主日礼拝

憐みの器

「憐みの器」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第45章9-13節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第9章19-29節
・ 讃美歌:294、135、527、76

神の救いはどのように実現するのか  
 主日礼拝においてローマの信徒への手紙第9章を読み進めていますが、毎回申していますようにこの9~11章は、パウロが、自分の同胞であるユダヤ人たちが、神が遣わして下さった救い主イエス・キリストを受け入れずに敵対しているという事実を嘆き悲しみつつ、そこにおける神のみ心を尋ねつつ語っているところです。ユダヤ人たちは、元々神に選ばれ、祝福を受け継いでいるはずの民でした。神は彼らを導き、彼らを通して救いのみ業を行って来られたのです。そのことが旧約聖書に語られています。ところがそのように神の民であり救いにあずかるべき民であるはずのユダヤ人たちが今、主イエスによる救いを受け入れずに敵対しているのです。そしてむしろ神の民として選ばれてはいなかったはずの異邦人たちがキリストを信じてその救いにあずかっているのです。このことを信仰においてどのように受け止めたらよいのかがパウロにとって大きな問題でした。それは要するに、神による救いはどのように実現していくのか、ということです。神はユダヤ人たちを選んでいたが、彼らが救い主イエス・キリストを受け入れないのでその選びはご破算になり、その救いは今度は元々選ばれていなかった異邦人たちに与えられていった、ということなのでしょうか。しかし神の救いのみ業が、私たち人間の計画と同じように、障害にぶつかってうまくいかなかったら方向転換する、というようなものであるならば、それはまことに心もとないものです。今私たちに与えられている救いだっていつ失敗して取り消されてしまうかもしれない、ということになります。神の救いのご計画はそんないい加減なものではないはずだ、というのがパウロの確信です。そしてそうであるならば、ユダヤ人たちの現在の状態をどう受け止めたらよいのかが問題となるのです。

神の自由な選び  
 パウロはこのことについて、自分で問いを投げかけてそれに自分で答えていく、という仕方で話を進めています。最初の問いが6節以下です。6節に「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」とあります。これは問いではなく答えを語っている言葉ですが、そこには一つの問いが前提となっています。ユダヤ人たちがキリストに敵対しているということは、彼らに与えられていた神の選びの言葉が無効になり、取り消されたということなのか、という問いです。つまり神の救いのご計画が挫折したのか、という問いです。それに対してパウロは、「神の言葉は決して効力を失ったのではない」と答えているのです。そしてそこで彼が語っていくのは、これは神の自由な選びによることだ、自由な選びによる神のご計画が進められているのだ、ということです。アブラハムの二人の息子の内イサクだけが選ばれ、イサクの双子の息子エサウとヤコブの間で弟ヤコブが選ばれエサウは選ばれなかったように、神は自由な選びによってみ業をなさるのです。そうすると今度はそれに対して新たな問いが起って来ます。それが14節の「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか」という問いです。自由にある人を選び、ある人を選ばないというのは神の身勝手ではないか、そんな神は正しくないのではないか、という問いです。それに対してパウロはやはり「決してそうではない」と答えています。そして語っていくのは、神の自由な選びとは、私たちが気紛れに何かを選び何かを棄てるようなこととは違って、私たち人間がいかに罪深く、救いに値しない者であっても、私たちの側のいかなる条件にもよらず、ただ神の憐れみのみ心によって救いが与えられるということだ、神はえこひいきとも思えるような仕方で罪人を憐れみ、慈しんで下さるのだ、だから神に不義があるのではない、ということです。そしてさらに、エジプトの王ファラオの例をあげることによって、神がある者たちを頑なにすることを通して、かえって救いのみ業を前進させて下さるということをも語っているのです。

全ては神の責任?  
 ここまでが、先週までに読んできたところですが、本日の19節以下においては、これまでの話を受けて、そこに起ってくる新たな問いが発せられています。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」という問いです。パウロが語ってきたのは、全ては神の選びのみ心によるのだ、ということです。ある者が選ばれて信仰を与えられ、救いにあずかっているのも、ある者が選ばれずに頑なになっているのも、どちらも神のご計画によること、御心によることであるならば、人間には責任はないではないか、というのがこの問いです。頑なになって信仰を拒み、神を拒んでいるのも神の選びによるのなら、責任はむしろ神にあるのであって、不信仰を責められるいわれはないではないか、ということです。「だれが神の御心に逆らうことができようか」とありますが、「できる」という言葉は原文にはないのであって、これは、誰が神の御心に逆らっているか、誰も逆らってはいないではないか、ということです。頑なになっている者も御心によってそうなっているのであって、それを責めるのは間違っている。要するにこれは、神の自由な選びを信じるなら、人間には責任はなくなる、全ては神の責任になる、ということです。これは、神の選びという教えに対して私たちが必ず抱く疑問だと言えるでしょう。

甘えた姿勢  
 この疑問は確かに理屈が通っています。神がある者を選んで信仰を与え、ある者を頑なになさるなら、一切は神の責任だ、ということに確かになるでしょう。しかし私たちはここで、そのような理屈を述べることが何を意味しているのかを弁えなければなりません。一切は神の責任だ、と言うことによって私たちは、自分の罪の責任は自分にはない、その責任はすべて神にある、と言っているのです。しかも神の前でです。それがどんなに不遜なことであるか、私たちは気づかなければなりません。この話は、神を信じる信仰を前提としています。神を信じ、神の前で生きる中でのことです。神に責任がある、というのは神を信じるからこその話であって、元々神を信じないならばこういう話がそもそも成り立たないのです。その場合は勿論全てが自分の責任です。信じてもいない神に責任をなすりつけることはできません。つまりこの理屈は、神を信じると言いつつ、その神に対して、自分は悪くない、悪いのは神だ、と責任を負わせようとすることなのです。ある人はこれを「信仰者でなければ言えない不遜な言葉」であると言いました。神を信じながら、つまり神による守りとか支えとか慰めとは平安とかはちゃっかりいただこうとしながら、自分の罪の責任は認めない、それは神に押し付けようとする、そういう甘えた姿勢がこの理屈の背後にはあるのです。

焼き物師と器  
 パウロはこの理屈に対して20、21節でこのように答えています。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」。パウロは、一応筋が通っている先程の理屈に対して、同じ理屈で答えてはいません。むしろその理屈の前提となっていることを問題にしているのです。事柄は神と人間のことです。それは造った者と造られた者、創造者と被造物の関係なのだ、そのことを、あなたがたの理屈は忘れている、と言っているのです。私たちは神に造られた者です。私たちが生きていること、こういう者として、今この時代に、この場所に存在していること、それらは一つとして、私たちの意志によることではありません。全ては神が与えて下さったのです。その神に向かって私たちが、あんたの責任だ、あんたが悪い、と責めるとしたらそれは、造られた者が造った方を裁いていることになる。造られたものが造った方に「どうして私をこのように造ったのか」非難すべきものではない、それがパウロの答えです。彼はそのことを21節で、焼き物師と粘土というたとえを用いて語っています。焼き物師は同じ粘土を使って、一つを貴いことのための器に、一つをそうでない器に造ることができる。あなたがたの理屈は、その器が焼き物師に文句を言っているようなものだ、と言っているのです。パウロのこのようなたとえの背景となっているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第45章9節です。9節をもう一度読んでみます。「災いだ、土の器にすぎないのに自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか『何をしているのか、あなたの作ったものに取っ手がない』などと」。聖書の信仰の根本は、神が天地万物の造り主であられ、この世の全てのものは、私たち人間も含めて神の被造物である、ということです。この信仰は、私たちの人生に確固たる土台を与え、慰めと励ましを与えます。しかし同時に、この信仰に立って生きることには激しい試練が伴うのです。この世と自分の人生に起る様々な苦しみや悲しみ、いわゆる不条理も全て神のみ心による、ということになるのですから、そこには、納得できない、神が間違っている、という思いが生じるのです。イスラエルの民の歩みにおいてもそういうことがしばしばありました。しかしこのイザヤ書が語っているのは、それは土の器のかけらに過ぎない者が自分を造った陶工に向かって「何をしているのか、取っ手がないではないか」と争うようなことなのです。つまり、造られた者が造り主を裁くことはできない、人間が神のみ業を評価して、これはよいとか悪いとか言えるものではないのだ、ということです。神と人間との関係とはそういうものであり、神を信じるとは、この関係を認めることです。私たちが神の主人になり、神のなさることを評価し、採点して、これは神のみ業として合格、これは不合格でやり直し、なんて言えるものではないのです。先ほどの、全てが神の選びによるなら、全ての責任は神にあるという理屈は、人間の理屈としては通っていますが、神と人間、造り主と造られた者という関係においてはそれは通用しないのです。根本的に間違っているのです。私たちは、造り主である神の前に、そのような理屈をふりかざして神をも裁く者として立つのではなくて、造られた者としての謙虚さを持たなければならないのです。

怒りの器と憐れみの器  
 このようにパウロは、焼き物師のたとえによって、神にはその自由な選びのみ心によって、ある者を選び、ある者を選ばない権利がある、それに対して人間が文句を言ったり、非難することはできない、と語っています。しかしパウロがここで語っている神のお姿は、好き勝手にある者を貴い器に、ある者をそうでない器に造っておいて、「お前たちに文句は言わせないぞ」と凄んでいるようなお姿ではありません。22、23節からそれが分かります。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう」。ここにも21節のたとえからの続きで「器」という言葉が用いられています。しかし今度は「貴い器とそうでない器」ではなくて、「怒りの器と憐れみの器」です。それは勿論、神の怒りを受けるべき器と、神の憐れみを受けるべき器ということです。つまり、神に選ばれ救われる者と選ばれずに救われない者です。しかしここで言われているのは、神がある者を怒りの器として造り、その人を滅ぼす、ある者を憐れみの器として造り、その人を救う、ということではありません。語られているのは、怒りの器として滅びることになっていた者たちを、神が寛大な心で耐え忍ばれたということです。怒りの器は怒りを受けて滅びる、と言っているのではないのです。この「耐え忍ぶ」という言葉は、「担う、持ち運ぶ」という意味です。神は、元々怒りの器である者たちを、忍耐して持ち運んで下さるのです。どこへと持ち運んで下さるのか。それがこの手紙の2章4節に語られていました。そこには、「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことをも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」とあります。神の憐れみが、その豊かな慈愛と寛容と忍耐が、滅びるべき怒りの器を悔い改めへと、つまり信仰とそれによる救いへと持ち運ぶのです。パウロは、怒りの器に対する神の忍耐と、それによる彼らの救いをこそ語っているのです。その「怒りの器」とは、救い主イエス・キリストを受け入れず、救いから落ちてしまっているユダヤ人たちです。彼らは今頑になっており、怒りの器となっています。それも神がそうしておられるのだ、と18節に語られていました。彼らは神によって「怒りの器」とされているのです。しかしそれは彼らを滅ぼすためではありません。神はむしろ忍耐して彼らを悔い改めへと、救いへと導こうとしておられるのです。そして23節に語られているのは、怒りの器に対する神のこの忍耐は、「憐れみの器」とされているものたちに神がご自分の豊かな栄光をお示しになるためだ、ということです。「憐れみの器」とは、神の憐れみによって選ばれ、信仰を与えられ、救いにあずかる者たち、つまり今礼拝を守っている私たちです。私たちは、自分の器の中に、救いを得るに値するものを何も持っていません。私たちの中には何もない、空っぽの器でしかない私たちに、神が憐れみを注いで下さることによって救いにあずかるのです。「憐れみの器」とは、神の憐れみによってしか救われようのない私たちのことです。神が怒りの器をも寛大な心で耐え忍んで下さることを知らされる時、私たち憐れみの器に注がれている神の恵みの大きさ、その豊かな栄光が示されるのです。

怒りの器が憐れみの器とされる  
 ですからここに語られていることは、神がある者を「怒りの器」として、ある者を「憐れみの器」として決定しておられるということではありません。怒りの器であった者が神の忍耐と憐れみによって憐れみの器へと変えられるのです。私たちは誰もが皆、元々神に背いている罪人であって、神の怒りを受けるべき器です。その私たちが、神の忍耐と寛容と憐れみによって選ばれ、悔い改めへと、主イエス・キリストを信じる信仰へと導かれて、憐れみの器とされたのです。パウロにとってそれはまさに自分自身の劇的な体験でした。彼は元々は今の多くのユダヤ人たちと同じように、イエス・キリストを受け入れず、教会を迫害する者たちの先頭に立っていたのです。まさに神のみ業を妨げる敵であり、神の怒りを受けるべき怒りの器だったのです。その自分が、神の大いなる忍耐と憐れみによって、復活なさった主イエスとの出会いを与えられ、自分の努力や良い行いによってでは全くなく、神の不思議な選びによってキリストの救いにあずかる憐れみの器とされたのです。神の救いのみ業はこのように行われているのであって、そこに神の豊かな栄光が示されているのです。

救いのみ業をほめたたえる  
 パウロは24節でこう言っています。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」。神は、元々選ばれた民だったユダヤ人だけでなく、今や異邦人をも、憐れみの器として召し出し、救いにあずからせて下さっているのです。それは人間の側の何らかの条件によることではなく、ただ神の自由な憐れみのみ心による選びと召しによることです。ですから私たちは、こういう人間は神に選ばれ、こういう人間は選ばれない、と人を区別することは出来ないのです。神はどのような人間をも、神からおよそかけ離れていると思われるような者をも、つまり怒りの器としか思えないような者をも、選び、召し出して救いにあずからせて下さることがおできになるのです。神の自由な選びによる救いという教えは、選ばれている人と選ばれていない人を区別するためではなくて、神が自由な選びによって自分を憐れみの器として下さり、キリストによる救いにあずからせて下さったことを感謝し、その救いのみ業をほめたたえるための教えなのです。

神の選びの恵みによる救い  
 25節以下でパウロは旧約聖書の言葉を次々に引用しています。26節はホセア書2章からの引用です。イスラエルの民がその罪のために、もはや神の民ではない、と捨てられてしまう、その滅びから回復されて「わたしの民」「愛された者」「生ける神の子ら」と呼ばれる、という預言です。怒りの器となってしまっているイスラエルを神が憐れみの器へと変えて下さる恵みが語られているのです。27、8節はイザヤ書10章20~23節です。これは、神によって選ばれて残された「残りの者」だけが救われるということを語っている箇所です。29節に引用されているイザヤ書1章9節も同じように、主が救われる者を残して下さらなければ、私たちはソドムやゴモラのように滅ぼされてしまうしかない、と語っています。これらの引用は皆一つのことを語っています。つまり、私たちは皆、元々は、滅ぼされてしかるべき罪人、怒りの器なのだ、ということ。そしてその怒りの器の中から、神が自由な選びによって、赦されて救われる者、憐れみを受ける器を召し出して下さる。そこにのみ私たちの救いがある、ということです。この神の選びの恵みによる救いに対して、人間の理屈で反抗しても無意味です。神のせいだ、我々には責任がない、などといくら言ったところで、私たちの罪の現実はいささかも改善されないし、救いの道が開かれることもありません。大切なことは、造り主であられる神のみ前に膝まずいて、神の自由な憐れみ、忍耐、寛容による救いを、自分自身にも、また隣人たちにも祈り願っていくことなのです。

聖餐にあずかりつつ  
 本日はこれから聖餐にあずかります。神は私たちを自由な憐れみによって選び、信仰を与え、洗礼によって救い主イエス・キリストと結び合わせ、キリストの十字架と復活による救いにあずからせて下さいました。その憐れみ、救いの恵みを、私たちのこの土の器に、具体的に注いで下さるために、主は聖餐を定めて下さったのです。聖餐のパンと盃にあずかることにおいて、聖霊なる神が私たちに働いて下さり、私たちを憐れみの器として下さいます。聖餐にあずかりつつ生きる私たちは、神の選びの恵みを感謝し、神をほめたたえつつ歩むのです。

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