主日礼拝

主の体のため

「主の体のため」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; レビ記 第19章1―18節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第6章12-14節
・ 讃美歌 ; 13、59、514

 
すべてのことが許されている
 「わたしには、すべてのことが許されている」。本日の聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の第6章12節に、この言葉が二度繰り返して語られています。「わたしには、すべてのことが許されている」、つまり、私は、何をしてもいいのだ、自由なのだ、ということです。何をしてもいい、そういう自由があったらどんなにいいだろうか、と私たちは思います。ということは、私たちは、そういう自由を持っていない、わたしには、すべてのことが許されているわけではない、と思っているということです。ところが、この手紙を書いた、初代教会の最大の指導者パウロは、「わたしには、すべてのことが許されている」と言っているのです。
 気をつけてみると、この言葉には両方とも鍵括弧がついています。つまり、引用された言葉であるということです。聖書の原文にはこのような括弧はついていません。これは、翻訳される時に、ある解釈に基づいてつけられたものです。「わたしには、すべてのことが許されている」というのは、パウロ自身の言葉ではなくて、コリント教会の人々の間で語られていたものだ、それをパウロがここに引用しているのだ、という解釈によってこのように訳されているのです。それはおそらくその通りだろうと思います。パウロがこの言葉を二度繰り返して語っているのは、これがコリント教会においてよく知られた、多くの人が語っていることだったからでしょう。そしてそれぞれの引用の直後に、「しかし」とあって、この言葉に対する、あるいはこの言葉の理解に対するある修正が加えられているのです。パウロは、コリント教会の中でよく語られていた「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉に、ある修正を加えようとしているのです。
 しかし間違ってはいけない大事なことは、パウロは、「すべてのことが許されているわけではないのだ、許されていないこともあるのだ」と言おうとしているのではない、ということです。パウロが言っているのは、「あなたがたは、すべてのことが許されていると言っているが、それは間違いだ」ということではありません。この「しかし」は、前に言われていることを完全に否定してしまう「しかし」ではなくて、それを正しいと認めた上で、そこに、あることをつけ加える、ただし書きをつける、という働きをしています。「わたしには、すべてのことが許されている」というのは、パウロ自身の考えでもあるのです。そうでなければ、このように同じ言葉を二度繰り返して語るようなことはしないでしょう。これはコリント教会でしばしば語られていた言葉の引用ではあるけれども、同時にパウロ自身の言葉でもあるのです。あるいは、コリント教会の人々がこのように言うようになったのは、パウロの影響によることだったのかもしれません。この教会はパウロの伝道によって生まれたのです。パウロ自身がこのように教えたとも考えられます。パウロが「わたしには、すべてのことが許されている」と言ったのは、私たちが神様によって義とされ、救われるのは、正しい行いをしたからとか、立派な人だからではない、神様が独り子イエス・キリストの十字架の死によって、罪人である私たちを赦して下さったからなのだ、私たちは神様の愛によって救われるのだ、ということを明らかにするためです。私たちの救いは私たちの行いにはよらない。だから、どういう行いをしたら救われ、どういう行いをしたら滅びる、というものではない。どのような罪を犯している者であっても、主イエス・キリストの十字架の死による赦しの恵みをいただくならば、それを信じて主イエスと結びつくならば、救いにあずかるのだ。そういう意味で、わたしたちのなすすべてのことは許されている、たとえどんな悪いことをしたとしても、そのためにもう救いにあずかれないということはないのだ。このようにパウロは教えたのです。パウロはそういう意味で、「わたしには、すべてのことが許されている」と言ったのです。

コリント教会の誤解
 しかしパウロはここで、自分自身が教えたこのことに、ある修正というか、ただし書きをつけ加えようとしています。それは、コリント教会の人々が、パウロのこの教えを取り違えているからです。誤解しているからです。彼らはどのように誤解したのでしょうか。そのことが、次の13節の「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり」という言葉から推察できます。コリント教会には、「みだらな行い」をしている人がいたのです。「みだらな行い」の原語は「ポルネイア」です。そこから「ポルノ」という言葉が生まれました。つまりこれは性的な不道徳行為のことです。コリント教会にそのようなことがあったことについては、既に第5章に語られていました。そこに語られていたのは、「ある人が父の妻をわがものとしている」ということでした。これは一つの特殊な事例であると言えるでしょう。しかし問題は、そのような特別なケースのみではなかったのです。この6章後半においては、もっと一般的な事柄として「みだらな行い」があったことが指摘されています。それは16節にある「娼婦と交わる」ということです。コリント教会の人々の中に、娼婦と関係を持ち、性的な欲望のはけ口とする、ということがあったのです。このことは当時のコリントの町の状況と関係があります。以前にも申しましたが、当時のコリントは人口60万に達する大都市であり、愛の女神、美の女神アフロディテの神殿に千人の神殿娼婦がいたと言われています。娼婦のもとに通うということが、ごく一般的に行われていたのです。当時のギリシャ世界で、「コリント娘」というのは娼婦のことだった、とも言われています。そういう文明の爛熟、退廃の中に、コリントの教会は置かれていたのです。それは今日の私たちの状況と似ていると言わなければならないでしょう。私たちの教会から歩いてすぐのところに、横浜の中でも風俗産業の中心地と言える地域があります。コリントで言えばアフロディテ神殿のお膝元にこの教会はあるのです。それが私たちの置かれている現実であり、私たちの生活も、そういう現実と無関係にあるのではないのです。そういう中で、教会の信者の間にもその影響が入りこんで来る、ということがあり得るのです。しかしコリント教会において何よりも問題だったことは、そのような「みだらな行い」をしている人々が、「わたしには、すべてのことが許されている」というパウロの教えを拠り所にして、自分たちを正当化している、ということでした。「どんな罪を犯した者でも、キリストの赦しによって救われるとパウロ先生が言った。だから、こういうことをしても別にいいんだ」というわけです。それが、コリント教会における、パウロの教えの誤解だったのです。

グノーシス主義
 このような誤解が、というよりも曲解が生まれた背景には、当時教会の中に入り込んできていたグノーシス主義と呼ばれる考え方があります。グノーシス主義とは、簡単に言えば、人間を魂と肉体に分けて、魂だけを価値のあるものとし、肉体は魂を閉じ込めている牢獄のようなものとする考え方です。肉体という牢獄から魂が解放され、自由になることが救いだと考えるのです。この思想においては、魂の活動だけが尊いものとなり、肉体における事柄は意味や価値がない、どうでもよいことになります。そこから、肉体的な欲望に対する二つの正反対の態度が生まれます。一つは、肉体的な事柄を汚れたものとして厭い、それをできるだけ切り捨てていこうという禁欲的な姿勢です。もう一つは、肉体的な事柄はどうでもよいことで、救いには関係がないのだから、肉体の欲望の赴くままにふるまえばよいのだ、という姿勢です。そこからは、極端な放縦が、倫理、道徳を無視する生活が生まれるのです。グノーシス主義はこの二つの対照的な生き方を生むのですが、コリント教会には後者の考え方が入ってきていました。それが「わたしには、すべてのことが許されている」というパウロの教えと結びつけられて、肉体の欲望を抑える必要はない、欲望のままに何をしてもいいのだ、という考え方が生まれていたのです。ですからここでの問題は、単に「みだらな行い」をしてもよいかいけないか、ではなくて、人間の肉体、体における生活、営みを、信仰においてどのように位置づけるか、ということであり、つまり信仰と、体をもって生きる生活との関わりという深い問題なのです。

本当の自由
 さてパウロは、「すべてのことは許されている」ということを基本的に再確認しつつ、そこに「しかし、すべてのことが益になるわけではない」、「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」とつけ加えています。みだらな行いも、娼婦と交わることも含めて、すべてのことは許されているのです。「すべてのこと」と言うからには、これらのことも確かに含まれているのです。これをしたら救いにあずかれない、ということはないのです。しかし、許されていることが皆自分にとって益になるわけではありません。自分にとって本当に益になることは何なのか、それをしっかりと見極め、益になることを追い求め、益にならないことは避ける、ということこそ、私たちのあるべき生き方ではないのか。そのように歩むことができることこそ、私たちが本当に自由であるということなのではないか。益にもならないことにうつつを抜かし、それをやめられないというのでは、それは自由ではなくて、その欲望に支配され、欲望の奴隷となっていることではないか…。それが、パウロの言おうとしていることです。つまりパウロはここで、何事にも支配されない本当の自由とは何か、ということを見つめているのです。「すべてのことは許されている」という言葉は、その自由を語っているのです。私たちはしばしば、自由ということを、自分の好き勝手にすること、と勘違いしています。そしてそれが出来ないから、自分は自由でない、束縛されている、と思い、だから自由が欲しい、と思うのです。しかし自分の好き勝手にするという自由は、実は欲望の奴隷としての歩みでしかありません。自由であろうとすることの中で、奴隷になってしまうということが起るのです。そのようなことは私たちの生活において多々あります。私たちは、自由に使えるお金が欲しいと思い、いっしょうけんめい働いてお金を貯めて、それを使って何かを買うことで、自由を得たような気になります。しかしそれは実は、お金におどらされ、購買意欲をそそるように巧みになされるコマーシャルやその時の流行に支配されてお金を使わされているだけであったりするのです。本当の自由とは、すべてのことが許されている中で、しかし欲望に支配されずに、本当に必要な、益になることに力を注ぐことができる、ということです。そういう自由をこそ求めていくべきだとパウロは言っているのです。

食物と腹
 次の13節には、「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」とあります。これも実は、グノーシス主義の影響のもとにコリント教会において語られていた言葉の引用であって、括弧をつけた方がよいのではないか、とも思われています。この言葉の意味は、食物は腹を満たすためにのみ意味があり、腹は食物をこなして体のための栄養を得るためにのみ意味がある。そしてそれらはいずれも、神によっていずれは滅ぼされていく。つまり、肉体の死において、食物も腹もその使命を終えて滅びていく、ということでしょう。それに対して魂は、滅びることなく永遠に存続するのだ、ということが意識されているのです。つまり腹と食物は、この世を肉体をもって生きる人間の営みを代表しており、それは本質的、永続的な事柄ではない、要するにどうでもよいことだ、ということです。「みだらな行い」もこの腹と食物と同列に置かれて、性的な欲望を娼婦で満たすことは、腹がすいたら食物で腹を満たすのと同じことであり、それらは共に人間の歩みにおいて本質的でない、どうでもよいことであって、とりたてて目くじら立てるようなことではない、ということがコリント教会で言われていたのです。パウロは、食物と腹に関することが救いとは関係がない、ということを認めています。だから、この手紙の後の方で、こういうものは食べてはいけない、ということを規定している掟にはもはや縛られる必要はない、と言っているのです。つまり食物においても、すべてのことが許されているのです。しかしこの食物と腹に関することを、体におけるみだらな行いと一緒にして、両者を同列に扱うことは間違いだということを語っているのが、13節後半の「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」という言葉です。食物は腹のため、腹は食物のため、それはいずれも肉体の養いのためです。そのように「食物と腹」によって養われる肉体とははっきり区別されて、「体は主のため、主は体のため」と言われているのです。つまりパウロはここで、腹と食物に代表される肉体の営みと、「体」とを区別しているのです。この区別を見極めることが、本日の箇所を理解するための最大の課題となるでしょう。

体は主のため
 「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」。これは、私たちが生まれてから死ぬまでの、肉体において生きる人生のことです。しかしそれとは区別された「体」というものがある、とパウロは言っているのです。その「体」とは何でしょうか。それは肉体と切り離された何かではありません。「体はみだらな行いのためではなく」と言われているのは、体もみだらな行いに陥ってしまうことがあるということです。つまり体と肉体は別のものではありません。しかし、それは区別されて見つめられています。その区別のポイントは、「体は主のためにあり、主は体のためにおられるのです」という言葉に示されています。つまり、ここで言う体とは、主イエス・キリストとの関係において生きる私たちです。信仰をもって生きる私たちと言ってもいいでしょう。主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを与えて下さった、その救いの恵みにあずかって生きる私たち、その主イエスを信じる信仰に生きる私たちです。その私たちはもちろん肉体をもって生きるのです。しかしパウロはその歩みを、信仰なしに、主イエスとの関係なしに生きる歩みとは区別しているのです。生まれつきの私たちは皆、主イエスとの関係なしに、食物と腹によって養われる歩みをしています。しかしその私たちが、主イエス・キリストの救いにあずかることによって、新しくされるのです。新しい自分を与えられるのです。同じ肉体を生きつつも、新しい体とされるのです。その新しい「体」は、「みだらな行いのためではなく、主のためにある」のです。主イエス・キリストによって与えられた新しい体を、私たちは、自分の欲望のためにではなく、主イエス・キリストのために、神様に仕え、そのみ心を行うために用いていくのです。「食物は腹のため、腹は食物のため」という、いずれ滅びていく肉体を生きている私たちが、その肉体の欲望に生きる者から、「みだらな行いのためではなく、主のために」生きる新しい体となる、それこそ、私たちが本当に人間らしく自由に生きるようになる、ということではないでしょうか。ここにこそ、先程の「本当に益になること」があるのです。「本当に益になることを追い求める」というのは、「みだらな行いのためではなく、主のために」生きる者となることなのです。娼婦によって欲望を満たすことも、肉体的な快楽を得るということにおいて、ある意味での益になると言えないことはないかもしれません。しかしそれは、主イエス・キリストの恵みによって与えられた新しい体を生きるための益にはならないのです。すべてのことは許されています。人の犯す罪は全て、主イエス・キリストの十字架の贖いによって赦されるのです。しかしその赦しの恵みの中で、自分の体を、主イエス・キリストと共に、神様に仕えて歩むことの益となるようにこそ用いていく、そのような歩みこそ、本当に人間らしく、自由に生きることなのです。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、レビ記19章です。ここには、神様がイスラエルの民にお与えになった、「あなたたちは聖なる者となりなさい」というみ言葉が語られています。これは、単なる命令、戒めではありません。「あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」ということを前提としたみ言葉です。聖なる方である神様が、イスラエルの民をご自分の民として下さったのです。彼らの神となって下さったのです。そこに、イスラエルに与えられた救いの恵みがあります。その恵みにあずかり、神様の民とされ、つまり新しい体を与えられて、神様との交わりに生きる者として、「聖なる者」となることが求められているのです。そのためになすべき様々なことが語られていますが、その18節には、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。これは主イエス・キリストが、最も大事な戒めの一つとして教えられたものです。主イエスによる救いにあずかり、主イエスと共に生きる者とされた私たちの新しい体の歩みにおいても、この「自分自身を愛するように隣人を愛する」ということが大切であり、本当に益になるのです。神様が愛して下さっている自分を愛し、それと同じように隣人を愛していく、このことを追い求めていくところに、私たちの本当の自由があるのです。

主は体のため
 主イエス・キリストの救いによって与えられた私たちの新しい体は、主のためにあります。主を礼拝し、感謝と讃美をささげ、主に祈り、み心を求め、それに従って主に仕え、また自分自身を愛するように隣人を愛する、それが「体は主のためにあり」ということの内容です。しかしパウロはそのことだけではなくて、「主は体のためにおられるのです」と言っています。これは不思議な言葉です。主イエス・キリストが私たちの体のためにおられるとはどういうことなのでしょうか。そのことの意味が、次の14節に語られているのです。「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」。ここに見つめられているのは、父なる神様が主イエスを復活させて下さったこと、そしてその同じ力で私たちをも復活させてくださる、ということです。「主は体のためにおられる」というのはそういうことなのです。私たちの救いは、主イエスの十字架の死による罪の赦しにあずかることで終わるのではありません。復活して天に昇られた主イエスがもう一度来られることによってこの世が終わる、その時に、主イエスを復活させた神様が、私たちをも復活させ、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さるのです。私たちの救いはそこにおいてこそ完成するのです。ここに、主イエス・キリストを信じる信仰において、体というものが本質的に重要な意味を持っていることが示されています。主イエス・キリストは、体をもってこの世にお生まれになり、体をもってこの地上の生涯を歩まれました。そして体をもって十字架の苦しみと死を引き受けられました。父なる神様はその主イエスを、体をもって復活させて下さったのです。主イエス・キリストの救いのみ業は、体におけるものです。決して、魂だけの救いではありません。そこがグノーシス主義とは違う所です。魂が肉体という牢獄から解放されることが救いではないのです。魂も肉体も、共に神様が造り与えて下さったものです。神様の救いも、その全体における救いなのです。従ってそれは、単に私たちの魂、心に平安や喜びが与えられることで終わるのではなくて、私たちが主イエス・キリストの体の復活にあずかって、新しい体を与えられることにまで至るのです。そうでなければ、主イエスが体をもってこの世に来て下さり、体をもって復活されたことの意味がありません。主の救いは私たちの体にまで及ぶ。それが「主は体のため」ということの意味なのです。

死を超えた希望に生きる
 それは言い換えれば、主イエスによる救いは、肉体の死を越えた彼方にまで及んでいるということです。私たちの地上の人生は、何十年かの、肉体をもっての歩みです。その歩みは、「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされる」という言葉に示されているように、いつか滅びていくものです。肉体としての私たちの歩みには限りがあります。しかし、主イエス・キリストによって与えられる新しい体をもって生きる私たちの歩みは、肉体の死で終わってしまうものではないのです。肉体の死の彼方において、主は私たちに、復活の体、新しい体を与えて下さいます。主イエスを信じて生きる私たちは、この希望をもって歩むことができるのです。それゆえに私たちは、与えられているこの体を、肉体における一時の喜び、欲望のために用いるのではなくて、本当に益となることのために、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストに仕えるために用いていくことができるのです。

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