「キリストの民」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:エゼキエル書第37章1-14節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第5章12-21節
過去二回の説教
ローマの信徒への手紙第5章12〜21節よりみ言葉に聞くのは本日で三回目です。最初に、過去二回の説教において聞いてきたことの要点を簡単に振り返っておきたいと思います。ここには、神によって造られた最初の人間アダムと、主イエス・キリストとの対比がなされています。17〜19節にその対比が最もはっきりと語られています。「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」。ここにおいて、最初の「一人の人」がアダムであり、後の「一人の人」がキリストです。アダムの罪によって罪がこの世に入り、全ての人が罪に支配されるようになった。それに対してイエス・キリストの正しい行為、従順によって全ての人の罪が赦され、義とされたのです。一回目の説教ではこのことに注目し、生まれつき罪に支配されてしまっている、つまりいわゆる原罪を負っている私たちの現実と、その私たちがキリストによって赦され、罪の支配から解放される、その救いの恵みを見つめました。私たちは、キリストによる罪の赦しの恵みの中でこそ、罪に支配されている原罪の現実を見つめることが出来るのです。二回目である先週の説教では、アダムにおいて罪がこの世に入ると共に死の支配が確立したと語られていることに注目しました。罪が支配している所では死も支配しているのです。それゆえに、キリストによる罪の赦し、罪の支配からの解放は、同時に死の支配からの解放でもあります。最後の21節に「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」とあるように、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みは、肉体の死を越えた永遠の命へと私たちを導くのです。主イエスの十字架の死によって罪の赦しを与えられた私たちは、主イエスの復活にあずかって永遠の命を生きる者とされる希望をも与えられているのです。そこにこそ、私たちが死の恐れから解放されて生きるための唯一の道がある、それが先週の説教の中心主題でした。
キリストを前もって表すアダム
本日の三回目の説教では、これまでの二回の説教でなお語り尽くせていない点に注目したいと思います。それは14節後半の「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」という所です。本日はこの文章を中心に、この箇所を三たび読み直したいのです。
「アダムは、来るべき方を前もって表す者だった」、その「来るべき方」とは主イエス・キリストのことです。アダムは主イエスを前もって表す者だった、それはどういうことでしょうか。ここは以前の口語訳聖書では「アダムはきたるべき者の型である」と訳されていました。「前もって表す者」という言葉は「型」とも訳せるのです。「型」とは、それに当てはめることによって同じものが造られていくためのものです。つまりアダムがキリストの型であるということは、アダムとキリストの間にある共通性、同じところがあることを意味しています。共通している所があるから、アダムはキリストを前もって表す者だったと言えるのです。そのアダムとキリストの共通性とは何なのでしょうか。過去二回の説教においては、アダムとキリストとは正反対の、対立する関係にあることを見つめてきました。アダムによって罪と死の支配が確立したのに対して、キリストによってそれが克服され、罪と死の支配からの解放が与えられたのです。しかしこの14節後半から示されるのは、パウロはアダムとキリストをただ対立し、キリストによってアダムが克服される、という図式でのみ見つめているのではない、ということです。パウロは、アダムがある共通性をもってキリストを指し示しているので、アダムを見つめることによってキリストのことが見えて来る、と言っているのです。
アダムの民とキリストの民
パウロが見つめているアダムとキリストの共通性、つながりは、例えば15節の文面に現れています。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストとの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです」。ここにアダムとキリストのどのような共通性が語られているのか、それは、一人の人によって多くの人が影響を受ける、ということです。18節にも、アダムという一人の人によって全ての人が罪人となり、有罪の判決を受けるようになったのと同じように、キリストという一人の人によって、全ての人が義とされる、と語られているのです。起こっていることは勿論、罪と義、死と命という正反対のことです。しかし、一人の事柄が全ての人に及ぶという点において、両者は共通しているのです。パウロが、アダムはキリストを前もって表す者だったと言っているのはこの点を見つめてのことでしょう。ということは、ここが肝腎な点ですが、パウロはこの箇所で、単にアダムとキリストを対照的に捉えているのではなくて、むしろアダムによって罪と死の支配下に置かれている全ての人々、つまり言ってみればアダムにおける人類と、イエス・キリストによって義とされ、命を与えられている全ての人々、つまりキリストにおける人類、キリストの民とを対比しているのです。アダムとキリストだけを対比するならば、そこには罪と義、死と命という正反対なものしか見えて来ません。しかしアダムは、罪と死の支配下に置かれている全ての人類の始めに位置する者であり、キリストは、義とされ、神との和解、平和を与えられ、永遠の命の約束に生きる全ての人々の始めに位置する者なのです。そのことを見つめる時に、この両者はただ対立しているのではなく、アダムがキリストを前もって表す型であることが分かるのです。
アダムに属する者からキリストに属する者へ
そしてこのことは私たちに重大な問いを投げかけます。私たちは、アダムにおける人類、罪と死の支配下に置かれている者なのか、それともキリストにおける人類、キリストの民、キリストによる罪の赦し、神との和解、そして永遠の命の約束を得ている者なのか、という問いです。つまり私たちはアダムとキリストをはるか昔の人として傍観者のように眺めていることはできないのであって、自分はアダムとキリストのどちらに属している者なのかを問われているのです。いやそう言ってしまうことには危険があるかもしれません。パウロは、人類の中にアダムに属する者とキリストに属する者との二種類がある、あなたはそのどちらなのか、と言っているのではないからです。パウロが語っているのは、私たちは一人残らず皆、元々生まれつきアダムの罪を負っている者であり、アダムに属する罪人であるということです。しかしその私たちに、イエス・キリストによって神の愛が注がれたのです。それは5章6〜8節に語られていたように、神の子イエス・キリストが罪人である私たちのために十字架にかかって死んで下さったことによって注がれたものです。このイエス・キリストの十字架における神の愛、救いの恵みを信じて受け入れることによって、私たちはアダムに属する者からキリストに属する者とされるのです。キリストの民とされるのです。キリストに属する新しい人類とされると言ってもいいでしょう。これは一回目の説教において強調したことですが、キリストにおける恵みの賜物はアダムの罪のもたらす結果とは比較にならないくらい大きいのです。キリストにおける神の愛は、アダムにおける罪と死の支配を打ち破って余りあるものなのです。アダムにおける旧い人類は、キリストにおける新しい人類に取って代わられているのです。だからあなたがたは既にその新しい人類、キリストの民とされているのだ、とパウロは語っているのです。そこに、アダムはキリストの型であるということのもう一つの意味があります。型というのは、鋳型などを考えてみれば分かるように、本体ではなくて、本体の形を裏返しに指し示しているものです。写真のネガとポジのような関係です。アダムにおける罪と死の支配は、キリストの十字架と復活によって確立している神の義と命の支配を、裏返しに指し示しているのです。それゆえにこの箇所においてパウロは私たちに、キリストの十字架と復活によって確立している神の恵みの賜物、神の義と命を、確かにいただくことを求めているのです。罪人である自分のために主イエスが十字架にかかって死んで下さったという神の愛が自分に注がれていることを信じて、キリストに属する者、キリストの民となって生きることを求めているのです。アダムとキリストの対比はこのように、私たちをアダムに属する者からキリストに属する者へと新しく生かすために語られているのです。
枯れた骨の復活
キリストを信じて教会に連なる者とされている私たちは、主イエス・キリストに属する、キリストの民です。アダムが生まれつきの罪人である私たちの象徴的な意味での先祖、ルーツであるのに対して、教会に集い、信仰を与えられている私たちのルーツ、言ってみれば心の故郷はイエス・キリストにあるのです。救いとは、アダムに属する者だった私たちが、キリストに属する、キリストを心の故郷、拠り所とする、キリストの民へと変えられることなのです。本日は共に読まれる旧約聖書の箇所として、エゼキエル書第37章を選びました。そこには、干涸びた骨が、神の言葉によって寄り集まり、そこに筋と肉が生じ、皮膚がそれを覆い、そして神の霊がそこに吹き来り、その中に入ることによって生きたものとなり、非常に大きな集団となったという、エゼキエルの見た幻が語られています。それは、バビロニアに滅ぼされ、他国に捕囚となって、まさに干涸びた骨のように死んだ者となってしまっているイスラエルの人々を、もう一度起こし、命を与え、ご自分の民として下さる神の救いの恵みを表している幻です。主なる神による救いとは、このように、死んだようになっている私たち一人一人を、神がご自分の霊によって生き返らせて下さり、さらに私たちが一人でではなく、他の多くの人々と共に、神の民として生きることができるようにして下さることなのです。「枯れた骨の復活」と呼ばれるこの救いを私たちの上に実現して下さるために、主イエス・キリストは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、その主イエスを父なる神は復活させ、永遠の命を生きる者として下さったのです。罪と死に支配されていたアダムの民であった私たちは、主イエスの十字架の死によって罪の赦しが与えられていることを信じることによって、その復活にあずかる新しい命をも与えられ、キリストの民として生きることができるのです。
キリストこそ心の故郷
キリストの民として生きる、それは主イエス・キリストをこそ心の故郷として生きることです。故郷、それは、そこにこそ自分の本来の家があり、帰って行くことができる場、拠り所があるということです。そこでなら安心して、落ち着いて、自分自身を見つめ振り返ることができ、そして新たな力を与えられて歩み出すことが出来る場でもあります。あるいは、苦しみ悲しみの中で絶望し、まさに枯れた骨のようになってしまった自分を、立ち直らせ、新しく生かしてくれる神の霊を吹き込まれる場でもあります。私たちは、そのような故郷として、主イエス・キリストを与えられているのです。主イエス・キリストのもとに立ち帰ることによって新たな力を与えられて生きることができる、それがキリストの民です。17〜19節は、アダムとキリストの対比を語っているだけではなくて、キリストの民とされ、キリストを心の故郷として生きることが出来るようになった者と、アダムに属する者であるままの生まれつきの私たちの姿とを対比させて語っていると言うこともできるのです。17節には、「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」とありました。アダムに属する生まれつきの私たちが罪と死の支配下にあったのに対して、キリストの民とされた私たちは、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けつつ、主イエス・キリストを通して生き、罪と死の支配下に置かれてしまっている人生を自らのもとに取り戻して生きることができるようになったのです。また18節には「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」とあります。アダムに属する私たちは、自分自身が罪を犯す者であって、その罪によって有罪の判決を下されるしかありませんでした。しかしキリストの民とされた私たちは、キリストの正しい行為、つまり私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さったことによって罪を赦され、義とされて命を得ることができるのです。19節には「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」とあります。アダムに属する生まれつきの私たちは神への不従順に生きていました。神に従わず、神を押しのけて自分が主人となって歩もうとしているところに私たちの罪があるのです。しかしキリストの民とされた私たちは、キリストの従順によって正しい者とされます。キリストの従順とは、私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さったことだけではなくて、キリストがそのご生涯の全てにおいて、父なる神様のみ心に従順に歩み、常に人々を愛し、悩み悲しみ苦しむ者の傍らに立ち、悪をもって悪に報いず、ご自分の命を罪人である私たちのために与えて下さったことの全てを指しています。私たちがそのキリストの従順によって正しい者とされるとは、キリストのこの神への従順の歩みを、私たちが常に立ち返るべき本来の生き方として示され、そのように生きることへの励ましと支えを与えられるということでしょう。キリストの民とは、キリストによる救いの恵みを受けるだけでなく、アダムにおける神への不従順の罪を捨てて、キリストによって打ち立てられた新しい生き方、神への従順に生きる者です。アダムから、罪と不従順に支配され、それゆえに死に支配された人間の歩みが始まったように、主イエス・キリストから、新しい人間の歩み、神への従順に生き、永遠の命に至る歩みが始まったのです。アダムがキリストの型、キリストを前もって表す者であるというのは、このようにアダムによって始まった人間の罪の歴史が、主イエス・キリストによって義と従順の歴史として再出発することを見つめているのです。
神への従順に生きる新しい生き方
キリストの民として、神への従順に生きる新しい生き方をしていく時、私たちはどのような歩みを与えられていくのでしょうか。第一には、一回目の説教で語ったように、自分がもともと罪の支配下に置かれていることを徹底的に示され、悔い改めに生きる者とされるのです。それができるのは、神の独り子である主イエス・キリストが、罪人である私たちのために十字架にかかって死んで下さり、全ての罪を贖って下さったことを示され、信じることによってです。赦しの恵みの中でこそ、自分の罪をしっかりと見つめ、悔い改めつつ生きることができる、それがキリストの民に与えられる新しい生き方なのです。そして二回目の説教で語ったように、キリストの民とされることによって私たちは、死の支配から、自分を滅ぼす不気味な力として死を恐れることから解放されるのです。それは、主イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦された者には、主イエスの復活によって新しい命、永遠の命の約束をも与えられているからです。死に勝利する神の恵みの力を信じる希望が、キリストの民として生きる所には与えられるのです。キリストによって与えられているこれらの恵み、神の愛の中で私たちは、キリストに倣って、神のみ心に従順に従って生きていきます。弱く罪深い私たちですから、その歩みにおいて様々な失敗をするし、不完全、不十分にしか出来ないことばかりです。み心に背く罪に陥ってしまうことも数えきれません。しかしそれでも、キリストの十字架の死と復活にあずかる洗礼を受けているキリスト者は、キリストの民とされています。キリストという心の故郷に立ち帰り、赦しと慰めと励ましを与えられてもう一度歩み出すことができるのです。本日はこれから聖餐にあずかります。聖餐は、洗礼によってキリストの民とされた者たちが、心の故郷であるキリストのもとに立ち帰り、キリストの十字架による罪の赦しを新たに体全体で受け、神の霊を新たに吹き込まれて生かされ、キリストの民としてもう一度世へと遣わされていく、その拠り所です。聖餐にあずかることによって私たちは、自分がキリストの民とされていることを目に見える仕方で確認し、聖霊の息吹を受けて、キリストの民として世へと遣わされていくのです。