主日礼拝

主イエスの復活にあずかる

「主イエスの復活にあずかる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第116編1-19節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第4章7-15節
・ 讃美歌: 328、327、536

十字架の死と復活
 先週一週間、私たちは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とを覚えつつ、いわゆる受難週を歩みました。教会でも受難週祈祷会や受難週早朝祈祷会が行われました。そういう集会に参加できた者もできなかった者も、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことを覚えながらこの一週間を歩んだのです。そして今日、私たちは、主イエスの復活を記念し、祝うイースターの朝を迎えました。主イエスのご受難、苦しみと死を覚えつつ歩んだ一週間を終えて、主イエスの復活を祝う日を迎えたのです。
 主イエスが十字架の上で死なれたのは金曜日の午後のことです。そしてこの日曜日、週の初めの日の朝、復活されたのです。十字架の死から復活までの間の時間は、ほぼ丸一日と一晩です。主イエスは十字架にかかって死んで三日後に復活した、と言われることがあります。マルコによる福音書がそういう言い方をしているのですが、他の福音書ではそれは「三日目に」となっています。十字架につけられた金曜日から、足掛け三日目ということです。私たちが毎週の礼拝で告白している「使徒信条」も「三日目に死人のうちよりよみがえり」です。ですから私たちはおとといの金曜日に主イエスの十字架の死を覚え、今日この日曜日に復活を祝うのです。十字架の死と復活とはこのように連続していて、切り離すことはできません。十字架の死を覚えた翌々日には復活を祝うことになるし、復活を祝っている私たちはおととい十字架の死を覚えたばかりなのです。
 主イエスの十字架の死はこのように復活へと続いているものです。両者は一体として見つめられるべきであって、切り離すことはできません。このことは私たちの信仰において大事な意味を持っています。私たちは、主イエスの十字架の死と、それに引き続く復活とを合わせて見つめ、覚えるのであって、そのどちらかのみにしか意識が行っていないとしたら、その信仰は、大切な半分が欠けてしまっている信仰なのです。私たちの信仰の生活とは、主イエス・キリストと結び合わされて生きることです。その主イエス・キリストは、十字架にかかって死なれ、三日目に復活なさった方です。主イエス・キリストと結び合わされて生きる時に、私たちは、主イエスの十字架の死と結び合わされ、そのことによって、それに続く復活とも結び合わされて生きる者となるのです。
 本日この礼拝においてご一緒に読む聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二の第4章7節以下です。この手紙を書いたパウロはここで、今申しましたこと、つまり主イエスの十字架の死と結び合わされることによって、主イエスの復活の命とも結び合わされていくという信仰者の姿を語っています。本日はそのことをご一緒に見ていきたいと思います。

土の器
 パウロは7節で先ずこのように語っています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」。「土の器」というのは、金や銀の器とは違って、みすぼらしい、また壊れやすい器です。その言葉で彼は、肉体をもってこの世を生きている私たちの姿を代表させているのです。私たちの肉体は、次第に古びていき、ひびが入り、ついには壊れていきます。肉体に限界があるというだけではありません。この世を生きている私たちは、罪と汚れに満ちた者です。美術館に展示されるのに相応しいような美しい器ではなくて、みすぼらしくうす汚れた、取り立てて価値のない器なのです。土の器という言葉はそのような意味で用いられています。しかしパウロはここで、その土の器に宝が納められている、と言っています。このみすぼらしい、壊れていく器には本来は相応しくないすばらしい宝が、私たちには与えられているのだ、と言っているのです。
 その宝とは何なのでしょうか。それは私たちの肉体の中に宿っている心とか魂のことではありません。今申しました罪や汚れは、私たちの心から出てくるものです。ですから、肉体は卑しく滅びていくけれども、心、魂だけは清く、汚れない宝だ、などとは言えないのです。私たちは、肉体と心と魂の全体が、土の器なのです。そこに納められている宝、それは、7節後半の言葉で言えば、「並外れて偉大な力」です。それは神のものであって、私たちから出たものでない、とあります。この宝は、私たちの中にもともとあるものではなくて、神様から与えられるもの、神様の偉大な力なのです。つまり、みすぼらしい、壊れていく土の器に、神様の偉大な力という宝が与えられている、それが私たちだとパウロは言っているのです。

イエスの死とイエスの命
 そのことが10節においてはこのように言い換えられています。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。イエスの死を体にまとっている、それが、「土の器」としての私たちの姿を言い換えたものです。そして、そこに与えられる宝、神様の偉大な力は、「イエスの命」と言い換えられています。それは主イエスの復活の命です。イエスの死を体にまとって生きている私たちに、イエスの復活の命が現れていく、それが信仰者なのだ、と言っているのです。同じことが11節にも語られています。「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」。「イエスのために死にさらされている」、それは信仰のゆえに迫害を受けている人々のことを思わせますが、しかしこれは10節の「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています」の言い換えであると見るべきです。つまりこの「イエスのために死にさらされている」は、「迫害」という状況だけに絞るべきではなくて、十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエス・キリストに従って生きるところに起ってくる全ての苦しみを指していると考えるべきでしょう。この世を信仰者として生きている間、私たちは常に主イエスの十字架にあずかる苦しみを体験するのです。しかしそれは、「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため」なのだ、主イエスの十字架にあずかることを通して、主イエスの命、復活の命が、この私たちの土の器に注がれ、現わされていくのだ、とパウロは言っているのです。
 このことから、先ほどの、「土の器の中に宝が納められている」ということの意味をもう一度考えることができます。「土の器」というのは、肉体の弱さやもろさ、はかなさのみを語っている言葉ではありません。また、心や魂も含めて、この世を生きている私たちが弱くみすぼらしい価値のないものだということのみを語っているのでもありません。パウロはそれらの、私たちの弱さ、はかなさ、みすぼらしさを見つめつつ、そのような私たちが、「イエスの死を体にまとっている」のだと言っているのです。そのことによって、土の器である私たちに、すばらしい宝が、並外れて偉大な神の力によるイエスの復活の命が現れるのだ、と語っているのです。土の器である私たちは、主イエスの十字架の死と結び合わされることによって、それに続く復活とも結び合わされ、イエスの命によって生かされる者となるのです。

苦しめられても行き詰まらず
 それゆえにパウロは8、9節でこのように断言することができるのです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒される」、それは私たちがこの世を生きていく中で必ず体験することです。私たちの歩みは、このようなことの繰り返しであり、その都度私たちは行き詰まりを感じ、失望し、見捨てられたように思い、滅ぼされてしまうと感じるのです。私たちが「土の器」であるというのはそういうことです。けれども主イエス・キリストを信じる私たちは、この土の器としての苦しみを、主イエスの死を体にまとい、イエスのために死にさらされていることとして受け止めることが出来るのです。そしてそこに、並外れて偉大な神の力が注がれ、死ぬはずのこの身に主イエスの復活の命が現れることを信じて生きることができるのです。私たちがもともと持っている力、私たちから出る力に依り頼んでいる間は、四方から苦しめられれば行き詰まり、途方に暮れて失望し、虐げられて見捨てられ、打ち倒されて滅びるしかありません。しかし主イエスの十字架の死を見つめ、その死を体にまとって生きるならば、主イエスを死者の中から復活させて下さった神様の偉大な力が私たちに働き、主イエスの復活にあずかって、神様が与えて下さる新しい命に生きることができるのです。

伝道者パウロ
 さてパウロは、コリントの町の教会の人々が、主イエスの復活の命にあずかって新しい命に生きる者となることを心から願ってこの手紙を書いています。12節にはその彼の願いがにじみ出ています。「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」。ここで「私たち」というのは、パウロたち、キリストの福音を宣べ伝えている使徒たち、伝道者たちのことです。使徒たちは、まさに絶えずイエスのために死にさらされつつ、迫害を受けつつ伝道をしています。「わたしたちの内には死が働き」というのはそのことです。そのような伝道者の絶えず死にさらされている働きによって、「あなたがたの内には命が働いていることになる」。教会の人々の内に主イエスの復活の命が働き、それにあずかって生かされていくことこそパウロの願いです。そのために彼らは迫害の苦しみに耐えて伝道をしているのです。13節でパウロは、旧約聖書の言葉を引用しつつこう言っています。「「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます」。信じているから語っている、信仰のゆえに、語るべき言葉を与えられている、ということです。伝道者が立てられ、遣わされるというのはこういうことです。信仰のゆえに、語るべき言葉を与えられ、それを語る者として遣わされるのです。それは、自分が勝手に考えた何かを人に披露するとか、自己主張をするということではありません。ここに「信仰の霊を持っているので」とあります。この信仰の霊とは、キリストを信じる信仰を与え、キリストの福音を宣べ伝える言葉を与えて下さる聖霊の働きのことです。伝道者は、聖霊のお働きによって、信仰と、それを語る言葉とを与えられるのです。この聖霊のお働きを常に求め、それに従っていくところに、伝道者としての働きが与えられ、また語るべき言葉が示されていくのです。

詩編116編
 ところで、パウロがここで引用しているのは、詩編116編10節の言葉です。先ほど、その詩編116編が共に朗読されました。しかしその10節がどうして、「わたしは信じた。それで、わたしは語った」という本日の4章13節になるのか、不思議に思います。それはこの引用が、旧約聖書のギリシャ語訳である「七十人訳」聖書によっているからなのですが、そういう難しいことはともかく、本日この詩編116編を共に読むことにしましたのは、この詩編の全体が、先ほどの、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」という確信、神様への信頼と重なり合うからです。パウロはこの8、9節を、この詩編を思い起こしつつ書いたのではないか、それゆえにこの詩の一部を13節に引用したのではないか、とすら思えるのです。その詩編116編をもう一度朗読してみたいと思います。
「1:わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
 2:わたしに耳を傾けてくださる。/生涯、わたしは主を呼ぼう。
 3:死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして
 4:主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
 5:主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
 6:哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。
 7:わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。
 8:あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。
 9:命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。
 10:わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも
 11:不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
 12:主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
 13:救いの杯を上げて主の御名を呼び
 14:満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。
 15:主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
 16:どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。
 17:あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び
 18:主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で
 19:主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。」

主の目に価高い死
 15節に、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」とあります。「主の慈しみに生きる人」とは誰でしょうか。それは先ず第一に、神様の独り子イエス・キリストのことだと言えるでしょう。主イエスこそ、誰にも増して主の慈しみに生きる人です。その独り子イエス・キリストの十字架の死は、父なる神様の目に価高いのです。私たち全ての罪人の罪の償いを成し遂げるほどに価高いのです。主イエスの十字架の死がこのように価高いものであることを明らかにするために、父なる神様は、主イエスを死の縄目から解いて復活させて下さいました。私たちは今日このことを覚え、主なる神様に感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び、満願の献げ物をささげて主を礼拝し、「ハレルヤ」と歌ったのです。
 そして私たちはみ言葉によって知らされています。弱く貧しく罪に汚れた土の器である私たちが、イエスの死を体にまとう者とされていることを。そのことによって私たちもまた、主の慈しみに生きる者とされていることを。それゆえに、私たちの死もまた、私たち自身の価値のゆえにではなく、私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストのゆえに、主の目に価高いものとされていることを、私たちは知らされているのです。主なる神様は、私たち一人一人の命を、人生を慈しんで下さり、そして私たちがいつか必ず迎える死を、その苦しみや恐れや悲しみを、軽んじることなく、価高い、大切なものとしてみ手の内に置いて下さるのです。そして、主イエス・キリストを死の縄目から解いて復活させて下さった、その並外れて偉大な力で、私たちをも、世の終わりの救いの完成の時に、復活させ、新しい、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さると約束して下さったのです。パウロは14節でこう言っています。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」。これが私たちの信仰であり、希望です。主イエスの十字架の死は復活へと続いていく。その主イエスの十字架の死と結び合わされて歩むことによって、私たちは、主イエスの復活の命とも結び合わされていくのです。15節には「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです」とあります。主イエスの十字架の死と復活は、私たちのための神様の偉大な恵みです。この恵みによって神様は、死の縄目から私たちを解き放ち、復活の命を与えて下さることを約束して下さいました。この約束は、私たち一人一人に、全ての者たちに与えられています。主イエスの十字架の死を覚え、そして今日復活を喜び祝う私たちは、この豊かな恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰しつつ生きることができるのです。主はよみがえられた。ハレルヤ。

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