主日礼拝

キリストの民

「恵みの賜物」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編第90編1-17節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第5章12-21節
・ 讃美歌:12、141、455

アダムとキリスト  
 先週に引き続いて、ローマの信徒への手紙第5章12~21節よりみ言葉に聞きたいと思います。ここには、神によって造られた最初の人間アダムと、主イエス・キリストとが対比されて語られています。アダムについては、12節において「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」と語られています。この「一人の人」がアダムです。さらに15節には「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば」とあり、17節には「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば」、18節にも「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように」、19節にも「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように」とあります。このように、最初の人間アダムの犯した罪によって全ての人が罪人となり、死の支配を受けるようになった、全ての人が生まれながらに罪人となった、ということが見つめられているのです。先週申しましたようにこれがいわゆる「原罪」の教えです。パウロは、アダムを見つめることによって、人間の原罪を、生まれつき罪に支配されてしまっている現実を見つめているのです。そしてこのアダムと対照的な方として主イエス・キリストが見つめられています。アダムの罪によって全ての人が罪に支配された、その罪の支配を打ち破り、神の恵みの下に人間を回復して下さる方が主イエス・キリストです。アダムのことを語ったのは、このイエス・キリストのことを語るためなのです。15節をもう一度見てみると、「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです」とあります。17~19節にも、アダムによって生じた罪の支配、原罪が、キリストによって打ち破られ、私たちが義とされ、救われることが語られているのです。

罪と死の支配  
 先週はこのこと、つまりアダムによって罪の支配、原罪がもたらされ、それがキリストによって克服されたということを中心にこの箇所を読みました。しかし先週既にある方から質問を受けたのですが、パウロはここで、アダムによって罪が入り込み、支配するようになったということだけではなくて、12節にあったように、罪と共に死が入り込み、死が全ての人に及んだということも語っています。アダムによって、罪だけでなく死もまた私たちを生まれつき支配するようになったのです。本日の箇所で罪と死とは切り離すことができません。15節にも「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば」とあり、17節にも「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば」、21節にも「こうして、罪が死によって支配していたように」とあります。17節では「罪によって死が支配する」と言われており、21節では「罪が死によって支配する」と言われているのは興味深いことです。つまり、罪の支配と死の支配とは表裏一体であって、罪が支配するところでは死も支配し、死が支配するところでは罪も支配しているのです。最初の人間アダムの罪によって私たちは、罪の支配とともに死の支配の下にも置かれているのです。ですから、私たちが生まれつき罪人であるという原罪の教えは、私たちが生まれつき死の支配下に置かれているということでもあります。聖書はこのように、罪と死との不可分の関係を語っているのです。つまり聖書において死は単なる自然現象、生物学的な現象ではありません。それは罪と結びついてこの世に入り込んで来たもの、本来人間を支配するものではなかったはずなのに、侵入して来て支配者となっているものなのです。

塵に返る者とされた人間  
 そのことが、先週の礼拝において読んだ創世記第3章に語られていました。神の命令に背き、食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまう罪を犯したアダムに、創世記3章19節で神はこう語っておられます。「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」。つまり人間は罪の結果、食物を得るために苦労して働かなければならなくなった、そしてその苦労の末に、土の塵に返る者となった、それが死です。神に従って神と共に生きるのでなく、自分が主人となり、神から自由になって生きようとする罪によって、人間は、神の恵みによって豊かに養われていた楽園を失い、労苦に満ちた、そして死に至る人生を歩むことになったのです。ここに語られているように死とは土に返ること、塵に返ることです。創世記第2章によれば、人間は土の塵から造られ、神に命の息を吹き入れられて生きたものとなりました。神は全く無価値な土の塵から恵みによって私たちを造り、命の息を与えて、価値ある、尊いものである人間として下さったのです。死とは、その神の恵みの賜物である命が取り去られ、元の土の塵に、虚しい無価値なものに返ることです。神のもとから離れ去ろうとする罪によって、人間は、そのように無価値なものへと返らなければならない者となったのです。

罪に対する神の怒りとしての死  
 その虚しさ、無価値への転落である死から抜け出そうとして人間は様々な努力をしてきました。いわゆる不老不死の薬を探し求めても来ました。あるいはもっと内面的に、人生を出来るだけ価値ある、充実した、有意義なものとしようと努力して来ました。しかし人生の価値が高まれば高まる程、それを失う死の虚しさはむしろ増すばかりです。あるいは、死んだ後に自分の業績が覚えられ、継承されていくこと、自分のことをみんなが覚えていてくれることに慰めを見出そうとすることもあります。しかし記念碑や銅像が残っても、それを誇る自分はもういないのですから、やはり虚しさはぬぐえません。そのような現世への執着を捨てて、死後の魂の平安を求めることもなされてきました。いろいろな宗教はそういう人間の願いから生まれたものだと言えるでしょう。しかし聖書は、人間のそのような、死から抜け出し、死の虚しさを克服しようとする努力は決して成功しないと語っているのです。何故なら、死は罪によって生じたことだからです。根本的な問題は神に対する罪にあるのであって、死にあるのではないのです。だから、不老不死の薬を求めても、魂の平安によって死の虚しさを取り去ろうとしても、それは根本的な解決にはならないのです。虚しい、土の塵に返ることとしての死が、アダムの罪以来私たちを支配しているのです。死についてのそのような捉え方が最もはっきりと歌われているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第90編です。その3?12節をもう一度朗読します。(朗読)。ここに語られているように、死とは神が私たちを塵に返されることです。「人の子よ、返れ」と神が言われたら、私たちは塵に返らなければならないのです。たとえどのように元気な、頑健な体を持っていても、どのように人に愛され、豊かな賜物を持ち、有意義な働きをしていてもです。それゆえに私たちは、死というものに、ここに歌われているように、神の怒り、憤りを感じずにはおれないのです。死は、たとえそれが安らかな、いわゆる天寿を全うしたものでも、神が私たちを塵に返されるという点で、神の怒り、憤りを感じさせずにはいません。そしてその怒り、憤りは、私たちの罪に対するものです。アダムの罪、神に背き、神から自由になり、自分が主人となって生きようとするその罪が私たちをも支配しています。その罪に対する神の怒りが、死において最もはっきりとあらわになるのです。

罪と死の一体性  
 このようにパウロはここで、罪と死の一体の関係を語っています。13、14節もそのことを語っているのです。13、14節は本日の箇所の中で最も分かりにくい所ですが、ここは、アダムの罪によって全ての人が罪人となったというパウロの主張に対するユダヤ人からの反論を予測して、あらかじめそれに答えている所です。ユダヤ人からの反論として予測されているのは、罪はモーセを通して律法が与えられたことによって初めて生じたのであって、守るべき律法が与えられる前から全ての者が罪人だったとは言えない、というものです。ユダヤ人たちがこのように主張するのは、彼らが罪を「律法の違反」という狭い範囲に限定しようとしているからです。そうすれば、律法を与えられそれを守っている自分たちは罪人ではない、と言えるのです。彼らはパウロが、律法を与えられているユダヤ人も含めて全ての者は罪を犯している、と言っていることが気にいらないのです。律法を守っている自分たちユダヤ人は異邦人とは違って罪人ではない、と言いたいのです。そういうユダヤ人たちの思いに対してパウロは13節で、「律法が与えられる前にも罪は世にあったが」と言っています。つまり罪は律法の違反という狭い意味に限定されるものではないのです。それでは律法は何のために与えられたのか。それを語っているのが13節後半の「律法がなければ、罪は罪と認められないわけです」ということです。つまり律法は、元々ある罪が明確に罪として意識されるために、例えば盗みという罪は元々あったが、「盗んではならない」という律法が与えられることによって盗みが罪であることがはっきりと意識される、ということのために与えられたものだ、ということです。律法のこのような働きについては20節においても、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました」と語られています。律法のこのような役割についてはこの手紙の第7章で詳しく語られますのでここではこれ以上は触れません。ここでの問題はむしろ罪と死の不可分の関係です。パウロは、律法が与えられる前にも、つまりモーセ以前にも罪があったことの根拠として、14節で、アダムからモーセまでの間にも、死が全ての人を支配していたことを指摘しているのです。死が支配していたということは、罪が支配していたということです。人間が死ぬということこそ、人間が罪人であることの動かぬ証拠なのだ、罪のある所には死があり、死がある所には罪があるのだ、そのようにパウロは語っているのです。

死が恐ろしいのは罪のため  
 私たちはこのことを、人は罪のバチが当たって死ぬ、と理解してはなりません。あるいは、早死にした人は長生きした人より罪が重い、ということでもありません。罪と死とが一体であるというのは、罪を犯したから死ぬ、という因果関係を語っているのではないのです。創世記3章19節のあの神のお言葉も、人はなぜ死ぬことになったか、という原因を語っているのではなくて、全ての人が死に支配されているという事実が人間にとって持っている意味を語っているのです。もう少し分かりやすく言えば、「私たちは何故死ぬのか」ということではなくて、「私たちにとって死が恐ろしいものであるのは何によってなのか」を語っているのです。死ぬことが恐ろしい、それが人間の普通の感覚です。死は私たちにとって決して一つの自然現象ではありません。年をとっていつか死ぬのは当たり前、ということは一般論としては言えても、自分の事柄としてそれを見つめることはやはり恐ろしいことです。死は私たちにとって基本的に恐ろしい不気味なものなのです。それは私たちの罪のゆえです。罪とは、神に背き、神から離れ、自分を神として生きようとすることです。つまり罪とは私たちと神との関係の断絶なのです。神との間に平和な関係を失い、神と疎遠になり、神の敵となることです。死は、その疎遠になり敵対している神が、私たちの命を終わらせることです。神が「人の子よ、返れ」とおっしゃるのです。死において私たちは、自分に命を与え、それを取り去られる、自分の本当の主人、人生の主権者と直面させられるのです。その主人に対して私たちは敵対し、そのもとから飛び出して、関係は断絶し、疎遠になっている、それゆえに死は私たちにとって恐ろしい不気味なものとなっているのです。言ってみれば、生きている間に自分の本当の主人、命を与え導いておられる方とちゃんとおつきあいをしてこなかった、そのツケが、死において廻って来るのです。死と罪とが一体の関係にあるというのはそういうことです。罪のゆえに神との間に平和な関係がないために、その神によってもたらされる死は恐ろしい、不気味なものとなっているのです。パウロがここで「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだ」と言っているのは、アダムの罪のせいで私たちは死ななければならなくなった、ということではなくて、アダムの罪以来私たちが罪のゆえに死を恐れずにはおれない者となっていることを指摘しているのです。

キリストの恵みの賜物  
 しかしパウロは、この一人の人アダムと対照的な一人の人キリストを見つめています。そのキリストによって与えられている恵みの賜物を見つめているのです。15節「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです」。アダムの罪によって罪と死の支配下に置かれている私たちに、イエス・キリストによって恵みの賜物が豊かに注がれたのです。16節「この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです」。イエス・キリストによって神の恵みが豊かに注がれる時、本来赦されるはずのない私たちの多くの罪、神に敵対し、神のもとで生きることを束縛と思い、そこから自由になり、自分が主人となって生きようとしている、その罪が全て赦され、私たちに無罪の判決が下されるのです。その神の恵み、愛は、この第5章の6?8節に語られていたように、神の御子である主イエス・キリストが、罪人である私たちのために十字架にかかって死んで下さったことによって示されました。神の子であられる主イエスが、私たちの全ての罪を引き受け、背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。それによって私たちは罪を赦され、神と和解させていただき、神との間に平和を得ることができたのです。主イエス・キリストによる恵みの賜物によって私たちは、罪を赦され、疎遠になっていた神との交わりを回復されたのです。  

罪と死の支配から解放されて生きる  
 そこに、死の支配からの解放があります。17節「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」。アダムの罪を受け継いでおり、その罪のために死に支配され、死の恐れの下にある私たちが、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しによって死の支配から解放され、生きる者とされたのです。「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」とあります。死の支配から解放された私たちは、生きる者とされるだけでなく、支配する者となると言われているのです。それは、他の人を自分の思いのままに支配するようになるということではなくて、それまで死に支配され、死への恐れのために身動きが取れなくなっていた私たちが、その恐れから解放されて、自分の人生を自分のもとに取り戻し、与えられている人生を喜んで生きることができるようになる、ということでしょう。自分が主となり、自分の思いによって生きようとしていた私たちは、神と疎遠であり、死の恐れに支配されていました。しかし主イエスによって罪を赦され、神の下で、神をこそ主として生きる者とされた私たちは、自分に命を与え、人生を導き、そしてお定めになっている時に命を取り去られる神との良い関係を回復されて、神によって与えられた人生を、神によって命の息を常に新たに吹き込んでいただきながら、喜んで生きることが出来るのです。そしてその神が「人の子よ、返れ」と私たちを呼ばれる時、私たちは自分と疎遠な、不気味な得体の知れない力の前に立たされるのではなく、常にみ顔を仰ぎ、礼拝し、命の息を与えられ生かされてきたその方の前に立つのです。その方は、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、豊かな恵みの賜物を注いで下さった方です。その方のみ手の中で地上の人生を終えること、それが私たちの肉体の死です。それは虚しい塵に返ることではありません。21節に「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」とあります。主イエス・キリストによる恵みと義の支配は、肉体においては死んでいく私たちを永遠の命へと導くのです。私たちの肉体は、神が定めておられる時に、死んで塵に返っていきます。しかし、主イエス・キリストの十字架の死と復活による恵みの賜物を豊かにいただいている私たちは、神の恵みと義のご支配の下で人生を歩むことができるし、この世の終わりには主イエスの復活にあずかり、永遠の命を生きる新しい体を与えられて、神の国に生きる者とされるのです。その約束を与えられているがゆえに私たちは、死への恐れから解放されて、神が与えて下さった人生を喜んで神と共に生き、またこの人生において自分のなすべきこと、主によって示し与えられている業を、場合によってはそのために命を失わなければならなくなることがあっても、勇気をもって行なっていくことが出来るのです。それは私たちが正しい意味で自分の人生を支配する者となることです。罪を赦され、神をこそ主として生きる者とされることによって私たちは、罪と死の支配から人生を取り戻し、本当に自分の人生として、喜んで生きていくことができるのです。

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