主日礼拝

初めに言があった

「初めに言があった」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 創世記 第1章1-5節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第1章1-5節
・ 讃美歌:10、143、360

独特な福音書
 本日より、主日礼拝において私が説教をする日には、ヨハネによる福音書からみ言葉に聞いていきます。新約聖書には四つの福音書があり、ヨハネは四つ目ですので、第四福音書とも言われます。この第四の福音書は、他の三つの福音書とはかなり違ったものになっています。マタイ、マルコ、ルカの三つは、主イエス・キリストのご生涯を、大きく見ればほぼ同じ流れで語っていますし、共通する記事も多くあります。そのためにこの三つは並べて比較しながら読むことができます。そういう意味でこの三つを「共観福音書」(共に観る)と言います。しかしヨハネによる福音書が語っている主イエスのご生涯の流れは、他の三つとはかなり違いますし、他の三つの福音書には語られていない話も沢山出て来ます。他の三つとは毛色の違う、独特な福音書です。そこに、この福音書の面白さと難しさがあります。そしてさらに言えることは、聖書にこの第四の福音書が入っていることによって、主イエス・キリストについての、また主イエスによる救いについての私たちの理解と認識は、大きな広がりと深まりを与えられている、ということです。聖書からもしもこの福音書が無くなってしまったとしたら、失われるものはまことに大きいのです。

ヨハネ福音書の目的
 さてヨハネによる福音書は全部で21章から成っていますが、元々は20章で終わっていて、21章は後からつけ加えられたと考えられます。元々のしめくくりだった20章の終わりのところに、この福音書が書かれた目的が語られています。20章31節です。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。ヨハネ福音書はこのために書かれたのです。これを読んだ人が、イエスは神の子メシアであると信じて、その信仰によって命を受ける、つまり救われる、そういう明確な目的をもってこの福音書は書かれているのです。これからこの福音書を読んでいく私たちも、この目的を最初にしっかりと見据えておきたいと思います。そのことが、この福音書を理解するための良い導きとなるでしょうし、またこの目的をしっかり意識していれば、とんでもなく間違った読み方に陥ってしまうことはないでしょう。

謎のような言葉
 さて本日はこの福音書の冒頭のところを読むのですが、この最初のところからして、この福音書の独自性が遺憾無く発揮されています。四つの福音書それぞれの最初のところを比べてみると、そこにそれぞれの特徴が現れていて面白いと思います。マタイは、アブラハムから主イエスに至るあの長々とした系図から始まっています。マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と、まさに直裁に福音の始まりを語っています。ルカは、この書を献呈する相手への挨拶から始まっています。それに対してヨハネ福音書は、「初めに言があった」という謎のような言葉から始まっているのです。ヨハネ福音書の謎めいた性格がこの冒頭の文章に現れています。この福音書にはこのように、そのままではよく分からない、謎めいた語り方が沢山出てきます。他の三つの福音書が、主イエス・キリストのご生涯を物語っているのに対して、ヨハネ福音書は、そのご生涯の深い意味や、そこに隠された神のみ心を謎のような言葉で証ししているのです。だからこの福音書は、物語を読むように読み進めることができません。謎のような言葉を読み解いていくことが求められるのです。そこに難しさがありますが、しかしだからこそこの福音書を読むことによって、主イエス・キリストのご生涯の本当の意味と、主イエスによって実現した神の救いの恵みの大きさ、深さに触れることができるのです。 万物は言によって成った
 「初めに言があった」というのは謎のような言葉だと申しましたが、その謎は、1節の続きを読んでいくことによって少しずつ解きほぐされ、語られていることが見えてきます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と言われています。初めにあった言は、神と共にあり、それ自身が神であったのです。神と共にあり、それ自身もまた神である言、それが誰のことを言っているのかは、14節を読むことによってはっきりします。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。神と共にあり、それ自身が神である、初めにあった言、その言が肉となって私たちの間に宿られた。それは神の独り子イエス・キリストのことです。その栄光は父の独り子としての栄光だったと言われていることからもそれは分かります。初めにあった言とは、神の独り子であられる主イエス・キリストのことなのです。なぜ主イエスのことが「言」と言われているのか、それがこの箇所において最も大切な問題ですが、それについては後で考えたいと思います。ここで先ず確認したいのは、ヨハネ福音書が、神の子である主イエスが、全てのものの初めに、父である神と共におられたと語っていることです。2節にはもう一度、「この言は、初めに神と共にあった」と繰り返されています。そして3節には、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあります。父なる神と共におられた独り子主イエス、「言」であるその方によって、この世の全てのものは成ったのです。「成った」とは「創造された」ということです。父と共におり、ご自身も神であられる独り子主イエスによって、この世の全てのものは造られた、主イエスは、全てのものをお造りになった創造者なる神であられる、ということをこの福音書は語っているのです。

創造のみ業に関わっておられたみ子
 それは、天地をお造りになったのは父なる神ではなくて独り子主イエスだ、ということではありません。天地を創造なさったのは勿論父なる神です。しかしそこにはその父なる神と共に、まことの神であられる独り子主イエスがおられ、その創造のみ業に共に関わっておられたのです。独り子主イエスの関わりなしに成ったものは何一つないのです。後に肉となって私たちの間に宿って下さり、人間となってこの世を生きて下さった主イエス・キリストは、世の初めにおいて、父である神と共におられ、ご自身もまことの神として天地創造のみ業に関わっておられた、それが、この福音書が宣べ伝えようとしている「イエスは神の子メシアである」と信じる信仰なのです。それと同じ信仰を語っているのが、コロサイの信徒への手紙の第1章15節以下ですので、そこを読んでみたいと思います。 「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」。この17節の「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」という文章の「御子」を「言」と言い替えれば、「初めに言があった」というヨハネ福音書の冒頭の言葉になるのです。

世の初めからおられるまことの神イエス
 このようにこの福音書は、御子イエス・キリストがまことの神である、という主イエスの本質ないし正体を語り示そうとしています。それが「イエスは神の子メシアである」と信じる信仰なのです。その信仰へと導くために、すべてのものよりも先の「初め」における神による天地創造に主イエスが関わっておられたことを読者に見つめさせようとしているのです。「初めに」という言葉は、創世記第1章1節の「初めに神は天地を創造された」を当然意識させます。神による天地創造こそが、聖書が語るこの世界の「初め」です。その「初め」に、独り子である主イエス・キリストが既におられ、まことの神として創造のみ業に関わっておられたのです。このことによって私たちは、主イエス・キリストが、地上を人間として歩まれた方だっただけでなく、世の初めからおられるまことの神であられ、天地をお造りになった方であられることを示されます。それが、ヨハネ福音書が語ろうとしている主イエス・キリストの本質ないし正体です。この福音書によって私たちの主イエス・キリストについての理解と認識が広められ、深められると先ほど申しましたが、それはまさにこのことなのです。

天地創造のみ業に隠されている主イエス
 このようにこの福音書は冒頭において、この世の初めの神による天地創造のみ業の中に、主イエス・キリストのお姿を見ています。主イエスのお姿は天地創造のみ業の中に直接的に現れてはいません。創世記の冒頭のところに、主イエスは勿論登場してはいないのです。しかし、隠された仕方で、そこには主イエスのお姿が示されている、というのがこの福音書の洞察です。その洞察の鍵となっているのが「言」なのです。先程、創世記第1章の1-5節が朗読されましたが、神による天地創造は、神が「光あれ」と言われたことから始まっています。神が「光あれ」と言われると「光があった」のです。その後も同じように、神が語られるとそのものが存在するようになった、という仕方で天地創造のみ業が進んでいきます。つまり神は、言葉によってこの世界を創造なさったのです。天地創造のみ業において「言」は決定的に重要な意味と役割を、あるいは力を持っているのです。ヨハネ福音書1章3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあるのは、この創世記の記述を受けてのことだと言えるでしょう。天地創造は、神が言によってなされたみ業なのです。

言葉による天地創造の意味
 そもそも、神はなぜあそこで「光あれ」と言われたのでしょうか。誰かそれを聞いている人がいるわけではありません。「光あれ」という神の命令に従って誰かが光を造ったのではありません。だから別に言葉を語らなくても、ただ黙って光を造ってもよかったはずです。そして聖書の記述も、「神は光をお造りになった」だけでもよかったはずです。しかし聖書は敢えて、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」と語っているのです。それは、ここで語られた「言」が決定的に重要な存在だからです。神が言を語ることによってこの世界をお造りになった、それは、神がお語りになったその言は、光を始めあらゆるものを存在せしめ、神の似姿である人間をも造り命を与える、そのような力ある存在なのだ、ということです。その言をヨハネ福音書は、初めに神と共にあり、それ自身が神であり、万物はそれによって成った、人格的な存在である「言」として受け止め、そこに、神の独り子イエス・キリストを見ているのです。神は言によってこの世界をお造りになったという創世記の記述は、初めに神と共にあり、ご自身が神である「言」が天地創造のみ業を担っていたということを示しているのであって、その「言」が肉となり、この地上を人間として生きて下さったのが主イエス・キリストなのだ、とこの福音書は語っているのです。このことはひっくり返して言うと、主イエス・キリストは、神が天地創造においてお語りになり、全てのものを存在させ、人間に命を与えた「言」、ご自身が生きておられる神である「言」なのだ、ということです。このことを信じることが、「イエスは神の子メシアであると信じる」ことなのです。

語りかけておられる神
 「言」による天地創造とか、主イエスの正体は「言」だというのは何だかややこしい難しい話ですが、その根本は、天地創造においても、独り子である主イエス・キリストにおいても、神が私たちに語りかけておられる、ということです。言葉というのは必ず語られる相手があるものです。その相手が目の前にいるとは限りませんが、言葉は必ず誰かに向けて語られているのです。先ほど、天地創造における神の言葉は誰も聞いている者がいなかったと申しましたが、実はそれは、私たち人間に対して語られたみ言葉なのです。神が「光あれ」と語られたのは、私たちが生きるために不可欠な光を神が造り与えて下さる、その恵みのみ心を私たちに対して告げ示して下さっている、ということです。ですから天地創造における神の言葉は、虚しい空間に向かって語られたのではありません。神は言葉によって天地をお造りになることによって、私たち人間が生きることのできる場としてこの世界を整えて下さるという恵みのみ心を私たちに示し、語りかけて下さったのです。そして神は言葉によって私たち人間を造り、命を与えて下さることによって、私たちを、神の言葉を聞き、それに応答して生きる者として、つまり神と交わりをもって生きる相手として立てて下さったのです。
 このように、初めに神が天地を創造された時から、神は言葉によって私たちに語りかけておられたのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」というヨハネ福音書1章1節はそのことを言い表しているのです。そしてその「言」が、肉となってこの世に来られ、一人の人間として生きて下さった、それが主イエス・キリストです。主イエスが人間となってこの世を生きて下さったことによって、神は私たちに語りかけておられ、恵みのみ心を告げ知らせて下さっています。そして私たちを、その語りかけに応えて神と共に生きる者となることへと招いておられるのです。

神の言葉に応答しないことが罪の根本
 神は天地創造において既に私たちに語りかけておられ、恵みのみ心を示して下さっています。しかし最初の人間アダムとエバ以来、私たちはその神の語りかけをきちんと受け止めていません。神のみ言葉を聞こうとせず、それに応えようとせず、神と共に生きようとしない、神との交わりを重んじることなく、神なしに生きようとしているし、神なしに生きることができると思っているのです。それが私たちの根本的な罪です。私たちの歩みには様々な問題があり、苦しみ悲しみがあります。それらの問題の多くは、互いに愛し合うことができずに、傷つけ合ってしまう私たちの罪や弱さによって生じていることです。それらの具体的な様々な罪の根本にあるのは、私たちが、神からの語りかけに耳を傾けていない、神の言葉に応答していない、神との交わりに生きていない、ということです。神の言葉を聞くことを失ってしまったことによって、私たちは暗闇に陥っているのです。

「言」である主イエスによる救い
 そのような罪の暗闇の中にいる私たちへの神からの語りかけとして、独り子イエス・キリストが遣わされました。この独り子こそ、初めに神が天地を創造された時に、父なる神と共におられた、ご自身もまことの神である方であり、神がその恵みのみ心によってこの世界と人間を造って下さった、その創造のみ業に関わっておられた、神の「言」なのです。この方が、この世界に、私たちのところに来て下さって、私たちの救いのためのご生涯を歩んで下さったのです。その神の「言」としての主イエスのご生涯を語っているのがこのヨハネ福音書です。主イエス・キリストが人間となってこの世を生きて下さったことによって、神の言は、つまり罪人を救って下さる恵みのみ心は、ただ告げ知らされただけでなくて、具体的な現実となりました。主イエスはそのご生涯の全体において、神の言葉を、神の恵みのみ心を、語るだけでなく生きて下さったのです。主イエスのご生涯の全体が、神の言、神から私たちへの、恵みの言葉の語りかけなのです。この福音書の3章16節に、よく知られた、またこの福音書のメッセージを凝縮したような言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエスという「言」が私たちに語りかけているのはこの神の愛です。その愛のみ心を実現するために、ご自身がまことの神であり、天地創造に関わっておられた主イエスが、神に背き逆らい、み言葉に応答しない私たち罪ある人間のところに来て共に生きて下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はその主イエスを復活させて、新しい命、永遠の命を生きる者として下さいました。主イエスの復活において、神の恵みのみ心が、人間の罪と死とに勝利したのです。この福音書の元々の締めくくりだった20章の後半にはトマスという弟子のことが語られています。彼は、仲間の弟子たちから主イエスの復活を告げられても、信じようとしませんでした。しかしそのトマスの前に、復活した主イエスが現れて下さり、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけて下さいました。トマスはその主イエスの語りかけに応えて、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白しました。彼はそのようにして、イエスは神の子メシアであると信じて、イエスの名による命を受けたのです。この福音書によって私たちも、神の「言」であられる主イエスとの出会いを与えられます。そして復活して今も生きておられる主イエスからの、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という語りかけを聞くのです。礼拝においてこの福音書をこれからご一緒に読んでいきます。そのことを通して、「言」である主イエスが私たちに出会って下さり、共に歩んで下さり、語りかけて下さることを信じ、願い、期待したいと思います。そして私たちが、主イエスの語りかけに応えて、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰を言い表し、イエスは神の子メシアであると信じてイエスの名による命を受けることを願い求めていきたいと思います。

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