主日礼拝

霊の導きに従って歩もう

「霊の導きに従って歩もう」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第51編12-14節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第5章16-26節
・ 讃美歌:346、127、353

聖霊の導きに従って歩む
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。ペンテコステとは何の日か、そのことは、新約聖書使徒言行録の第2章に語られています。主イエス・キリストは復活なさった後、四十日にわたって弟子たちにお姿を現し、ご自分が肉体をもって復活されたことをお示しになりました。そして四十日目に天に昇られました。そのことによって、地上を生きている人間は主イエスのお姿を肉体の目で見ることはできなくなりましたが、それから十日後のこのペンテコステの日に、聖霊が弟子たちに降り、彼らの内に宿って下さったのです。聖霊は、天に昇られた主イエスに代って、地上を生きる弟子たちと共に歩んで下さる神です。この聖霊のお働きによって弟子たちは力を与えられ、主イエス・キリストの福音を、即ち主イエスの十字架と復活によって神が実現して下さった救いの恵みを宣べ伝え始めました。そして主イエスがお命じになった通りに、主イエスを信じた人々に父と子と聖霊の名による洗礼を授けました。そのようにして、この世に、洗礼を受けた者の群れである教会が生まれたのです。ペンテコステは教会がこの世に誕生した日です。キリスト教会は、聖霊なる神が弟子たちに降られたことによって生まれたのです。
 その聖霊は今も働いて下さっています。今日このペンテコステの礼拝において四名の方々が洗礼を受け、この教会に加えられようとしています。この方々を教会へと導き、主イエスを信じる信仰を与え、キリストの体である教会に加えて下さるのも、ペンテコステに弟子たちに降ったのと同じ聖霊です。洗礼において、聖霊がこの方々を新しく生まれ変わらせ、キリストの体である教会の一員として下さるのです。この方々だけではありません。今この礼拝に集っている私たちは皆、聖霊の導きによってこの場に集められています。私たちが意識していてもいなくても、聖霊なる神は今も変わらずに働いていて下さって、私たち一人ひとりを教会へと導き、礼拝へと招き、主イエス・キリストを信じる信仰を与え、洗礼においてキリストによる救いにあずからせ、キリストの体である教会に加えて下さっているのです。ペンテコステの出来事は常に新たに、私たちの間で起り続けているのです。
 先程は、新約聖書ガラテヤの信徒への手紙第5章16節以下が朗読されました。この手紙を書いたパウロは冒頭の16節で、「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい」と言っています。この「霊」とは「聖霊」のことです。彼はガラテヤの教会の人々に、聖霊の導きに従って歩みなさい、と勧めているのです。それは、あなたがたは聖霊によって誕生した教会に、聖霊によって導かれて連なっている。だから聖霊の導きをしっかり受け、それに従って歩みなさい、ということです。それは私たちに対して語られている勧めでもあります。聖霊の働きによって教会へと導かれた私たちは、聖霊の導きに従って信仰の生活を送っていきたいのです。

霊の結ぶ実
 聖霊の導きに従って生きるとはどのようなことなのでしょうか。聖霊に導かれると私たちはどうなるのでしょうか。そのことを語っているのが22、23節です。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあります。この言葉は、今年度の私たちの教会の主題聖句でもあります。「聖霊に満たされる喜びに生きる教会」という主題と共に、この聖句を掲げて今年度私たちは歩んでいるのです。聖霊に満たされ、その導きに従って生きるなら、私たちは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制に生きる者となる、とこの聖句は語っています。ここに並べられていることはどれも、私たちが、このようになれたらいいな、このように生きる者になりたいな、と思う事柄です。その最初に「愛」があります。愛に生きる者、真実に人を愛することができる者、その結果人からも愛される者になれたらいいなと私たちは思います。次が「喜び」です。喜びに生きる者、いつも喜んでいることができる者、人にも喜びを与えることができる者になりたいと思います。それから「平和」。平和に歩み、平和を造り出していく者、さらには、寛容な者、親切な者、善意ある者、誠実な者、柔和な者、そしてそれらのことのために節制することができる者、そのような人になれたらどんなに素晴らしいことだろうか、と思うのです。これらのことが、「霊の結ぶ実」だと言われています。聖霊に満たされ、その導きに従って歩むところには、このような実りが与えられるのだ、とパウロは言っているのです。

肉の業
 けれどもここを読む時に私たちは、自分がこのように生きることができていないことを痛感します。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制は、どれ一つをとっても、自分の現実とはかけ離れていると感じるのです。本日の箇所には、この聖霊によって与えられる実りとは反対の、「肉の業」と呼ばれているもののリストも語られています。19-21節です。そこにはこのように語られています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」。「霊の結ぶ実」としては九つのことが並べられていましたが、「肉の業」として挙げられているものは十五あります。こちらの方が圧倒的に多いのです。詳しく見ていきますと、「姦淫、わいせつ、好色」、これらは性的な欲望とそれによって起る罪です。人間の欲望の中心に性的な欲望があり、それが人と人との関係を狂わせ、傷つけたり傷つけられたりする事態を生み、殺人をすら引き起こします。私たちが罪に陥る、その大きな原因の一つに性的な欲望があることは否定できません。次に「偶像礼拝」とあります。偶像とは、人間が造り出した神々です。人間が神々を造り出すのは、自分の願い、欲望を叶えてもらいたいからです。ご利益をもたらす神を造り出してそれを拝むのです。つまり偶像礼拝は人間の欲望が生み出したものであり、自分の願いを叶えてもらうために神を利用しようとする人間の思いの現れなのです。「魔術」もそうです。超自然的な力を操ることが魔術ですが、人はそのようにして自分の願いをかなえ、利益を得ようとするのです。人間の欲望は先ほどの性的な欲望だけでなく、豊かさ、富を求める欲望、人を支配する力、権力を欲する欲望など様々です。その欲望のために人は神を造り出し、魔術を磨くのです。そのように自分の欲望を満足させようとしていくところに必然的に生じるのが「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」です。それらはどれも、人との対立、人間関係の破れですが、その原因はお互いの欲望、自己主張がぶつかり合うことです。これらの思いはどれも、喜びをもたらすことはなく、自分にも相手にも苦しみや悲しみ、不幸をもたらします。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制が自分にも人にも喜びや平安をもたらすのとは正反対です。霊の実は喜びや平安をもたらしますが、肉の業は人間関係の破れによる苦しみ悲しみをもたらすのです。そして肉の業の最後には「泥酔と酒宴」が挙げられています。酒を飲むこと自体を罪とする考え方は聖書にはありませんが、ここで見つめられているのは、泥酔するほど飲むことが、またそのような酒の席が、人間の欲望への歯止めを失わせ、罪へと人をひきずり込むことです。節度をもって楽しく飲んで良い交わりを深められればよいですが、ともすればそれが、お互いの欲望を発散させ、罪に陥っていく機会になってしまうのです。

霊と肉が対立している現実
 このようにここには、霊の結ぶ実と肉の業とは正反対なものであり、真逆な生き方を生むことが示されています。そして私たちは先ほども申しましたように、霊の結ぶ実は自分とはかけ離れており、肉の業こそが自分の現実であることを感じています。あるいは、霊の結ぶ実によって生きる者になりたいという思いはあるが、実際には、それとは正反対の肉の業に生きており、欲望に支配された思いや言葉や行いに常に陥ってしまうことを感じているのです。そういう人間の現実をパウロもよく分かっています。17節の後半で「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」と言っているのはそういうことでしょう。霊の結ぶ実によって生きたいと思っているが、自分の中で霊と肉とが対立していて、結局願っているように生きることができずに、肉の欲望に引きずられていってしまうことが多いのです。そういう現実の中にいる私たちにパウロはここで、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」という勧めを語っているのです。

「肉の業」と「霊の結ぶ実」
 この勧めを読む時に私たちは、「いや私だって霊の導きに従って歩みたいと思っているし、そのように努力してもいる、しかしそれでもどうしても肉の欲望を満足させるような生き方に陥ってしまうという弱さを抱えているのだ。パウロが勧めている通りにできれば世話はないが、それができないから苦しんでいるのだ」、と感じるのではないでしょうか。しかしそのように感じてしまうのは、パウロがここで言っていることを正しく理解できていないからです。パウロが言っているのは、「あなたがたは肉の欲望を満足させるような生き方を捨てて、霊の導きに従って生きるように頑張りなさい」ということではありません。それだと、肉の欲望に陥るか、霊の導きに従うかは、私たちの頑張り次第、ということになります。頑張って霊の導きに従える人は良しとされるが、頑張りが足りなくて結局肉の欲望に負けてしまう人は失格、ということです。パウロはそんなことを言おうとしているのではありません。そのことは、パウロの言葉を注意深く読めば分かります。彼は「肉の業」と「霊の結ぶ実」という言い方をしています。私たちが自分の欲望を満たそうとして生きるところに生じる、あの19-21節に並べられていることは全て「肉の業」、つまり私たちの業、私たちが犯す罪です。それに対して22、23節の愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制は、「霊の結ぶ実」です。それらは、霊に導かれて私たちがする業と言うよりも、聖霊が与えて下さる実りなのです。「業」という言葉は、私たちのすることを意味していますが、「実」という言葉は、私たちがすることではなくて、霊、聖霊が働いて実現して下さること、聖霊のみ業から生まれる果実、結実を意味しているのです。ですからパウロがここで教会の人々に勧めているのは、肉の欲望を満たすための悪い行いを捨てて、霊の導きに従って良い行いをするように頑張れ、ということではありません。人間は、自分で努力して、自分の力で良い行いをして、良い人になりたいと思って生きていくことによっては、結局罪の支配から抜け出すことができない、願っているような生き方はできずに、肉の業に陥っていく、ということをパウロは、自分自身の体験からしてもよく知っているのです。だから本当に必要なことは、自分の力で努力してどうにかしようとすることではないのです。自分がどうしようもなく罪に支配されてしまっていることを認めて、自分の力に頼ることをやめて、神の力、聖霊のお働きを求め、聖霊にこそ力を発揮していただくことこそが、私たちのなすべきことだ、とパウロは言っているのです。それが、「霊の導きに従って歩みなさい」という勧めの意味です。そしてこの勧めは原文においては、「導き」とか「従う」という言葉はないのであって、直訳すれば、「霊に歩みなさい」となります。自分の力でどのように生きるかではなくて、霊に歩むこと、聖霊を受け、聖霊にこそ力を発揮していただいて、聖霊が与えて下さる実りをいただいて歩むことをこそパウロは勧めているのです。そのように理解することによって、「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と言われていることの意味も分かります。私たちが自分の力で霊の導きに従って頑張って歩もうとしたからといって、肉の欲望に負けてしまうことはない、などという保証はどこにもありません。しかし私たちではなく聖霊がその力によってみ業を行って下さるところでは、肉の欲望を満足させるようなことは決して起らないのです。聖霊は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という実りを私たちにもたらして下さるのです。

霊の実を信じて求めていこう
 ペンテコステの出来事以来、教会はこのような聖霊のお働きによって、聖霊のもたらして下さる実りに生かされて歩んできました。人間の努力や力によっては決して起り得ないことが、聖霊の力あるお働きによって実現してきたのです。また人間が願い求めたのとは違うことが、聖霊のもたらす実りとして与えられてきました。人間の思いや願いを超えた神の不思議な恵みが聖霊によって与えられてきたことによって、教会の歴史は導かれてきたのです。私たち一人ひとりの歩みも同じです。私たちが教会へと導かれ、礼拝を守る者となり、主イエス・キリストによる救いを信じる信仰を与えられ、洗礼を受けて教会の一員とされて生きていく、それは私たちが元々目指していたことでも、願っていたことでもありません。思っても見なかったことが私たちの人生に起って、今こうして私たちはこの場にいるのです。今日洗礼を受けてキリスト信者となり、この教会に連なる者となって新しく歩み出そうとする方々も、そのことを実感しておられるでしょう。これらのことは全て、私たちの業ではなくて、今も生きて働いておられる聖霊なる神が私たちの人生に与えて下さっている恵みの実りです。私たちはこの聖霊の導きをこれからも受け続けていきたいのです。なぜならそこにこそ、私たちの思いや願いをはるかに超える神の豊かな恵みの実りが与えられていくからです。生まれつきの私たちは肉の欲望に、つまり罪に支配されているので、良い歩みをしたいと努力し、そう願っていても、どうしても肉の業に陥ってしまいます。私たちはそういう弱い者です。しかし聖霊が私たちの内に宿って下さり、力を発揮して下さるなら、私たちは新しくされるのです。私たちの努力によっては実現しなかった、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制に生きる歩みが与えられるのです。洗礼を受けるというのは、悔い改めて信仰者になることですが、それは、自分が反省して立派な人になることではなくて、聖霊なる神のお働きを信じて受け入れ、聖霊によって新しくされることです。そこには、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制に生きるところに生まれる良い交わりが、互いに支え合い、とりなし合って生きる愛の共同体が、私たちの間に実現していくのです。今日洗礼を受ける四名の方々も、この愛の共同体に聖霊によって加えられ、キリストの愛を体をもって味わう聖餐に共にあずかって生きる者とされます。その方々を、そして私たち全ての者を導いて下さっている聖霊が、これからも、私たちの思いもよらないすばらしい恵みの実りを与えて下さることを信じて、祈り求めつつ、大いに期待しつつ、霊の導きに従って共に歩んで参りましょう。

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