夕礼拝

生きた言葉によって

「生きた言葉によって」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第4章1-11節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章22-25節
・ 讃美歌 : 59、360


 本日与えられましたペトロの手紙一第1章24節において人間をこのように描いております。人は皆、草のようで、その華やかさは、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。この華やかさというのはどのような意味でしょうか。美しく着飾ることでしょうか。栄光という意味です。この世における栄誉、名声、富という社会的な功績、またそれだけではなく健康な体、多くはないかもしれないが自分が使えるお金、時間、若い人であれば若さなどというものそうでありましょう。若さというものは本当に輝いていると言えるでしょう。けれども今挙げましたようなものは決して永遠には続くことはないということを私たちは知っております。特に時間と言うものは限られております。今日よりも明日の方が若返るということはないのです。私たちは1分、1秒と老いて行きます。決して逃れることのできない死へと近づいているとうことです。人間はそのような草である、とペトロは人間をそのように描いております。預言者イザヤの言葉を引用しております。イザヤ書第40章6節の後半はこのように語っております。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。」とあります。この預言書は元来、バビロンに捕らわれていたイスラエルの人々に向けられた言葉であります。捕囚の民としての歩みを送っていた人々に、この預言の言葉は神の慰めの言葉として語られたのです。「肉なる者は皆、草に等しい。」ということは、肉なる者、神ではない者の支配は永遠ではないということです。そのようにして神様の慰めを語ります。私たち人間は永遠なる者ではないと聖書ははっきりと語るのです。人間の栄誉、名声、富、美、権力、芸術、業績など、人間の手で造られた栄光はすべて草の花のようにやがては枯れて散るものです。見掛けでは大変優れて、華やかなであるものが、草の花のようだ。そして草は枯れ、花は散るということです。 朽ちない種
 しかし、「主の言葉は永遠に変わることがない」とあります。「主の言葉は永遠に残る」ということです。神様の言葉こそ永遠に変わることがなく、永遠に残るものであり、これこそあなたがたに福音として告げ知らされた言葉であるのです。23節にもありますように神様の言葉こそ「朽ちない種」であり、変わることのない生きた言葉であります。人の手で造られたすべてのもの、人間自身が過ぎ去り滅び行く世にあって、永遠に留まるものは神の生きた言葉だけなのです。神様の変わることのない生きた言葉というのは、「朽ちない種」であります。神様の言葉が「朽ちない種」という譬えで語られております。種とは美味しい実を結ぶために、美しい花を咲かせるために蒔かれます。種を蒔く農夫は種について熟知して必要があります。その時期や土壌を配慮し、土とよく混ざるように種を蒔きます。そして更に暖かい日差しと適度な雨が必要です。ですから、自然の秩序において実を結ばない種、花を咲かせない種もあるということです。けれども、ここではそのような種ではなく、「朽ちることのない種」とあります。神様の力によって蒔かれる、まさに神様の変わることのない生きた言葉こそ、朽ちることのない種であります。

新しく生まれさせられる
 そのような朽ちない種からあなたがたは新たに生まれたのです、とペトロは語っております。新しく生まれるのは、この地上に命を与えられ誕生した私たちが、朽ちない種によってもう一度新しく生まれる、生まれ変わるということでしょう。この地上に生まれた私たちが再び生まれるというのは、どういうことでしょうか。新しく生まれるというのは「再び生まれさせる」という「再生」とも言うことができます。聖書の「再生」は死んでいたのに生き返らせるということです。「あなたがたは朽ちる種からではなく、朽ちない種からすなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」神の言葉は変わることの無く、永遠で、そして人を新たに生まれさせる力を持つのです。「人を新たに生まれさせる」というのは、それまで死んでいたものが神様の言葉によって生き返るということです。私たちは聖書の中で愛唱聖句を持つでしょう。この御言葉によって信仰を与えられた。生き方が変わった、という箇所があるかもしれません。愛唱まで行かないけど、好きな箇所があるかもしれません。自分はあの聖書の御言葉に言葉に生かされた。23節では、この新たに生まれるということが神様の言葉を有効な手段としてなされていることが明言されています。さらに、神様の言葉とはどのような言葉なのであろうかという特質が明確に証言されているのです。神様の言葉によってそれまで、死の中にあったものが生き返る。神様の言葉とは人を生き返らせる力がある。神様の言葉の命と確かさがここで示され、浮き彫りにされるのです。それまで死の中にいたものとは罪の中にいたものということです。罪の中にいた者が新たに生まれさせられるのは、朽ちる種ではなく、朽ちない種である神様の生きた御言葉によるのであります。朽ちる種は人間に由来するものです。最初は、一時的には華やかな、栄光に満ちたものかもしれない。けれどもやがては枯れて散るものです。神様の言葉は枯れることはない。滅びることのない朽ちない種である神様の言葉はそれ自体命を持つものであり、同時に罪と死の中にいる者に命を与えるのです。神の言葉こそ、神ご自身の救いの意志であります。神様の言葉とは何でしょうか。私たちの暗唱聖句でしょうか。もちろんそれも入ります。聖書が証ししている、神がイエス・キリストにおいて救いの御業、神様の御言葉を現されたのです。主イエス・キリストの十字架によって、罪の中を歩んでいた人間を新たに生まれさせてくださった。許しの中へと招いて下さったのです。主イエス・キリストの十字架の出来事こそ、私たちが聞くべき福音なのです。そしてこの福音を聞いた者、この福音を信じた者たちへペトロは語ります。

真理を受けて
 あなたがたは真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった。ですから「清い心で深く愛し合いなさい。」と語っているのです。けれども、人間に対して聖書は、ただ道徳的、または強制的に、「清い心で愛し合いなさい」と言っているのではなく、愛するための根拠を示しています。真理を受け入れたとは真理に従う、真理に聞き従うということです。その真理とは福音、主イエス・キリストのことです。神様の独り子である主イエス・キリストが罪の中にある人間を赦すために、十字架におかかりになった。その流された血によって私たちの罪が赦され、清められた。この根拠によって「偽りのない兄弟愛を抱くようになった」とあります。偽りのない愛、偽善ではない愛ということです。偽善という言葉には「役者」という意味があります。役者のように愛する演技をするのではなく、芝居ではない愛ということです。私たちは本当は愛してはいないけど、仕方なくそのように接するということもあります。愛したいと思っても、なかなか心がついていかない時もあります。表面だけの愛になってしまうのです。ここでわざわざ兄弟愛と言っているのは、はっきりと相手を示した具体的な愛ということであります。具体的に、本当に愛さなければ、愛にはならないということなのです。神様が与えて下さった隣人を愛するのです。主イエス・キリストが人間を愛し、罪から救うために十字架にかかられた。人間の愛というのは、条件付きの愛です。自分が愛する、相手も愛してくれるからで愛する。自分にとって価値があるから、愛する。けれども、神様が人間を愛するのは無条件の愛です。人間の側には神様に愛される価値はありません。「人は皆、草のようで、その華やかさは、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。」とあります。神様の愛を受けたのであるから、互いに愛し合いなさいと言うのです。兄弟愛というのは、兄弟同士の愛のことです。私たちがお互いに、真理を受け入れ、真理に従うことによって、互いに愛するようにされている人間となる。福音の真理を受け入れた者たちが集められた共同体、主イエス・キリストの福音によって生きている者の共同体である教会であるということです。

魂を清められ
 主イエス・キリストの福音である真理を受け入れ魂が清められるとあります。「魂(たましい)」という言葉は肉体と分けた魂ということではなく、私たちの存在の根本にあるものという意味です。私たちの存在そのもの、私たちの存在の根本にあるものであり、神様と関わる最も深いところが、既に神様のものになってしまっている。私たちの最も深いところが神様のものとなった、つまり魂が清められたということです。主イエス・キリストが十字架の出来事によって、その血を流されたことによって、私たちを清めて下さった。人間の罪というのは主イエス・キリストの十字架によってでしか清められない、それほど深い人間の罪が清められた。主イエス・キリストを信じる者はどのような生き方をするのか、「偽りのない兄弟愛」を抱くようになった。けれども私たちの実際の教会生活はそんなに単純ではない、罪深い人間同士の集まりです。そのような私どもは、「朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」神の変わることのない生きた言葉である主イエス・キリストによって新たに生まれる。主イエス・キリストを信じ洗礼を受け、聖餐に与る教会生活を送るということです。主イエス・キリストを信じる信仰によって日々新しく生まれさせられる。人間の考えや経験のような朽ちてゆくものではなく、朽ちることない生きた神の言葉に生かされることです。人間の考えや経験、人間の価値などをはるかに超えた神が私どものために働かれる、愛して下さる。愛を持って生きるようにと、朽ちることのない、永遠の命をもたらす種から芽生えるのは兄弟愛を持って生きるように、願っておられます。私たちは小さな朽ちる種のような者であってはならない。神様が与えて下さる生きた御言葉によって、大きな愛を受け止め、与えられた1週間を歩んで行きましょう。

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