主日礼拝

もっと大きな業

「もっと大きな業」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第2編7-12節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第14章12-21節
・ 讃美歌:54、476

主イエスがお語りになった大切なこと
 本日この礼拝においてご一緒に読むのは、ヨハネよる福音書第14章の12節からですが、11節と12節の間に段落はありません。前回11節までを読んだ時も、本日も、なぜここで切るのだろう、なぜここからなのだろう、と不思議に思われた方が多いのではないかと思います。確かにここは一続きで読まれるべきところだと言えます。しかし12節は「はっきり言っておく」という言葉から始まっています。これはヨハネによる福音書に繰り返し出て来る表現で、直訳すれば、「アーメン、アーメン、私はあなたがたに言う」となります。主イエスが、大切なことを宣言なさる際にお語りになった言葉です。つまり12節以下で主イエスは改めて大切なことを語っておられるのです。その大切なことを日を改めて聞くために、前回は11節までとし、本日は12節からとしたのです。

わたしと父なる神を信じなさい
 ここで区切ったことにはもう一つ理由があります。11節までのところで主イエスは、ご自分とご自分の父である神を信じなさい、ということを語って来られました。14章は、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」というお言葉から始まっています。父なる神と私を信じなさい、と主イエスはおっしゃったのです。しかしそれを聞いた弟子たちは、主イエスの父である神のことがよく分からないと思いました。8節でフィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言っています。主イエスはそれに対して9節で「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」とおっしゃいました。主イエスに従っている弟子たちは、既に父なる神をも見ているのです。主イエスと父なる神とはそのように一体であり、主イエスを信じることと父なる神を信じることは別のことではないのです。主イエスは10節では「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか」と言っておられました。また11節でも「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」とおっしゃいました。私と父なる神の間には、お互いがお互いの内にいる、と表現できるような、切っても切れない関係がある。だから、私を信じ、同時に父なる神を信じなさい、ということが11節までに語られてきたのです。

信じた者は何を行うのか
 それを受けて12節には「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と語られています。つまり12節以下には、主イエスを信じ、主イエスと父なる神が一体であることを信じる信仰者は、何を行うようになるのか、どのように生きていくのか、が語られているのです。それがとても大切なことなのだ、ということを示すために、12節の冒頭に「はっきり言っておく」という言葉があるのです。ですから12節以下は、11節までを前提としつつ、新しい、大事なことを語っているのです。新しい大事なこととは、主イエスを信じ、主イエスと父なる神とが一体であられることを信じる者、つまり私たち信仰者は、何を行っていくのか、どのように生きていくのか、です。それを語っているのが、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」というみ言葉です。主イエスを信じて生きる私たち信仰者は、主イエスが行う業を行っていき、また、もっと大きな業をも行うようになるのです。

主イエスの救いのみ業をおし進める
 主イエスが行う業を私たち信仰者も行っていく、それは、主イエスがそのご生涯を通して、とりわけ十字架の死と復活によって実現して下さった救いのみ業を、私たち信仰者がさらにおし進めていく、ということです。と言っても、私たちは主イエスによる救いのみ業に何かを付け加えたり、それをさらに深めたりすることができるわけではありません。私たち自身が主イエスによって救われた者であり、主イエスのみ業なしには滅びるしかなかった者です。その私たちが主イエスの救いのみ業をおし進めることなどはできません。私たちにできるのは、自分に与えられた主イエスによる救いを人々に伝え、証しすることです。神は独り子主イエスを人間としてこの世に遣わして下さり、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を赦して下さいました。つまり神はその独り子をお与えになったほどに私たちを愛して下さったのです。そして神は、十字架にかけられて死んだ主イエスを復活させて、永遠の命を生きる者として下さいました。それは独り子主イエスを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためです。主イエスの十字架と復活によるこの救いにあずかった私たちは、この神の愛を、言葉によって語り伝え、神と隣人を愛する行いによって証ししていくのです。私たち信仰者がそのようにキリストによる救いを宣べ伝え、神と隣人を愛して生きることによって、主イエスによる救いのみ業はおし進められ、さらに多くの人々がその救いにあずかっていくのです。

もっと大きな業
 主イエスは私たち信仰者が「もっと大きな業を行うようになる」ともおっしゃいました。私たちが主イエスよりも大きな業を行うことができるわけはありません。しかし、主イエスを信じ、父なる神を信じ、その愛による救いを信じて生きる信仰者が、主イエスによる救いを宣べ伝え、神の愛を証ししていくことによって、主イエスによる救いのみ業は全世界に伝えられ、広められ、世界中の人々がその救いにあずかっていくのです。主イエスはそのことを指して「もっと大きな業」と言っておられるのでしょう。つまり主イエスはここで、これからこの世に誕生し、主イエスによる神の愛を証ししつつ世の終わりまで歩む、主イエスを信じる者たちの群れである教会のことを見つめておられるのです。12節以下で主イエスが大切なこととして告げておられるのは、主イエスを信じる者たちの群れである教会がこの後誕生し、教会によって救いのみ業がおし進められ、主イエスのみ名が世界中に広められていくという大きな業が行われていくことなのです。

主イエスが父のもとへ行くからこそ
 12節の終わりには「わたしが父のもとへ行くからである」とあります。信仰者たちが、教会が、主イエスのみ業を行い、主イエスによる救いを宣べ伝え、神による救いのみ業が前進していくことは、主イエスが父のもとへ行くからこそ実現するのです。主イエスは今、十字架の死と復活を経て、父なる神のもとに行こうとしておられます。信仰者の群れである教会はそのことによってこそ生まれるのです。主イエスが弟子たちのもとを去って天の父なる神のもとに行かれたがゆえに、教会はこの地上において、主イエスのみ業を行い、それをおし進めていくことができるのです。そのことは何によって実現するのかが13節に語られています。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」。14節にも「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」とあります。主イエスが父のもとへ行かれたからこそ、私たちが主イエスの名によって祈り願ったことが主イエスによって父なる神にちゃんと伝えられ、かなえられるのです。主イエスはここで、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」とさえ言っておられます。それは私たちのどんな我が儘な願いでもかなえてあげる、ということではありません。主イエスや父なる神は、私たちの欲望を実現するための道具ではありません。15節には「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とあります。主イエスによる救いにあずかり、主イエスを愛して生きる信仰者は、主イエスの掟を守るのです。つまり主イエスのみ心に従って生きるのです。だから私たちが主イエスのみ名によって祈り願うのも、自分の欲望をかなえることではなくて、主イエスのみ心に従って生き、主イエスのみ業を行うことです。主イエスによる救いにあずかった者として私たちが歩み、その救いを人々に宣べ伝え、証ししていく者となることを、私たちは主イエスのみ名によって祈り願うのです。その祈り願いを、父のもとに行かれた主イエスが確かにかなえて下さるのです。私たち信仰者が、教会が、主イエスによる救いを世界中に広めていくという「もっと大きな業」を行っていくことができるのは、私たちがそのことを主イエスのみ名によって真剣に祈り求め、その祈りを主イエスがかなえて下さることによってなのです。

最後の晩餐における励まし
 さてこのように12節以下には、主イエスが父なる神のもとに行かれた後、主イエスを信じる者たちの群れである教会が、主イエスのみ業を行っていくこと、それによって主イエスの救いが全世界に広められていくことが見つめられています。この14章は、いわゆる最後の晩餐において主イエスが弟子たちにお語りになったみ言葉です。主イエスはこの晩餐の後捕えられ、翌日には十字架につけられて死ぬのです。それによって主イエスは弟子たちのもとを去って行こうとしておられます。そのことを意識しつつ、主イエスはここで弟子たちに、私はあなたがたのもとを去って行くが、それは父なる神のもとに行くということだ。あなたがたの救いはそのことによってこそ実現する。それによってあなたがたは私を信じる者となり、わたしの業を行っていくようになる。私は父なる神のもとで、あなたがたが私の名によって祈り願うことをかなえてあげる。父なる神と私とのこの支えの中であなたがたは、神による救いを全世界に広めていくという大きな業を行っていくことになるのだ、という励ましを与えておられるのです。

聖霊が遣わされ、教会が誕生する
 この励ましにおいて主イエスはとても大切なことをお語りになりました。それが16節以下です。16節に「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とあります。弟子たちのもとを去って父なる神のもとに行ったら、父にお願いして、弁護者を弟子たちのもとに遣わす、と主イエスは約束して下さったのです。この「弁護者」のことが17節では「この方は、真理の霊である」と言われています。また、「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」とも言われています。つまりこの「弁護者」とは神の霊、聖霊のことです。この後の26節には「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が」とはっきり語られています。主イエスが十字架の死と復活を経て父なる神のもとに行かれた後、主イエスと父なる神のもとから聖霊なる神が遣わされて、弟子たちと共にいて下さるのです。その聖霊のお働きによって、主イエスを信じる者たちは、主イエスのみ業を行い、その救いを全世界へと広めていくことができるのです。その聖霊が「別の」弁護者と言われているのは、主イエスとは別の、ということです。弟子たちのもとを去って父のもとに行かれた主イエスに代わって、聖霊が弟子たちのもとに遣わされ、共にいて下さり、彼らに主イエスの業を行わせ、また「もっと大きな業」を行わせて下さるのです。聖霊が遣わされ、共にいて下さるからこそ、主イエスを信じる者たちは教会となって、主イエスの業を行い、主イエスによる救いを宣べ伝え、証ししていくことができるのです。マタイ、マルコ、ルカ福音書では、主イエスは復活して四十日目に天に昇り、父なる神のもとに行かれました。そしてそれから十日後のペンテコステの日に、聖霊が弟子たちに降って、それによって教会が誕生しました。ヨハネによる福音書は、主イエスの昇天もペンテコステも出来事としては語っていませんが、しかし主イエスが父のもとに行かれた後、父なる神と主イエスから聖霊が遣わされて教会が誕生した、ということをヨハネもこのように語っているのです。

あなたがたのところに戻って来る
 しかしここには、他の三つの福音書とは違う、ヨハネによる福音書に特徴的なことも語られています。それをはっきり示しているのが18、19節です。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。十字架の死と復活を経て、主イエスは弟子たちのもとを去り、父なる神のもとに行こうとしておられます。それによって、弟子たちは間もなく、主イエスを見ることができなくなります。目に見える主イエスに頼ることができなくなるのです。つまり弟子たちは言わば親がいなくなってしまった「みなしご」のようになるのです。しかし主イエスはここで、「あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と言っておられます。父なる神のもとに行かれた主イエスが弟子たちのもとに戻って来て下さるのです。それは基本的には、この世の終わりに主イエスがもう一度この世に来られ、全ての者をお裁きになる、いわゆる「再臨」において実現することです。使徒信条に「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と言われていることです。この世を生きる信仰者たちは、この主イエスの再臨による救いの完成を信じて待ち望んでいるのです。日本基督教団信仰告白に「主の再び来りたまふを待ち望む」と言われていることです。つまり主イエスが戻って来るのは基本的には世の終わりの救いの完成におけることであるわけですが、ヨハネ福音書に「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」とあるのは、別の弁護者である聖霊が遣わされ、聖霊が弟子たちと共におり、彼らの内にいて下さることによって与えられる恵みのことです。つまりヨハネ福音書は、聖霊が遣わされることにおいて、父なる神のもとに行かれた主イエスが弟子たちのもとに戻って来て下さり、共にいて下さるということ、聖霊によって教会は主イエスが共にいて下さることを体験し、その力強い支えの中で、主イエスのみ業を行っていくことができるのだ、ということを語っているのです。

聖霊による、再臨の先取り
 主イエスが戻って来て下さるのは聖霊によってですから、その主イエスのお姿は人々の目には見えません。しかし聖霊を受け、聖霊が内にいて下さる弟子たちは、聖霊が与えてくださる信仰によって主イエスを見ることができるのです。そしてその主イエスが彼らを力づけ、生かして下さるのです。そのことを語っているのが19節の「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」というみ言葉です。教会は、私たちは、聖霊のお働きによって、復活して天に昇り、父なる神のもとに行かれた主イエスが戻って来て下さり、共にいて下さることを体験し、主イエスによる慰めと励まし、力づけを受けて、神の救いのみ業の前進のために仕えていくのです。天に昇った主イエスは父なる神のもとで、私たちの祈りをかなえて下さっています。そして世の終わりにもう一度来て下さり、救いを完成して下さいます。しかしそれは逆に言えば、世の終わりまで、私たちの救いは完成しない、ということです。この世における私たちの歩みには罪や弱さがあり、苦しみ悲しみがあり、時として、主イエスに見捨てられ、独りぼっちのみなしごになってしまったように感じることもあります。そのような私たちのために、聖霊なる神が遣わされ、共にいて下さるのです。聖霊のお働きによって私たちは、地上を歩みながら、天におられる主イエスとの確かな交わりを与えられるのです。言ってみれば、世の終わりの救いの完成における主イエスの再臨を先取りして体験させていただくのです。その体験によって、主がもう一度来られることを信じて待ち望む信仰を確かにされていくのです。

父と子の関係に私たちも加えられる
 20節には「かの日には」とありますが、それも、聖霊が遣わされる時には、ということです。聖霊が与えられる時には、「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」のです。主イエスが父の内にいる、それは父が主イエスの内にいるということとセットで語られていた、主イエスと父なる神とは一体である、という関係を指しています。そのことを信じなさい、と主イエスは言っておられたわけですが、聖霊が遣わされることによってこそ私たちは、父なる神と主イエスとが一体となって私たちに救いを与えて下さっていることが分かるようになるのです。そしてそれと同時に、「あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」ということも分かるようになるのです。私たちが主イエスの内におり、主イエスが私たちの内にいて下さる、それほどに、主イエスと私たちが一つにされるのです。父なる神と主イエスとの間にある一体の関係が、主イエスと私たちの間にも与えられるのです。父なる神と主イエスとの一体である関係の中に、私たちも加えていただける、と言ってもよいでしょう。聖霊なる神が私たちの内に働いて下さることによって、私たちはそういう恵みを味わい知るのです。父と子と聖霊とが一体である三位一体の神が、私たちとも一体となって下さるのです。主イエスが父なる神のもとから遣わして下さる聖霊は私たちの内でそのような働きをして下さるのです。

主イエスの名によって真剣に祈ろう
 私たちは、教会は、この聖霊のお働きによって、主イエスのみ業を行い、それを伝えていく者として召され、遣わされています。今多くの人々がウイルスによる不安と恐れの中にあり、交わりを失った孤独の中で生きる意味や希望を見失っています。その人々に、独り子の命すらも与えて下さり、私たちに永遠の命を与えて下さる神の愛を証しし、伝えていくことが私たちの使命です。私たちがその使命を果たすことを主イエスの名によって祈り願うなら、主はその祈りをかなえて下さり、今よりもっと大きな業を、聖霊の力によって行わせて下さるのです。

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