で主イエスはこの病人の手を取り、癒してお帰しになったのです。ということは、この人は食事に招かれていたわけではなく、やはり主イエスご自身が、この食事の席で彼の癒しを行うためにわざと連れて来たのだろう、と想像できます。そして主イエスは彼らにこう言われました。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。自分の息子が井戸に落ちた時に、「安息日が終わるまで待って」などと言う親はいない。またそのように命を救うことは律法においても認められているのです。病気で苦しんでいる人を癒すことはそれと同じではないか。それを、「病気を癒すことは仕事だから安息日にしてはならない」などというのは、安息日の本来の意味や目的を全く理解していない本末転倒だ。これは先ほどの13章のみ言葉と同じです。安息日にも、牛やろばを解いて水を飲ませに引いていくではないか。まして、アブラハムの娘、つまり神の民イスラエルの一員であるこの女性が、十八年間サタンに縛られていたのを、安息日に解いてやるのは当然だろう、と主イエスはおっしゃったのです。主イエスのこのようなお言葉に対して、13章においても本日の箇所においても、誰も反論することはできなかったのです。
 さてこのように、ファリサイ派の人々が敵意をもって様子を伺っているただ中で、主イエスの挑戦的なみ言葉が語られ、そして彼らの神経を逆撫でするような癒しのみ業が行われたわけですから、この安息日の食事の席は大変険悪な雰囲気になったでしょうし、腹立ちのあまり席を蹴って出ていくような人がいても不思議ではない、という気がします。ところが、それに続く7節以下には、この食事がその後も滞りなく続き、主イエスがその席上でたとえ話によって人々に教えを語ったことが語られています。これは不自然だ、というので、7節以下は6節までとは別の時の話ではないか、と考える人もいます。そうなのかもしれません。しかし大事なことは、ルカが、これらの話をつなげて、一続きにして語っていることです。そこに、ルカがここで語ろうとしていることを読み取っていくためのヒントがあるのです。しかしそのことには後で触れるとして、先ずは、7節以下の主イエスの教えを見ていきたいと思います。

婚宴に招待されたら
 7節には「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」とあります。食事の席に招待された人々が、できるだけ上席に着こうとしている様子を主イエスはご覧になったのです。ファリサイ派の議員の家でのこの食事の席に招かれていた人々は、3節にもあったように「律法の専門家たちやファリサイ派の人々」が多かったのです。この人たちは、いつも人々から「先生」と呼ばれて尊敬を受け、招待されればいつも上席に案内されていたのでしょう。だから自分は上席に着くものだという感覚が身についていたのではないでしょうか。主イエスはそういう彼らの姿を見て、婚宴に招待されたら、というたとえを語られました。私たちの間でもそうですが、結婚の披露宴においては、招待した人の席を決めるのに気を使います。主賓のテーブルには誰に座ってもらうか、両家のバランスをどうするか、などをいろいろ考えなければならないわけです。そういう婚宴において、勝手に上席に座ってしまうと、自分よりも身分の高い人が招待されていて、「すみませんがもう少し下の方に移って下さい」などということになって恥をかく。むしろ末席の方に座っていて、招待した人に「あなたはもっと上席に着いて下さい」と言われる方が人々の前で面目を施すことになる、と主イエスは言われたのです。これは私たちがとてもよく分かる話です。特に私たち日本人は、末席の方に座りたがります。ここに出て来る人々のように我先に「上席を選ぶ」ような人はめったにいません。これは教会の集会などでもそうです。そこには別に上席も末席もないのですが、一番前の席、つまり牧師の近くには誰も座りたがりません。みんな入り口の方に座ろうとする。後から来た人は仕方がないから奥の方の、牧師の側まで行かなければならない、という光景がしばしば見られます。私はこれは、後から来る人への一種の意地悪だと思っていますが、とにかくみんな末席が好きです。そういう私たちはこの主イエスの教えを読んで「我が意を得たり」と思ったりするのです。しかしそれは、このたとえの読み方が間違っています。このたとえのポイントは、上席に着いた者は後で末席の方に移動させられ、末席に着いた者は後で上席へと移動させられる、ということです。そのことによって主イエスが語ろうとしておられるのは、11節の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということです。主イエスがこのたとえによって教えようとしておられるのはこのことなのであって、上席よりも末席に着く方がよい、などという話ではないのです。

高ぶる者、へりくだる者
 「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。これは一般的な教訓としても語られることです。日本人には「謙譲の美徳」という感覚があり、「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」という言葉もあります。しかし主イエスはここでそういう諺のような一般論を語っておられるのでしょうか。主イエスが言っておられるところの「高ぶる」と「へりくだる」はどういう意味なのでしょうか。そのことは、12節以下のもう一つの教えと合わせて読んでいくことによって明らかになっていくと思います。そこでは主イエスは今度は、自分たちを招いた人、あのファリサイ派の議員にこうおっしゃったのです。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。これは人を宴会へと招く時の話です。招かれた人がどの席に着くか、というこれまでの話とは別のことのようにも思われます。しかし、先ほども申しましたように、どの席に着くかということはたとえ話の題材として用いられているだけであって、肝心なことは「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということなのです。この話は、その「高ぶる者」と「へりくだる者」において主イエスが何を考えておられるのかを示しています。「友人、兄弟、親類、近所の金持ち」、これらが「高ぶる者」です。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」、これらが「へりくだる者」です。そして両者の違いは何かというと、「お返し」ができるかできないかです。宴会に招かれたら、今度は自分の方も宴会を催してその人を招待する、そのようにお返しをすることができる人と、貧しくて宴会を催すことなどとてもできず、お返しをすることができない人、という対比が見つめられており、その貧しくてお返しのできない人をこそ招きなさいと教えられているのです。そうすることによってこそ、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と最後の14節にあります。これは、この世の終わりにおける神様の裁きにおいて、ということです。報いて下さるのは神様です。つまり、このように貧しい人を招くことをこそ、神様は喜んで下さるのだ、ということです。神様がそのことを喜んで下さるのは、神様ご自身がそのような方だからです。主なる神様の招き、救いとはこのようなものなのです。つまり神様は、お返しができる者をではなくて、お返しなどできない、ただ恵みを受けることしかできない者をこそ招き、救いにあずからせて下さるのです。これが、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉の意味です。高ぶる者とは、神様に対して、自分でお返しができる、自分の中にも、神様に与え、貢献することができるものがあると思っている者です。へりくだる者とは、神様の恵みをただ受けるだけで何のお返しもできない、神様に与えたり貢献するようなものを何も持っていない、という者です。神様は、自分はお返しができる、と思っている者はむしろ退けて、何のお返しもできない、と思っている者をこそ招き、救いにあずからせて下さるのです。ですからこの「高ぶる、へりくだる」というのは、人間どうしの比較によって自分の方が上だと思って誇るとか、自分は駄目だという劣等感によって卑屈になる、ということではありません。また「へりくだる」というのは、「実るほど頭を垂れる」という言い方に現れているような、本当は中身があり力があるのにそれを表に出さずに謙遜にふるまう、というようなことではありません。私たちはいつも、そういう人間どうしの比較の中で、恥をかきたくない、むしろ面目を施したい、と思っています。だからあの婚宴の席のたとえもそういう感覚によって受け止めて、末席に着いておいた方が面目が施せる、と考えてしまいがちです。しかし主イエスは、そのような人間どうしの比べあいにうつつを抜かすのではなく、まことの主人である神様がどのような者をご自身の宴会の席に招いて下さるのか、ということにこそ目を向けなさいと教えておられるのです。神様が招き、救いにあずからせて下さるのは、自分の力でいっぱしに生きていけると思っており、神様のために何かをすることができると自負しているような者ではなくて、自分の力ではとうていやっていくことができず、神様のために何かをすることなどとうていできない、と思っている者なのです。

安息日の癒しにおける神の招きと救い
 そしてこのことが、6節までの安息日における癒しの話と結びついています。主イエスは13章では、十八年間病の霊に取りつかれて腰が曲がったままだった女性をお癒しになりました。そしてここでは、水腫を患っている男性をお癒しになりました。そしてどちらにおいても、安息日に癒しを行うことを批判する人々に対して、安息日であっても牛やろばに水を飲ませ、井戸に落ちた息子や牛を助けるのは当然ではないか、という話をなさいました。どちらも、そうしなければ生きていけない、死んでしまうという事態なのです。そのように救いを必要としている人、この救いなしには生きることができない人たちをこそ、神様は招き、救って下さるのです。この人々は、お返しをすることができない人、恵みをただ受けるしかない人です。逆に、安息日の癒しを批判している人々は、自分たちにはそのような救いが必要だとは思っていないのです。自分たちには水が豊かにあり、あるいは井戸の外にいて、特にあわてて救いを求める必要がないのです。だから、安息日が終わるまで待つべきだ、と呑気に構えていられるのです。この人々は、「自分でお返しができる」と思っている人です。神様は、このような人、つまり「高ぶる者」を低くされ、あのお返しのできない人、つまり「へりくだる者」を高め、救いにあずからせて下さるのです。安息日における主イエスの癒しのみ業によって、神様のこの招きと救いが明らかにされているのです。また主イエスは、この救いのみ業を、「井戸に落ちた自分の息子か牛を助け出す」という思いでして下さっています。井戸に落ちた彼らは、自分でそこから上がって来ることはできないのです。引き上げてやらなければ、じきに死んでしまうのです。「へりくだる者」とは、自分がそのように井戸に落ちてしまっており、自分でそこから抜け出すことができないことを意識している者です。そういう者をこそ主イエスは、大切に思って下さり、井戸の底にまで降りて来て下さって、救って下さるのです。

神が与えて下さる癒しと休みと慰め
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第57章の15節にこう語られています。「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」。主なる神様は、「へりくだる霊の人」と共にいて下さり、命を得させて下さるのです。その「へりくだる霊の人」とはどのような人のことを言っているのでしょうか。17節には「貪欲な彼の罪をわたしは怒り、彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ」とあります。この人は神様に背く罪に陥り、貪欲な自分の心のままに歩んだのです。神様はそのことをお怒りになり、彼を打ち、彼の前から姿を隠してしまわれました。その結果彼は苦しみの中にいるのです。それが「へりくだる霊の人」です。つまりこの人は、謙遜で立派な人、などではなくて、神様に背く罪によって打ち砕かれている人なのです。ただ彼は、自分が罪のために神様によって打ち砕かれたことを知っています。それゆえに、この苦しみからの救いも、自分の力で得ることはできないのであって、神様から与えられるしかないことを知っているのです。このことを知っていることこそが、「へりくだり」です。16節は、その「へりくだる霊の人」に神様が救いを与えて下さることを語っています。「わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように。わたしの造った命ある者が」。彼の罪に対して怒り、それを責め、彼を打ち砕いた神様が、しかし永遠に怒り続けるのではなく、彼が弱り果ててしまわないように、赦しと慰めを与えて下さるのです。それが18節です。「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために」。自分が神様に背いている罪人であって、神様の怒りによって打ち砕かれたことを知っている人をこそ、神様はこのように癒し、休ませ、慰めをもって回復させて下さるのです。それが、「へりくだる者は高められる」ということです。逆に、自分の罪を認めず、神様の怒りを覚えることなく、むしろ自分が神様に何かを与え、貢献することができるように思っている者には、癒しも休みも慰めも与えられることはないのです。それが「高ぶる者は低くされる」ということです。本当の安息は、この神様が与えて下さる癒しと休みと慰めの中にこそあります。主イエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、罪の赦しを与え、私たちにこの神様の癒しと休みと慰めを、つまり本当の安息を与えるためにこの世に来て下さり、十字架の死への道を歩んで下さったのです。安息日に主イエスがなさった癒しのみ業は、主イエスの十字架の死によって私たちに与えて下さる癒し、休み、慰めを指し示しています。私たちはこの救いの恵みを受けるだけで、神様に何もお返しすることができない者です。しかし神様はそのような私たちをこそ、神の国の宴会の席へと招いて下さっているのです。

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