「わたしが語った」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第35編17-21節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第16章1-4節b
・ 讃美歌:57、567、339
これらのこと
本日の聖書の箇所は、主イエスがいよいよ十字架へと引き渡される暗い夜、集められた弟子達に語ります。主イエスから弟子たちへの別れの言葉、いわゆる訣別説教と呼ばれている箇所です。十字架への道を今目の前にしている主イエスが語るのです。「これらのことを話したのは、あなたがたを躓かせないためである」始めに「これらのこと」と始まっておりますが、「これらのこと」とは、第13章から始まる、第15章までに語られてきた主イエスの長い別れの説教の言葉を指しております。主イエスは13章において、他の福音書では最後の晩餐の席に着かれる場面でありますが、弟子たちの足を丁寧にお洗いになりました。なぜ、弟子達の足を丁寧にお洗いになったのか、13章の冒頭にはこのようにあります、13章1節「さて、過ぎ越し祭の前である、イエスはこの世から父のもとへと移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた」弟子たちの足をお洗いになるという行為を通して弟子達への愛を示したのです、それはご自分が父のもとへと移る最後の時が来たことを悟られたからです。主イエスはいよいよ弟子たちと別れる時が来たことを、明らかにされます。弟子達にとってはそれまでの主イエスとの生活は、まことに充実したものであったのでしょう。弟子達は主イエスと寝食を共にし、主イエスから語られる言葉に心を浸らせておりました。弟子達は、大変満ち足りた祝福の中を主イエスと共に過ごしたのでしょう。その弟子達が今、主イエスと別れる時を迎えているのです。しかも、主イエスは殺されてしまう、弟子達の気持ちというのは、「こんなはずではなかった」という思いが弟子達の心を支配したことでしょう。私どもも同じような経験をするのではないでしょうか、自分が予想もしていないこと、考えてもいない事柄が突然起きる、「こんなはずではない」「こんなはずではなかったのに」と思うのではないでしょうか。
あなたがたを躓かせないため
主イエスがこの世を去る、それも殺されて、弟子達の中には不安と恐れ、「こんなはずではなかった」と言う思いが支配しております。そのような弟子達に対して主イエスは、「これらのことを話したのは、あなた方を躓かせないためである」と語るのです。弟子達に対して、あなた方を躓かせようとする力が近づいていると主イエスは予め弟子たちに伝えるのです。主イエスは第15章の18節から、「迫害の予告」を語っておられます。それは、突然の迫害に弟子たちが不安と恐れと疑いに陥り、主イエスを証しすることから、また信仰から離れることがないようにとの配慮です。弟子たちのそばから離れていく主イエスの愛の配慮です。主イエスは、その別れへの備えの時を弟子達のために、弟子達と共に持っておられるのです。これから、主イエスは十字架への道を歩まれる、それは弟子達にとっては「こんなはずではなかった」と言う言葉でしか言い表せない、大きな悲しみと試練であります。その悲しみ、試練とは主イエスが、自分たちの先生が、自分たちの前からいなくなる、取り去られることです。また、弟子達の中には主イエスを裏切る者がいる。まさしく、悲しみと試練の中において、主イエスご自身が語られました。弟子達に対して、その出来事が起きた時に、驚き慌てないように、躓かないように、主イエスの愛にもとづく配慮によって備えられました。弟子達を躓かせるであろう、弟子達がこれから出会うであろう、状況、困難の状況を主イエスは見据えて、見越しているのです。
弁護者である真理の霊
16章の直前の、15章の26節、27節に主イエスはこう語っております、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」主イエスはあなたがたに弁護者である真理の霊を遣わそうとする、その時、その真理の霊が主イエスについて証しをなさるはずである、と言います。それが基礎となって、そのことによって弟子達をも証しをするのであると、主イエスは語ります。主イエスがこの世を去る、けれども弁護者である真理の霊が来る、そしてその時に、証しをするとする、主イエスご自身が言うのです。主イエスがなぜ、そのように弟子達に語られたのでしょうか。この15章の前半では主イエスはこのような譬えを用いて語ります。主イエスはまことのぶどうの木である、主イエスと言うまことのぶどうの木の枝として、幹である主イエスにしっかりと繋がり、互いに愛し合い、御言葉に留まれば、その実を結ぶと言います。そして、その後には自分達を躓かせるであろう迫害を予告するのです。主イエスご自身によって、主イエス・キリストの弟子達が、すなわち信仰者、教会が世に憎まれる、迫害を受けるということが、予告されております。主イエスと弟子達に対するこの世の敵意というのは、神に敵対する勢力の、この世の憎悪、憎しみについてであり、16章にも続くのです。主イエスは、続けて2節で人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。主イエスと弟子達に対する敵意と言うのが、会堂からの追放という具体的な形を取るのであります。しかも、会堂から追放、更には殺す者までが出るというのです、そのような行為を自分では神に奉仕していると考える時が来る、と鋭く言います。これが、主イエスが語る、弟子たちが出会う困難であります。神に奉仕をしていると考えていることが、実は「会堂からの追放、また殺す者」であると言うのです。
神への奉仕のゆえに
「会堂からの追放」というのは、このヨハネによる福音書が書かれた1世紀のヨハネ福音書記者の指導するキリスト教会の人々が経験した、ユダヤ人キリスト者の会堂追放の出来事を語っております。会堂と言うのは、ユダヤ教の会堂です。そこから追放される、それはユダヤ人の共同体、交わりからされ村八分にされるという意味です。しかも、そのようにキリスト教信者を追放し、場合によっては殺すという迫害をしているユダヤ人たちは、「自分たちは神に奉仕をしている」と考えているのです。ユダヤ教と言うのは、イエス・キリストを救い主とは認めていませんから、キリスト信者の信仰、イエスこそ救い主であり、神さまの独り子である、というのは、神さまへの冒涜であると、それ故にキリスト教信者を迫害することこそ、神様に正しく仕える道だと思っておりました。
これは何もこのユダヤ人キリスト者に対する迫害だけではありません。過去2000年のキリスト教会の歴史と世界史上になされてきた「神の名において」行なわれてきた、キリスト教会の悲惨な歴史をも指すのです。歴史においても、また、私たちの小さな日常生活の間においても、同じように悲しみの涙を流し、試練の中を歩まなければならない、「主よ、なぜ」と問わざる得ない現実が起きているのではないでしょうか。
先ほど、お読み頂いた旧約聖書の詩篇35編は、本日は17節ー21節のみを読んで頂きましたが、迫害された者の嘆きの詩であります、「主よ、いつまで見ておられるのですか。彼らの謀る破滅からわたしの魂を取り返してください。多くの若い獅子からわたしの身を救ってください。」この詩人は周囲の者たちからの謀る破滅の中におり希望を失っている状態です、「若い獅子」という表現を用いて、詩人を攻撃する者から、救って下さいと、主に祈ります。それゆえに、詩人は神のもと、礼拝する場所において、詩人の命を脅かす人々からの救出を求めているのです。19節「敵が不当に喜ぶことがありませんように。無実なわたしを憎む者が侮りの目で見ることがありませんように」
詩人は不安の中におり、嘆きと祈りを繰り返すのです、人間的な深い悲しみと憤りを捨てて、神への賛美へと、神への信頼へと至る道を主なる神によってたどらされるのです。18節「(優れた会衆の中であなたに感謝をささげ)偉大な民の中であなたを賛美できますように。」あなたを賛美することができますようにと、祈るのです。この詩人も暗闇の中で主なる神へ救いを求めるのです。
主イエスは弟子達に、弟子達を会堂から追放する時が来ると、予告します。主イエスは弟子達に対して「人々はあなた方を会堂から追放する、更には殺す者」となると、迫害の予告をします。そのような迫害は、「父をもわたしをも知らないから」から、そのような行為に出るのであると、主イエスは言います。弟子達に対して、その出来事が起きた時に、驚き慌てないように、弱いわたしたちが躓かないように、弁護者である真理の霊を遣わすというのです。
思い出させるために
なぜでしょうか、その理由は4節にありますように、「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。初めからこれらのことを言わなかったのは、私があなた方と一緒にいたからである」このように主イエスは告げるのです。その時が来たら、わたしたちに思い出させる、理解できるようにするためであると。これらのことを主イエスが話されたのは、その時が来たときに、主イエスが「語ったここと」をあなたがたに思い出せるためであるのです。主イエスは、私たちに、これらのことを「思い出せるために」、主イエスは語られました。主イエスのご受難、十字架への道は、人間の都合で避けることのできない、主イエスご自身が定められたことであると、言っても良いと思います。なぜなら、主ご自身がこの世を去って行くことによられなければ、私たちのものにならない真理の霊、弁護者を主イエスは私たちにお与えになるからであります。
真理の霊、聖霊を与える
主イエスがこの地上を去る、けれども、主イエスは真理の霊、弁護者を、弟子達の元に送るというのです。先ほどの15章の26節、27節に「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」
本日の箇所の少し先の16章の7節でも、主イエスは、主イエスご自身が「わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる」と弟子達に語るのです。あなたがたのところに弁護者を送ると、と主イエスは語ります。主イエスが父なる神のもとから、弟子達に弁護者、真理の霊を遣わす、と言います。「弁護者」と言われると、裁判で無実を立証しするようにして、弁護して下さる方であります。主イエスが弁護者である真理の霊を私たちに遣わすときに、真理の霊が証しをするはずであると、主イエスは言います。主イエスがおられないときは、神が証しをなさるのです。先ほどの弁護者もそうですが、証し、証言とは法廷用語であります。実際に事柄が起きた際に、裁判官はその現場におりません、けれども判断、判定をしなくてはなりません。だからそこにいた証言者、証言が必要。そこから事実、真実を判断していくのです。
証し、証言をする人が必要なのです。主イエスは弟子達に対して、ご自分がこの世を去った後は、弁護者である真理の霊を遣わすと言います、弁護者というのは、裁判で無実を立証するようにして、弁護する人という意味と同時に、さらにこの弁護者と言う言葉は、「パラクレートス」と言う言葉で、口語訳では「助け主」であり、「傍らに呼ぶ」「慰める」と訳すことも出来ます。それが「助ける」「弁護する」「慰める「励ます」と様々に訳することができます。真理の霊は、主イエスがおられない地上を歩む弟子たち、信仰者たちの傍に、主イエスに変わっていつもいて下さり、励まし、慰めて、弁護し、助けて下さるのです。そのことを、より明確に記しているのが、主イエスは世を去った後に、再び聖霊として、戻って来るとおっしゃっているのです。形は変わるけれども、これまでと同じように、弟子たちと共にいると言うのです。
証しをする
弟子達は主イエスと初めからいたのだから、証しをするのである、証しをできると、主イエスは言うのです。弟子たちは主イエスの十字架への道を見なければなりません、これからその別れの言葉を聴かなければならないのです、生き証人として見なければならないのであります。証人と言う言葉は後に殉教者という意味をも持つようになりました。この証人が伝えるのは命の言葉です。この証人が伝えるのは命の言葉であります、命の言葉であるからこそ、命をかけてでも伝えなければならない真理なのです。証人というのは、命の言葉の出来事に立ち会わされた人です。そこには、弁護者、助け主なる聖霊が働かれるのです。私たちは聖霊によってイエス・キリストとの結びつきを与えられ、与えられた恵みを証しするのです。命の言葉の出来事とは、まさしく主イエスが私たちの罪のために十字架にかかり、復活されたことです。その出来事を伝えるのが、教会であります。
けれども、私たちは「見たこともない」ことを言葉を信じることは難しい、私どもを不安にさせ、心細そいものでしょう。けれども今、私たちを生かしているのは、目で見える限りあるものではありません。見えないものが私たちを生かしている。それは永遠のもの、人間の命を捕らえているものであります、主イエスが今も遣わして下さる真理の霊であり、聖霊であります。教会は聖霊の注ぎを受けた主イエスの体です、神さまが私たちを遣わして下さる教会は、聖書の言葉を通して、主イエス・キリストの復活の証人たちが集められた場です。私たちは聖霊によってイエス・キリストとの結びつきを与えられ、与えられた恵みを証しするのです。それはご自身が十字架において成就なさったことです。十字架にかかり、その命をかけて私たちを救いへと招いて下さった。弟子達の傍から、またこの地上から去られました。そのような別れと悲しみを経てこそ、真理を悟らせる弁護者である聖霊を遣わされたのです。主イエスが受けられる受難と十字架への道、弟子達への迫害、それは主イエスの十字架と復活によって乗り越えられると、それは聖なる神、聖霊が傍らにいてくださるから、乗り越えられるのです。私たちの悲しみや、苦しみ、試練は確かに存在します、主イエスはご自身を通して証しして下さいました。そのような理解は、今の悲しみ、艱難の中では難しいと言うこともできましょう。しかし、ここで主イエスが言われたことは、悲しみが悲しみで終わることは、信じる者においては決してないという約束なのであります。悲しみの現在が永遠に続くことを主はお許しにならないという約束なのである。それは私たちに今も、とこしえに弁護者である聖霊を与えて下さるからです、主イエス・キリストの出来事というのは、神が定められた道です。聖霊なる神の働きを私達に与えて下さるために、それはご自身が去って行くことによらなければ、弟子たちのものにならない、わたしたちのものにならない真理なのであります。私たちの歩みは聖霊なる神の御手の中にあることを仰ぎ見ることができるのです。