主日礼拝

万事が益となる

「万事が益となる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第34編1-23節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章26-30節
・ 讃美歌:8、155、545

慰めと勇気を与える言葉
 先週に続いて、ローマの信徒への手紙の第8章26?30節よりみ言葉に聞きたいと思います。本日はその中でも特に28節に注目します。28節には「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります。これは私たちにとって大変力強い、慰めに満ちたみ言葉です。この28節を愛唱の聖句としている方も多いでしょう。信仰者に与えられる幸い、祝福がはっきりとここに告げられています。「万事が益となるように共に働く」。「万事が」です。全ての事がです。私たちにとって好ましい、喜ばしい事だけでなく、悲しい、辛い、苦しいと思われる事も含めた全ての事が、私たちの益となるように共に働くと言われているところにこのみ言葉の意味があり、そこに驚くべき慰め励ましがあるのです。私たちのこの世の人生には、多くの悩みや苦しみがあります。どうしてこんな目に遭わなければならないのか、と思うようなことが起ります。そういう体験の中でこのみ言葉は、苦しみ悲しみも最終的には私たちの益となるように働くのだと語り、それを信じて、忍耐して苦しみ悲しみと戦っていくように私たちを励ますのです。そして事実、苦しみや悲しみのまっただ中にいる時には分からなくても、後になって、あの時のあの苦しみによってこういう恵みが与えられた、苦しみが結果的には益となったと気づかされることが起ります。そういう時に私たちはこの28節のみ言葉は真実だったと感じるのです。この28節はそのようにして多くの人々に慰めと勇気を与えてきたのです。

確信の根拠は?
 聖書の原文を読みますと、この28節の冒頭には「私たちは知っている」という言葉があります。日本語訳では最後に来ている「私たちは知っている」が、原文では最初にあるのです。この「私たちは知っている」に先ず注目したいと思います。パウロは「万事が益となるように共に働く」ことを「私たちは知っている」と言っているのです。「そうなればよいと願っている」とか「多分そうなるだろうと期待している」ではなくて、そのことをはっきりと知っているのです。この確信はどこから来るのでしょうか。これまでの人生経験からそう確信しているのでしょうか。私たちは、先ほど申しましたように、まさに自分の体験からこのみ言葉を判断しようとしています。いろいろ苦しみがあったが今にして思えばそれは益となったと感じられると、このみ言葉は本当だったと思うのです。パウロもそのように自分の体験からこのことを確信するに至ったのでしょうか。しかしもしそうなら、パウロであれ私たちであれ、このように確信をもって言うことはできないのではないでしょうか。なぜなら、私たちに襲いかかって来る苦しみは常に新たなものだからです。苦しみにおいては、「この苦しみは前にも味わったことがあるから大丈夫」というものはないでしょう。たとえこれまでの歩みにおいては苦しみが結局益となったことを体験してきたとしても、今度もそうなるとは限らないのです。苦しみのさ中にいる時に私たちは、過去の体験によって安心することはできません。それはパウロにおいても同じでしょう。「万事が益となるように共に働くことを私たちは知っている」と確信をもって語ることができる根拠は、過去の人生経験ではないのです。それではパウロは何を根拠にこの確信を語っているのでしょうか。

神が知っていて下さるがゆえに
 それを知るためには、26-30節の、さらにはこの第8章全体の文脈の中でここを読まなければなりません。26-28節には「知る」という言葉が連続して語られており、それが話の流れを造り出しています。先ず26節には「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが」とあります。先週の説教で申しましたが、パウロは私たちがかかえている様々な弱さの中心として、「どう祈るべきかを知らない」ということ見つめているのです。私たちの弱さは、どう祈るべきかを知らないことにある。それは、神との間に良い関係を築くことができないということです。勝手な願いを一方的に神に告げることはできても、相互の愛と信頼に基づく関係を神との間に築くことができない、そこに私たち人間の弱さがあるのです。その弱い私たちのために神はご自身の霊を私たちの内に宿らせて下さっている、ということをパウロはこの第8章において語っています。その霊が私たちの内でどのような働きをして下さっているのか、が第8章の主題です。26節の後半には、その霊が、言葉に表せないうめきをもって私たちのために執り成しをして下さっている、と語られています。どう祈ったらよいかを知らない私たちのために、神の霊が、神と私たちの間に立って執り成しをして下さっているのです。執り成しとは、両者の間に関係を築くために労することです。27節に語られていることもその霊の執り成しについてですが、そこにも「知る」という言葉が出て来ます。「人の心を見抜く方は、〝霊〟の思いが何であるかを知っておられます」とあります。これについても先週お話ししましたが、神が私たちの心を見抜いておられる、そこにおいて霊が執り成してくれているのです。神は、私たちのために執り成しをしてくれている「霊の思い」を通して私たちの心を知って下さるのです。私たちの内に宿って下さっている神の霊が、言葉に表せないうめきをもって、祈れない私たちのために、私たちに代って、祈って下さっている、神はその霊のうめきを祈りとして聞き取り、それによって私たちを知って下さる、つまり私たちと関係を持って下さるのです。このことをもっと分かりやすく言えばこのように言うことができるでしょう。8章15節には、神の霊は私たちを神の子とする霊だとありました。この神の霊が内に宿って下さることによって私たちは神の子とされ、神に向かって「アッバ、父よ」と親しく呼びかけて祈ることができるのです。「霊の思い」とは私たちを神の子として下さる思いです。神がその霊の思いによって私たちのことを見抜いて下さるとは、神が私たちをご自分の子として知って下さるということです。つまりこの26節から27節にかけてのところには、私たちはどう祈ったらよいかを知らない、神との関係を築くことができない弱い者だが、神の霊の執り成しによって、神は私たちを神の子として知っていて下さる、私たちとの間に父と子という関係を持って下さっている、ということが語られているのです。そして28節はそれを受けて、神が私たちのことを子として知って下さり、父と子という関係を築いて下さったことによって、私たちは一つのことを知った、と言っているのです。それが「万事が益となるように共に働く」ということです。つまりパウロがこの確信を語っている根拠は、自分の体験ではなくて、神が聖霊の執り成しによって自分のことを子として知っていて下さることなのです。神が自分を子として知っていて下さる、父と子という関係を結んで下さっている、そのことを示されたことによって彼は、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と確信をもって語ることができたのです。

わたしたちは知っている
 パウロはここで「わたしたちは知っています」と言っています。このことを知っているのはパウロ一人ではなくて「わたしたち」です。その「わたしたち」とは、神の霊、聖霊の執り成しによって、神が遣わして下さった独り子イエス・キリストを信じる者とされ、洗礼において主イエス・キリストと結び合わされ、自分が主イエスと共に神の子とされていること、神に向かって「アッバ、父よ」と祈ることができる者とされていることを示されている私たち、つまりキリスト信者たちです。「万事が益となるように共に働く」というのは、人類に普遍的な真理として語られていることではありません。これは、神が自分を子として知って下さっていることを知らされ、信じた者こそが知ることのできる真理です。苦しみが結局は益となったという人生経験のあるなしはそこでは何の関係もありません。聖霊の執り成しによってキリストと結ばれ、神の子とされた者は、パウロと共に「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と語ることができるのです。

神を愛する者たち
 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには」と語られていることが、今申しましたことを裏付けています。「万事が益となるように共に働くということを知っています」と言うことができる「わたしたち」とは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」なのです。「神を愛する者たち」それが信仰者です。信仰をもって生きるとは、神を愛して生きることです。良い行いに励むことが信仰なのではありません。それは神を愛することの結果として起って来ることです。信仰者が神を愛するのは、神が、愛される資格のない罪人である自分を愛して下さり、キリストの十字架の死と復活によって罪を赦し、神の子として下さったからです。独り子イエス・キリストによる救いのみ業によって私たちも神の子とされたのです。そのように子とされた私たちが、父となって下さった神を愛するのです。神を愛する私たちは、神のみ心が行われることをこそ求めます。神のみ心を思わずに自分の願いや望みばかりを神に叶えてもらおうとしているとしたら、それは神を愛しているとは言えないでしょう。神を愛する私たちは、神のみ心が自分の上に、またこの世界に実現することを願い求めるのです。28節に即して言うなら、「万事が益となる」というその「益」を、自分の願いが叶うこと、自分の思い通りになることと考えてそれを求め、そうならないと「なんだこの言葉は嘘じゃないか」と思うとしたら、私たちは神を愛しているとは言えないでしょう。「万事が益となるように共に働く」というのは、全てのことが自分の願い通りになることではありません。私たちの愛する神のみ心が成ることです。私たちの願いや望みは実現しないかもしれません。苦しみや悲しみからの救いも、自分が願っているような仕方では実現しないかもしれません。しかしそれでも、私たちの父となって下さった神のみ心が全てのことにおいて実現するなら、それこそが私たちにとっても真実の益なのです。そのことを信じて、神のみ心の実現を願い求めることが、神を愛することであり、神を信じて生きるとはそういうことなのです。

御計画に従って召された者たち
 神を愛し、信じて生きる者とは、「御計画に従って召された者たち」です。神を愛して生きることは、私たちがそのように努力することによって身に着けるようなことではなくて、神ご自身が私たちを召して下さることによってこそ実現するのです。私たちは、神を愛することのできない者です。どう祈ったらよいかを知らないとはそういうことです。神との良い関係を自分で築くことができない、それは神を愛することができないということです。それが私たちの現実の姿なのです。そのような私たちを神が召して下さっているのです。「召す」というのは「呼ぶ」という言葉です。神が親しく私たちの名前を呼び、神の救いの恵みの中へと招き入れて下さり、私たちのことを神の子として下さっているのです。その神の召しによって私たちは神を愛する者とされるのです。それは私たちが努力して実現することではなくて、全て神の御計画によることです。神は救いの御計画によって、独り子イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの全ての罪を赦し、復活によって永遠の命の約束を打ち立てて下さいました。そのキリストによる救いの恵みに今私たちは招き入れられています。私たちが教会の礼拝にこのように集っていることがその証拠です。これも、神の御計画、つまり神のみ心によることです。私たちは自分の努力や熱心さによってではなくて、神の御計画によって召され、キリストと結び合わされ、神の子とされることによって、神を愛する者として生きることができるし、神のみ心によって万事が益となるように共に働くことを確信することができるのです。

神の救いの御計画を信じる
 つまり万事が益となるように共に働くことを信じるとは、神の救いの御計画が自分の上に、そして全てのことの上に成ることを信じるということです。私たちは自分に与えられる「益」を、あの願いこの願いが叶うということにおいてではなくて、神の救いの御計画の中で捉えることができるのです。そこにおいてこそ、私たちの人生を本当に支える「益」を受けることができます。神は天地創造からこの世の終りに至る人間の歴史を、救いの御計画によって導いて下さっています。その御計画の中で独り子イエス・キリストの十字架と復活という決定的な救いのみ業を行なって下さいました。そして将来、その救いを完成して下さると約束して下さっています。パウロはこの神の約束を見据えつつ、この第8章の18節以下で、現在の苦しみとは比べものにならない栄光が将来与えられると語りました。それは私たちが神の子とされるという栄光です。キリストと結ばれた信仰者は、神の霊の執り成しによって今既に神の子とされており、神に「父よ」と祈ることのできる者とされていますが、私たちが神の子とされることは、世の終わりに私たちも主イエスに与えられたのと同じ復活と永遠の命を与えられることによって完成するのです。それが18節に語られている、「将来わたしたちに現されるはずの栄光」です。それは23節では「神の子とされること、つまり、体の贖われること」と言い表されていましたし、本日の29節に「御子の姿に似たものとされる」と言われているのもそのことです。神はこの救いの完成へと至る御計画にあずからせるために私たちを召して下さったのです。召されて信仰者となった私たちは、この神の救いの御計画を信じて、世の終わりに、復活と永遠の命を与えられることを待ち望みつつ生きるのです。「万事が益となるように共に働く」というのは、私たちの人生における全てのことが、この神の救いの御計画の完成へとつながっている、ということです。「万事が」、つまり私たちにとって苦しみや悲しみであるようなことも含めた全てが、復活と永遠の命を与えられ神の子とされるという救いの完成へと、究極の益へとつながっているのです。神は、あらゆる苦しみ、逆境、悲しみや不幸を通しても、この救いの御計画を実現して下さるのです。28節はそういう確信を語っています。従ってこれは、8章1節の「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と同じことを語っていると言うことができます。さらに、この8章の最後の38、39節も、同じ確信を語っているのです。38、39節を読みます。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。8章の始めと終りに語られている神の救いの御計画への確信を、28節も語っているのです。

うめき苦しみの中で与えられる確信
 私たちキリスト信者は、神の御計画によって召され、主イエス・キリストによる救いにあずかり、父なる神の子とされた者です。その私たちの歩みは神の救いの御計画の中に置かれており、全てのことが神の恵みによって私たちの救いのために益となるように共に働くのです。しかしそれは私たちの人生から悩みや苦しみや悲しみがなくなってしまうことではありません。悩みや苦しみをどうってことないものとして余裕をもって受け止めることが出来るということでもありません。神の子とされることがまだ完成していない、目に見える明らかな現実にはなっていない私たちのこの世の歩みには苦しみや悲しみがあり、目に見える現実においては希望が全く見出せないようなことがあります。その中で、神を愛する者として、神との交わりに生きる者として、つまり信仰者として生きることは簡単なことではありません。そのことをパウロはこの8章においてしっかり見つめています。18節以下で彼は「現在の苦しみ」を語っているのです。信仰をもってこの世を生きることは基本的に苦しみの歩みなのです。そこで彼は先ず被造物全体が人間の罪によってうめき苦しんでいることを見つめており、そして霊の初穂を与えられている私たち信仰者も、神の子とされること、つまり体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる、と語っています。さらに、目に見えないものを待ち望んでいる私たちには忍耐が必要であることも語っています。この世において信仰者は、うめき苦しみつつ、忍耐して、救いの完成を待ち望むのです。しかしその私たちの内に神はご自身の霊、聖霊を宿らせて下さっています。聖霊が私たちの内で、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さっているのです。この聖霊の助けによって私たちは、神が救いの御計画によって自分を召して下さっていることを示されます。そして私たちのうめき苦しみを聖霊がうめきをもって執り成し、父なる神との交わりを築いて下さっていることを知らされるのです。この聖霊の執り成しによって私たちは、うめき苦しみの中でも神に「父よ」と呼びかけて祈ることができます。そこに、父である神が万事を益となるように導いて下さるという確信が与えられるのです。

主に従う人と主に逆らう者
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所は詩編の第34編です。この詩は、本日の28節に語られているのと同じ確信を与えられて生きている信仰者の歌です。2節には「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」とあります。5節にも「わたしは主に求め、主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった」とあります。18節にも「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される」とあります。どのような時にも、常に、主の支え、助けがある、という確信が歌われているのです。その確信の中でこの詩人は20節以下を語っています。「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように彼を守って下さる。主に逆らう者は災いに遭えば命を失い、主に従う人を憎む者は罪に定められる」。主に従う人、信仰をもって生きる人には災いが重なるのです。多くの苦しみ悲しみが襲ってくるのです。主に従う信仰者になれば災いから逃れることができ、平穏な人生が与えられるというわけではありません。しかし信仰者は、多くの災いの中で、主が救い出し、守って下さることを体験していくのです。主が恵みのみ心によって万事を益として下さることを信じているからです。主に逆らう者、つまり主を信じることなく、主に依り頼むことなく、自分の力で生きている者は、同じような災いに遭うと命を失います。万事を益として下さる主を信じていないから、自分で益を造り出すしかないからです。災いの中でそれができなくなればもう生きていけないのです。詩編34編において、主に従う人と主に逆らう者の違いとして語られているこのことは、私たちにおいては、神の御計画によって召され、主イエスによる救いの恵みにあるかり、聖霊の助けによって、神が父としての恵みのみ心によって万事を益として下さることを信じ、神を愛している信仰者と、そうでない人の違いです。聖霊の執り成しによって神が自分のことを子として知っていて下さることを信じるならば、私たちは誰でも、父である神の恵みによって万事が益となるように共に働くことを確信して生きることができるのです。

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