主日礼拝

岩の上に土台を置いて

「岩の上に土台を置いて」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第124編1-8節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第6章43-49節
・ 讃美歌:341、157、454

「分かる」とは「変わる」こと
 礼拝において基本的にはルカによる福音書を読み進めていますが、いろいろな特別の事柄が入ったために、前回ルカ福音書を読んだのは5月の10日でした。ほぼ一か月ぶりにルカ福音書に戻ってきたわけです。今読んでいる第6章の20節以下には、主イエス・キリストがお語りになった説教が記されています。この説教は、17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあってその後に語られていることから、「平地の説教」と呼ばれています。本日はその「平地の説教」の最後のところを読むわけです。本日の箇所は二つに分けることができます。新共同訳聖書においても、二つの小見出しがつけられています。43~45節には、「実によって木を知る」という小見出しがつけられており、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実しか結ばない、だから木の善し悪しはその結ぶ実で分かる、というたとえが語られています。それは勿論木の見分け方を語っているのではなくて、善い人と悪い人との違いを語っているのです。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出すのです。つまり、心の倉から出てくるものを見れば、その人が善い人か悪い人かが分かるのです。心の倉から出てくるものとは、「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」とあることから分かるように、口から出る言葉です。その人がどんな人かは、その人の口から出る言葉という実によって分かる、ということが語られているのです。
 46節以下は、「家と土台」というたとえを用いての話です。主イエスの言葉を聞いて、ただ聞くだけでなくそれを行う人と、聞くだけで行わない人との違いが、地面を深く掘って岩、つまり岩盤の上に土台を置いて家を建てた人と、土台なしで家を建てた人とに例えられています。土台のない家は、川が溢れて水が押し寄せるとたちまち倒れてしまう、そのように、聞くだけで行わない人の信仰はすぐに破綻してしまうのだ、ということです。
 この二つの話においてそれぞれ語られていることは、特に難しい、分かりにくい話ではありません。どちらも、なるほどと納得できることです。また、この二つの話の結びつきも、何となく分かる気がします。つまり、木が、その結ぶ実で良い木か悪い木かを見分けることができるように、私たちの信仰が本物であるかどうかも、それがどのような実を結んでいるかで分かる。信仰における実りとは、み言葉をただ聞くだけでなくそれを行うことだ。聞いて行う、というしっかりとした土台の上に建てられている信仰は、試練にあっても失われてしまうことはない。そのように読めば、この二つの話は結び合うのです。けれども、このように読んで分かったつもりになるだけでは、本当に読めてはいないと言わなければならないでしょう。それではまさに「聞くだけで行わない」のと同じです。「分かる」とは「変わる」ことだ、という言葉があります。ここに語られていることが本当に分かるとは、私たちがそこに語られていることを行う者となることであるはずです。それはどういうことなのでしょうか。私たちは本日のこのみ言葉を読むことによって、どのように変えられ、新しくされるのでしょうか。そのことを真剣に考え、求めていく時に、私たちのこの箇所の読み方そのものが変わっていくのではないかと思うのです。

木はその結ぶ実によって分かる
 まず45節までの所についてもう一度見ていきたいと思います。木はその結ぶ実によって分かる、悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木もない、茨がいちじくを実らせることはないし、野ばらからぶどうの実は採れない。この、木とその結ぶ実についての話はまことにもっともであり、その通りです。しかしこのたとえが本当に語ろうとしていることは45節です。「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」。これは先ほども申しましたように、私たちの口が語る言葉、それが、私たちの心の倉に何が入っているかを示すのであり、どんな言葉を語っているかによって、私たちが善い人なのか悪い人なのかが分かる、ということです。これももっともなことであるわけですが、しかしこのみ言葉を自分の事柄として受け止めようとする時に、私たちは厳しい問いの前に立たされます。いったい自分は普段どのような言葉を語っているのだろうか、私の口から出る言葉が、私の心の倉の中にあるものの現れであるとしたら、私の心の倉に収められているのはどのようなものなのだろうか、と自分に問わざるを得ないのです。そしてそのように自問自答してみた時、自分の心の倉には良いものが収められており、良いものが口からあふれ出てきている、などと思える人はいないのではないでしょうか。皆さんはどうか知りませんが、私は少なくともそんなことはとても言えません。そしてそこでさらに見つめなければならないことは、ここに語られているのは、だから自分の語る言葉に気をつけよう、ということではない、ということです。ここには、口から出る言葉を整えれば心の中にあるものが良くなっていく、などとは語られていない。心の倉の中にあるものが口から出てくるのであって、心の中にあるものが変わらなければ口から出る言葉も変わりようがないのです。「悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない」とはそういうことです。神様の栄光を汚し、人を傷つけるような悪い言葉が私たちの口から出ているのだとしたら、それは私たちが悪い人間だからであって、言葉にいくら気をつけてももうどうしようもないのです。そう考えると、ここに語られていることは、まことに厳しい、恐しい言葉なのであって、呑気に「分かった」などと言ってはいられないものなのです。

家と土台
 46節以下の家と土台の話も、主イエスの言葉を聞いてそれを行う人こそが岩の上に土台を置いて家を建てた人だ、ということはよく分かります。しかし問題は、私たちが、主イエスの言葉を聞いてそれを行うとはどういうことなのか、です。それは言い方を換えれば、私たちが自分の人生の土台を本当に置くべき岩とは何なのか、ということです。そもそも、私たちが聞いて行うべき主イエスの教えとはどのような教えなのでしょうか。ここを読んだだけではその内容は分かりません。しかし私たちはこれまで、この「平地の説教」を読んできました。そこに、主イエスの教えが語られていたのです。それはどのような教えだったでしょうか。27節以下には、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」で始まる一連の教えがありました。また37節以下には、「人を裁くな、罪人だと決めるな、赦しなさい、与えなさい」と語られていました。これらのことが「わたしの言葉」です。ですから、「わたしの言葉を聞き、それを行う」というのは、敵を愛し、自分の悪口を言ったり侮辱する者のために祈り、人を裁いて罪人と決めることをせず、むしろ赦し、いつも人に与えようという思いを持って生きることです。これらのことを実行することこそが、「わたしの言葉を聞き、それを行う」ことであると考えられます。私たちが土台とすべき岩とはこのことであり、逆にこれらのことを実行しない人は、土台なしに家を建てたのと同じで、その家はすぐに倒れてしまうのです。このように読む時私たちはやはり厳しい問いをつきつけられます。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」という主イエスのみ言葉を自分は本当に実行しているだろうか。この言葉を聞いて行う人となっているだろうか。つまり自分の人生を、本当に確かな岩の上に土台を置いて築いているだろうか。これもまた大変厳しい、恐しい教えであって、簡単に「分かった」などと言えるものではないのです。

あなたがたは神の子
 しかし私たちはまさにここで、私たちがこれまで「平地の説教」をどのように読んできたのかをもう一度振り返って見る必要があります。例えば「敵を愛しなさい」という教えですが、これは、自分を磨き、心を清めていくことによって、敵をも愛することができ、自分を憎む者にも親切にし、悪口を言ったり侮辱する人のためにも祝福を祈ることができる、そういう寛容な、愛に溢れる人間になれるように努力しなさい、という教えではない、ということを私たちはこれまでに確認してきたのです。これらの教えは、27節に「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」とあるように、主イエス・キリストのもとに集い、主イエスのみ言葉を聞いている人々に対して語られたものです。主イエスのもとに集っていない、み言葉を聞いてもいない世間一般の人々に対する一般的な道徳律ではなくて、これは主イエスのみ言葉を聞き、従っている弟子たち、つまり信仰者に対する言葉なのです。そのことは、35節の「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」という言葉からも分かります。ここはその前の34節に語られている「罪人」の姿との対比の中で、「しかし、あなたがたは」と言っているところです。つまり主イエスは「あなたがた」弟子たちを他の人々、神様を知らない罪人とはっきり区別して、「あなたがたは敵を愛しなさい」と言っておられるのです。それは、35節の続きにあるように、「いと高き方の子となる」ためです。私の言葉を聞いて従ってきているあなたがた弟子たち、信仰者は、いと高き方である神様の子供となるために、敵を愛しなさい、と言っておられるのです。それは、敵をも愛することができるような、寛容で愛に満ちた立派な人間になることによって神様の子供となる資格が得られる、という話ではありません。35節の終わりには、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」とあります。神様は、愛と寛容に満ちた立派な人をのみ愛して、神の子として下さるのではないのです。むしろ恩を知らない者や悪人に対して情け深く、そういう者たちをご自分の子として迎え入れて下さるのです。「恩を知らない者」とはまさに私たちのことです。神様によって生かされ、様々な賜物を与えられて人生を歩んでいる私たちですが、その全てを与えて下さった神様に感謝することがまことに少なく、全ては自分が自分の力で得たものであるかのように錯覚して好き勝手に生きているのが私たちです。その恩知らずの悪人である私たちに対して、神様は情け深く、憐れみ深くあって下さり、私たちのために独り子イエス・キリストを救い主として遣わして下さったのです。そして主イエスは、神様に敵対する敵であった私たちを愛して、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。つまり「敵を愛しなさい」というみ言葉を語るだけでなくまさに私たちのために行なって下さったのが主イエス・キリストなのです。私たちはこの主イエスのもとに集い、そのみ言葉を聞き、主イエスによる救いにあずかり、主イエスと共に歩むことによって、神の子とされるのです。主イエスと共に、神様を父と呼ぶことを許されるのです。そしてその恵みを与えられた者に、主イエスは36節で、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と語りかけておられるのです。ですから主イエスがここで語っておられるのは、「あなたがたはわたしの言葉を聞いている弟子、信仰者であり、憐れみ深い父なる神様の子とされている。だからあなたがたは、敵を愛することができるはずだ」ということなのです。

主イエスの言葉を聞いて行う
 ひと月以上前に、「平地の説教」の前半において私たちはこのことを教えられました。その説教のしめくくりである本日の箇所を読む時にも、このことを踏まえておかなければなりません。その時、「わたしの言葉を聞き、それを行う」ということの本当の意味が見えてくるのです。主イエスの言葉を聞いて行うとは、自分の力で自分を磨き、敵をも愛することができるような寛容な、愛に満ちた心を養い、それを実行していくことができる立派な人になることではありません。主イエスの言葉は、何よりも先ず、「私の言葉を聞いているあなたがたは、恩知らずな悪人だけれども、しかし神様はそのあなたがたを憐れんで、神の子として下さった、あなたがたは既に神の子なのだ」と語っているのです。このみ言葉を本当に聞き、そのみ言葉に基づいて生きること、つまり、自分は、自分の清さや正しさや寛容によってではなく、恩知らずの悪人であるにもかかわらず、ただ神様の憐れみによって神の子とされているのだ、と信じて生きること、それこそが、主イエスの言葉を聞いて行うことなのです。そしてこのことこそが、私たちが人生の土台をその上に据えるべき岩、岩盤です。先ほどは、み言葉を聞いて行う、というしっかりとした土台の上に家を建てることが大切だ、というふうにここを読んだわけですが、それは違うと思うのです。主イエスは、私たちが、聞いたみ言葉をどう行うか、実行することができるか、そういう私たちの力、私たちの立派さや寛容さ、信仰的実力などの上に人生の土台を置けと言っておられるのではありません。そもそも私たちの力や立派さや愛や寛容さなど、人生の土台をおけるほどしっかりした岩ではありません。そんなものの上に建てられた家はあぶなっかしくてとても住めたものではないのです。私たちが、人生の土台を据えるべき本当にしっかりとした岩は、主イエスのみ言葉です。そのみ言葉は、いと高き方である神様が、独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって私たちに新しい命の約束を与えて下さったこと、それによって私たちは神の子とされていることを告げています。この神様の恵みのみ言葉こそが岩なのです。この岩の上に土台を置いて築かれている人生は、全てを押し流そうとする洪水が襲ってきても、揺り動かされずに、しっかりと立ち続けることができるのです。この岩の上に人生の土台を置くためには、地面を深く掘り下げなければなりません。この岩はこの世の目に見える事柄の背後に隠されていて見えませんから、地面を掘り下げていくことが必要なのです。それが信仰です。信仰というのは、自分の力で人生の土台を築こうと努力することではありません。そういうことをやめて、目に見えるこの世の事柄の背後にある神様の恵みを求めて日常の生活の地面を深く掘り下げていくことです。このような信仰に生きることこそが、み言葉を聞いて行うことなのです。
 他方、「聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」と言われています。それは、主イエスのみ言葉に示されている神様の恵み、私たちを神の子として下さっている憐れみのみ心を受け止めることなしに人生を歩む者のことです。そのような人生は、この世の目に見える事柄という地面の上に、土台なしに家を建てるようなものです。いや、本人は土台をしっかり据えたつもりになっていても、その土台が岩盤の上に乗っていないから、土台の役に立たないのです。洪水になって川の水が押し寄せると、その家はたちまち倒れてしまうのです。

心からあふれ出る言葉
 さてそれでは、45節までの所の、「木はその実によって分かる」という話は何を語ろうとしているのでしょうか。このたとえは、先ほども申しましたように、45節の「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」ということを語るためのものです。心の倉の中にあるものが、口から出る言葉となって現れるのです。先ほどはここを、み言葉を聞いて行うという信仰の実を結んでいるかどうかで、その人の信仰が本物かどうかが分かる、というふうに読んで46節以下とつなげたわけですが、しかし実はここで問題となっているのは言葉です。どういう言葉を語るかによって、その人の心の中にあるものが分かる、と言っているのです。このことに目を向けた時、46節以下とのつながりはむしろ46節の「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶ」というところにある、ということが見えてくるのではないでしょうか。主イエスに向かって、「主よ、主よ」と呼ぶ、その言葉です。その言葉が口から出るということは、それは「心からあふれ出ることを語」っているのだ、と言っているのです。これはいささかややこしい話ですので、少し別の角度から見つめてみたいと思います。

岩の上に土台を置いて
 私たちは、まさに46節に言われているように、主イエスに向かって「主よ、主よ」と呼びながら、主イエスのおっしゃることを行うことのなかなかできない者です。「敵を愛しなさい」という一つのことをとってもそうです。イエスは主である、という信仰告白の言葉を語りながら、敵を愛し、自分を憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈ることができない、むしろ、敵への憎しみや非難の言葉や、あんな人は兄弟姉妹として認めない、受け入れない、という言葉ばかりが私たちの口から出てしまうのです。つまり私たちは、主イエスに向かって「主よ」と語る私たちの信仰の言葉と、隣人を傷つけ神の栄光を汚してしまうような言葉と、両方の言葉を語りつつ生きているのです。いったいどちらが私たちの心の倉に本当にあるものなのだろうか、と思います。そして先ほど申しましたように私たちは、不信仰な悪い言葉が出るということは私たちの心の倉には悪いものがつまっているのだ、善い人のように取り繕っていても、本当は悪い人だということがこういう言葉によって暴露されるのだ、と考えてしまいがちなのです。けれども主イエスはここで、心からあふれ出ることを語る言葉として「主よ、主よ」と呼ぶ信仰の言葉を取り上げておられます。つまり、あなたが私を「主よ」と呼ぶ信仰の言葉こそ、あなたの心からあふれ出る言葉、あなたの心の倉にあるものなのだ、あなたの心には、私を信じる信仰があるのだ、と言って下さっているのです。現実には、主イエスを「主よ」と呼びながら、主のみ言葉を行わない、敵を愛するよりもやはり憎んでしまうような私たちです。そのような私たちに主イエスは、この説教においてこのように語りかけておられるのです。「私の言葉を聞いているあなたの心には、そのわたしの言葉が宿り、敵であったあなたを愛して神の子として下さる父なる神様の憐れみと恵みが注がれている。その恵みによってあなたはわたしを「主よ」と呼ぶ信仰の言葉を与えられている。その信仰の言葉こそが、あなたの心の中に本当にある思い、あなたの本心の現れなのだ。あなたは、その本心の通りに生きるならば、わたしの言葉を聞くだけでなく、それを行うことができるようになる。敵をも愛する者として生きることができるようになるのだ」と言っておられるのです。自分の力で自分を磨いてそうなるのではありません。神様が主イエスによって与えて下さっている救いの恵みという岩の上に土台を置いて生きるところでは、敵をも愛しつつ生きる者へと私たちは変えられていくのです。「平地の説教」において主イエスは、私たちを無理難題によって困らせようとしておられるのでもなければ、お前は悪い実しか結ぶことのできない悪い木、悪い人間だ、お前のような者は人生の洪水に押し流されて倒れてしまうぞ、と脅しておられるのでもありません。主イエスは私たちを、神様の憐れみと恵みの下に生きる神の子とし、またその信仰が私たちの生活に、敵をも愛するという本当に良い実りを生むものとなるように支え、助け、励まして下さっているのです。

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