「主イエスについて行けるか」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第130編1-8節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第13章31-38節
・ 讃美歌:132、518
最後の晩餐
ヨハネによる福音書の13章から17章には、主イエスと弟子たちとの、いわゆる「最後の晩餐」のことが語られています。主イエスがどのような思いでこの晩餐の席に着かれたのかが、13章1節に語られていました。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た」、つまり十字架の死と復活によって、この世を去って父なる神のもとに行く時がいよいよ来たのです。そのことをはっきりと意識しつつ主イエスは弟子たちと最後の夕食をとられたのです。そこで主イエスが真っ先になさったのは、弟子たち一人ひとりの足を洗う、ということでした。弟子たちをこの上なく愛し抜かれた主イエスのお姿がそこにあります。このことは、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪を赦し、清めて下さるという救いのみ業を象徴的に指し示しています。主イエスは弟子たちの前に跪いて、泥だらけの足を洗って下さいました。それと同じように、十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪をご自分の身に引き受け、身代わりとなって死んで下さったのです。主イエスはご自分の命を与えて下さるほどに、私たちのことをこの上なく愛し抜いて下さっているのです。
主イエスと父なる神の栄光
主イエスに足を洗っていただいた弟子たちの中には、主イエスを裏切るイスカリオテのユダがいました。主イエスはユダが裏切りの思いを抱いていることを知りつつ彼の足をも洗って下さったのだし、彼がその思いを捨ててご自分のもとに留まることを願いつつ語り掛けられました。しかしユダは主イエスの思いを受け止めることなく、この晩餐の席から、外の闇の中へと出て行きました。そのことが、前回読んだ最後のところ、30節に語られていたのです。本日はその続きの31節からです。その冒頭に「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」とあります。主イエスの愛にもかかわらず、ユダの裏切りが決定的となり、去って行った、そのことを受けて、主イエスはこう語られたのです。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」。「人の子」とは主イエスご自身のことです。ユダの裏切りによって、主イエスの十字架の死への歩みが今や具体的に始まりました。そのことによって今や私は栄光を受けた、と主イエスはおっしゃったのです。十字架の死とそれに続く復活によって、主イエスは神の独り子としての栄光をお受けになり、本来の居場所である父なる神のもとに行かれるのです。そのことが決定的となったので主イエスは、「今や、人の子は栄光を受けた」と、既にそのことが起ったようにお語りになったのです。同時にここには、このことによって父である神も栄光をお受けになった、と語られています。主イエスが十字架と復活によって神の子としての栄光をお受けになることによって、父なる神も栄光をお受けになるのです。それは、主イエスの十字架と復活による救いは、独り子主イエスをお遣わしになった父なる神のみ心によることだからです。だから主イエスが救い主としての栄光をお受けになることによって、父なる神も栄光をお受けになるのです。さらにここには、父なる神が人の子主イエスに栄光をお与えになる、しかも、すぐにお与えになる、と語られています。この「すぐに」は、十字架にかかって死なれる主イエスを、父なる神が、すぐに、三日目に、復活させて下さることを言っていると思われます。十字架の死に続いてすぐに復活が起り、主イエスによる救いが実現するのです。ユダの裏切りによって主イエスの十字架の死への歩みが始まった今、主イエスの復活による救いも「すぐに」実現するのです。
いましばらく
この「すぐに」との関連で見つめたいのが、次の33節の「いましばらく」という言葉です。これも「あと少しで」という言葉ですから、「すぐに」と同じような意味だと言えます。しかし「すぐに」がそれこそすぐに実現する、という近さを表しているのに対して、「あと少しで」という言葉は、まだあと少し間があることを意識させます。「いましばらく」という訳はその意味で適切です。「いましばらくかかる」のです。その「いましばらく」の間に起ることは何でしょうか。それは、「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」ということです。いましばらく主イエスは弟子たちと共におられる、と言っても主イエスはこの晩餐の後捕えられ、翌日には十字架につけられるのですから、もうほんのわずかしか時はありません。しかしそのわずかな間に、「あなたがたはわたしを捜す」しかし「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」ということが起るのです。主イエスを捜すとは、主イエスについて行こうとすること、主イエスのおられる所に自分も行こうとすることを意味しています。しかし「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」、つまり主イエスについて行くことができないのです。いましばらくの間はそういう時が続くのです。
ペトロの否認の予告
弟子たちが主イエスを捜し、ついて行こうとするが、それはできない、ということが36節以下に具体的に語られています。弟子の筆頭であるシモン・ペトロが主イエスに「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ね、主イエスは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」とお答えになりました。ペトロは納得せず、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言いました。ペトロは、主イエスが彼らのもとを去って父なる神のもとに行こうとしておられることを感じ取っており、その主イエスにどこまでもついて行きたい、従っていきたいと思っていました。主イエスについて行くことによって具体的に何が起るのかは分かっていませんでしたが、しかしそれによって命を失うようなことになるかもしれない、とは感じていました。「あなたのためなら命を捨てます」という言葉にそのことが現れています。たとえ命を捨てることになっても、主イエスについて行きたい、と彼は思っており、またそうすることができると思っていたのです。しかし主イエスは、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」とおっしゃいました。あなたは私について来ることはできない、命を捨てて従うことはできない、むしろ、自分の命を守るために、私のことを三度「知らない」と言うのだ、と宣言なさったのです。
「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」というお言葉は、33節に語られているように、主イエスが既にユダヤ人たちにお語りになったものです。この福音書の7章33節に「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」という主イエスのお言葉がありました。これは、主イエスを捕えるために祭司長やファリサイ派から遣わされた人々に対して語られたお言葉です。また8章21節にも「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」と語られていました。これも、主イエスに敵対しているユダヤ人たちに対する言葉です。「あなたたちは、わたしを捜しても見つけられない。わたしのいる所に来ることができない」ということは、主イエスに敵対している人々に対して語られていたのです。しかし今、同じことがペトロに対しても語られました。主イエスについて行くことができないことにおいては、ペトロも、敵対している人々も、あるいは裏切って主イエスのもとを出て行ったユダも、基本的に同じなのだ、と主イエスはおっしゃったのです。
「今」と「後で」
しかし、ペトロに対する36節のお言葉にはもう一つのことが語られています。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」。ペトロは、「今は」主イエスについて来ることができない、しかし「後で」ついて来ることになるのです。つまりペトロが主イエスについて行くことができないのは「いましばらく」の間なのです。「後で」、ペトロは主イエスについて行くことになります。彼は初代の教会の指導者である使徒の筆頭となり、主イエスのために命を捨てたのです。殉教の死をとげたのです。「今は」主イエスを知らないと言ってしまうペトロが、「後で」主イエスのために命を捨てる者となるのです。その変化は何によって起るのでしょうか。ペトロ自身の決心や信念の強さによってでないことは明らかです。彼は死んでも主イエスについて行こうと決心していたのです。しかし彼の決心や信念は見事に挫折したのです。彼が主イエスについて行く者へと変えられたのは、罪人である彼のために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエスとの出会いによってです。主イエスの十字架と復活の出来事こそが彼を変えたのです。十字架の死によって主イエスは栄光を受け、それによって父なる神も栄光を受けました。そして父なる神は主イエスを復活させて、主イエスに神の子としての栄光を与えて下さいました。この主イエスと父なる神の栄光を示され、それによる救いを与えられたことによって、ペトロは主イエスについて行く者、信仰者、使徒となったのです。いましばらくの間、主イエスについて行くことができないペトロが、後で、神が人の子主イエスに栄光をお与えになった時には、ついて行く者となる。そして神はその時を「すぐに」来たらせて下さるのです。
私たちの「今」
このようにここには、主イエスについて行くことができず、「知らない」と言ってしまうペトロが、主イエスの復活の後、主イエスについて行く者、使徒となったことが先取りされて見つめられています。しかしヨハネ福音書は、ペトロにこのようなことが起った、という過去のことだけを語ろうとしているのではありません。ヨハネ福音書は、そこに現在の自分たちの姿を重ね合わせて見つめているのです。主イエスについて行けるか、ということも、ペトロの問題であると同時に、今現在の私たちの問題です。私たちは、主イエスのおられる所に行きたい、主イエスについて行きたいと思っています。主イエスを信じて生きるとはそういうことです。信仰者とは、主イエスの弟子、主イエスに従い、ついて行く者です。私たちはそのようになりたいと願い、主イエスについて行くことを誓って洗礼を受けるのです。ですから「あなたのためなら命を捨てます」というペトロの言葉は、なかなかそこまではっきりと決心できない、とは思うとしても、私たちの思いでもあり、あるいは私たちが信仰者として持つべき覚悟なのです。しかし私たちは、そのような自分の決心や覚悟によって主イエスについて行くことはできません。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」という主イエスのお言葉は私たちの現実でもあるのです。
「いましばらく」と「すぐに」による希望
しかしそれは「いましばらく」の間のことです。後になれば、私たちも、主イエスについて行く者、主イエスのおられる所にいる者となる、と主イエスはここで告げて下さっています。そして父なる神はその時を「すぐに」来たらせて下さるのです。つまり本日の箇所は、ペトロのことを見つめつつ、私たち自身が「いましばらく」どのような時を歩まなければならないのかを語っており、しかしその私たちに神が「後で」しかも「すぐに」与えると約束して下さっている恵みを語っているのです。
いましばらくの間、私たちは、主イエスについて行こうとして、時として主イエスのために命も捨てるのだと決心して歩んでいきます。それが私たちの信仰者としての歩みです。しかし私たちは、自分の思いや決心によって主イエスについて行くことはできません。いざとなると、自分の命を守るために、主イエスを知らないと言ってしまうのです。それが、罪と弱さの中を生きている私たちの現実です。私たちのこの世における歩みは最後までこの「いましばらくの間」なのです。しかし主イエス・キリストは、そのような私たちといつも共にいて下さいます。33節の「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」というお言葉は、私たちへの約束でもあります。主イエスについて行くことができずに、「知らない」と言ってしまったペトロを主イエスが決して見捨ててしまわなかったように、罪と弱さの中にいる私たちのことをも主イエスは見捨てることなく、共にいて下さるのです。そして、私たちの信仰や決意によってではなく、ご自身の救い主としての栄光によって、私たちを最終的には、主イエスについて行く者として下さるのです。32節の「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」というお言葉は、そのことをも告げていると言うことができます。神が人の子主イエスによって栄光をお受けになった、それは主イエスの十字架と復活による救いによって父なる神が栄光をお受けになったことを指しています。神はその栄光を今度は人の子に与えて下さるのです。その人の子は、主イエスのことであると同時に私たちのことでもあると言えるでしょう。主イエスの十字架と復活による救いのゆえに、父なる神は、罪と弱さに支配されている私たちにも、御自分の栄光を与えてくださり、主イエスについて行く者、主イエスのおられる所に共にいる者として下さるのです。父なる神はその約束を「すぐに」果たして下さる、と主イエスは言っておられます。その「すぐに」がいつなのかは私たちには分かりません。しかしこの言葉は、父なる神のこの約束が確かであり、必ず実現するということを示しているのです。
私たちは、自分の決心や信念によって主イエスについて行くことができず、挫折します。主イエスのことを「知らない」と言ってしまうことさえあります。しかしそれでも私たちは、この神の約束を信じて歩みたいのです。主イエスは私たちを見捨てることなく、「あなたは今ついて来ることができなくても、後で必ずついて来ることになる。私のいる所に共にいることになる」と語りかけて下さっています。その約束が最終的に実現するのは、この世の終わりの、救いの完成の時です。それは気が遠くなるほど先のことのようにも感じますが、主イエスは「いましばらく」と言っておられ、父なる神による救いが「すぐに」与えられると約束して下さっています。その約束が確かに実現することを信じるなら私たちは、「いましばらく」の人生を、自分の罪や弱さによって絶望してしまうことなく、希望をもって生きていくことができるのです。
新しい生き方の指針
そして主イエスはここで、私たちがこの「いましばらく」の時を主イエスの弟子として生きていくための指針を与えて下さっています。それが34、35節です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。主イエスは私たちに「新しい掟」を与えて下さっています。主イエスの十字架と復活による救いにあずかることによって私たちには、新しい生き方が与えられるのです。それは「互いに愛し合う」という生き方です。しかしそれだけなら、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という掟が既に与えられています。「新しい掟」の新しさは「わたしがあなたがたを愛したように」というところにあります。主イエスが私たちを愛して下さったように、つまり私たちをこの上なく愛し抜いて、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、ご自分の命を与えるほどに愛して下さった、そのように私たちも互いに愛し合うことが、主イエスの弟子に与えられる「新しい生き方」なのです。それは言い替えれば、罪みまみれ、弱さの中を生きているこの私を主イエスがどこまでも愛し抜いて下さっている、そのことが常に、私たちの他の人に対する言葉や行いの土台となっている、という生き方です。主イエスの愛にお応えすることによって他者との交わりを築いていく、と言ってもいいでしょう。このことこそが、主イエスによる救いにあずかって生きる私たちに与えられている新しい指針なのです。このことにおいても私たちは、繰り返し挫折してしまう者ですが、しかし主イエスは見捨てることなく、私たちをこの新しい生き方へと立ち帰らせて下さいます。そして35節に語られているように、私たちがこのように互いに愛し合うことによってこそ、私たちが主イエスの弟子であることを世の人々が知るようになるのです。新型コロナウイルスによる恐れや不安が人々の心を覆っており、愛が失われていっている今のこの社会において、私たちは、主イエスが十字架の死と復活によって私たちを徹底的に愛し抜いて下さったことに応えて互いに愛し合って生きる新しい生き方を、世の人々に示していきたいのです。