主日礼拝

名が天に記されている

「名が天に記されている」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第4章2-6節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第10章17-24節
・ 讃美歌:140、441、469

主イエスによる派遣
 本日ご一緒に読む聖書の箇所の冒頭、ルカによる福音書第10章17節に、「七十二人は喜んで帰って来て」とあります。この七十二人は、10章の1節で主イエスが任命し、これから向かおうとしておられる町や村に二人ずつ先に遣わされた弟子たちです。先週の礼拝においても申しましたが、この七十二人の派遣は、主イエスを信じる信仰者の群れである教会が、つまり私たちが、主イエス・キリストのことを宣べ伝える使命を与えられてこの世に派遣されていることと重ね合わせて語られています。この七十二人に対する主イエスのお言葉は、自分を含めた教会の信仰者たちへのお言葉でもある、ということをルカは意識しつつ語っているのです。この七十二人と私たちとはどこが重なるのでしょうか。彼らは、後から来られる主イエスの先駆けとして派遣されました。これからこの町に来られる主イエスを、人々が救い主としてお迎えするように備えをするために派遣されたのです。私たちも、後から来られる主イエスの先駆けとして派遣されています。復活して天に昇り、全能の父なる神様の右に座しておられる主イエスは、いつかそこからもう一度おいでになり、それによってこの世は終わり、神の国が実現し、私たちの救いが完成すると約束して下さっているのです。その再び来たりたもう主イエスを待ち望むことが私たちの信仰です。そして人々にも、これから来られる主イエスを喜んでお迎えする備えを共にしよう、と呼びかけていくことが私たちの伝道です。そういう意味で私たちも、後から来られる主イエスの先駆けとして遣わされているのです。先週も申しましたが、十二人の使徒たちの他に、七十二人の弟子たちが派遣されたことは、私たち信仰者一人一人が、主イエスによってこの世へと派遣されていることを意味しているのです。

悪霊さえも屈服する
 本日の箇所には、その七十二人が喜びつつ帰って来たとあります。彼らは何を喜んでいたのでしょうか。それは、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」ということです。先週読んだ9節に、彼らを派遣するに当っての主イエスの命令が語られていました。「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」。彼らはこのために派遣されたのです。ここに「病人をいやし」とあるのと本日の所の「悪霊が屈服する」というのは基本的に同じことです。9章の初めにおいて十二人の使徒たちが派遣された所には、彼らはあらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授けられて派遣された、とありました。悪霊に打ち勝つことも病気をいやすことも、人々を苦しめている力を取り除き、苦しみから救うことです。十二人の使徒たちはそういう力と権能を授けられて遣わされ、神の国を宣べ伝えたのです。この七十二人が「悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言っているのは、彼らもまた、後から来られる主イエスによって到来しようとしている神の国、即ち神様の恵みのご支配の印として病気の人や悪霊に取りつかれている人を癒すことができた、ということです。彼らはそういう喜ばしい体験を与えられたのです。
 彼らが「お名前を使うと」と言っているのは大事なことです。彼らの働きは全て、主イエス・キリストのお名前によってなされました。主イエスのことを宣べ伝える中でこそ、病気をいやし、悪霊を屈服させることができたのです。「使って」というのは、主イエスの名前を呪文のように用いたということではありません。彼らが主イエスの名を使って何かをしたのではなくて、それをなさったのはあくまでも主イエスご自身です。主イエスのみ業が自分たちを通して行われ、そのみ業のために用いられるというすばらしい体験を彼らは与えられたのです。

サタンが天から落ちた
 この弟子たちの喜びの報告を聞いて主イエスがお語りになった言葉が18節以下です。18節で主は「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」とおっしゃいました。サタンという言葉がこの福音書ではここに初めて出てきますが、それは人間を神様から引き離し、恵みを失わせようとする力です。4章に、主イエスが荒れ野で悪魔の誘惑を受けた話がありましたが、ルカでは悪魔となっているのがマルコではサタンであり、マタイでは両方の言葉が使われています。つまりサタンは悪魔と言い換えてもよいもので、人間を神様のみ心に背かせ、罪を犯させ、恵みから引き離そうとする力です。またこの福音書の13章には、18年間腰が曲がったまま伸ばせなかった人を主イエスが癒したことが語られていますが、主イエスはその人のことを「十八年もの間サタンに縛られていた」と言っておられます。サタンは病や障碍の苦しみを引き起こすものでもあるのです。ですから先ほどの悪霊の親玉がサタンだと考えてもよいでしょう。そのサタンが「天から落ちるのを見ていた」と主イエスは言っておられます。ということは、サタンはもともとは天にいたということになります。このことの背景には、旧約聖書のヨブ記の冒頭のところに語られているような、サタンも天使の一人だ、という理解があります。あのヨブ記でサタンが果している役割は、人間の欠点や罪をあら探しして神様に言い付けることです。天使の中でそのような否定的な役割を担っているのがサタンだという理解があったのです。そのサタンが天から落ちたというのは、サタンが天使の一人としての権威や力を失ったということです。今までは人間を支配し、病や様々な苦しみを与え、人々を罪に引きずり込んでいたサタンが、もはやその力を失ったのです。だからこそ、弟子たちは悪霊を屈服させることができたのです。悪霊の親玉であるサタンが天から落ちたので、悪霊も力を失ったのです。「悪霊さえも私たちに屈服します」という弟子たちの言葉を受けて「サタンが天から落ちるのを見ていた」と言われているのはそういう意味だと言えるでしょう。

主イエスが天に上げられることによって
 そこには一つの大きな問いが生まれます。サタンが天から落ちるのを主イエスが見ておられたというのはどの時点に起ったことか、という問いです。このことを考えるために思い起こしたいのは、この七十二人の弟子たちが派遣されたのは主イエスのご生涯のどの時点においてだったか、です。このことについても先週お話ししました。主イエスは9章51節で、エルサレムに向けて歩み出されたのです。それは天に上げられる時期が近づいたことを意識なさったからでした。主イエスが天に上げられるのは、十字架の死と復活と昇天とによってです。そのことが起こる場所であるエルサレムへと旅立たれたのです。その直後に、この七十二人が派遣されています。彼らは、エルサレムへと向かう主イエスの先駆けとして派遣されたのです。つまりこの派遣の前提には、主イエスがエルサレムで十字架につけられて殺され、復活して天に上げられる時がいよいよ近づいている、ということがあります。サタンが天から落ちることは、主イエスが天に上げられることと深く結びついているのです。主イエスが天に上げられて私たちを支配し導いて下さる座に着いて下さることによって、私たちを支配していたサタンが力を失って天から落ちるのです。神様の恵みの力が、サタンに勝利するのです。その恵みとは、独り子主イエスの十字架の死と復活とによって、神様が私たちの罪を赦して下さったという恵みです。その恵みによって、もはやサタンがどれだけ私たちのあら探しをし、罪を言い立てても、神様は私たちを赦し、義として下さっているのです。神様が義であると宣言なさった者を、サタンはもはや断罪することはできないのです。サタンが稲妻のように天から落ちたというのは、神様の恵みによる罪の赦しが実現した、ということなのです。
 でも、この10章の時点では主イエスの十字架の死と復活はまだ実現していないではないか、と思うかもしれません。しかしそこが、最初に申しましたこと、つまりルカはこの七十二人の話によって、私たち教会に連なる信仰者たちのことを語ろうとしている、ということとつながるのです。つまりここで見つめられているのは私たちのことです。私たち信仰者は、十字架につけられて殺され、復活して天に昇られた主イエスによってこの世へと派遣されているのです。私たちにとっては主イエスは、サタンに勝利して既に天に上げられた方です。その私たちにとっては、サタンは既に力を失い、天から落ちているのです。

主イエスの約束
 次の19節も、その流れの中で読むべきものです。「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」。これも、弟子たちに対してと言うよりも私たちに対するお言葉です。弟子たちは、悪霊さえも自分たちに屈服する、というすばらしい体験を与えられて戻って来たのです。蛇やさそりに譬えられる危険な敵に打ち勝つことができ、彼らに害を加えるものは何一つなかったことを体験したのです。しかし、先週の箇所で、彼らが派遣される時に語られたのは、3節の「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」というみ言葉でした。これと19節とでは正反対とも言える違いがあります。弟子たちにしてみれば、今になってこれを言うのではなくて、派遣する時に言っておいて欲しかった、ということになるでしょう。しかしこのみ言葉は、今、主イエスの先駆けとしてこの世に遣わされている私たちへの、そしてこれから遣わされていく人々への約束として語られているのです。主イエスを信じる信仰者は、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を主イエスから授けられて、この世へと派遣されており、だから私たちに害を加えるものは何一つないのです。神様の独り子である主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、父なる神様が死の力に勝利して主イエスを復活させて下さり、その主イエスが天に昇り、今や父なる神様の右に座して私たちを、この世界を支配していて下さるがゆえに、私たちを神様の恵みから引き離そうとするサタンは既に力を失い、天から落ちています。私たちはこの神様の恵みの勝利の下でこの世へと派遣され、再び来られる主イエスを待ち望む者として、そして主イエスによって到来した神の国を宣べ伝える者として歩むことができるのです。
 しかしそこでもう一つ見つめておくべきことは、七十二人の弟子たちが派遣される時には、「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」というみ言葉が与えられていたということです。これもまた、私たちの姿と重なります。私たちは、信仰を与えられてこの世に派遣されていく時に、やはり狼の群れに送り込まれる小羊のような体験をするのです。そこには大きな不安があり、恐れがあり、苦しみもあります。狼の群れの中で小羊は戦うことも逃げることもできず、食い殺されるしかないのです。この世を生きる信仰者の生活とはそういうものです。周囲の人々が自分の信仰を理解せず、むしろ敵対しているような状況の中へと、自分の力ではどうしようもない現実の中へと、私たちは派遣されるのです。そのような現実の中で、主イエスの約束を信じて、証し、伝道を続けていく中で、その結果として、「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」という体験が与えられていくのです。「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」というみ言葉も、そのような歩みの中でこそ示されていくのです。つまり、最初からこのような安心を与えられて歩むことはできないのです。信仰を持って生きる人生は、この世における安心や成功や幸福が保証された歩みではありません。迫害によって命を落とすことだってあるのです。「あなたがたに害を加えるものは何一つない」というのは、地上の人生のみに限って言えば、そうではないかもしれない。害を加えられ、殺されることだってあるのです。けれども、この主イエスの約束は、地上における何十年かの人生のみを視野に置いて語られているのではありません。そのことを語っているのが次の20節です。

名が天に記されている
 「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。「悪霊があなたがたに服従する」ということを弟子たちは体験しました。それは彼らが地上の人生において、主イエスを信じて従い、主イエスの先駆けとして派遣されて神の国の福音を宣べ伝えていく中で体験したことです。信仰者の人生にはこのようなすばらしい体験、大いなる喜びが与えられます。そういう約束が与えられているし、私たちはそれを信じてよいのです。けれども主イエスはここで、本当に喜ぶべきことはそれではない、と言っておられます。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。信仰をもって生きる時、私たちは地上の人生において、悪霊をも服従させるようなすばらしい体験をすることができます。しかしたとえそれができなかったとしても、私たちに与えられる本当の喜びはそれによって左右されないのです。本当の喜びは、私たちの名が天に書き記されていることにこそあるのです。名が天に記されている、それは、神様が、ご自分の救いにあずからせる者として私たちの名を書き記して下さっている、ということです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第4章の3節にこうあります。「そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている」。「残りの者」とは、神様が救われる者として選び、残しておいて下さった人々のことです。その人々の名が、神様の手元にある命を得る者のリストに書き記されているのです。神様のリストに書き記されているということは、もはやそれは消し去られることはない、ということです。地上の人生においてどのようなことがあっても、信仰の歩みにおいて害を加えられ、志半ばで命を失うようなことがあっても、人生の戦いに破れて、望んでいた成果をあげることができなくても、あるいは誘惑に負けて罪を犯し、サタンに「この人はこんな罪を犯した」と神様の前で訴えられてしまうことがあっても、神様は、「いや、この人の名は私のこのリストに書き記されている。この人は私の民、私の救いにあずかる者だ」と宣言して下さるのです。私たちの信仰は、主イエスの十字架と復活と昇天によって、神様が私の罪を赦して下さり、私の名を天に記して下さったことを信じることです。そこにこそ、信仰者に与えられる本当の喜びがあります。この喜びを与えられる時、地上の人生において何があっても、「あなたがたに害を加えるものは何一つない」という約束が真実であることを知ることができるのです。

主イエスの賛美
 21節以下には、主イエスが聖霊によって喜びにあふれて「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と父である神様を賛美した言葉が記されています。21節の冒頭に「そのとき」とあるように、この賛美の言葉は20節までの所と結びついています。あなたがたの名が天に書き記されている、という大きな喜びを告げて下さった主イエスが、聖霊に満たされて、私たちの喜びをご自分の喜びとして喜び、神様をほめたたえて下さったのです。
 主イエスがここで賛美しておられるのは、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」ということです。「これらのこと」とは、18節から20節に語られてきたこと、その中心は、あなたがたの名が天に書き記されている、ということです。そのことが、知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示されたのです。つまり、自分の力に依り頼み、自分の力で何とかできると思っている者、しようとしている者には、名が天に記されている恵みは隠され、分からないのです。「幼子のような者」、それは、自分の無力を知っている者、いやもっと正確に言えば、自分の力ではどうにもならない、という現実の中で途方に暮れている者です。先週の箇所の言葉を用いれば、財布や袋や履物を持って行くことではどうにもならない、狼の群れの中に送り込まれた小羊のような自分であることを知っている者です。そのような者にこそ神様は、「あなたがたの名が天に書き記されている」という恵みを示して下さるのです。
 この恵みを私たちに示し与えて下さるのは主イエス・キリストです。22節には「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」とあります。ややこしい文章ですが、要するに、父なる神様と独り子主イエスとが一体であり、独り子主イエスに私たちの救いに関する全てのことが任せられており、主イエスが父なる神様を私たちに示して下さることによって私たちはその救いにあずかることができる、ということです。この主イエスを信じ、主イエスに従い、主イエスの先駆けとしてこの世へと派遣されて歩むことの中でこそ私たちは、自分の名が父なる神様の天のリストに記されていることを確信し、その喜びの内に生きることができるのです。

信仰者の幸い
 23、24節は再び弟子たちに対する、つまり私たちに対するお言葉です。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。「あなたがたの見ているもの」、それは、主イエス・キリストが示して下さった父なる神様の恵み、あなたがたの名が天に書き記されている、という事実です。主イエスを信じる者は、知恵ある者、賢い者には隠されているこの事実を見ることを許されているのです。それは本当に幸いなことです。信仰者は、多くの預言者や王たちが見たいと願いながら見ることができなかったことを見、聞きたいと願いながら聞くことのできなかった言葉を聞くことができるのです。主イエスが十字架の死と復活を経て天に上げられたことによってサタンは既に天から落ちた。神様が私たちの罪を全て赦し、私たちの名を天のリストに書き記して下さっている。その恵みから私たちを引き離すことができるものはもはや何もない。そういう意味で、私たちに害を加えるものはもはや何一つない。これらの隠された事実を信仰の目で見、この恵みのみ言葉を聞く幸いを私たちは与えられています。この恵みの事実を見、この恵みの言葉を聞くことができるのは、知恵ある者でも賢い者でもありません。狼の群れの中に送り込まれた小羊のように無力な私たちが、自分ではどうすることもできない現実の中で、主イエス・キリストを信じ、主イエスによる派遣を信じ、主イエスに従って歩もうとする時に、主イエスご自身が私たちの目と耳を開いて、多くの人々が願いながらも見ることも聞くこともできないでいる喜びを与えて下さるのです。

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