夕礼拝

神への献げ物

「神への献げ物」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第1章1-17節
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第12章1節
・ 讃美歌 : 113、441

レビ記に入る
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書からみ言葉に聞いています。2003年の9月にこの教会に着任して以来、創世記、出エジプト記を読み進めてきました。本日からは三つ目のレビ記に入ります。レビ記というのは、旧約聖書の中でも大変読みにくい、とっつきにくい書物です。物語的な要素は全くなく、今の私たちの生活には全然つながらないような、細々とした掟が延々と続いていくのです。ですから、聖書を通読しようとして創世記から読み始め、出エジプト記まではなんとか続いてきても、このレビ記でついに挫折するということは多いと思います。通読しようとする者の前に立ちはだかる大きな壁がこのレビ記だと言えるでしょう。しかし、我慢して読んでいくと、このレビ記には大変大事ないくつかのことが語られていることにも気づきます。例えば、主イエス・キリストが、律法の中で最も大事な教えとして指摘なさったことの一つである、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という教えはこのレビ記の19章18節です。そのように、このレビ記にも、私たちの信仰にとっての宝が沢山隠されているのです。これからしばらくの間、私が夕礼拝を担当する日には、このレビ記に隠されている宝をご一緒に発掘していきたいと思います。

献げ物による礼拝
 レビ記の最初のところには、神様への献げ物についての掟が語られています。神様に献げ物を献げることがイスラエルの民の礼拝の中心でした。彼らはそのことによって主なる神様との交わりを持ち、神の民として歩んでいったのです。ですから、どのような献げ物がなされていたか、その意味は何だったかを知ることによって、イスラエルの人々が主なる神様をどのように礼拝していたのか、神様とどのような交わりを持っていたのか、つまり彼らがどのような信仰に生きていたのか、が分かるのです。その献げ物についての掟は第1章から第7章にかけて語られています。先程は第1章だけを朗読しましたが、本日は1章から7章の全体を視野に置いて、神様への献げ物についてレビ記が語っていることを見ていこうと思います。そしてそのことが私たちの礼拝、信仰とどう関わるのかを考えていきたいのです。

献げ物の種類
 レビ記第1章から第7章を読むと、神様への献げ物にいくつかの種類があることが分かります。それを先ず整理しておきます。新共同訳聖書には小見出しがつけられているので便利です。先ず第1章には「焼き尽くす献げ物」のことが語られています。これは動物を犠牲として献げるのですが、文字通り、全て焼き尽くして神様にお献げするものです。第2章は「穀物の献げ物」についてです。これは小麦粉を主たる材料とする献げ物です。第3章は「和解の献げ物」となっています。これは「焼き尽くす献げ物」と同じく動物の献げ物ですが、違う所もあります。それについては後で触れます。第4章から第5章13節までは「贖罪の献げ物」です。その名の通り、神様に対する罪の贖いのための献げ物です。これも牛や羊や山羊を献げるのですが、貧しくてそれができない場合には鳩でも、それもできない場合には小麦粉でもよいとされています。そして第5章14節以下は「賠償の献げ物」です。これらの五つの献げ物がレビ記に定められています。以下、その一つ一つの意味を見ていきたいと思います。

焼き尽くす献げ物
 先ず第1章の「焼き尽くす献げ物」です。それには原則として牛、羊、山羊の、無傷の雄が用いられます。それを全て焼き尽くして神様に献げるのです。これが全ての献げ物の中で最も大事な、中心となるものです。それを献げる時には、4節にあるように、犠牲の動物が殺される前に、献げる人が手をその動物の頭に置くのです。これは、その動物がその人自身の身代りとなることを表す所作です。つまり「焼き尽くす献げ物」は、自分の持っている家畜つまり財産の一部を献げるというのではなくて、自分自身を献げるということなのです。自分自身を全て焼き尽くして神様にお献げする、それが「焼き尽くす献げ物」の本当の意味です。それが、神の民イスラエルにおける礼拝の中心であり、主なる神様を礼拝することの本質がここに示されています。礼拝とは、自分の心と体の全てを神様に差し出し、お献げすることなのです。主なる神様を信じ、神様の民として生きるとは、礼拝において、自分の全てを神様にお献げして、神様のものとして生きることなのです。礼拝のこの本質は私たちにおいても同じです。信仰者として生きるとは、礼拝において自分自身を神様にお献げしつつ、神様のものとして生きることなのです。自分の生活を先ず確保した上で、余裕があったら、余った時間とお金を用いて神様を礼拝するというのでは、本当の信仰に生きているとは言えません。レビ記に語られているように、礼拝の中心的な要素として神様に献げ物をすることがあります。私たちの礼拝においてその要素を具体的に表しているのは「献金」です。献金は、単なる会費集めではなくて、神様への礼拝の大切な要素であり、自分自身を神様にお献げすることの目に見える印、献身の印です。ですからそこに、その人の信仰が最も端的に、具体的に現れます。勿論人それぞれ生活の事情は違いますから一概に言うことはできませんが、基本的には、百円二百円のお賽銭程度の献金をして神様を礼拝することができると思ったら大間違いなのです。それでは一万円すればよいのかというと、そういうものでもありません。一万円だろうと、百万円だろうと、一千万円だろうと、本当は十分ではないのです。神様が私たちに求めておられるのは、私たちの財産ではなくて、私たち自身だからです。自分自身をお献げするのでなければ、本来私たちは神様のみ前に立ち、礼拝をすることなどできないのです。しかし神様は、私たちが生きていけなくなるような、生活が成り立たなくなるような仕方で全てを献げよとはおっしゃいません。そのために、牛や羊や山羊を、その人自身を献げることの印として受け止めて下さるのです。9節、13節、17節に、「主にささげる宥めの香り」という言葉があります。これは以前の口語訳聖書では「主にささげる香ばしいかおり」と訳されていました。動物を、自分自身の身代りとして焼き尽くして献げる時、それは「香ばしいかおり」として天へと昇っていきます。「香ばしい」と言われているのは、神様がその献げ物を喜んで受け入れて下さるからです。神様が喜んで受け入れて下さるのは、献げられた動物ではなくて、その動物に手を置いて自分自身を献げている人間です。自分自身の全てを神様にお献げする思いをもって礼拝する人間を、神様は喜んで受け入れ、祝福を与え、神様との良い交わりを与えて下さるのです。
 この「焼き尽くす献げ物」がイスラエルの礼拝の中心でした。先ほども申しましたように、このことは、新しいイスラエル、新しい神の民とされている私たちの礼拝においても同じです。私たちは今、動物を焼いて神様にお献げするという礼拝をしてはいません。しかし私たちにおいても、礼拝の根本はこのレビ記における礼拝と同じなのです。そのことを語っているのが、本日共に朗読した新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第12章の1節です。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。いけにえを献げることによって神様を礼拝する、それは旧約聖書の時代のイスラエルの民においてなされていたことです。教会の礼拝も基本的にはそれと同じなのです。私たちが神様にお献げすべき本当のいけにえは、動物ではなくて私たち自身です。ここに語られている、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」ることこそが「焼き尽くす献げ物」の根本的精神であり、そのような礼拝こそ、私たちの「なすべき礼拝」なのです。

穀物の献げ物
 さてこの「焼き尽くす献げ物」を中心として、第2章以下にはいくつかの献げ物の種類が語られています。2章の「穀物の献げ物」は、小麦粉を主体として作られた献げ物ですが、それは祭司のもとに差し出されます。祭司はその一部を祭壇で燃やして煙として神様に献げ、残りは祭司たちのものになるのです。祭壇で燃やされる一部は、2章の2節、9節、16節において、「しるしとして燃やされる」と言われています。口語訳聖書ではこの祭壇で燃やされる一部のことが「記念の分」と訳されていました。「しるし」とは「記念」ということです。記念するのはここでは人間ではなくて神様です。この献げ物は、神様に、「私のことを記念して下さい、覚えて、み心に留めて下さい」という願いを込めてなされるのです。神様がそのように覚え、記念して下さることのしるしとして、この献げ物は燃やして献げられるのです。
 その残りが祭司のものとなるのは、神様への礼拝を司る祭司たちの生活は、民の献げ物によって支えられるべきである、ということを意味しています。このことは、次の「和解の献げ物」「贖罪の献げ物」「賠償の献げ物」においても同じです。礼拝を司る祭司は、イスラエルの民が神様に献げるものの一部によって生活を支えられるのです。しかし「焼き尽くす献げ物」だけはその対象ではありません。それについては、全てを焼き尽くして神様に献げなければならないのです。それは、献げる人自身の全てが神様のものとなることを表すものだからです。そこに、「焼き尽くす献げ物」が他の献げ物とは違う特別な意味を持っていることが見て取れるのです。

和解の献げ物
 第3章の「和解の献げ物」は、牛、羊、山羊を献げるのですが、「焼き尽くす献げ物」よりも制限が緩く、雄でも雌でもよいことになっています。そしてその最大の特徴は、7章11節以下に語られているのですが、その動物の一部が焼かれて神様に献げられ、一部は祭司が食べ、さらに一部を献げた人が食べる、ということです。つまり神様と、祭司と、献げる者とが一頭の動物を共に食べる、ということが行われるのです。そのことは、神様と献げ物をした人との交わりが、祭司の仲立ちによって確認されるという意味を持っています。このようにこの献げ物は、主なる神様と人間との交わりを確認するためのものです。これを「和解の献げ物」と訳すのはあまり適切ではないと思います。なぜならこの献げ物は、神様との和解のためと言うよりも、これは7章11節以下に語られていることですが、一つには「感謝の献げ物」として、あるいは「満願の献げ物ないしは随意の献げ物」としてなされるからです。「満願」というのは、何か願い事をしてそれが叶えられたことへの感謝ということですし、随意の献げ物というのは、生活のいろいろな場面において、神様との交わりを確認し、神様と共に生きていくために自発的になされるものです。つまりこの献げ物は、信仰者が、その生活の節目々々において、神様への感謝、願い、決意などを表しつつ、神様との交わりを確認しながら生きていくためのものなのです。神の民は、人生の節目々々を、神様を礼拝しつつ、神様との交わりの中で歩んでいくのです。私たちの信仰生活もそれと同じです。私たちの人生には様々なことが起ります。喜びもあれば、悲しみ苦しみが襲ってくることもあります。また右へ行くか左へ行くか、重大な決断を迫られるということもあります。そういう人生の節目々々において、神様を礼拝し、神様との交わりを確認し、整えられながら歩むことが、信仰をもって生きるということなのです。それによって私たちは、喜びにおいては神にきちんと感謝をささげ、悲しみや苦しみにおいては神の支えと助けを求め、また重大な決断においてみ心を求めつつ生きることができるのです。

贖罪・賠償の献げ物
 第4章からの「贖罪の献げ物」と第5章14節からの「賠償の献げ物」は一つにまとめて考えることができます。「贖罪の献げ物」は、神様に対して罪を犯してしまった時に、それを動物の犠牲によってあがない、赦しをいただくための献げ物です。「賠償の献げ物」は、神様のもの、あるいは隣人のものに対して損害を与えたことに対する償いをなし、その罪の赦しをいただくための献げ物です。償いのためには、実際に与えた損害に五分の一の割り増し分を加えて、つまり二割増にして返すべきことが定められています。それに加えて、罪の赦しを神様からいただくために動物を犠牲として献げるのです。このように「贖罪の献げ物」も「賠償の献げ物」も、人間の罪を問題とした献げ物です。しかもそこでは神様に対する罪のみでなく、隣人に対する罪も問題とされており、そこにおいて、損害を与えた隣人に償いをすると同時に、神様を礼拝して神様の赦しを求めるべきことが語られているのです。ここに、聖書が人間の罪をどのように見つめているかが示されています。私たちは日々の生活の中で、隣人に対して様々な罪を犯します。それによって私たちの人間関係は綻び、破れていきます。その罪は償わなければなりません。ちゃんと謝って、誠意を示して、関係を回復する努力をしなければなりません。しかし聖書は、そういう隣人に対する罪をも、ただ隣人に対する罪というだけでなく、神様に対する罪として見つめているのです。そして、その罪とそれによって生じる様々な悲惨な現実は、ただ人間の間で償いをし、手当をし、関係を回復しても、それだけでは本当に解決しないと言っているのです。私たちの罪の問題が本当に解決されるのは、そこに神様に対する罪が意識され、神様からの赦しをいただくことによってこそなのです。その神様からの赦しをいただくために犠牲が献げられる、つまり礼拝がなされるのです。先ほどの「和解の献げ物」は、感謝、願い、決意などの人生の節目を、主なる神様との交わりを確認しつつ生きるためのものでした。「贖罪の献げ物」と「賠償の献げ物」は、神様に対する、また隣人に対する罪を礼拝において懺悔し、神からの赦しをいただきつつ生きるためのものなのです。

礼拝の要素
 イスラエルの民は、レビ記1章から7章に語られているこれらのいくつかの種類の献げ物を主なる神様に献げながら歩んでいきました。それらの献げ物を献げることが彼らの礼拝だったのです。神への献げ物のこのような種類は、礼拝を構成する要素を表しています。私たちが今行っている礼拝はここに記されているものとは全く違う形ですが、しかしそこに含まれている要素は共通しているのです。先ほど申しましたように、私たちの礼拝も、「焼き尽くす献げ物」が意味しているように、自分自身を全て神様にお献げすることです。また、「穀物の献げ物」においてなされている、「私のことを記念して下さい、覚えて、み心に留めて下さい」という願いを、私たちも礼拝において祈り求めます。また「和解の献げ物」が意味しているように、私たちも、人生の節目々々において、神様を礼拝し、神様との交わりを確認しつつ生きるのです。そして「贖罪、賠償の献げ物」が意味しているように、私たちも、神様に対する、また隣人に対する罪の赦しを礼拝において神様に祈り求めつつ生きるのです。そのように、ここに語られている献げ物についての掟は、外面的には私たちの信仰生活と全くかけ離れたことのように見えますが、その精神においては、私たちの毎週の礼拝と深く結び合っているのです。

罪の贖い
 そこでもう一度、第1章の、礼拝の中心である「焼き尽くす献げ物」についての箇所に戻りたいと思います。ここには、私たちの礼拝に関わるさらに大切なことが示されているのです。先ほど4節に注目しました。そこには、献げられる動物の頭に、献げる人が手を置くべきことが語られていました。それは、その動物が献げる人の身代わりとなることを意味していると先ほど申しました。その4節の後半には、「それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」とあります。頭に手を置かれ、献げる人の身代わりとなることによって、「焼き尽くす献げ物」として献げられる動物が「罪を贖う」ものとなるのです。「贖う」とは、代価を払って買い取るという意味ですが、神様と人間の関係において「罪を贖う」という時には、身代わりの動物が犠牲となって死ぬことによって人間の罪が赦され、帳消しにされることを意味しています。身代わりとなった動物が犠牲として献げられることによってその人の罪が赦されるのです。「焼き尽くす献げ物」が「その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」とはそういう意味です。9節、13節、17節においてはこの「焼き尽くす献げ物」が「主にささげる宥めの香り」と呼ばれています。人間の罪に対する神の怒りを宥めるという意味をもこの献げ物は持っているのです。つまり「焼き尽くす献げ物」は、先ほど見たように自分自身を神様にお献げするということを意味するだけでなく、身代わりの動物の死によって罪の贖い、赦しが与えられるという意味をも持っているのです。この二つのことは切り離せません。自分自身を神様にお献げする、という礼拝は、身代わりの動物の死によって罪が贖われ、赦されることなしには成り立たないのです。つまり、罪の贖い、赦しをいただくことなしには、人間は神様に自分自身をお献げする礼拝に生きることはできないのです。「焼き尽くす献げ物」が礼拝の中心であるということにはそういう意味があります。私たち人間の心の中には、神様を神様として認めず、敬わず、従わない罪があります。それによって、神様との関係は損なわれてしまっています。神様に対してそういう根本的な罪に陥っているゆえに人間は、隣人との関係においても罪を犯し、関係を損ない、傷付け合ってしまうのです。神様に対するこの根本的な罪の赦しをいただかなければ、神様の前に出ることも、まして自分自身をお献げすることこともできません。罪の贖い、赦しなしには、神様と良い関係、交わりをもって生きることはできないのです。その罪の贖い、赦しが「焼き尽くす献げ物」によって与えられることが礼拝の中心であり、土台なのです。この土台の上でこそ、「穀物の献げ物」も、「和解の献げ物」も、そして「贖罪、賠償の献げ物」も意味を持つのです。罪の贖い、赦しの恵みの中でこそ、「私のことを記念して下さい、覚えて、み心に留めて下さい」と願いつつ、人生の節目において神との交わりを確認しつつ、そして日々罪を繰り返し犯しながらもその都度神様に立ち帰り、赦しをいただきながら、神様と共に人生を歩んでいくことができるのです。罪の贖い、言い換えれば神様との根本的な関係の回復が「焼き尽くす献げ物」によって与えられているからこそ、そのように歩むことができるのです。

イエス・キリストによる私たちの礼拝
 このことは、私たちの礼拝、信仰生活にもそのまま当てはまります。私たちの礼拝も、つまり神様との関係も、罪の贖い、赦しのための身代わりの死によって初めて可能となっているのです。私たちの身代わりとなって死んだのは、牛や羊や山羊ではありません。驚くべきことに、神様の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って、私たちのための身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さったのです。神様の独り子が、私たちのための「焼き尽くす献げ物」となって下さったのです。その犠牲によって、私たちは今こうして神様を礼拝することができています。しかも、動物を犠牲として献げたりすることなしに、礼拝をすることができているのです。神様の独り子主イエス・キリストが、私たちのための完全な贖いとなって下さったから、私たちはもはや「焼き尽くす献げ物」によらずに神様のみ前に出て、礼拝をし、み言葉をいただき、神様と共に歩むことができるのです。私たちは毎週の礼拝において、この主イエス・キリストの十字架の死による贖い、罪の赦しの恵みをいただいています。主イエス・キリストが、ご自身の体を、命を、私たちに与えて下さっているのです。その恵みに応えて、私たちも、自分自身を、自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げていく、それが私たちのなすべき礼拝です。私たちが毎週ささげているこの礼拝は、レビ記が語っている、献げ物を献げることによってなされる礼拝を受け継ぎつつ、しかし主イエス・キリストによる救いのみ業によって新しくされた礼拝です。この礼拝において私たちは、主イエスがご自分の命を与えることによって実現して下さった罪の赦しにあずかり、私たちも自分自身を神様に献げ、神様との良い交わりの中で生きていくのです。

関連記事

TOP