主日礼拝

宣べ伝える主

「宣べ伝える主」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第63章15-19節 
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第1章14-16節
・ 讃美歌:3、403、494

ヨハネが捕らえられた後
 本日はマルコによる福音書の第1章14と15節の御言葉に共に聞きたいと思います。本日与えられました箇所は「ヨハネが捕らえられた後」と始まっております。このヨハネとは、このマルコによる福音書の最初から登場しております洗礼者ヨハネのことであります。洗礼者ヨハネは荒れ野へと出て行きました。荒れ野とはそこには命のない荒涼とした場所であり、神様の助けがなくては生きることができない場所であります。だからこそ荒れ野は神との出会い、神様を知る場所と言う意味があります。ヨハネはそのような荒れ野へと出て行き、神様を求め、罪と向き合い、人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。多くの人々がヨハネの元へ集まりました。ヨハネは人々が悔い改めの洗礼を受けるために荒れ野に来るのを待っておりました。厳しい環境の荒れ野へと出てくることは容易ではありませんので荒れ野へ出て来ることそれ自体が既に悔い改めの始まりを意味しております。ヨハネは人々が荒れ野で信仰を新たにすることを求めておりました。主イエスに先だって、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えたヨハネは、主の道を備えた人でありました。けれども、ヨハネはその妥協なしに不義を問いただす姿勢のゆえに、捕らえられてしまいました。人々はヨハネに期待しました。ヨハネを通して神の勝利が示されること、この預言者こそ捕らえられるはずはないと、期待をしていたのです。神が示す正義、神が共にいることを人々は期待しておりました。けれども、ヨハネは時の権力者に捕らえられてしまいました。その出来事の後に主イエスがガリラヤへ行かれたと言うのです。

罪の世界へ
 主イエスは神の福音を宣べ伝えるためにガリラヤへ行きました。そして、主イエスは深い神の到来をお告げになるのであります。主イエスはユダヤ人たちのいるガリラヤへと行かれました。人の目には信仰から遠いとされていた罪人や徴税人のもとへと主イエスは行かれたのです。信仰から遠いとされていた人々に私たちは自分自身を重ねることも出来るでしょう。信仰から遠いように見えるこんな自分のところにまで主イエスは来て下さる。そのようなお方が主イエスなのであります。またそれは同時に私たちが多々「信仰から最も遠い所にいるあの人」と決めつけてしまう人がおります。そのような人のところへも主イエスは近づいて下さっているのです。罪人である人間の世界へと主イエスは進まれたのです。

第一声
 主イエスがこの世に現れ、神の福音を宣べ伝えました。神の福音の内容は主イエスが語られた「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言うことです。決して長いとは言えない御言葉であります。この御言葉は、主イエスのガリラヤにおける伝道の第一声であります。いよいよ時が満ち、神の国が近づいた、だから、悔い改めて福音を信じて救われなさい、と言っています。この御言葉は主イエスの地上におけるすべての活動と教えを短く纏めている言葉であると言えます。この主イエスの御言葉こそマルコによる福音書の主題であり、この福音書全体の中心の言葉ともなります。

時は満ちた
 主イエスは15節の最初には「時は満ちた」と言われます。「時が満ちる」とは、聖書の独特の表現です。ここで言われている「時」とは、私たちの日常を流れていく「時間」とは異なります。そのような時間はギリシャ語でクロノスと言われています。しかし、ここでは、カイロスという別の言葉が用いられています。ここで言われているのはただ流れていく時間でありません。質的に意味を持つ特別な「時」であります。そのような「時」がきたのです。そして「満ちる」という表現が使われています。「時」が「満ち溢れるようになる」と言うのは、まるで海の潮が満ちて来て遂に満潮に達するように、歴史を通じて神様の救いの計画が次々と実現していく、そして遂に、最も重要で決定的な「救いの時」が来た、という意味です。神様がこの世が始まる前から定めておられた、決定的な時が訪れた。神様はこの特別の時を、天地創造の初めから心に思い定められ、この時、主イエスの到来という特別な時に向かって、全ての歴史を導いておられたのです。そのためにアブラハムを選び、その子孫から神の民イスラエルを造り、彼らをエジプトから救い出し、十戒を与え、様々な試練と紆余曲折を経て、遂に全人類の救い主、メシアである主イエスをお遣わしになったのです。神がこの世に主イエスを遣わすことこそ、神の計画の時が満ちたということです。救い主なる、主イエスがこの世に来られた。神の福音を宣べ伝え始められたことは神の救いの約束の成就なのであります。聖書は一貫して神の約束と約束の成就の歴史を記しています。神の約束を待ち望む時間が今や満ちたのです。神の人類に対する救いの約束が成就された、その時が訪れたのです。主イエスの「時は満ちた」と言うこの宣言によって神の救いの約束が成就されたのです。神は、主イエスを通してご自身を示し、私たちに救いをもたらして下さるのです。

神の国が近づいた
 「時は満ちた」という宣言に続いてその次には「神の国は近づいた」とあります。時が満ちて「神の国が近づいた」。「神の国」とは、元々は「神の御支配」という意味の言葉です。罪人である人間が支配するこの世のただ中に、神の国である神の支配が近づいたのです、と主は宣言されています。この「近づいた」と言う言葉には「すぐそばまで来ている」という意味なのか、または「もう既にここにある」ということなのかという疑問が出てきます。「神の国」とは、神の御支配であり、それは主イエスの存在、言葉、業と切り離して理解することはできません。主イエスの到来、主イエスがおられるところ、主イエスが語りかけて下さるところ、そこには神の国が既に来ているのです。神の国、即ち神の恵みのご支配が、この救い主の到来、主イエス・キリストの到来によって実現している。主イエスによって明らかにされているということです。私たちの方から神の国へと一歩一歩近づいているわけではありません。神の国を自分の方へ引き寄せることもできません。神の国を待ち望む私たちは岸壁で船の到着を待っている人に似ております。神の国という船を待っている。自分の方から船に近づいていけるわけではないということでしょう。大声で呼びかけてみる。焦がれる思いで船と船に乗っている人を待っている。しかし船の歩みを少しでも速くすることはできません。ただひたすら待っている。私たちは1ミリも近づいていない。船の方がこちらに近づいてくる。そして主イエス・キリストによってこの世に神の国、神の支配が到来したのです。主イエスを通して神様が私たちのところにまで来て下さった。私たちに何かその資格があったからでしょうか。私たちが何か善き業を行ったからでありましょうか。神が私たちの側の行為とは全く関係なく、主イエスをこの世に遣わされました。その主イエスは「福音を信じなさい」と言われました。福音とは喜ばしいおとずれです。喜びの知らせです。神は喜びをもってわたしたちのところにまで来て下さった。喜びの知らせとは、神の喜びであり、それが私たちの喜びでもあるのです。神の支配が到来した。主イエスの宣言であるこの福音は私たちを喜びへと招いています。私たちは喜ぶことができるのです。なぜなら、神の喜びの知らせ、福音が到来したのです。

心の向きを変えて
 「神の国が近づいた」とは神の国が到来したということであり、この主イエスの宣言は喜びへの招きであります。そして「悔い改めよ」との命令は、喜びへの回心を呼びかけていることであります。「悔い改めて福音を信じなさい。」とは、「悔い改めなさい。そして福音を信じなさい」という二つの事柄が語られております。けれども、悔い改めることと福音、喜びの知らせを受け入れることとは一つのことなのであります。主イエスの悔い改めの呼びかけは即ち、喜びのおとずれであるといことです。悔い改めるというのは、私たちが夜寝る前に一日を思い起こし、犯した罪を一つ一つ悔い改めるという人間の業ではありません。私たちは悔い改めねばならない、という義務ではありません。悔い改めは私たちに負わされている重荷ではありません。そのようなことではなく、私たちが主の招きに答えることであります。主イエスが私たちのところまで来て下さって、恵み深く私たちを招いて下さっている。私たちは何の功もないままに、このお方の元に立ち返ることが赦されている。この「悔い改め」という言葉は、「心の向きを変える」という意味の言葉です。私たちの歩みが180度転換することです。心の向きを変えて、主イエスの元に立ち返ることが悔い改めなのです。主イエスの元に帰っていくことこそが喜びなのであります。ある説教者「悔い改めとは、思い煩いを自分の後ろに投げ捨て、神の豊かさによって生きることである」と言っております。洗礼者ヨハネも悔い改めを求めました。自分自身だけを見つめ、小さな自分自身の中にうずくまっているところから向きを変えて、神に立ち帰ることをヨハネも求めました。しかし、ヨハネは「罪の赦しを得るためには、あなたは神に立ち帰らねばならない」と語ったのです。主イエスは私たちのもとに来て、主イエスが人間の罪を贖ったのだから、主イエスがこの世に来たことによって、私たちは神に立ち返ることができるのです。神に立ち帰って良い。神の喜びの中に入ることを赦して下さったのです。主イエスは福音を語られたのです。福音、即ち喜びの知らせとして悔い新ためを語られました。神に立ち帰ることが私たちの喜びであります。世の中には様々な喜びの知らせがあるかもしれません。聖書が告げるのは、ただ一つの喜びの知らせであります。主イエスが救い主であるということです。主の語る福音を信じることは、即ち主イエスを信じることです。そのお方、福音を信じる歩みです。

十字架によって
 私たちは、この福音の中で新しい歩みを始めます。主イエスが訪れる前、人々は主イエスの到来を待ちつつ時間を過ごして来ました。そして、主イエスの到来は、一つの約束の成就であると同時に、新しい約束がなされたということでもあります。私たちは、既に訪れた神の国、神の恵みのご支配の中を生きております。主イエスはその福音を私たちに告げて下さっております。福音の招きを聞きつつも、神に背き逆らっている私たちであります。その心の向きを変え、主イエスによって到来している神の恵みのご支配(福音)を信じ受け入れるなら、私たちの清さや正しさによってではなく、罪人である私たちがこの福音にあずかることができる神の恵みの支配、即ち福音とは主イエスの十字架と復活によって示された神の支配であります。主イエスの十字架と復活によって私たちは罪の赦しが与えられました。

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