主日礼拝

思い悩むな

「思い悩むな」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第147編1-20節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第12章22-34節(1)
・ 讃美歌:10、155、356

何を食べようか、何を着ようか
 「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」とイエス・キリストは語られました。このお言葉を含むルカによる福音書第12章22~34節を、本日と来週と二週にわたってご一緒に味わいたいと思います。「思い悩むな」は以前の翻訳では「思い煩うな」となっていましたから、そのように覚えておられる方もいるかもしれません。また、これと同じ教えはマタイによる福音書第6章にもあるので、そちらの方で読んで知っているという方もおられるでしょう。主イエス・キリストの代表的な教えとして愛読されてきた言葉です。けれども今日の日本の社会では、この言葉はそのままでは私たちの生活の実感と合わなくなっていることも確かだと思います。「何を食べようか、何を着ようか」という思い悩みは、今私たちの生活においては、聖書に語られているのとは全く別の意味で存在しています。町には、セレブな気分を味わえる高級レストランから、B級グルメ、ファストフード、各地域のうまいものフェア、果ては健康食品、ダイエット食品まで、様々な食べ物が溢れていて、私たちはその中で、何を食べようかと迷ってしまいます。何を着ようかという方に関しては私は全くうといのですが、テレビなどでは「この夏の流行アイテム」は何だとか、「今のトレンド」はどうということをやっていて、いろいろなTPOに合わせて着ていくものを選ぶのに、悩む人は悩むのだろうなあと、他事ながら同情申し上げています。「何を食べようか、何を着ようか」と言った時に私たちがピンと来るのはむしろそういう思い悩みです。しかし主イエスがこれを語られた時の状況は全く違うのであって、これはその日その日をどうやって生きていくか、どう命をつないでいくか、という思い悩みなのです。「命のことで、体のことで」という言葉がそれを表しています。その日生きるための食べ物、着物にも事欠くような生活をしている人々に対して、主イエスはこの言葉を語られたのです。

私たちの思い悩み
 私たちは、今日の日本の社会においても、このような思い悩みの中にある人がいるし、むしろその数が増えてきているという現実をしっかりと見つめておかなければなりません。一方に、先ほど申しましたような贅沢な思い悩みを感じている人がありつつ、他方には、仕事を失い、住む所も失ってまさにその日その日の命と体のために思い悩んでいる人々もいる、そういう複雑な社会を私たちは生きているのです。ですから、主イエスがここで言っておられる思い悩みは今の私たちの生活にはもうあてはまらない、と言ってしまうことはできません。しかし、今この礼拝に集っている私たちのほとんどの者は、今日食べるものや着るものの心配をしているわけではないでしょう。そういう私たちには、命や体のことでの深刻な思い悩みはもうないのかというと、そんなことはありません。私たちもまた、まさに命や体に関わる深刻な思い悩みを、それぞれに様々な仕方でかかえているのです。厳しい経済状況の中で、いつ仕事を失うか、収入の道を奪われるかという不安があります。既に職を失った人や、これから就職しようとしている学生であれば、就職先が見つかるだろうか、という心配があります。リタイアしていわゆる悠々自適の生活を送っている人であっても、老後の生活への不安は尽きません。介護を必要とするようになったら誰が面倒を見てくれるのか、施設に入るとしたらどれだけお金がかかるのか、子供や孫たちに迷惑をかけたくない、そのように思い悩んでいる人は多いでしょう。さらに、人間関係の中での思い悩みがあります。家庭においても、職場、学校においても、地域社会においても、人間関係のストレスが非常に高まっています。夫婦だから、親子だから、兄弟だから、同僚だから、ご近所だから、ということで人間関係の基本的な枠が維持されていた時代はもう過去のことであり、そのような枠を越えてそれぞれの思い、主張がぶつかり合い、お互いに譲れない、これを譲ったらもう自分が自分でなくなってしまう、という厳しいバトルが展開されています。そのような中で私たちがかかえる思い悩みは複雑かつ深刻であり、まさに生き死にの問題です。さらに加えて体についての思い悩みがあります。病や老いや障碍による思い悩みは勿論のこと、いかに若く、美しくあるか、若さや美しさをいかに保つか、ということにおける思い悩みもあります。私たちはそれぞれに、人にはなかなか分かってもらえない思い悩みをかかえて生きているのです。今述べてきたような思い悩みは、主イエスの当時の人々が抱いていたものとは全く違うでしょう。しかしどちらも深刻な、生き死にの問題です。人間は、それぞれの時代のそれぞれの社会において、それぞれなりに、命と体のことでの深刻な思い悩みを抱いているのです。

神が養い、装って下さる
 そういう私たちに、主イエス・キリストは、「思い悩むな」とおっしゃいます。これは驚くべき言葉です。下手をすれば、驚くべき無神経な言葉ということになります。私たちが、悩み苦しんでいる人に、「思い悩むな」と言うとしたらどうでしょう。その人との間に余程の信頼関係があり、その人のかかえている問題を本当によく知っており、その苦しみ悩みに深く同情し、親身になってそれを共に担っている、という事実があればよいでしょうが、そうでない限り、「あんたに何が分かる。無責任なことを言うな」と反発されるに違いありません。しかも主イエスは、「思い悩まないでおきなさい」「思い悩むことはないんですよ」と言ったのではありません。「思い悩むな」と命令なさったのです。何を根拠に、そんな驚くべき命令を語ることができるのでしょうか。続く23節で主イエスは「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」と言われました。私たちは、これは「思い悩むな」という命令の根拠にはなっていない、と思うのではないでしょうか。食べ物は命を養うためにあり、衣服は体を守るためにあるのだから、食べ物や衣服より命や体の方が大切な、肝心なものであることは確かだ、しかしその命を養い体を守るために必要な食べ物や衣服がなくて思い悩んでいるところにこんなことを言われても、思い悩みから解放されはしない、と思うのです。この23節で主イエスはいったい何を言っておられるのでしょうか。そのことは、24節以下を読み進めていくことによって分かってきます。24節以下には、烏のこと、野原の花のことを考えてみなさい、という主イエスの教えが語られています。マタイ福音書では、「空の鳥を見なさい」「野の花を見なさい」となっているところです。烏について、何を考えてみよと言われているのでしょうか。それは、烏は種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たないが、神様が彼らを養っていてくださる、ということです。野原の花についても、働きもせず紡ぎもせず、明日になれば炉の燃料にされてしまうような花を、神様が美しく装い、咲かせて下さっていることを考えなさい、と言われています。つまり烏も野の花も、どちらも神様が養い、装って下さっていることを主イエスは私たちに見つめさせようとしておられるのです。それこそが、「思い悩むな」という命令の根拠です。ですから勘違いをしてはなりません。「空の鳥を見なさい、野の花を見なさい」という教えにおいて主イエスが語っておられるのは、鳥は何の心配もせず悠々と空を飛んでいるではないか、花も何の苦しみも持たずに美しく咲いているではないか、そういう姿をお手本として、あなたがたも思い悩まずに歩みなさい、ということではないのです。私たちは鳥や花ではないのですから、そんなことで思い悩みから解放されることはありません。これはそういう話ではなくて、鳥も野原の花も、神様が養い、装って下さっている、そのことから、私たちの命も体も、神様が養い、装って下さっていることを知りなさい、ということなのです。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」という23節の言葉の意味もここから分かって来ます。食べ物や衣服よりも、命と体の方が大切な、肝心なものだ。そしてその肝心な命と体は、神様が養い、装って下さっているのだ、ということを主イエスは見つめさせようとしておられるのです。
 烏や野原の花のことを考えてみなさいと主イエスが言っておられるのは、神様はそれら以上に私たちのことを大切に思い、養い装って下さっている、ということを示すためです。24節の後半に「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」とあり、28節には「明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」とあります。鳥や野原の花よりも人間の方がずっと価値がある、というわけですが、これは、どちらの方がより高等、高級か、ということではありません。鳥も花もそして人間も、皆神様がお創りになり、養い装っておられるものです。そして神様はご自分の被造物の中で、私たち人間を、とりわけ大事なものとして創り、大切に養い、装って下さっているのです。それが、旧約聖書創世記の初めの所にある天地創造の物語が語っていることです。天地創造のみ業の最後に人間が創られたのは、神様がこの世界と全ての被造物を、人間が生きるための場として、また人間を養い生かすために創って下さった、という恵みのみ心の現れなのです。この世界の全てをお創りになった神様が、あなたがたの命と体を養い、装い、守って下さっている、だから思い悩むな、と主イエスは言っておられるのです。

神を信じるとは
 そうすると、この「思い悩むな」という命令は、要するに「神様を信じなさい」という命令なのだ、ということが分かってきます。神様を信じることを抜きにして、心配事があっても思い悩まなくていい、そのうち何とかなる、ということを言っているのではありません。だから主イエスは28節の終わりで、「信仰の薄い者たちよ」と言っておられるのです。思い悩むのは信仰が薄い者たちです。「薄い」と訳されているのは「小さい」という言葉ですが、それは信仰の大きさを他の人と比較しているのではありません。信仰が小さいというのは、信仰が信仰として機能していないということです。信仰が信仰として機能しているとは、簡単に言えば、本当に信じている、ということです。それが機能していないということは、本当に信じてはいない、ということです。つまり信仰は、大きい小さい、厚い薄いというものではなくて、「信じている」か「信じていない」かのどちらかなのです。神様を信じている人は、神様が自分の命と体を養い、装い、守って下さると信じているのであって、そこには思い悩みからの解放が与えられるのです。思い悩むのは、その神様の養い、装い、守りを信じていないからであって、それは要するに神様を信じていないということなのです。

あなたがたの父
 30節にそのことがよりはっきりと語られていきます。「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ」とあります。「それ」というのは、何を食べようか、何を着ようかという思い悩みです。そのように思い悩むのは異邦人たちだと言っているのです。異邦人とは、神様の民でない人々、まことの神様を知らない人々、要するに信じていない人々のことです。何を食べようか、何を着ようかという思い悩みは、神様を信じていない人々が、だから自分で自分の命と体とを養い、装わなければならないと思って、食べ物や衣服を切に求めていくところに生じるのです。しかしあなたがたは異邦人とは違う、と主イエスは30節の後半で言っておられます。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。これこそが、本日注目すべき最も大事なみ言葉です。まことの神様を知らない、信じていない人々は、自分で自分の命と体を養い、装わなければならないと思い、「何を食べようか、何を着ようか」と必死になって思い悩んでいる。しかしあなたがたには、命と体を養い装う食べ物や衣服が必要であることをご存じであり、ご存じであるだけでなく、あなたがたを父として心から愛し、必要なものを必要な時に必要なだけ与えて下さる神様がおられるのだ。あなたがたはその神様の子どもとされているのだから、父である神様の愛を信じて、自分の命と体とを神様に委ねて、安心して生きることができる、そこに、思い悩みから解放された歩みが与えられるのだ、と主イエスは言っておられるのです。

命と体を養い、装うのは誰?
 ですから、「思い悩むな」という主イエスの教えは、つまるところ、私たちの命と体とを本当に養い、装うのは誰なのか、私たち自身なのか、それとも天の父である神様なのか、という問いに帰着するのです。神様を信じる信仰者とは、自分の命、人生を養い、装い、守り導いているのが父なる神様であると信じている人です。そうでなくて、自分の命と人生は自分で養い、装い、守らなければならない、と思っているならば、その人は神様を信じてはいないのです。「思い悩むな」という主イエスの命令は、あなたはこの二つの生き方の内どちらを選ぶのか、という問いなのです。私たちが命と体のことで思い悩みつつ生きるか、そういう思い悩みから解放されて生きるか、それはつまるところ、天の父なる神様を信じるか信じないかということなのです。自分で自分の命を、人生を養い、装い、守らなければならないと思っているならば、当然、そのために必要な食べ物や衣服その他の様々なものを必死に得ようとすることになります。それらを自分のものとして獲得し、自分の倉に蓄えることができれば安心できると考え、その安心を求めて思い悩み続けることになるのです。ここに、前回、先々週の主の日の礼拝において読んだ、この前の箇所、21節までのところに語られていたこととのつながりが見えてきます。主イエスは16節以下で一つのたとえ話を語られました。新しい大きな倉を建てなければ間に合わないほどの大豊作を得た金持ちが、それらの収穫を全てしまい込んで、「これから先何年も生きていくことができるだけのものが手に入った」と安心した。ところが神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」とおっしゃったというたとえ話です。この話が印象的に語っているのは、私たちが自分のものとして獲得し、蓄え、持っているもの、つまり私たちの広い意味での財産が、私たちの人生を、命を、本当の意味で養ったり装ったり守ったりはしないのだ、ということです。そういうものを切に求めて思い悩んでも、それで、本日の25節の言葉を用いれば、寿命をわずかでも延ばすことはできないのです。私たちの命と体を本当に養い、装うのは、その命と体を創って与えて下さり、人生を導き、そしてお定めになった時にそれを取り去られる主なる神様なのです。その神様を信じ、その神様が父としての愛によって必要なものを与えて下さると信頼して、命と体を委ねて生きるところにこそ、思い悩み、不安、心配からの解放が与えられるのです。

貪欲と思い悩み
 前回読んだ13節以下のところで主イエスは、「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」というある人の願いを退けて、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」とおっしゃいました。その時申しましたように、この人は自分の正当な権利を守ろうとしているのです。しかし主イエスは彼の正当な要求を「貪欲」と呼び、それに続いて先ほどのたとえ話を語られたのです。つまり、たとえそれが正当な権利によるものであっても、自分の得たもの、持っているもの、蓄えているもので自分の命を、人生を養い、装うことができると考えることを主イエスは「貪欲」と呼んでおられるのです。そしてその貪欲から思い悩みが生じるのです。先ほど、現代の社会において私たちが抱いている様々な思い悩みをあげましたが、それらは結局、私たちの貪欲から生じているのではないでしょうか。いつの時代にも、人間の罪の根本にあるのは貪欲です。その貪欲が何に向かっているかは時代によって違います。今日の社会における貪欲は、お金や様々な欲望の充足に向かうだけでなく、自分らしく生きる、自己実現という内容の生き甲斐や、死ぬまで健康で元気に生きる、という健康志向や、若さと美貌を保つことに向けられており、そこから、様々な思い悩みが生じているのです。主イエスはそのような貪欲による思い悩みの中にいる私たちに、「思い悩まなくてよいのだ」ではなくて、「思い悩むな」とお命じになります。それは、「あなたに命と体を与え、それを養い、装い、守り、導いておられる父なる神様を信じなさい。その父なる神様によって養われ、装われ、あなたの自己実現、あなたが自分らしい生き方と思うことではなくて、神様があなたに与えて下さる使命に生きる者となりなさい。そこにこそ、思い悩みから解放された人生が与えられる」という促しなのです。この主イエスの命令、促しに従って生きるなら、私たちは、神様が自分の人生を、栄華を極めたソロモンも足下にも及ばないほどに美しく装って下さることを体験していくことができるのです。そのことについては、31節以下を中心に、来週さらにみ言葉に聞いていきたいと思います。

主イエスの弟子にこそ
 最後にもう一つ、22節の冒頭に目を向けたいと思います。「それから、イエスは弟子たちに言われた」とあります。もともと12章1節に、「数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった」中で、主イエスが「まず、弟子たちに話し始められた」とありました。つまりこのあたりの主イエスの言葉は、弟子たちに対して語られたのです。その中で前回読んだ13節以下は、群衆の一人の願いに対応する形で語られた部分でした。しかし本日の箇所の冒頭の22節で再び「弟子たちに言われた」と語られることによって、ここが群衆に対してではなく弟子たちに対して語られた言葉であることがはっきり示され、強調されているのです。「思い悩むな」という教え、命令は、周囲に押し迫っている群衆たちにではなく、主イエスに従って来ている弟子たちに対して語られたのです。このことの持つ意味は重大です。思い悩みからの解放は、主イエスの弟子となることにおいて、つまりイエス・キリストを信じる信仰者となることにおいてこそ与えられるのです。先ほど、ここは神様を信じることを抜きにして、心配事があっても思い悩まなくていい、そのうち何とかなる、ということを言っているのではない、とうことを申しましたが、それはもっと正確に言うと、主イエス・キリストを信じることを抜きにして、思い悩みからの解放はない、ということです。何故ならば、主イエス・キリストを信じることによってのみ、私たちは、天の父なる神様を知ることができるからです。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」というみ言葉は、神様の独り子である主イエスを信じ、従っていくことの中でこそ本当に分かるのです。天地を創り、私たちに命を与え、それを養い、装って下さる神様は、その独り子である主イエスを一人の人間としてこの世に遣わして下さり、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。この独り子の死によって神様は私たちの罪を赦して下さり、さらに主イエスを復活させることによって、私たちが神様の子とされて新しい命を生きる道を開いて下さったのです。私たちは、救い主イエス・キリストと結び合わされる洗礼によって、その十字架の死と復活にあずかり、罪を赦され、新しくされて、神様の子として、神様を父と呼んで生きる者とされるのです。主なる神様が私たちを天の父として本当に愛して下さっていることは、この主イエス・キリストの十字架の死と復活によってこそ分かります。それゆえに、主イエスを信じ、従って行く弟子、信仰者にこそ、思い悩みからの解放が与えられるのです。「思い悩むな」という命令は、主イエス・キリストを信じ、従う者となりなさい、という勧め、うながしでもあるのです。

関連記事

TOP