主日礼拝

父のもとに行く道

「父のもとに行く道」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編 第119編25-32節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第14章1-14節
・ 讃美歌: 8、196、505

道を求めて
 本日の箇所で、主イエスは、父のもとに行く道についてお語りになっています。「父」と言うのは神様のことです。世を去る直前に、弟子たちに向かってお語りになった訣別説教の中で、主イエスは神様の下に行く道についてお語りになったのです。宗教と言うものは、どのようなものであれ神様の下に行く道に関係しています。神様と言っても、聖書が語る神様のような人格的な方であるとは限りません。ですから、宗教には必ず、有限で時間の中を歩んでいる人間が、無限で永遠なるものに思いを向ける営みがあると言った方が良いかもしれません。私たちが、宗教を信じようとする時、果たして、自分が永遠との交わりに生きているのだろうかと言うことを問います。具体的には、自分が死んだ後どうなるのだろうか。果たして、神様の下に行けるのだろうかと言う問いになるかもしれません。人間が永遠なる方に目を向け、神様との交わりに生きようとする時、自分がその方と良い関係を結んでいるのかどうかが問題となるのです。もし、自分が父のもとへと行く道を歩き、永遠なる方へと結びついていることを確信出来るのであれば、そこには平安が生まれます。しかし、逆に、そのような信仰が持てない時、心の平安は乱されるのです。
 この世にあって、私たちが父なる神と良い関係を結んでいることの最も確かな根拠になると思われることは、この世での自らの生き方です。例えば、単純に、この世で、良く生きたのであれば天国に行ける。しかし、この世で悪いことをしたら、それに応じて地獄での苦しみが待っていると言うようなイメージを持つかもしれません。私たちが、そのように、この世での歩みを根拠に父なる神様の救いを確信しようとする時、この地での生き方を具体的に示す規範となるものを求めようとします。私たちが歩む世は、混沌としており、どのように生きれば良いのか、私たちには、はっきり分からないからです。そこで、しばしば、自分の生き方を規定するような信仰の道が求められるのです。道と聞くとどのようなものを想像するでしょうか。それは、私たちに生き方を示し、それを極めて行くことで真理へと至る、命を約束する規準や生き方と言うようなことかもしれません。様々な宗教の開祖が語る教えに聞き、それに従って歩もうとしたりするのです。このような道を捜し求める営みを、人間の宗教的な営みと言っても良いでしょう。しかし、本日の箇所で、主イエスが、お語りになる道とは、そのような、私たちが宗教的営みの中で求めている道とは異なります。今日は、主イエスがお語りになる道について示されていきたいと思います。

心を騒がせるな
 主イエスの弟子たちも、道を求めつつ主イエスの後に従っていました。しかし、主イエスと共に歩んでいた弟子たちの心が平安だったかと言えば、必ずしもそうではありません。14章の1節で、主イエスは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とおっしゃっています。この言葉は、主イエスが度々、ご自身の感情を表す際にお用いになった表現です。主イエスが自ら「心騒ぐ」とおっしゃる時、それは、人間の罪を担うためにご自身が引き受けなくてはならない十字架の死に対する恐れを表します。しかし、ここで主イエスは、弟子たちに向かって「心を騒がせるな」とおっしゃるのです。つまり、主イエスは、御自身だけでなく、弟子たちも又、心を騒がせていることを察しておられるのです。もちろん、弟子たちは、主イエスと同じように十字架の死を担うことによる恐れを経験しているのではありません。しかし、弟子たちも又、恐怖に捕らえられ、心が落ち着かず不安の中で過ごさなくてはなりませんでした。つまり、心を穏やかに平安の内に歩むことが出来ないと言う状況があったのです。この時、主イエスの命をつけ狙う人々が既に周りに迫っています。いつ、主イエスが捕まってもおかしくない状況です。このことは、今まで、主イエスを信頼し、主イエスと共に歩んできた弟子たちに大きな不安を抱かせたに違い在りません。弟子たちにとって、自分たちが師と仰ぐ主イエスがいなくなってしまうことは、自分自身の今まで歩んできたことが無駄になることですし、自らが、この先、どのように歩めば良いのかわからなくなってしまうようなことなのです。更には、この時、弟子たちの中には、自分の命もどうなるか分からないと言う漠然とした死に対する恐れも生じていたことでしょう。つまり、弟子たちは、主イエスを失い、自分の命も失うかもしれないと言う中で、心を騒がせているのです。それは、根本的には、主イエスと離ればなれになることで、自分たちが真の命へ至る道が分からなくなることに対する不安なのです。

心を騒がせている理由
 何故、この時、弟子たちは主イエスの後に従っていながら、つまり、主イエスと同じ道を歩んでいながら平安の中にいなかったのでしょうか。それは、主イエスのそばにいたにも関わらず、神様との良い関係を結ぶことが出来ていなかったからです。父のもとへ行く道を見出すことが出来ていなかったからです。1~3節で、主イエスは、弟子たちに向かって、ご自身が、赴こうとしている父のもとには、住む所がたくさんあること。もしなければ、場所を用意しに行って、弟子たちのために場所を用意したら戻って来て、弟子たちを迎えると言うことをお語りになります。その上で、4節で、はっきりと「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とおっしゃっています。しかし、その主イエスの言葉に対して、弟子のトマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と尋ねるのです。つまり、この時、主イエスがお語りになる道が、どのようなものなのかを、全く理解していなかったのです。誤解していると言っても良いでしょう。
 主イエスは、ご自身が、十字架への道を歩み、それによって、父なる神の下に人々の場所を用意しに行くとおっしゃっています。つまり、主イエスご自身が、人間の救いのために、神様の下に私たちの場所を用意し、救いを成し遂げて下さるとおっしゃっているのです。
 一方で、トマスをはじめ弟子たちは、救われるために、自分がどのように歩むべきかを知ろうとして、主イエスの後に従っているのです。主イエスの教えを求め、その教えを守り、その後に従っていくことによって救いに至る道を見出そうとしているのです。主イエスは、ご自身が救いを成し遂げて下さろうとしているのに対し、トマスは、自分自身が救われるために歩くべき道を求めています。主イエスがここでお語りになっている道とは、トマスが考えているように、人間が選び取り、自らそれを究めようとして歩いて行くようなものではありません。むしろ、それは主イエスご自身が歩んで下さるものなのです。

わたしは道であり、真理であり、命である
 道と言うことについて、誤解しているトマスに向かって、主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃっています。ここで、主イエスは、主イエスがお語りになる言いつけを守って、自らの力で歩み通すことこそ、道であり、それによって真理に到達し命が得られると言っているのではありません。そうではなく、主イエスご自身が道であるとおっしゃるのです。主イエスの語ることを、自ら行って行くことによって救いが得られるのではなく、道そのものである主イエスを通ることによって、父の下に行くことが出来ると言うのです。もし、ただ、主イエスのお語りになる教えを聞き、それを守りぬくことによって父の下に行こうと考えているのであれば、それは、結局は、自分の力によって、父の下に行こうとしているに過ぎません。様々な教えがある中で、主イエスが語る教えを選びとり、それを実践することによって、父の下に行こうとしているのです。それは、道である主イエスを通らずして、自分自身が主人となって道を判断し、その道を通って父の下に行こうとする姿勢であると言えます。そのようなトマスに、主イエスは「わたしこそ道である」とはっきりとお語りになるのです。
 つまり、ここで主イエスは、この世には様々な神様のもとに行く道と思える教えがあるけれども、私こそが本物だとおっしゃっているのではありません。仏教やイスラム教、さまざまな新興宗教ではなくキリスト教を選び取りなさいという教えではないのです。むしろ、自分で道を選び取り、自分でその道を歩き通すことによって真理に到達し命を得ようとする人間の宗教的な営みによってではなく、そのような人間に向かって、自ら救いを成し遂げると言う形で迫って来られる、道である主イエスご自身を見出すようにと言うのです。

心を騒がせる
 ここでトマスが歩んでいた道に歩む時、すなわち、教えを自ら選び取り、その教えに従って歩むことによって救いに到達しようとする時、そこには真の平安はありません。自分の判断や業を根拠にして、神様への道を歩こうとしているからです。いつも、自分の道が間違っているのではないだろうかとの思いを抱くことになります。又、果たして、自分は、その道をしっかりと歩いているだろうかとの思いを抱くこともあるでしょう。そこでは、どんどん、自分の業を頼るようになっていきます。そのことは弟子たちの姿に現れています。11章16節には、主イエスがエルサレムに向かって歩み出した時、トマスが、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と豪語したことが記されていました。さらに、直前の14章37節では、ご自身の道に今はついて行くことが出来ないとお語りになった主イエスに対して、弟子のペトロは、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と語りました。これらの、弟子の姿勢の中には、主イエスに従い通すことによって自ら道を歩み遠そうと言う決意が表れています。しかし、そのような歩みの中で、弟子たちは、心を騒がせているのです。どれだけ自分の業に頼っても、自らが従う主イエスのために命を捨てるとの決心をしてみても、不安は消えないのです。結局、自分の業を頼りにしているために、主イエスがお語りになっている、本当に「父のもとに行く道」を歩んでいるか分からないからです。

道そのものである主イエスを見出す
 そのような弟子たちに向かって主イエスは、御自身が、道そのもの、真理そのもの、命そのものであることを語っているのです。主イエスが道そのものであると言う時、それが意味していることは、主イエスは、神と等しい方であると言うことです。主イエスのお姿そのものに父なる神さまとはどのような方なのかが示されているのです。聖書が語る信仰とは、主イエスこそ神であると信じることなのであり、そこに救いがあるのです。それは、1節で、主イエスが「神を信じなさい、そして、わたしをも信じなさい」とおっしゃっていることからも明らかです。つまり、聖書が語る信仰において主イエス・キリストは、私たちがどのように生きれば神様の下に行けるのかと言う教えを語ったキリスト教の開祖なのではなく、神と等しい方、私たち人間のために救いを成し遂げて下さる救い主であると言うことです。つまり、信仰の道を指し示す方と言うよりも、信仰の対象なのです。
 主イエスは、自らの力によって真理を求め、命に到達するための道を歩もうとする弟子たちを救うために、ご自身が人間の救いのための道を歩んで下さいました。具体的には、お一人で人間の罪を担って、十字架で死に、三日目に復活されることによって死の力を破り、天に昇って神様の右の座についておられる。これら一連の業を通して、ご自身が神であり、人間の救いを成し遂げておられることをお示しになっているのです。これは紛れもなく、神様の御業です。この救いに完全にあずかることこそ、主イエスが語られる道、すなわち主イエス・キリストご自身を見出すことになるのです。
 この後、トマスは、ヨハネによる福音書の最後の場面に登場します。復活の主と出会う。復活の主と出会った他の弟子たちの証言が信じられずに、主イエスの手の釘の跡とわき腹に触れてみなければ信じないと言っていたトマスに、復活の主が出会って下さるのです。そこで、主イエスは、手とわき腹に触れるようにと言いながらご自身を示して下さったのです。それによって、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」との告白をなしたのです。それは、自分の力で救いを得ようとして道を求め、その限り、道を教えてくれる方として主イエスに従っていたトマスが、真の神、救い主として主イエスを受け入れた時でした。トマスは、そもそも、自ら歩むべき道を捜し求めていた時、主イエスのために死ねるとまで考えていました。しかし、実際は、自分がこの方のために死んだのではなく、主イエスの方が自分のために死んで下さり、救いを成し遂げ、神様との関係を回復して下さったことを知らされたのです。この方が神ご自身であり、主イエスによって神様の愛が現されていることを知らされたのです。主イエスは、7節で「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」とおしゃいます。主イエスを知ることこそ、神を知ることに他ならないのです。

フィリポの返答
 続く、8節には、弟子の一人であったフィリポが主イエスに向かって「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足出来ます」。と語ったことが記されています。既に、父を見ているといわれているにも関わらず、フィリポは、このように問い返したのです。父なる神様のことが主イエスを通して示されており、主イエスを見ることが神を見ることなのにも関わらず、既に示されている主イエスのお姿に、神が現されていると受けとめられなかったのです。そのようなフィリポに対して、主イエスは、10~11節で、父なる神と主イエスが一つであることをお語りになるのです。
 ここで、フィリポは、熱心に神様を求めているとも考えられます。しかし、「そうすれば満足出来ます」と言われている通り、彼は自分の満足を求めていました。私たちは、この時のフィリポのように、どこかで、自分の満足するような形で神が示されることを求めているのではないでしょうか。ここにも、自分自身が主人となって、様々な道を選び取ろうとする態度があります。自分がはっきりと、父なる神に通じる道を歩いているとの確信が持てるような道が示されることを求めているのです。そのような意味で、フィリポもトマスと同様、主イエスが道であり真理であり命であることを受けとめることは出来ませんでした。一方で、自分の力で救いを得るための道を求め、主イエスを、神ではなく一人の道を示してくれる教祖のようにして捉える時、もう一方で、自分が主人となって、自分の満足の出来るような形で神さまが示されることを求めてしまうのです。つまり、主イエスを神として受け入れられない時、主イエスを自らの救い主、主人とすることもないのです。信仰とは、そのような人間の歩みが根本的に変えられることと言っても良いでしょう。既に主イエスによって示されている。既に見せていただいている主イエスの道を歩き出すことなのです。それは、主イエスが救いの御業、神様の御業を行って下さる方であることを信じ、その救いの御業に委ねつつ歩むことに他なりません。

主イエスの業を行う
 今、既に信仰を与えられている方であれば、自分は主イエスを神と等しい方として受け入れていると思うかもしれません。しかし、案外、キリスト者であっても、この時のトマスやフィリポのような歩みをしていることがあるのではないでしょうか。主イエスの「わたしは道であり、真理であり、命である」と言う御言葉を聞いて、主イエスがお語りになる教えを守って行くことで真理に到達し、命が得られると言うことを語っていると思い込んでしまう。そのような中で、日々の教会生活が真に平安の内に置かれずに、心を騒がせていることがあるように思います。「わたしは主イエスのために死ねる」とまでは言えないかも知れません。しかし、本当に自分の道が、救いを得るために十分な、言い替えれば、キリスト者として相応しいものになっているのかと言うことに関心を集中させることがあります。そして、自分の至らなさを嘆き、隣人の欠けを裁いたりするのです。そこで、本当に救いに至る道とは異なる道を歩き出そうとしてしまうのです。
 そのような者に、主イエスは、わたしこそ道であるとおっしゃっているのです。私たちではなく主イエスが、父のもとへ行く道を歩んで下さり、そのことによって救いを成し遂げて下さった。それ故、私たちは、この方こそ、神であることを信じ、神様によって成し遂げられた救いの御業に信頼して歩めば良いのです。そのような歩みをする時、12節で記されているような歩みが生まれていきます。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」。主イエスこそ真の道であることを受けとめて、その道を歩き出す時、そこを歩く者は主イエスの業を行う者とされていきます。それは、自分の救いを自分の力で確かなものとするために、道を求め、道を究めて行くような自分の業ではありません。むしろ、神さまが成し遂げて下さった救いを世に示し、人々を、共に主イエスの救いにあずかりつつ歩む道に導く主イエスの業です。それは難しいことではありません。私たちが、自分の業によって救いを得ようとするのではなく、イエスこそ神であり救い主であるという信仰に生きる時に、自然と、主イエスの救いが証しされて行くのです。そのようにして、私たちが、道である主イエスを指し示して行くのです。主イエスが私たちに道を指し示すのではありません。主イエスの救いに生かされる信仰者が、道そのものである主イエスを指し示して行くのです。
 14節には、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」とあります。これは、主イエスを信じれば御利益として、願い事がかなうと言うことではありません。真の道を歩み、主イエスの御業を行って行く歩みを通して、主に栄光を帰して行く時、真理、命にあずかっていると言う真の平安が与えられると言うことです。

平安の中を歩く
 私たちは、私たちが父なる神のもとに行くための道となって下さった主イエスを、自分自身の主、神と受け入れつつ歩む時に、真に神と結ばれる者とされます。自分自身の力で父の下へと行く道を捜し求め、そこを歩いて行こうとすることによってではなく、私たちではなく主イエスご自身が、父にいたる道を歩き、それによって私たちが父と結ばれていることに信頼して、道であり、真理であり、命であるキリストを通して父のもとへと歩んで行くのです。そのような歩みをする時にのみ、私たちはどんな困難な力が迫る時にも、たとえ自分の命が取り去られてしまうような死の力が襲う時にも、心を騒がせることなく、平安の内に歩む者とされるのです。その道が、神であられる主イエスが歩んで下さった道であるが故に、必ず、父のもとへと通じているからです。

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