夕礼拝

試練によって

「試練によって」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: ゼカリヤ書 第13章7-9節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章6-7節
・ 讃美歌 : 343、470

はじめに
私どもが今手にしている聖書、新共同訳聖書によりますと、本日の箇所は「生き生きとした希望」という見出しが、便宜上に付されております。このペトロの手紙は、信仰を与えられ、信仰を告白し教会への入会である洗礼を受ける人への励ましとすすめのことばを書いたものだと言われております。手紙の書き手が、小アジアの教会にいるキリスト者達に対して、この世の荒波を生き抜いていくために必要な心備えを、このペトロの手紙全体は一貫して描いております。けれども私たちの歩みの中には、自分が思い描いているシナリオとはまったく違う方向に事態が進んでしまうことがあります。予期せぬ事件や、突然の出来事に戸惑いを覚えるときがあります。踏み出した以上はこのまま行くべきなのか、それとも一切をご破算にして白紙に戻すべきなのか、私たちは大きな葛藤の中に立たせられる時があります。主イエス・キリストとの出会いを与えられ信仰の生活をしている者たちの歩みというのは何も問題はなく順風満帆なのでしょうか、何も問題はない、そのようなわけではありません。神様と出会ってしまったがために、「神様、今なぜこのようなことを起こすのでしょうか」と問わざるを得ない状況が起こります。

信仰の生活
本日のペトロの手紙1第1章、7節にはこのようにあります。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」この手紙の著者は、色々な試練と言うのは信仰が本物であるかどうかを明らかにするために役に立つのだ、と言っております。現実の試練がどんなに苦しくても、その中でなお喜びうることを告げ知らせるのです。なぜ、そのように、現実の試練の中でも、喜べると言うのでしょうか。この日常生活を歩んでいる中で、一体、本当の喜び、心からの喜びとはどのようなものでしょうか。その喜びをいつ、どこで得られるでしょうか。人によって違うのかも知れません。普段の日常の歩みの中で喜びを見出す、普通の生活の中に小さな喜びがあると思うのでしょうか。信仰の生活と言うのは、イエス・キリストの十字架と復活によって、罪を赦され、その方を救い主として信じる生活です。そのような救いを受けた者の生活が、信仰の生活であるでしょう。救われるというのは、喜ぶことが出来なくなっている者が自分を苦しめているものから、解放されて、今は全く心配もなければ、悩みもなくなった、と喜ぶのであります。救われた者、即ち信仰生活をしている者が、心から喜ぶことが出来るはずでありましょう。「それゆえに、あなたがたは心から喜んでいるのです」本日の箇所は、「それゆえ」と始まっております。それゆに、それであるから、だから、こうである。それまでに語られていることを受けて、特に5節で語られていること、「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」神様の守りを信じ、この世で様々な試練に出会い、時には苦しみ、悩むことがあっても、それらに打ち勝って喜んでいるはずだというのであります。それゆえにあなたがたは心から喜ぶことができるというのです。救いを与えられた者、救われた者の喜びの根拠はこの世にはない。この世界には、試練があるのと同時に、同じくらいたくさんの楽しいことがあります。けれども、この世だけにしかない、この世だけにしか存在しない喜びは、どれだけ私たちを助けてくれるでしょうか。この地上にのみ喜びがあるのであれば、年齢を重ねていくということはとても辛いことです。若い時だけがいい、健康があるとき、体の自由が効き動ける時だけにしか喜びがないというのであれば、年齢を重ねるのは本当に辛いことです。けれどもそれでは、若ければ良いのかと言うとそうでもありません。このような人生にあって、主イエス・キリストの復活によって与えられている希望と共に歩んでいく。主イエスが再び、この地上に来られるという約束を信じ、待ち望む、それがキリスト者の希望でありましょう。神様の守りを身に受けている人はどんな試練の中にあっても、希望を持って喜ぶことができる。信仰者にとって、あらゆる試練は信仰を試すものにほかならない。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」苦難を試練へと変えて行く人はイエス・キリストが再び来られるとき、その称賛と光栄と誉れとをもたらすのである。ペンテコステの出来事以来、聖霊である神は今も私たちの間におられ、私たちは聖霊を受けております。けれども、まだ隠されているのであります、しかしやがて幕が上げられ、キリストが私たちの目に明らかになるとき、終わりの時、神の国が地上に実現する日、その時までキリスト者は神の祝福を様々な試練の中で味わうのです。我らの罪のために十字架にかかり、三日目に復活されたイエス・キリストが共にいますことに安んじて生きるところからくる喜びです。このような喜びを知っている人は、「神の憐れみによって新しく生まれた人」で「生きた望み」を与えられた人、「朽ちず、汚れず、しぼむことのない天の財産を受け継ぐ人」といわれています。どうして「新しく生まれた人」なのでしょうか。それは、このような喜びは、自然の感情が成長し成熟していけば獲得できるようなものではないからです。神の憐れみによりキリストの命にあずかって新しく生きるときに与えられる感情であるからです。また、どうして「生きた望み」なのでしょうか。それは試練の中でも、苦しみを受ければ受けるほど喜ぶという性格をもっている望みに根ざしているからです。その喜びが出てくるところは、人を生かす力を持った希望、復活の命に根ざして、生きる力を与える希望であるからです。

今しばらくの間
けれども、続けて「今しばらくの間はいろいろな試練に悩まなければならないかもしれませんが、」とあります。心から喜んでいるけれども、今しばらくの間は色々な試練に悩まなければならないかもしれない、この手紙の著者ペトロは言います。この色々な試練の具体的な状況はこの手紙全体の流れから、この手紙を受け取った者たちの状況から推測することができます。今しばらくの間、試練の中にある人達への手紙であるということです。けれども、やがて受ける望みを待ち望む希望に歩むのが信仰を持つということです。信仰を与えられた者にも困難がなくなってしまうわけではありません。けれども、困難の意味が全く違ったものになるということです。なぜなら、困難もすべて神の御手の内に置かれているからであります。試練とは、外から来る色々な困難であります。「悩まねばならない」今われわれが生きているこの生活では、信仰に反する力がいくらでも働いているのですから、信仰生活をしている者はどうしても困難な目に会うことになるのです。大きな望みの中には生きてはいるが、今のこの生活では、望みはまだ実現していない。私たちがこの世に生きているのは、信仰により、望みを持って生きているので、望んでいることは、まだ実現していない、まだ具体的には見えていないのであります。信仰によって与えられたものはまだ約束でしかない。けれども目に見えないからこそ、望みであり、確かなものであります。

  主イエスこそ
主イエスは十字架の出来事を目の前にして、弟子たちにこのように言いました。ヨハネによる福音書の言葉でありますが「あなた方はこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」主イエスが弟子として招いた弟子たちにも、悩みがあると知っておられました。主イエスは、その十字架と復活の出来事のゆえに世に勝っている、勝利している、それだから、尽きるのことのない望みが与えられている、安心しなさいと、言うのであります。試練とは苦しみではないのです。苦しみではなく、試練に悩まなければならないということは、苦しみとして受け取っていないということです。苦しみを自分を鍛える試練として、積極的に受け取っているのです。「こうしてあなたがたの信仰がためされる」とあります。信仰を試される、試練というのは試されることであります。信仰を鍛錬する、鍛えるのであります。きたえて、純粋さを出すことであります。与えられた信仰が一層純粋になること、私たちが純粋な信仰生活を送るということが記されております。ゼカリア書13章9節ではこのようにあります。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえわたしの同僚であった男に立ち向かえと 万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。」神の言葉を託された預言者ゼカリアの言葉であります。主イエスはこの7節の後半を、ご自分の死と弟子たちの離散との場面で引用しております。イエスは「あなたがたは皆わたしにつまづく」なぜなら、「わたしは羊飼いを打つ、すると羊は散ってしまう」と書いてあるからだ。このようなことを数え上げれば、実に多くの大切な訓練が必要である。試練が必要である、と言います。鍛えられた信仰であり、信仰を鍛えるのです。いやな辛い苦しみと思わないで、信仰のために与えられた、積極的に受け取れば私たちの信仰を鍛える、パウロの言葉はこうです、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」私はたち、初代の弟子たちのように、地上を歩まれたイエスを見ることはできない。しかし、私たちのために、誰よりも試練を受けられ、十字架において死んで復活された今もなお生きておられるキリストを愛し、信じて、喜ぶことはできるのであります。この方と共にこの1週間を歩んで参りましょう。

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