夕礼拝

ノアの醜態

「ノアの醜態」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第9章 18節-29節
・ 新約聖書; ローマの信徒への手紙、第13章 11節-14節
・ 讃美歌 ; 204、474

ノア物語のしめくくり
 夕礼拝において私が説教を担当する日には、旧約聖書、創世記を連続して読んでいます。これまで、第6章から第9章にかけての、ノアの物語、あるいは洪水の物語を読んできました。前回、8月に読んだ9章17節までのところには、洪水の後、箱舟から出たノアに神様が与えて下さった祝福と約束のみ言葉が語られていました。そこをもってノアの物語を終えることができたら、すっきりとしていてよいのですが、ところが聖書というのはそう甘くない書物で、9章の終わりに、ノアとその息子たちに関するもう一つのエピソードを語っています。ノアの物語の本当のしめくくりは、この話なのです。ノアの物語を聖書に即して読むためには、この話を無視してしまうわけにはいきません。いったいこの話からどんな説教を語ることができるのだろうか、と私自身も思いますが、しかし聖書がこの話を語っていることに込められている神様のみ心を、ご一緒にさぐり求めていきたいと思います。

ぶどう畑を作るノア
 さてこの話は、洪水の後、ノアとその家族が新しい生活を始めていった、その中で起った出来事を語っています。20節に、「ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った」とあります。ここで「農夫」と訳されている言葉は、直訳すれば「土の人」です。その「土」は「アダマ」という言葉です。2章7節に、最初の人間が作られたことが語られていましたが、そこに「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」とありました。その「アダマ」です。「土の人」とは、その土を耕す人という意味でしょうから、「農夫」と訳されているのです。そしてこの「土(アダマ)」という言葉は、3章以下に語られている、人間の罪とそのもたらした結果において重要な意味を持っていました。最初の人間アダムとエバが神様に背いて罪を犯した結果、3章17節には「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」とあります。その「土」がアダマです。人間の罪のゆえに土が呪われるものとなった、それは具体的には次の18、19節にあるように、「お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」ということです。土が呪われた結果、人間は、苦労して土を耕し、そこから顔に汗して、つまり労働の苦しみによって食べ物を得なければならなくなったのです。このことは、ノアの誕生の場面でもう一度語られていました。5章29節です。ノアが誕生した時、父レメクは、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、息子をノア、その意味は「慰め」と名付けたのです。この「大地」がアダマです。土(アダマ)はこのように、人間の罪の結果主の呪いの下に置かれ、人間に苦しみ、労苦をもたらすものとして描かれてきたのです。そしてノアには、その労苦、苦しみへの慰めをもたらす者となるという期待がかけられていました。本日の9章20節は、そのことが実現したことを語っていると考えられます。ノアは土の人、農夫となり、ぶどう畑を作ったのです。ぶどう畑はぶどう酒を作るためのものです。洪水前の人々の営みには、ぶどう畑やぶどう酒のことは出て来ませんでした。ぶどう畑を作り、ぶどう酒を作ることが始まったのは、洪水後のノアからなのです。そして聖書において、ぶどう酒は、人々に慰めや喜びを与え、また元気や力を与えるものです。詩編の104編15節には「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える」とあります。また創世記の49章11、12節にも「彼はろばをぶどうの木に、雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で、着物をぶどうの汁で洗う。彼の目はぶどう酒によって輝き、歯は乳によって白くなる」とあります。この「彼」とはその前の10節にある「シロ」で、それは救い主のことを意味しています。これが指路教会の名称の一つの出所です。それはともかく、ここでもぶどう酒は、神様の祝福、恵み、喜び、力を表すものです。ノアが、土を耕し、ぶどう畑を作り、ぶどう酒を得たことは、神様の大きな祝福、恵みが与えられたということであり、それこそ、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」という預言の成就なのです。洪水後の世界を生きていくノアとその家族は、神様からの慰め、祝福のしるしとしてぶどう酒を与えられたのです。それは、あのアダムとエバの罪のゆえに土が主の呪いを受けた、その呪いが取り去られたということです。それは、洪水によって地上に生きる者たちが全て滅ぼされたという神様の審きを通してもたらされたことでした。神様は、地上に人間の悪がはびこり、罪がはてしなく深まり、悪いことばかりを考えるようになったことをご覧になり、人間を造ったことを後悔して、全ての生き物を洪水によって滅ぼしてしまおうと決意されたのです。洪水は、人間の罪に対する神様の審きです。しかしその審きの中で神様はノアに箱舟を造ることをお命じになり、ノアとのその家族を、また地上の生き物たちの代表を救って下さったのです。それは、洪水後の新しい世界を担い、築いていくためです。その新しい世界の始まりにおいて、神様は、「私はもう二度とこのように、人間の罪のために全ての者を滅ぼし尽くすことはしない」と宣言なさいました。それが前回、9章17節までのところで読んだことです。この神様の宣言によって、土(アダマ)に対する神様の呪いは和らげられたのです。勿論人間はやはり顔に汗して働き、食物を得なければなりません。この世界は、楽園ではないのです。罪のゆえに楽園を追われたという現実はそのままです。しかし、労働の実りとして、人の心を喜ばせ、慰めを与え、力づけるぶどう酒が与えられたのです。そこに、洪水の前と後の世界の大きな違いがあります。洪水後の世界をノアとその家族は、神様の祝福、恵みを受けて歩み出すことを許されたのです。ノアの物語の最後にあるこの話は、まずそのことを語っていると言えるでしょう。

ノアの醜態
 ところが、そのように神様の祝福、恵みによって歩み出したノアが、その恵みのしるしであったぶどう酒によって酔っ払い、みっともない姿をさらしてしまった、ということが21節に語られています。ノアは、ぶどう酒を最初に造って飲んだ人であると同時に、飲み過ぎて酔っ払って醜態をさらした最初の人にもなったのです。このことは、酒というものの持っている両面を描き出していると言えるでしょう。聖書は、酒を悪いものだとは全く言っていません。信仰者はお酒を飲んではいけない、などということは聖書の教えではないのです。むしろ今申しましたように、ここではぶどう酒ですが、それは神様からの祝福、恵みのしるしとして、積極的に位置づけられています。しかし聖書は同時に、その恵みのしるしである酒も、度を過ぎると、醜態をさらすようなことになる、ということを語っているのです。ですから私たちはここから、お酒はほどほどに、あまり乱れない程度に飲もう、という教訓を読み取ることもできます。けれども、この話が語ろうとしているのはそういう教訓ではありません。そもそも、ノアがぶどう酒を飲み過ぎて醜態をさらしたこと自体は、別にとがめられてはいないのです。それがノアの罪だ、などと言われてはいないのです。本日共に読まれる新約聖書の箇所として、ローマの信徒への手紙第13章11節以下を選びました。パウロが、「今やキリストによる救いの完成の時が近付いているのだから、酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨てなさい」と勧めている所です。実は、本日の創世記の箇所からどのような説教ができるかよく分からないうちにこの箇所を選んだのですが、準備をしながら、ここは今日共に読む箇所としてはあまり適切ではなかったなと思いました。ここでは、ノアが酒に酔って醜態をさらしたことが問題とされているのではないのです。むしろ、ノアの醜態を見た三人の息子たちの態度が問題とされているのです。

ノアの息子たち
 ノアの三人の息子は、セム、ハム、ヤフェトでした。父ノアの醜態に最初に気付いたのはハムでした。彼はノアが酔っ払ってすっ裸でひっくり返っているのを見て、それを兄弟たちに告げたのです。それを聞いたセムとヤフェトがしたことが23節にあります。彼らは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行って父の裸を覆ったのです。その意味はその次にあるように、「二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった」ということです。この後目覚めたノアの語った言葉から分かることは、ハムのしたことは厳しく責められ、セムとヤフェトのしたことは賞賛されているということです。いったいここでハムがしたこととは何だったのか、何故それが責められているのか、またそれに対してセムとヤフェトのしたことが誉められているのは何故なのか、ということについては、いろいろな説明がなされています。私たちの感覚ではこれはよく分からないと言わざるを得ません。おそらく言えるだろうことは、ハムは父の醜態を見て、それを覆い隠すのではなく、人に告げた、つまり暴露したのに対して、セムとヤフェトは父の醜態を覆い隠した、しかも自分たちもそれを見ないようにして、父の尊厳を守った、ということです。ハムと他の二人の間には、父ノアを敬う姿勢に違いがあるのです。これは、十戒の第五の戒めである「あなたの父と母を敬え」と関係してくることです。両親を敬うとは、その尊厳を守ること、さらには、その欠点を覆い、補うことでもあります。例えば私たちが求道者会で学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」においては、第五の戒めが教えていることとして、父と母の欠けをさえ忍耐すべきである、と語られています。父が酔っ払って醜態をさらしているのを見た時に、そっとそれを覆い、父に恥をかかせないようにすることが子供の務めだ、ということでしょう。そういう意味で、ハムは責められ、セムとヤフェトは賞賛されているのです。

諸民族
 そういう意味で私たちはここから、「父と母を敬え」という戒めについての一つの事例を教訓として与えられる、と言うこともできます。しかしこれも、先程の酒についての教訓と同じで、この箇所が語ろうとしていることの中心ではありません。ここに語られているのはそのような道徳的教訓ではないのです。そうではなくて、ここには、洪水の後、ノアから始まった人類の新しい歩みが、壮大なスケールで見つめられているのです。そのことは、次の第10章と合わせて読んでいくときに明らかになります。本日はこの第10章も視野に入れつつ読んでいきたいのですが、そこには、ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェトから、地上に様々な民族が分かれて広がっていったことが系図によって語られています。それを大雑把にまとめてみますと、2?5節にはヤフェトの子孫たちのことが語られています。その人々は、5節に「海沿いの国々」とあるように、パレスチナの地中海沿岸の民、代表的にはペリシテ人を指していると考えることができるようです。9?20節はハムの子孫です。それは一つには、6節に「エジプト」とあるように、エジプト人のことであり、しかしまた8節以下に「ニムロド」という「地上で最初の勇士となった」人の王国が、アッシリアに進出していったことが語られていることから、メソポタミアに世界最初の帝国を築いたアッシリア人のことをも指しています。また15節以下には、ハムの子供の一人である「カナン」から様々な民族が生まれたことが語られています。そこに並べられている諸民族は、後にモーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、約束の地カナンを得るために戦った、そこの先住民族です。つまりこのハムの子孫の諸民族は、エジプト、アッシリア、カナンの諸民族であり、イスラエルが苦しめられ、戦った相手の諸民族がそこにまとめられていると言ってもよいのです。つまりこの系図によって示されている諸民族は、必ずしも血筋が同じというわけではないのです。21節以下がセムの子孫ですが、そこに並べられているのはおおむねアラビア半島方面の諸民族であろうとされています。洪水によって全ての人間が滅ぼされた後、ノアの三人の息子たちから、このように全世界の諸民族が増え広がっていったのです。第10章の系図はこのことによって、今この地上に生きる民族はどれも、主なる神様によって洪水から救われたノアの子孫として、ノアに与えられた祝福を受け継いでいるのだ、ということを語っているのです。しかしその系図に先立つ本日の箇所の話は、その諸民族の間に起る対立を見つめ、その原因を語ろうとしています。ハムが責められ、呪われよ、と言われています。そこには、ハムの子孫として10章に語られていく諸民族とイスラエルとの敵対関係が反映されているのでしょう。そして興味深いのは、本日の箇所で、ハムのことが「カナンの父」と呼ばれており、そして呪いの言葉も、ハムではなく息子のカナンに対する言葉になっている、ということです。それは、イスラエルがカナンの地に入り、国を築いていくに際して、最も身近な敵がカナンの先住諸民族であった、ということを反映しているのでしょう。イスラエルの民はセムの子孫です。それゆえに、その対立関係を反映して「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ」と語られているのです。ヤフェトについては、それがペリシテ人を意味しているなら、どうして「神がヤフェトの土地を広げ、セムの天幕に住まわせ」と言われているのか、はっきりしませんが、ペリシテ人は、イスラエルと対立もしましたが、例えばダビデが一時ペリシテに身を寄せていたこともあるわけで、イスラエルとの間に、カナンの諸民族とはまた違う関係があったのかもしれません。いずれにせよこのようにこの話には、この話が書かれた当時のイスラエルの周辺諸民族との関係が反映しているのです。

諸民族の対立
 このことを確認した上で、この箇所から私たちが読み取るべきことを考えていきたいと思います。今見てきたことを表面的に受け止めるなら、主なる神様の民であるイスラエルに敵対する諸民族は、昔の悪行の結果呪われているのだ、ということが語られている、ということになるでしょう。けれども事はそう単純ではないのです。そこが、聖書が一筋縄では行かないところです。まず、先程申しましたように、これらの諸民族は全て、あの洪水において主なる神様の恵みによって救われ、新しい世界を築いていくために選ばれた人々の子孫である、ということを覚えておかなければなりません。9章17節までのところに語られている神様の祝福と約束は、ノアとその三人の息子たち全てに与えられているのです。つまり彼らは、そしてそこから広がっていった地上の諸民族は皆、基本的に、神様の祝福、恵みの中に置かれているのです。けれどもそのように神様の祝福を受けて世に広がっていった諸民族の間に、争い、対立が生じてしまう、という現実がここに見つめられています。その原因となったのが、あのノアの、酒による醜態でした。神様の祝福のしるしであるぶどう酒が、人間の争い、対立の原因ともなったのです。それはお酒の持つ恐ろしさと言うよりも、このぶどう酒は、神様の祝福によって与えられる人間の豊かさを象徴している、と言うことができるでしょう。豊かさ、富そのものは神様の恵み、祝福のしるしなのだけれども、それを人間が間違って用いてしまうと、争い、対立、呪いを生むものとなってしまうのです。

人間の呪いの相対化
 そして大事なことは、ここで生じてきた呪いは、洪水前の世界において、アダムとエバの罪によって主なる神様が土を呪われた、その呪いとは違って、ノアの、つまり人間の呪いだということです。神様はもはや人間を呪ってはおられません。そういうことはもうしないと約束して下さったのです。しかし人間が、その罪のゆえに、人を呪い、争い、対立に明け暮れていくということが繰り返されていく、それが、私たちの生きているこの世界の現実です。そのことがここに見つめられ、語られているのです。私たちがこの話から読み取らなければならない最も大切なことはこれなのではないでしょうか。この話は、表面的に読んでしまうと、イスラエルの敵は神様に呪われた連中なのだ、と語っているように思えてしまいますが、実はそうではないのです。イスラエルの民は、自分たちは神の民であり、自分たちに敵対する者たちは呪われた民だ、と思っている、けれどもその呪いは、主なる神様の呪いではない。神様は諸民族を呪ってはおられない。この呪いはむしろノアが、自分が酔っ払って醜態をさらしておきながら、息子たちに八つ当たりしているような、身勝手な呪いでしかない。今諸民族の間に、人間どうしの間に起っている争いや対立、呪いは皆そのように、人間から生じたものだ。それは神様による絶対的な呪いではない。神様のみ心は洪水を経て既に、人間に祝福を与えようとするみ心に変わっている。しかしなお人間の勝手な思いによる呪いが、争いや対立を引き起こしているのだ。私たちはここからそういうメッセージを読み取ることができるのです。

イスラエルは特別な民ではない
 そのことは、10章の系図からも言えると思います。この系図には、イスラエルを他の民族とは違う神の民とするような意図は感じられません。そもそもこの系図のどこにイスラエルがいるのでしょうか。イスラエルはセムの子孫だと先程申しましたが、そのことはこの系図からは分かりません。イスラエルの民の最初の先祖であるアブラハムがセムの子孫であることは、11章10節以下の系図を読むことによって初めて分かるのです。それによれば、アブラハムは、セムの息子アルパクシャドの子孫です。その名前は10章の系図では22節に出てきます。しかしアルパクシャドはセムの長男でもありません。この系図において、アルパクシャドから神様の選ばれた民イスラエルが生じることを感じさせるものは何もないのです。つまり10章の系図において、イスラエルは、他の諸民族の中で何も特別な位置を与えられていないし、まだ登場すらしていないのです。10章の系図は、9章の終わりの、ノアによる、明らかにイスラエルと周辺諸民族との対立を背景とした呪いの言葉を相対化し、その意味を弱める働きをしていると言えるでしょう。

今がどんな時かを知る
 このように、本日の箇所の話と、10章の系図とを合わせてじっくりと読んでいく時に、そこには、表面的に読んだだけでは分からない深いメッセージが込められていることが見えてくるのです。創世記は、文明の程度の低い昔の人が書いた、幼稚な神話を集めた書物ではありません。それは私たちが感じている以上に、この世界と人間との現実を深く見つめており、またそこに貫かれている主なる神様のみ心を描き出しているのです。地上の全ての民族が、そこに起っている様々な争いや対立にもかかわらず、基本的には神様の祝福のみ心の中に置かれている、そのことは、この後12章以下に語られていくアブラハムの物語、つまりイスラエルの歴史の始まりの根底にある主張です。罪に満ちた人間の世界に、神様の祝福のみ心を表し、全ての民への祝福を実現していくために、アブラハムは、つまりイスラエルの民は選ばれ、導かれていくのです。そしてその神様のみ心は、ダビデを経て、主イエス・キリストへとつながっていきます。神様はあの洪水の後で、もう二度と人間の罪のために全ての生き物を絶滅させるようなことはしない、もはや人間をその罪のゆえに呪うことはしない、と約束して下さいました。その神様の恵みのみ心は、神様の独り子イエス・キリストが私たちの罪をすべて背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、新しく、大きく前進したのです。今や私たちは、もはや呪いはない、という洪水後の世界からさらに一歩進んだ、主イエスの十字架と復活による、罪の赦しと永遠の命の約束の中を生きることを許されているのです。その点において、本日の新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第13章11節に戻っていくことができます。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。私たちに与えられている信仰は、「今がどんな時であるかを知る」ことを得させてくれます。創世記の記者が、洪水後の新しい時代が始まっていることを知り、人間の呪い、対立を相対化することができたように、私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって、新しい時が始まっていることを知ることを許されているのです。今なお、私たちの罪は深く、争い、対立が続き、戦い、テロは止むことがありません。罪の闇はさらに深まっているとすら感じます。けれども、「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」。私たちは、主イエスによる神様の恵みによって、今がこのような時であると知ることを許されているのです。

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