主日礼拝

人は何によって生きるか

「人は何によって生きるか」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編第39編1-14節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第12章13-21節
・ 讃美歌:7、51、483

割り込んで来た人
 イエス・キリストのもとに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった、とルカによる福音書の第12章1節に語られています。サッカーの日本代表が帰国するとか、人気絶頂のアイドルが来るところには、このように、足を踏み合うほどの群衆が集まります。主イエスもこの時は、それと同じように大ブレイク中だったのです。そのようにつめかけていた群衆の中の一人が主イエスに声をかけた、というのが本日の箇所のお話です。
 先週もお話ししましたが、主イエスはこの大群衆に囲まれながら、まず弟子たちに対して話し始められた、と1節の続きにあります。12節までは、弟子たちに対して語られたお言葉です。群衆たちはある意味で放っておかれているのです。本日の箇所は、その群衆の中のある人の願いに主イエスが答えておられる話ですが、その次の22節からはまた、「それから、イエスは弟子たちに言われた」とあって、また弟子たちへの話になっています。群衆に対する言葉は54節に至って初めて語られるのです。つまり本日の箇所は、主イエスが弟子たちに対して話しておられる中に群衆の中のある人が割り込んできた、という構造になっています。

律法の教師との違い
 この人は主イエスに、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と願いました。主イエスにこんな財産の問題を願うなんてお門違いだと思うかもしれませんが、しかしこれは当時の人々の感覚からすれば当然のことだったのです。ラビと呼ばれていた当時のユダヤ人の間の宗教的指導者は、律法を教える者であり、律法に基づいて人々の生活の指導をしていました。彼らはこのような民事訴訟的な事柄、財産問題なども律法に基づいて指導し、もめ事の調停をしていたのです。主イエスもそういうラビの一人と考えられていましたから、このようなことを願い出るのは普通のことであり、またそれはこの人が主イエスをラビとして信頼していることの印でもあるのです。しかし主イエスはこの求めを、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言って退けました。この一見冷たいお言葉を誤解してはなりません。これは、「こんなつまらない、下らないことで私を煩わすな」ということではありません。主イエスはこのお言葉によって彼に、ご自分の働きとラビたちの働きとの違いを示そうとしておられるのです。ラビたちは、律法に基づく生活の仕方を教え、もめ事を調停する裁判官や調停人の役割を果していました。つまり人々の生活のニードに答え、便宜をはかる働きをしていたのです。しかし主イエス・キリストのお働きはそのようなものではありません。私たちが、自分の生活におけるいろいろな問題の手っ取り早い解決を求め、何らかの便宜をはかってもらおうとして主イエスのもとに来るなら、主イエスは同じように、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言って私たちの求めを退けるのです。

それは貪欲か?
 しかし主イエスは、彼の願いを退けてそれでおしまいにはなさいませんでした。続けて群衆一同に向かって、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と語られたのです。「そんな要求には応じられない」と冷たく断るだけではなくて、逆に彼らに一つの教えを、というよりも問いかけをお与えになったのです。この文脈の中でこの言葉が語られた時、そこに出てくる「貪欲」とは、「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」という彼の願いを指していることになります。そのように願うことは注意して退けるべき貪欲だ、と主イエスはおっしゃったのです。これは教えと言うよりも一つの厳しい問いかけです。あなたの心は貪欲に支配されているのではないか、と主イエスは問いかけておられるのです。
 そう言われた彼はおそらく心外だったでしょう。「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と願った彼がどのような状況にあったのか、正確には分かりませんが、想像できることは、「兄弟」と言われているのが長男であり、彼は次男以下の立場だったのだろうということです。当時のユダヤの遺産相続においては、長男が父の家や財産を受け継いで家督を継ぎ、次男以下は何がしかの分け前をもらう、ということだったようです。つまり遺産を受け継いだ長男は弟である彼に、彼の取り分を与える義務があるのです。この人からすればそれを受け取ることは自分の正当な権利です。その正当な取り分を兄が渡してくれないので彼は主イエスにあのように願ったのだと思われます。そうだとすれば彼は別に貪欲なことを言っているわけではない。貪欲なのは兄の方であって、彼はむしろその貪欲の犠牲者なのです。その彼が自分の正当な取り分を得たいと願うことが「貪欲」と呼ばれてしまうのは納得がいかない、と彼ばかりでなく私たちも思います。主イエスは私たちに、自分が本来受け取るべき正当な取り分も求めてはならない、それは貪欲だ、と教えておられるのでしょうか。

貪欲とは
 その問いを抱きつつ、次のお言葉を読んでいきたいと思います。主イエスは続いて「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」とおっしゃいました。これが、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」という教えの根拠なのです。ここのつながりを理解することが、本日の箇所を理解するための鍵となります。「貪欲に用心しなさい」という教えを私たちは普通、自分の正当な取り分以上にあれもこれもと求めることへの戒めと理解します。貪欲とは、自分に与えられているものを越えて、もっともっとと求め、そのために人のものを奪ったりすることだと思っているのです。だから、自分の正当な取り分を求めることは貪欲ではない、と思うわけです。ところが主イエスは、「貪欲に用心しなさい」に続いて、「有り余るほどのものを持っていても、人の命はそれによってどうすることもできないのだ」とおっしゃいます。「貪欲」を先ほどのように、自分の分を越えて欲しがること、と理解していたのでは、ここはつながりません。人の命はその人が持っているものによってどうすることもできないということと、自分の正当な取り分を越えて求めることとは関係がないからです。ここで私たちは、「貪欲」という言葉の意味について、大胆な発想の転換を求められます。主イエスがここで「貪欲」と言っておられるのは、自分の正当な取り分を越えて欲しがることではなくて、自分が持っているものによって自分の命を得ることができる、生きることができると思っていることなのです。

人生を決定づけるもの
 「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」というお言葉は、どんなに豊かな財産を持っていても、その財産によって命を買い取ることはできない、私たちの人生を決定づけるものは財産ではない、ということを語っています。「財産」と訳されている言葉は前の口語訳聖書では「持ち物」となっていました。ここは直訳すると「何かが有り余るほどあっても」となります。つまりそれはお金という意味での財産だけの話ではないのです。私たちが、それがあることによって人生が決定づけられると思っているものはお金だけではないでしょう。能力、才能も一種の財産です。健康や体力もそうです。美貌とかスタイルもそこに入るかもしれません。それらを有り余るほど持っていたら、人生どんなによいだろうか、と私たちは思います。また私たちは、それぞれに与えられている環境や状況によっても人生を左右されます。家庭環境や職場の状況、生きている時代の状況などにおいても、恵まれている人もいればそうでない人もいる。そういう点においても、豊かに持っている人と持っていない人の違いを感じるのです。しかし主イエスはここで、それらのものを有り余るほど持っていても、それによって人の命、人生が決定づけられることはない、と教えておられるのです。そして、それらのものによって命が、人生が決定づけられると思ってそれらを求めることを「貪欲」と言っておられるのです。この人は、自分の正当な取り分を超えて何かを求めていたわけではありません。しかし、遺産を受け継いでそれによって自分の人生を築いていこうとしているという意味において、主イエスの言っておられる貪欲に陥っているのです。ということは、私たちは誰もが皆、貪欲に陥っていると言わなければならないでしょう。私たちは、自分の分を超えて人のものまで欲しがったり、奪い取ったりはしていないかもしれませんが、しかし自分が何を持っているかによって人生が決定づけられるとは思っています。生まれつき与えられているものであれ、努力して獲得したものであれ、自分が持っている広い意味での財産に依り頼んで人生を築こうとしています。主イエスはそれを、「貪欲」と呼んでおられるのです。あなたの心はそういう貪欲に支配されているのではないか、と主イエスは私たち一人一人にも問いかけておられるのです。

人生の空しさ
 そして主イエスは一つのたとえ話を語られました。従来の倉を取り壊してより大きな倉を建てなければならないほどの有り余る収穫を得た金持ちの話です。収穫を全部しまいこんだ彼は自分自身に「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と言いました。しかし神様は彼に「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか」とおっしゃったのです。この話は、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」という教えを具体化したものです。「これから先何年も生きて行く」つもりでいる人が、その日の内に、突然の病で、あるいは事故で、命を失うということがあります。明日自分が生きているかどうかを、私たちは知ることができません。どんなに豊かな財産を蓄えても、それで死を免れることはないし、突然死んでしまったら、その財産は誰か他の人のものになってしまうのです。先ほど詩編第39編が読まれましたが、その6、7節にこうあります。「御覧ください、与えられたこの生涯は/僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも/すべて空しいもの。ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし/だれの手に渡るとも知らずに積み上げる」。あくせく働いて財産を積み上げても、それが誰の手に渡るのか私たちは実は知らない、というこの詩とこのたとえ話は通じるものがあります。人生の空しさ、はかなさを歌うこの詩と同じ響きが、このたとえ話にも流れていることを私たちは感じるのです。

愚かな者
 神様はこの金持ちのことを「愚かな者よ」と言っておられますが、彼のどこが愚かだったのでしょうか。明日生きているかどうか分からないという人生の空しさを知らず、あくせく働いてだれの手に渡るとも知らずに積み上げてしまったことが愚かだったのでしょうか。だとしたら、愚かでなく賢く生きるとは、いつ死ぬか分からないのだからそんなにあくせくせず、その日その日を楽しく生きていくことなのでしょうか。そうではありません。彼が愚かだったのは、自分が得たもの、蓄えたものによって命を得ることができる、生きることができると思ったことです。持っているものによって人生が決まると思ったことです。つまり、貪欲に陥ったことです。愚かな者でなく賢い者となって生きるとは、この貪欲から解放されることなのです。それは言い換えれば、自分が持っているもの、得たものによって人生が決まるという迷信から解放されることです。どうしたら、これが迷信であることを知ることができ、そこから解放されるのでしょうか。それは、私たちの人生を本当に決定づけるものが何であるかを知ることによってです。私たちの人生を本当に決定づけるもの、それは、私たちのものとして蓄えられる何かではなくて、私たちに命を与え、人生を導き、そしてそれを終わらせられる神様です。自分に命を与え、それを終らせる神様がおられることを知ることによってこそ私たちは、自分が何を持っているかによって人生が決まるというのが迷信であることを知ることができるのです。そして、少しでも多くのものを持とうとあくせくする貪欲から解放されるのです。
 主イエスはこのたとえ話で、私たちの目を、私たちに命を与え、人生を導き、そしてそれを終わらせられる神様へと向けさせようとしておられます。「今夜、お前の命は取り上げられる」という言葉にそれが現れています。彼は命を失うのではなくて、取り上げられるのです。それは、彼から命を取り上げる方がおられることを示しています。肉体の死は、命を失うことではなく、神様によってそれを取り上げられることなのです。そこに、私たちの命が、神様によって与えられ、生かされているものであることが示されています。この金持ちはそのことを見つめていなかったのです。彼は、自分の命、人生が、神様によって与えられ、導かれ、そして取り去られることを本気で考えていません。人生を決めるのは神様との関係ではなくて、自分が得たもの、蓄えたものだと思っているのです。だからその蓄えが豊かに得られた時、これで何年も生きていけると安心したのです。神様を抜きにして人生の計画を立てられると思ったのです。それが彼の愚かさであり、貪欲だったのです。

神の恵みに信頼して
 主イエスが私たちに教えて下さっているのは、私たちに命を与え、それを日々導き、そしてお定めになった時にそれを取り上げられる神様がおられることです。しかもその神様は、いつどんなひどいことをするか分からない得体の知れない恐ろしい方なのではなくて、私たちを本当に愛して下さっている天の父だということです。そしてその天の父なる神様の愛は、私たちの人生の終わりである死においても失われてしまうことはない、ということです。私たちは、明日の朝生きているかどうかを誰も知りません。それゆえに、「今夜、お前の命は取り上げられる」というお言葉は、私たち皆に対して語られています。しかしそれをどう聞くかは、信仰のあるなしによって天と地ほども違うのです。天の父なる神様が人生の主であられることを知らず、この神様との関係を持たずに生きている者にとっては、これは恐ろしい言葉、人生の空しさを思わせる言葉でしょう。しかし、私たちを本当に愛して下さっている父なる神様を知っている者は、この言葉を恐れずに聞くことができます。そこにも神様の父としての恵み、守り、導きがあることを知っているからです。そのことを私たちは、主イエス・キリストのご生涯全体を通して、とりわけ十字架の死と復活によって知らされています。神様は、独り子である主イエスを、私たちと同じ人間としてこの世に遣わし、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって罪を赦し、私たちをも子として下さいました。そこに、罪人である私たちへの神様の愛がはっきりと示されています。そしてさらに父なる神様は、十字架にかかって死んだ主イエスを三日目に復活させて下さいました。そのみ業によって、死んでしまえばそれでおしまいなのではなくて、その先に、神様が死に勝利して与えて下さる新しい命があることを示して下さったのです。この主イエス・キリストの十字架の死と復活における神様の父としての愛を見つめている私たちは、たとえ今夜、自分の命が取り上げられるとしても、父なる神様の愛、恵みが自分をしっかりと捕えていること、そして肉体の死の彼方になお神様の恵みによる復活と永遠の命が約束されていることを信じることができるのです。そしてそれゆえに私たちは、たとえ今夜命が取り去られるとしても、今日、自分に与えられている務めをしっかりと果たし、その実りを神様に委ねることができるのです。ですから私たちは「今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか」という言葉を、人生の空しさを語る言葉として読むのではありません。明日生きているかどうか分からないという現実は、私たちに空しさや絶望を与えるのではなくて、父なる神様の恵みに信頼して、明日のことを神様にお委ねして、今日を精いっぱい生きることへの促しとなるのです。このことは、この後の22節以下に語られていく教えへとつながっていきます。

神の前に豊かになる
 本日の箇所の最後の21節に「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とあります。「このとおりだ」と言われているのはこの愚かな金持ちです。彼は自分のために富を積んだが、神の前に豊かにならなかったのです。神の前に豊かになるとはどういうことでしょうか。私たちはこれをともすれば、神様に喜ばれるようなよい行いに励むこと、善行を天に積むこと、と理解しがちです。神様の前に自分のよい行いを積み上げる、という感覚です。しかし「神の前に」と訳されているところは直訳すると「神の中へと」「神に向かって」となります。それは神様との関係を意識した言葉です。この金持ちが愚かだったのは、善行を積まなかったからではなくて、神様との関係を確立して生きようとしなかったからなのです。「自分のために富を積んだ」というのも、「自分自身へと」という言葉です。自分の持っているものによって生きることができると考え、自分自身へと富を積んだのです。それが貪欲です。その貪欲こそが彼の愚かさでした。本当に必要なのは、神の前に豊かになること、つまり神様との関係における豊かさをこそ求めることです。その豊かさは、私たちの良い行いによって得られるものではありません。それは私たちが積み上げ、蓄える豊かさではなくて、神様が、主イエス・キリストによって与えて下さる恵みの豊かさです。神の前に豊かになるとは、主イエス・キリストによって、その十字架と復活によって与えられた神様の救いの恵みを信じ、それにあずかって生きることです。そこに、貪欲から解放された新しい生き方が生まれるのです。

本当に賢い者
 貪欲から解放されて新しく生きるなら、私たちは、愚かな者ではなく、本当に賢い者となります。本当に賢い者として生きるとは、主イエスを、自分の生活のニードに答え、便宜をはかってくれる裁判官や調停人にしてしまうことなく、むしろ主イエスからの問いかけをいつもしっかりと受けて生きることです。つまり自分の生活を守るために主イエスを利用するのではなく、主イエスによって自分の生活を変えられていくのです。どう変えられるのか。根本的なことは、人は何によって生きるか、についての考え方が変わるのです。自分が持っているもの、蓄えているものによって人生が決定づけられるという迷信から解放され、私たちに命を与え、それを養い育み、そしてそれを取り去られる父なる神様と共に生きる者となるのです。その根本的な変化によって、日々の生活もまた変わっていきます。ここに具体的に示されている一つのことは、自分の正当な権利を主張することにも疑問を持つようになる、ということです。主イエスはここで、自分の正当な取り分を得ることをいけないと言っておられるわけではありません。しかしその時に、自分は何によって生きているのか、生きようとしているのか、自分の持っているものに依り頼んでいるのか、それとも父なる神様の恵みに信頼し依り頼んでいるのか、ということを常に振り返ることを求めておられるのです。そこには、自分に与えられているものを、自分の倉にしまいこむだけでなく、兄弟姉妹のために、隣人のために用いていくという生き方が与えられます。貪欲から解放されるとはそういうことです。それこそが、本当に賢い生き方、自分のために富を積むのではなく、父なる神様の恵みによって豊かになって生きることなのです。

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